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大人になるとき


 18


「ここを見ろ」

 一フロア上にある一室の前に来ると、彼は歩みを止めた。扉は開け放しになっている。

「ああ……」

「何よ、これ」

 のぞき込んだふたりは、小さく驚きの声をあげた。

 テニスコート2面ほどのその部屋は、一室まるごと、花畑になっている。

 床には土が敷き詰められ、草が植えられて、黄色や白の野の花が咲き乱れている。野原の一部分をそのまま持ってきた、と言う感じで、花壇と言えるほど整備されたものではなかった。

 植物の成長に必要な光は、天井に張られた発光パネルから供給されているようだ。

 ここには、あの丘がそのまま再現されていたのだ。

「おそらく、生態系のモデルプラントだ」

 マニーが言う。

「惑星の大地に緑を再現するために、必要な情報を収集する目的で作られたものだろう……」

 部屋の中の空気が、廊下へあふれ出てゆく。土と、花の甘い香りが鼻をくすぐる。それは張り詰めていた彼女の気持ちをすこしだけなごませた。

 リネットは部屋の中へ入っていった。草原となった部屋は、閉塞感を感じない。

 一人の少女が、草の中に座っている。人の気配に感づいた少女は、こちらを見た。その顔は、驚いていた。

「リネット……」

「ティア!」

「どうしてあなたがここにいるの?」

 少女のもとへ歩み寄る。素足にさくりと、土の感触がした。

 あの日着ていたのと同じ、飾りのない、生物素材の洗いざらしのワンピース。

 白銀の髪には、黄色い花の冠。その作り方は、リネットが教えたものだった。

 彼女はどことなく、元気がないようにも見えた。でも、そこにいるだけで、辺りにふんわりとした空気が漂っているような感じは、あのときと変わっていない。

 リネットは腰を下ろし、少女と向かい合う。

「また逢えるなんて思わなかったわ」

 少女の膝の上に、一端に穴のあいた円盤形の、プラスティックパックが置いてある。

 リネットが手にとって振ると、白い錠剤が、穴から何粒かこぼれてきた。

「これは?」

「ハドリが持たせたの。飲みなさいって……」

 ティアは言った。

「ハドリはどこにいるか知ってる?」

「わたしといっしょに、ここに来たわ。いまは部屋にいるはずよ……」

 真っ正面からティアの赤いうるんだ大きな眼を見据え、そして問うた。

「……こわくないの?」

「なにが?」

「『おとな』になるのが」

 ティアは無言で首を振り、そして微笑んだ。

 痛ましさのようなものが、胸に込み上げる。

 あの海で見た、岩のような生き物。目の前の彼女も、もうすぐそんな存在になってしまうのだろうか。

 リネットは何も言えなかった。眼を合わせることもできない。

 向かい合ったままのしばしの沈黙ののち、不意にティアは、右手を差し出す。

「これ……忘れ物よ。どこかでまた、逢うかもしれないって思って、持ってきたの」

 薄桃色の手のひらの上にあったのは、親指よりもやや大きい、金色に輝く円筒形の物体。シリンダーに入った、ローズピンクの口紅だった。

「……!」

 そのとき、不意にある考えが、リネットの頭に浮かんだ。企むような笑顔を、ティアに向けた。

「そうだわ、いいことしてあげる」

 底部を回し、紅を出して、そっとティアの唇に当てる。

「じっとしててね」

 きゅっきゅっと小刻みに動かしていくと、やがて、彼女の唇が鮮やかに色づいた。それは、まるで薔薇のつぼみが朝の光を浴びて開いたよう。

「できたわ。どうぞ」

 傍らに落ちていた金属片を鏡にして、ティアの顔を映し出す。

「まあ……」

 鏡面の自分を、ティアは不思議そうに覗き込み、次の瞬間、目を輝かせた。

「ティア、きれいよ。とっても素敵」

「ありがとう」

 ティアは微笑みかけた。こんどは、胸が安らぐのを感じた。

 外にいたふたりも、入ってきた。マニーに話しかける。

「ここに来たことがあるんですか?」

 彼はまず、黙って頷いた。それから口を開いた。

「……本当のことを言おう」

 話を始める前に、彼は一度大きく息を吸った。

「五年前、最初にこの星に降り立ったのは、おれと、ジャンだった。惑星開発の下調べとして、海洋生物と、生態系の調査をするためだった」

「ナカオさんと……」

「おれたちの見たものは、想像を絶するものだった。あの野原を見ただろう。あれは、あいつらが独力で作った。われわれが膨大な時間と人手をかけなければならないものを、なんのバックアップもうけずにだ。

 おれも、ジャンもただ驚嘆するばかりだった。

 そしておれたちは『塔』の中に入った。そこは前世紀のオーバー・テクノロジーが詰まった、宝の山だった。『塔』のAIも、すべてを快く案内してくれた。あいつらは遭難者なのだから、再び文明世界に戻りたかったのだろう……」

 そこで声が小さくなる。マニーは声を励まし、話を続けた。

「おれたちは見たものを全て、本社に報告した。しかし、会社の上の奴らは、とんでもないことを考えていたんだな。この星のお宝を独り占めにして、大儲けを企んでいたんだ。『大破局』前のテクノロジーは、途方もない価値があるからな。

