目前の恐怖
従業員通路を抜けて四階に差し掛かった時、ゆっくりと”音”が現れた。
「何か聞こえへん?」
立ち止まった飛燕は耳を澄ませた。
「聞こえた様な……」
法子も聴覚を集中させた。
「聞こえた」
飛燕の胸に激痛が響いた。
「飛燕ちゃん」
法子も確かに聞いた、それは音ではなく声だった。
「悲鳴や」
瞬時に飛燕の脳裏に、最悪のシナリオが作成される。しかし、その作成の途中に飛燕の身体が反応した。
「こっちや」
法子の手を引き声とは反対に進んだ。しかし暗闇は感覚を混乱させ、何度も進む方向の変更を余儀なくされた。それでも法子の手の温もりは、飛燕の精神を支えた。法子は怯える子供の様に無言で付いて来る、飛燕は強く手を握った。
迷路、パズル、知恵の輪、クロスワード、なぞなぞ……そんなものが飛燕の両足に絡み付いた。そしてその向こう暗闇の隣に見えたのは、悪夢という言葉だった。
そしてそのキーワードは、頭の中でフラッシュバックする。四本の腕が思考の中に具現化し、全身を恐怖が支配した。
「大丈夫、法子さん」
抜け出すのは法子の声しかないと、飛燕は言葉を絞り出した。
「多分……大丈夫」
掠れる法子の声は大丈夫じゃないと聞こえた。
「あそこ……」
気付くと従業員通路を抜け売り場に出ていた。飛燕は暗闇の中にキャンプ用品の店を見付けて、その方向に進んだ……情けない程ゆっくりだけど。
「懐中電灯あるはずや、法子さんここにいるんやで」
「……うん」
小さい返事の法子を入口のドアの付近に座らせ、展示途中の商ケースをライターで必死で照らして探した。初めて法子の手を放すと、暗闇が孤独へ招く。
「法子さんおる?」
「大丈夫」
お互い声を掛け合い、存在を確認しないと叫び出しそうだった。法子にはほんの数メートル先にいる飛燕を感じられるのは、暗闇の先の消えそうな程に小さな炎だけで、もしもそれが消えて無くなったらという考えを、唾と一緒に飲み込んだ。
飛燕は懐中電灯を見付けた時は涙が出そうになった。左手でライターを持ち、右手だけで付属の電池を必死で入れた。物凄い時間が掛かった感覚だったが、実際は数十秒だった。
そして懐中電灯の光はビームサーベルの様に暗闇を切り裂き、絶望という文字を希望という文字に転換させた。光の破裂は、目を細めても痛いぐらいだったが飛燕は耐えて叫んだ。
「法子さん」
飛燕が最初に取った行動は法子を照らす事だった。
「飛燕ちゃん」
飛燕の声の向こうから眩しい光が煌く。その先に飛燕を感じ、法子は鳥肌が立つ程嬉しかった。
「そうや」
法子に向けたライトをさっきの場所に移し、飛燕はもう一つ懐中電灯を取り法子の所へ戻った。暗闇では、物凄く遠く感じたがライトの世界では、法子は目と鼻の先にいた。
「ピンクの方がいいな」
手渡した赤い懐中電灯を、飛燕のピンクのと比べて法子は呟いた。
「しゃーないな」
微笑んだ飛燕は交換してあげた。見えるという事がどんなに素晴らしいか、身に染みてた二人だった。そしてさっきまでの恐怖は、光の明るさがかなり中和した。しかし危険は去った訳ではない、飛燕はもう一度気を引き締めた。
「下に行くしかないな、法子さん近道知ってる?」
「近道は専門店街の中央エスカレーター……だけど……」
法子には悲鳴は中央に感じられた、飛燕も同感だった。
「やっぱ従業員通路からの方がええかな」
「そうだね……入り組んでるだけ、逃げやすいかも……」
その時、かなり近くで物音がした。今度も驚いたが、懐中電灯の光はまた恐怖をかなり中和した。
「行くでっ」
飛燕は法子の手を取り、従業員通路へ走った。
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「最後の通信は?」
内田は久しぶりに声を出した感覚だった。
「各小隊共、四階付近です」
「そうか……」
「内田二佐」
指揮車に一斑の吾妻がやって来た、壁に凭れていた葛城は横目でやり取りを傍観していた。
「無事だったか?」
内田は吾妻に駆け寄った。
「はい……他の小隊は?」
吾妻は自分達だけが撤収している事に疑問を持っていた。
「他の小隊は通信が途絶えた」
「何ですって? 救出に向います」
吾妻はドアに向かおうとした。
「待てっ」
内田の大声が、車内に破裂した。
「行かせて下さい!」
吾妻も叫んだ。
「落ち着くんだ」
内田は吾妻に歩み寄り、肩に手を掛けた。
「今の我々に出来る事をする……我々は精鋭部隊だ」
内田の言葉に吾妻は肩を落とした。そして背筋を伸ばした内田は、威厳のある口調で言った。
「……吾妻曹長、作戦の変更を指令する」
今度は内田の言葉に吾妻は背筋を伸ばし、内田は続けた。
「特別班及び、葛城警部補は屋上よりヘリで突入する」
「我々はどうするんですか?」
口を挟んだ吾妻に、内田は声のトーンを落とした。
「特別班突入後、屋上で一時待機。合図で、私が指揮を取り援護に向かう」
「了解、直ちに装備を整えます」
敬礼の後、背筋を伸ばしたまま吾妻は出て行った。
「出番だな」
壁から背中を離した葛城は内田に歩み寄った。
「部下をお願いします」
内田は深々と頭を下げた。
「五階の中央、俺はここで待つ」
モニターに映る五階の見取り図の一箇所を、葛城は指した。
「ここか……特別班は、こちら側に展開する。私は反対側から挟み撃ちにする」
内田もモニターで戦略を確認した。
「いい作戦だ」
葛城は横目で内田の表情を窺った。
「そうでもありませんよ……あなたの退路がない」
内田も横目で葛城を見た。
「俺の人生みたいだ……」
薄笑みを浮かべた葛城に内田の真剣な目が刺さった。
「葛城さん……あなたまさか?……」
内田が言葉を失いかけた時、指揮車のドアが開いた。
「法ちゃんと飛燕ちゃんが!」
梓の表情で全てを悟った葛城だった。