 ジャンはそれに唯々諾々と従った。自分可愛さのためかどうかは、知らない。ハドリを手先に、『こども』たちをバイオテクノロジーの秘密を探るために、次々と誘拐していった。皆、生体解剖されたと聞いたよ……」

「何ですって!!」

 嘆きを聞くと、マニーは、額を指で押さえ、目を閉じた。

「会社はこういってきた。研究するために『こども』の何人かを連れてこいとな。おれは反対したが、ジャンは従った。

 連れ去られた『こども』たちは、会社の息のかかった病院で、被験体にされた。そして、あいつだけが生き残った……というより、生かしておいたんだ。強力なテレパシー能力を持つあいつがいれば、何かと便利になるだろうから」

「何もかも、仕組まれていたの?」

 リネットは嘆くように問うた。

「ジャンやハドリを、ここまでつけあがらせてしまったのは、おれの責任だ。研究の成果は、おれしか分からないところがあったために、奴らも迂闊には手を出せなかった。だが、こんな事態になっては」

 そのとき、遠くでくぐもった爆発音が聞こえた。爆発音は何回も続き、そのたびに床はびりびりと震えた。

「証拠を隠滅しようとしているな。往生際の悪いやつらだ……」

 マニーは、ミチの方に視線を移す。

「会社の犯罪を摘発するのは、あんたらの仕事だ。しかしおれは、おれの落とし前をつけねばならん。ジャンを探しに行く」

 そう言い残して、マニーは立ち上がる。きびすを返して、回廊の暗がりに消えていった。

「……!」

 その様子を見守っていたリネットの背筋を、悪寒が走った。

「《マム》の様子がおかしいわ」

「何?」

「AIよ」

 異様なうなりが、どこからか響く。甲高い金属音も加わる。

 リネットの胸騒ぎは収まらない。彼女は致命的な事態が進行しつつあることを予感した。

「どうしたの?」ティアは心細そうに問う。

「ごめんね。私たちは、この場を離れなきゃならないの……元気でね、『おとな』になっても」

 部屋を去る前、リネットは、ティアの肩を抱きしめた。


それからしばらくたって、ひとりの少年が、あわただしく部屋の中へ駆け込んできた。

「ティア、ここにいたのか」

「ハドリ!」

「ここから出るんだ。いいから早く!」

 どうしても、彼の本心が分からない。ティアは臆病な小動物のような目で、ハドリの金色の眼をのぞき込んだ。

「……!」

 ハドリの眼に、薔薇の花が映った。

 視界が一瞬、ローズピンクに染まる。そのとき、頭の中で、ぷちっとはじける音がした。心の中の扉が開き、なにものかが解き放たれた。

 金色の眼が、攻撃的な輝きを帯びる。

 ハドリは、性急な衝動に突き動かされた。ティアの肩に腕を回し、磁力に吸いつけられるように顔を近づけてゆく。

 鼻腔にえも言わぬ香りを感じる。そして、唇で薔薇の花に触れていた。

 彼の全体重は、華奢な少女へ向けてかかっていった。のしかかってくる重みに堪え切れず、彼女は尻餅をつき、花園に倒れ込んだ。その上にハドリが覆いかぶさる。

「んんっ……くうっ」

 なめらかに動く舌が、上下の歯をこじ開けて侵入してくる。

 ハドリの姿、ハドリの息遣い、ハドリの感触、ハドリの体臭、そして……五感すべてに、ハドリが襲いかかってくる。

 どろりとした熱いものが、ティアの体の中に沸き上がった。彼女にとって、初めて感じる感触。

 何をされているのか分からなかった。ただ、恐ろしかった。目の前の、心を通い合わせることの出来た少年が。少女はその暴威から逃れようと、顔を背け、身をよじらせた。

 右手が身体に沿って動き、胸のふくらみに達したとき、ティアは大声を上げた。

「やめて!」

 その言葉はハドリを目の前の現実に引き戻させた。彼の身体は弾かれたように飛びはね、少女の身体から離れた。

「……ごめん」

 肩をぎゅっとつかんだまま、頭を下げる。まだ息遣いは荒い。

「わかんないんだ。君の唇を見て、気がついたら……ううっ」

 ハドリは、不意に頭を押さえ、苦しそうに顔をゆがめた。

「だいじょうぶ?」

「平気だよ……」

 脂汗のにじんだ顔に笑みを作ったが、その口調には余裕がない。弾む息をついて、ハドリは問うた。

「それより、どうしたんだ。その唇は?」

「さっき、リネットが来て」

「なんだって」

 彼はわずかに背筋をびくりとさせた。

「リネットも、あなたを捜してたわ」

「……彼女に逢いに行く。ぼくといっしょに行こう」

 彼はティアの手首を握り、立ち上がった。

 もう片方の掌には、土と、草を押し潰したときに出た白い汁が、白磁器のようだった掌を汚している。

 歩いている間にも、ティアは激しい胸騒ぎに襲われ続けた。身体の中から熱いものが、あとからあとから湧き出してくる。

 頬の火照りは消えない。

 彼女の身体の奥深くで、何かが蠢動をはじめていた。


 19


「ティア。こっちだ」

 ティアの柔らかい手を引いて、ハドリは薄暗く長い廊下を駆けていった。

「おねがい、そんなにせかさないで……気持ちが悪いの。おなかが重くて、ちょっと熱っぽくて……」

 ティアの足取りは、しばしばもつれた。無理に引き立てるように、ハドリは足を進めていった。

「ランディ!」

 入り組んだ回廊の隅。ハドリは、太った所員を見つけて、声をかけた。彼は腰のベルトに拳銃をぶち込んで、周囲を抜け目なく見回している。

「やあ、ハドリくんか」

 呑気そうな返事が返ってきた。

「あんたがたと約束したことは、全部やった。こんどはぼくの約束を果たしてもらう番だ」

「……すまないが、状況が変わったんだ」

 無表情な顔で、ランディは答えた。

「計画は中断だ。証拠を隠滅して、俺たちはこの星から撤収する。きみらともここでお別れだ」

「そんな……」

 ハドリはランディの太鼓腹にすがりつき、訴えた。

「約束したじゃないか!」

「そんな事、言われてもなあ」

 迷惑げな響き。

 あくまでもそっけない、事務的な対応だった。

 

 金色の眼に、憎悪の火が点る。

「ハドリ……なにをするの」

 少年の発するただならぬ邪気を、ティアは敏感に察知した。

「……!」

 ランディの手が、彼の意志とは関係なく動いた。

 手はベルトに伸び、差してある自動拳銃を抜いた。そしてそのまま顔の前まで動き、銃口はランディの丸顔に向いた。

「ひい……どうなってるんだ」

「ぼくの言うことを聞け!」

 悪鬼のような形相のハドリが、ランディに迫る。ランディは目の前の銃口におびえ、幼児がいやいやをするように首を振った。

「そ……そんな事言われたって、出来ねえもんは出来ねえんだ、勘弁してくれ!」

 ハドリは、手首をねじり、親指を下に向けた。

 銃口が、ランディの口腔にねじ込まれた。

 人差し指が動く。くぐもった銃声が、密閉された空間の中で膨張する。

 つんと鼻をつく煙が、口からこぼれた。首の後ろから赤いしぶきが飛ぶ。

 ランディの巨体が崩れ落ちる音が、フロアに轟いた。

「いやああぁぁーっ<」

 ティアは眼を覆い、絶叫した。

 ハドリはランディの手から拳銃をもぎ取り、懐に納める。

「だいじょうぶだ。悪い『おとな』をやっつけただけだから。もう怖いことはないよ……」

 ハドリはティアを抱きしめた。彼女に心を流し込んで、落ち着けようとした。

 しかし、何故かどうしても入り込めない。ティアは心を閉ざしていた。

「さあ、行こう」

 すべてを拒否する少女を、少年は無理矢理引き立てていった。

 そのとき、ティアの心の中に、イメージが入り込んできた。

 不意に、ハドリの心の中の壁が、消えてしまった。隠されていたものが見えてしまった。

 彼がいた、白い部屋。

 その地下の暗闇。

 並んでいるガラス製の円筒の中には、飴色の液体に漬けられた、「こども」たちがいる。

 あれは、シーン――以前いなくなった女の子だ。

 彼女の胴体は、脂肪が付き始めた胸の下辺りから縦一文字に切り裂かれて、そこからは内蔵が全て引き出されていた。粘膜をむき出しにして、腹がえぐられている。

 瓶の中に、腸がうねうねと、別の生き物のように漂っている。

 隣の男の子は、顔の皮膚が全て剥がされて、引きつれたような筋繊維を、溶液の中に晒している。

 さらには額の辺りから頭蓋骨が円形に切り取られ、灰色の脳が露出していた。

半分以上むき出しになった眼球は、黒い瞳を空洞のように、ぽっかりと空けている。

 ――まだいる。何人も。今まで「神隠し」に逢った「こども」たちが。みんな、死んでいる。無惨にそのむくろを弄ばれて。

 ハドリ。

 あなたがやったの?

 あなたのしわざなの?

 どうして!?


 薬が回ってきて、ティアの意識は朦朧となり始めた。足がもつれて、その場にへたり込む。

 彼は少女の身体を、冷たい床にそっと横たえる。

「少しの間だけ、ここにいてくれ。だいじょうぶだ、もうすぐ、何もかもうまくゆくんだ……」

 目を閉じたティアに彼は語りかけ、そして、来訪者を待った。




 20


 リネットとミチが先ほどの場所に戻ると、そこには、人影があった。

「ああ、あなたは!」

「リネット、ここに来ると思ってたよ」

 サーバーの部屋、大樹の前には、ハドリが立っていた。

 以前よりも線が細くなり、やつれたような感じであったが、金色の眼は、前にもまして炯々と輝いている。

 彼の背後に、目を閉じて横たえられている少女がいた。ティアだ。

 リネットは少年ににじり寄り、問いを投げつける。

「……彼女に何をしたの?」

「薬だよ。メラトニンだ。副作用はない」

「別の作用があるんじゃない?」

 リネットは切り返す。

 人間の体内でメラトニンの分泌量がもっとも多いのは、五歳から六歳の幼児期で、十代半ばの思春期を迎えると減り始める。

 そのため、メラトニンは、性腺刺激ホルモンの分泌を抑制しているともいわれる。かれらが「おとな」になる過程においても、重要な役割を担っているのかもしれない。

 個人差はあるものの、思春期を迎える前の人間――「こども」が大量に服用すると、第二次性徴の発現が遅れる可能性があるのだ。

「そうだよ」

 彼は、手品の種がばれた、とでも言った感じで唇を歪めた。

 そして、ハドリは歩み寄る。硬い靴底が床を叩く。そのたびに、かちかちという足音が、鐘の音のように吹き抜けに響き渡る。

「ぼくたちに協力してくれないか。どうしても、きみの力が必要なんだ」

「……いやよ」

 リネットは毅然と応えた。

「あなたは、何をしてるか分かってるの!」

「ぼくは、この星を救いに来たんだ」

 平静な口調で間髪を入れず、あらかじめ用意されていたように、その言葉を答えた。

 リネットの身体の中を、意味の分からない衝撃が駆け抜けた。彼女の口は、一瞬こわばった。

「きみも見たんだろう、海を。ぼくたちは、まがい物だったんだ。不完全なゲノムから再生された、ぼくは、この星の『こども』たちを、呪われた運命から救いたいんだ。元に戻るんだよ。『おとな』にならずに済むんだよ」

 憑かれたように一気にまくし立てるハドリ。リネットは呆然と押し黙るだけだった。

「早く返事をしてくれ。でないと……」

 ポケットから鈍く黒光りするものを取り出した。拳銃だ。あのとき倉庫で見たのと同じもの。

「捨てろ、そんなもの!」

 ミチは、腰のホルスターに手を伸ばす。

「やらせないよ……な、なに!?」

 身体が、言うことを聞かない。肘の関節が半分曲がったまま、固まった。

「二人だけで話をつけようじゃないか」

 ハドリは不埒に微笑んだ。

「ぼくはもう『おとな』になることはないんだ。ホルモンの抑制処理を受けて、成熟を止めてもらったから。ティアにも受けさせてくれると、ナカオさんは約束してくれた」

「そんなの、嘘に決まってる!」

 辛うじて動く口で、ミチは叫んだ。しかしハドリは、それを意にも介さず続けた。

「ドミナントのきみがいれば、AIはすべて言うことを聞く。そうだろう。戻れるんだ、みんな。まがい物ではない、本物の『ひと』に。ぼくと、きみがこの星の未来を……」

「そんな問題じゃないわ」

「きみなら分かってくれると信じてたよ。『こども』たちを操って、あんなことをしたのも、ここの本当の姿を知ってもらうためだ。きみをあの公園で見つけたときから……」

「都合よく私がドミナントだった、ってわけかしら……まさかね。最初から、私に目を付けていたんでしょう。こんなこと、ギルドを通せるわけないもの」

 図星を突かれたらしく、ハドリの表情に、焦りの色が見える。

「きみは、このままでいいと思ってるのかい」

「それと、あなたがしてることとは、別の問題よ」

「だまれ!」

 うわずった叫び声で、会話を中断させようとした。

 金色の眼がいよいよ猛り、禍禍しい放射を放つ。

「おやめなさい。そんなことをしても、何の意味もない……」

「それが、きみの答えか……残念だな」

 ハドリは銃口を、リネットの顔の真っ正面に向けた。

「やめて!」

 絹を引き裂くような叫び声が響いた。

 ティアが飛び出した。ふわふわと歩いて、ハドリの腰にすがりついた。

「どくんだ。向こうに行って……」

 もたれかかってきた華奢な身体を振り払おうとした。が、次の瞬間、彼は絶句した。

 ティアの肉体に、一目で分かる異変が起こっている。頬の薄桃色が、見る見るうちに淡くなってゆく。大きく見開かれたルビー色の眼からも、精気が抜けていった。そして彼女は膝を折り、ハドリにもたれるように倒れかかった。

「どうしたんだ?」

 胸を大きく上下させながら、とぎれとぎれの声で答える。

「わたし、あの薬、飲んでなかったの。飲むふりだけしてたの。あなたが怖くて、入り込めなくて」

 両の眼から涙がこぼれる。頬のゆるやかな白い丘を越えて、顎までつうっと一対の筋が伝った。

「ごめんなさい、ハドリ。ごめんなさい……」

 声が消え入った。瞼を閉じ、がくりと頭を落とす。そのまま全身の力が抜けていったのを、支えていたハドリの腕が感じた。

 ティアの容態は、普通「人事不省」と呼ばれるそれとは、明らかに違っていた。

 手足はしんなりとなって、肌には温もりがなく、鉱物的な印象すら抱かせるほどの真っ白。紅を差されたままの唇だけが、鮮やかな赤みを保っている。

 耳元で声をかけたり、青白い頬を軽くたたいてみる。しかし、反応は返ってこない。

「しっかりしろ!」

 身体を揺さぶっても、支えを失った頭が力無く揺れるだけだった。

「私に診せて」

 リネットがティアを抱き上げる。

「これは……」

 血のようなものが、腿の内側を伝い落ちてくる。白磁のような肌に、一筋の赤い色が、痛々しいコントラストをつけた。リネットは顔を近づけて様子をみると、それを指ですくい、目の前に持っていった。

「……いけない、もう始まってる」

 彼女は首を振った。

「これは『おとな』になる一番最初の兆候なのよ。あと一時間もすれば、本格的な身体の変化がはじまるの。それまでに海水に漬けないと……」

「どうなる?」

「死ぬわ」

「そんな……」

 みるみる蒼白になるハドリ。

「今から止めたり、元に戻すことはできないわ……どうするの?」

「決まってるじゃないか……こうだ」

 そして、震える手で拳銃を握り直し、リネットの腕の中で眠るティアに向けた。

「今のうちに、ひと思いに死なせてやるんだ!」

「あなた……」

「貴様」

 ふたりは同時に絶句する。

 リネットは身をよじって、少女の身体を銃口から庇った。

「撃たないで! 落ち着いて……ティアはまだ、生きているのよ」

「同じことだ。さっさとどけよ、どけったら! 当たってもいいのかよ!!」

 声はひどくうわずっている。銃を構えた両手が激しくふるえ、銃口はその標的を定めあぐねた。

 ぱあーん!

 引き金を引いてしまった。銃声がフロアいっぱいに轟き、白い硝煙が漂う。銃弾はティアのドレスをかすめ、布の一部を引きちぎった。浅い角度で床に当たり、青白い火花を上げて、はじかれて飛んでいった。

「ううわあああああああぁぁーっ<」

 ハドリは銃声に負けないほど、声を限りに叫んだ。その声は喉の堅いしこりに当たって割れ、かすれた。

 ふたつの残響はフロアを満たし、廊下やダクトの硬い表面に跳ね返って、長々と木霊を続けた。

 一瞬、ミチの呪縛が解け、体に自由が戻った。彼女はそれを認識するのと同時に、特捜刑事の職務と、人間としての純粋な怒りに従って、自らの身体を踊らせた。

 ハドリに飛びかかり、みぞおちに当て身を食らわせる。二人はもつれ合いながら吹っ飛んだ。

 彼の身体は、硬くなめらかな床に、したたかに打ち付けられる。そのまま二.三メートルも床を滑り、壁にぶち当たって止まった。

 拳銃はもぎ取られ、彼はうつぶせに組み伏せられた。

「ふざけんじゃないよ!」

「ティア……」

 床にこすりつけられたハドリの目から、光る粒がこぼれ落ちた。

「ずっと人間のまま、ずっとティアのままでいてほしかったんだ。ぼくが望んでいたのは、それだけなんだ……」

 顔をゆがめて歯を食いしばり、身体を激しくふるわせている。ぴたぴたと音を立てて床に水滴が落ち、硬い表面に水たまりを作った。

 ミチに身体を引き起こされても、首をうなだれているばかり。

「知ってたよ。みんな知ってたよ。ナカオさんたちが何をしていたのか。自分の手を血で汚したって、構わなかった。それもこれも、みんなティアと……」

 それから先は、言葉にならなかった。顔を両手で覆って、嗚咽するばかりだった。

「ハドリ、聞いて」

 リネットは口を開いた。彼女は一転して、声のトーンを落とした。慰撫するような眼つきで、激しく感情を燃えたぎらせる少年の眼をのぞき込んだ。

「私はもう、この星にいられないの。いてはいけないのよ。草原も、丘も、泉も、小川のせせらぎも、そしてこの海も、この星の『こども』と『おとな』たちのためにあるの。ここは素晴らしいところ。ずっとここにいたいけど、それは叶わないことなのよ。だって、私は『こども』じゃない。そして、『おとな』でもないから……」

 彼女から発せられた声は、深い井戸の底から響くような、甘やかな反響を残して、周囲の暗黒に溶けていった。

「なにが言いたいんだ」

 ハドリは苛立つように問い返した。リネットは少年の手を握りしめた。

「ティアを帰してあげるの。あるべきところに。今はあなたについて詮索している暇はないわ。ことは一分一秒を争うのよ」

「……」

「お願い、これだけは考えて。今のティアにとって何が一番よいことなのか。どうしてあげるべきなのか」

 ただしゃくり上げるだけだったハドリの眼に、光が宿った。しばらくすると顔を上げ、はっきりと言った。

「……ティアはぼくに任せてくれ。海に連れていく」

「ありがとう!」

 リネットはハドリの肩を抱きしめた。

「いいの、こいつを信じて?」

 ミチは胡散臭げに、彼を一瞥する。

「そうするほか、ないでしょう」

 意識を失ったままのティアを抱きかかえ、ハドリは言う。

「ぼく一人でいい。今この星を救えるのは、きみたちだけだ。それに……」

 そこで、一回大きく息を吸った。

「ぼくは、この手でティアを守ってやりたいんだ」

 その言葉に、リネットは微笑みながら頷いた。




 21


 意識のないティアを背に負い、ハドリは「塔」の出口に向かっていた。

 長く狭い階段を、たんたんと高く響きわたる音を立てながら、二段飛びに降りてゆく。その足の運びは、あまりにももどかしい。

「もうすぐだ、がんばれ、ティア」

 背中の上の少女、というより、自分に言い聞かせながら、彼は走り続ける。気ばかりが急いていた。

 柱の陰で、ふたりを狙うまなざしがあった。

「てめえを生かしておくと、あとあと面倒なことになるんでな」

 コーディだ。レールガンの銃床を肩につけ、グリップを握っている。

 ゆらゆら揺れる銃口は、次第にふたりに向けて、位置を定めてゆく。

 引き金に指が掛かったとき、彼の頭を背後から衝撃が見舞う。

「ううっ……」

 呻きながら、コーディはその場に跪いた。

 マニーが、彼の傍らに立ちはだかる。右手には、布を巻き付けた鉄棒を持っている。

 襟首をつかんで引き起こし、そのまま柱に顔をたたきつける。

「ジャンはどこだ」

「へへへ……」

 彼は青黒く鬱血した顔を、それでもふてぶてしくゆがめる。

「答えろ!」

 膝で下腹部を突き上げる。アヒルを思わせる口から、白い飛沫が飛び散る。二度、三度繰り返すと、飛沫に赤い色が付いた。それをもう何度か続けたとき、彼は口を開いた。

「わ、わかった、言う」

「どこだ?」

「サーバールームだ……」

 コーディのつぶやきを聞き取ると、マニーはその身体を解放した。彼はその場にくずおれた。

 彼は床に横たわるコーディから銃をもぎ取り、肩に担いだ。

(まさか……)

 悪い予感がマニーを襲った。

(それだけはしてくれるなよ、ジャン)

 鼓動とともに、歩みは次第に速くなる。

 おそらく、ナカオは「塔」の中枢部へと忍び込んでいるのだろう。


 ナカオは急いでいた。

 「塔」の内部構造は分かっていた。すべて、マニーが以前に調べていたからだ。

 複雑な分岐を迷わず選び、監視をかいくぐりながら、大きな黒い扉の前にたどり着くと、その前には、マニーが立っている。

「ジャン、もういいだろう」

 マニーが歩み寄り、肩をつかむ。

「貴様か……」

 ナカオは冷ややかな目を、マニーに向ける。マニーは口を開いた。

「GFBIが来ている。お前さんも、この会社も、もう潮時じゃないのか」

「あいつらがこの辺を嗅ぎ回っていたことは、感づかないでもなかったがな……まさか、貴様がたれ込んだんじゃないだろうな?」

 そう言って視線を逸らす。マニーは哀れむような目つきで、ぽつりと言った。

「まだ、殺すのか……」

 ナカオはわずかに背筋をぴくりとさせた。

「ジャン、もう止せ。終わったんだ」

 マニーはレールガンを腰だめに構えた。ナカオは、マニーの顔を見上げて口元を歪める。

「おまえに出来るのか、腰抜けが」

 マニーは引き金を絞った。一発発射音が響いた。ナカオの足下に穴が開いた。

「どこまでも、甘いやつだな!」

 ナカオは嘲る。マニーは筒先をナカオの真っ正面に向けた。しかし、それよりも先に、ナカオは腰のホルスターからニードルガンを抜く。

 銃声はしなかった。無数の細い針が銃口から飛びだし、ミートソースのようなものが、ナカオの上半身に飛び散った。

 無表情のまま何度も引き金を引く。旧友の頭部は、砕けた西瓜のようになった。

 肉塊と化したマニーを見下ろし、ナカオはつぶやく。

「そうだ、もうすぐすべてが終わる。何もかもうまく行くんだ……」

 死体を見捨てて、扉へ向かう。解除信号を入力すると、電子ロックは、簡単に開いた。

 扉の内側の狭い空間で、彼はこの星での最後の任務に取りかかった。

 回路を覆うパネルに、プラスティック爆弾を仕掛けた。雷管に通電すると、轟音とともに大きな穴が空いた。バーナーで乱暴に、露出したケーブルの束を焼き切る。

 ハブを探しだしてコネクタを引き抜き、そこにブックパソコンを接続した。キーボードを操作する。パソコンのディスプレイに、文字列が送り出されていった。

 プロテクトを解除する、無力化コード。研究所に捕らえられた《マム》の一体の制御回路を、ミュゼのしかるべき機関で解析したプログラムだった。

 そして、同時にもう一つのプログラムが流し込まれる。それは、恒星船の主機関に再び火を入れるコマンド。

 もはや、なにも抵抗は出来なかった。

 獲物を追う猟犬のように、それはもとの回路に流れ込み、ある目的に向けて、疾走をはじめた。

 すべてが順調にいったのを確認すると、パソコンをそのままに、彼は部屋をあとにした。

 外へ出ると、重い扉はスライドし、硬くとざされた。

 この星での全ての仕事を終えた男は、その場にへたりこんだ。かつて旧友だった肉の塊が、脇に転がっている。

 上着のポケットから、カードを取り出した。家族のホログラフィが映し出された。ミュゼにいた一ヶ月前、収録したものだ。最後の団欒。

 ナカオは天井を見上げ、大きく、ため息をついた。

「誰かいるのね?」

 不意に、廊下の奥から女性の声が響く。

 ナカオは立ち上がり、筒先を声のした方向に向けた。その途端、みぞおちに鋭い衝撃が走った。低いうめき声を上げながら、手からニードルガンを落とし、その場に崩れ落ちた。

 彼女は左手で、落ちた銃を拾い、ナカオに突きつけ返した。

「あなたには、弁護士を選任する権利があります。そして、自らに都合の悪い供述を拒否する権利があります。いいですね」

 ナカオは手を上げた。しかし、その顔は笑っていた。


 黒い柱のような姿のサーバーは、その全身から、異様な気配を放射していた。

 送風タービンの音はがらがらと濁り、タイルが不規則に明滅している。明らかに、《マム》は病んでいた。

 さっきのように、リネットは柱の前にひざまずく。そして、回路の中に意識を飛ばした。

〈どうしたの?〉

〈……何者かが、わたしの中に侵入して……ネットワークを擾乱しています……物理的な破壊活動も……〉

《マム》の「声」は、リネットの頭の中で、息も絶え絶えに響いた。

 光学素子の輝きが、不規則にちらつきはじめた。ディスプレイにはすべて、「非常事態」の文字が映り、耳障りな警報音が部屋じゅうに鳴り響いた。

 ランクE緊急事態。この「塔」にとっては、あのとき以来の非常事態だ。

 奇妙に濁った「声」で、《マム》はこの「塔」を襲うであろう破局を予言した。

〈本恒星船は、超空間航行の動力源としてディラック・ドライブを搭載しています。その制御回路に、外部から異常な入力がなされ、続いてネットワークが途絶しました。現在、統轄制御が不可能な状態です〉

〈どうして?〉

〈主電源が切断されています。予備回路、切り替え不能です。一連の事態は、意図的な破壊によるものである可能性が、極めて濃厚です……〉

 《マム》の「声」は、さらに切迫した調子になった。

〈機関の安全装置が、次々に解除されようとしています。破壊活動の目的は、ディラック・ドライブの起動だと推測されます。現在のエネルギーポテンシャル、18パーセント。ジェネレータへのエネルギー注入回路は、現在途絶状態。このままでは、重大な事態に陥る危険があります。このままでは、このまま、このこのままままでででで……〉

 ノイズレベルは、上昇する一方だった。リネットへ伝わる「意識」はとぎれとぎれになり、やがて、増大するノイズの中へ消えていった。

〈どうなってるの!〉

 問い返したが、返事はなかった。

 機械たちは、動きを止めた。《マム》は、沈黙してしまった。

 彼女は懸命に念じた。だが、反応は全く返ってこない。

〈なんで動かないの、みんな!〉

 戦慄したリネットは、叫んだ。

「ミチ、大変!」

 「塔」が直面している危機は、この島、いや、この星全体に関わるものであった。

 「塔」――恒星船は、千年近い時を経ても、その機能は未だに「生き」続けていた。

 恒星船は、超空間への扉をこじ開けるための膨大なエネルギーを、真空のエネルギーがせめぎ合う領域――ディラックの海から汲み出している。

 その機関が、惑星上で起動する――空間をゆがめるジェネレータを切ったままで。行き場のないエネルギーが、そのごく一部でもこの宇宙に解放されるとしたら、それは軽々と星一つを消滅させてしまっても、まだお釣りが来るほどのものだろう。

「もうすぐ、この星が吹き飛ぶっていうの!?」

 リネットの説明を聞いたミチは、絶句した。

「ええ、このままいけば」

「ドライブの制御回路にリンクすることは出来ないの?」

「回路が完全にクローズドになってるから、今からじゃ間に合わない。それは『塔』の一番上にあるの」

 リネットはこわばった顔で、首を振った。

「ちくしょう、誰だ、そんな事しやがったのは!」

 ミチは壁を拳で叩いた。

 廊下の奥から、不ぞろいな足音が近づいてくる。

 二つの人影が、回廊に見えた。

 右腕を三角巾で吊った、ココア色の肌の特捜刑事が、うなだれた中年男を前に立たせて現われた。

 男は手を上げさせられていた。銀色の作業着は、上下とも油や煤で真っ黒に汚れている。顔や襟には、赤黒い飛沫がぽつぽつとこびりついていた。

「警部!」

「ナカオさん!」

 ふたりは同時に叫んだ。

「無事だったのね、ミチ」

 カーライルは、ミチに向けてウインクをした。

「捕まったあと、この中に連れてこられたの。機械たちが、わたしの怪我を診て、手当てをしてくれたのよ。皆さん方、意外に親切だったわ。拘束されることもなかったし。もっとも、武装はみんな取られちゃったけどね」

 彼女は左手で拳銃を構え、ナカオの背中に突きつけている。銃は特捜刑事のシンボル、マルチブラスターではなく、一般人の護身用である、ニードルガンだった。

「射殺死体の横で、この男が銃を持ってるところを見つけたのよ。殺人容疑で現行犯逮捕したわ」

「あなた、マニーさんを!」

 リネットは叫んだ。

「そうだ。あの野郎、邪魔しやがったから、始末してやった」

 肩で息をしながら、ナカオは吐き捨てた。

「これも、あんたがやったの?」

 ミチが暗闇を指さし、詰問する。ナカオは黙ってうなずいた。

 リネットは問うた。

「教えてください。どうしたらもとに戻せますか?」

「……それは無理だ」

 ナカオはかぶりを振った。

「プロテクトの無力化コードを止めるコマンドはない。ついでに、物理的破壊工作もしておいた。そう簡単に修復などできめえ」

 煤がついた顔に、薄笑いを浮かべる。

「しかたないんだ」

 ナカオはつぶやいた。

「どういう意味?」

「会社と……家族のためだ」

 彼は唇をかみしめた。

「……まあ、いいじゃねえか。惑星トゥリオナで前世紀の遺物である恒星船を発見、調査中に不慮の事故で主機関が暴走。惑星壊滅、調査員全員死亡。これで何が悪い?」

 この場にいたナカオ以外の三人は、皆、口もとをわなわな震わせていた。

「そうさ、おれは犯罪者じゃなくなるのさ。証拠は何もかも、星ごとふっとんじまう。故郷に残してきた家族だって、犯罪者の家族じゃないんだ。退職金も、殉職見舞い金も、労災も、保険金だっておりる。暮らしには困るまい。会社にも迷惑はかけずに済む……」

「本気なんですか?」

 リネットにとって、彼の考えは全く理解できなかった。この男にとって人間とは、自分の家族や、自分に忠実な部下だけを指しているのだろうか。

 ミチは肩を大きく上下させた。

「その言葉、あんたの家族の前で言ってみろ!」

 ナカオの手首を捻り上げ、電子手錠を食い込ませる。ナカオは苦しい息の下でつぶやく。

「……この星のやつらが、人間であるものか」

「それがあなたの本音だったんですね」

 リネットは、生ゴミでも見るような眼で、ナカオを睨んだ。

 巨大な円筒の中は、恐ろしいほど静かだった。

 大樹に点っていた明かりは、今にも消え入りそうな様子で、不規則に明滅している。

 機械たちが、廊下に濃い長い影を曳いて、奇怪なオブジェのように静止している。

 「塔」のなかのすべてのものが、動きを止めていた。

 不気味な交響楽は、止まない。

「お願い、答えてよ、《マム》。この星のみんなを助けて……」

 リネットは壁をさすり、訴える。しかし、ピアスにはどんな信号も入ってこない。今の《マム》は、拒絶するようなただの冷たい壁だ。その向こうでは、悪魔のプログラムが、この星を宇宙の塵に変えてしまうために、何重もの防壁を次々に打ち破って、進軍しているのだ。

「まあ、あと保ってせいぜい、二,三分ってとこかな。ひゃひゃひゃ……」

 ナカオは小さく、しかし耳障りな笑い声を上げた。


 不意に、リネットのこめかみを、ほんのかすかな何かが貫いていった。実体のあるものではない。意志のベクトルを持った情報――「意識」だ。

「……え?」

 うつむいていた顔を上げ、小さく声を漏らした。

「どうしたの」

 ドミナントの少女は、何があったか信じられないといった表情で、ミチの声に振り向いた。

「……ミチ。あそこに、黄色く四角が描いてあるでしょう」

 リネットは、向こう側の壁を指さす。たしかにそこには、何かを縁どったように、黄色い縦長の長方形が蛍光塗料で描かれていた。

「あれは、配電盤なの。そこを壊せば、回路は自動的にバックアップに切り替わるわ!」

「本当?」

 リネットは、ぽかんとしているミチの手をとって、訴えた。

「お願い、早くして。もうそれしか方法はないのよ!」

「ミチ、あなたがおやりなさい」

 ふたりの背後で、カーライルは言った。そして、左手でバイザーをミチに放った。

「これを使って」

「了解しました」

 受けとって、敬礼を返す。ミチはバイザーを装着した。シャツの袖から発信される電波に反応して、バイザーにはさみこまれた液晶に通電し、表示が点る。

 腰のホルスターから、マルチブラスターを抜いた。四角形までは、目測でもおおよそ五十メートルはある。この距離から、目標を一撃で破壊できるのは、この光線銃だけだ。

 遠射の構えをとった。目標に対して正対し、左手を伸ばして銃を構える。余った右手は、銃床に添えられた。

 親指でダイヤルを破壊(ブラスト)モードに合わせる。

 バイザーの液晶に、エネルギー残量が表示された。思ったよりも消耗が激しかった。一発撃ったら、バッテリーパックがあがってしまうだろう。

 トリガーを軽く押し、目標に照準レーザーを照射する。バイザーの液晶に、データが表示された。

 距離、五十七メートル。十字型のレチクルがゆらゆらと動き、円と重なる。ロックオン。

 人差し指がかかっていた三日月の形をした金属部品を、一気に引き絞った。

 電気の形でパックに封じこまれていたエネルギーのすべてが、レーザーに変換され、目標へと突き進んでゆく。

 レーザー光線の強烈なエネルギーは、その通り道にある空気を、プラズマに変えた。プラズマは、後続する光線のエネルギーを加えて、さらに高温になっていった。その間、一マイクロ秒にも満たない。

 配電盤の表面で、プラズマはそのエネルギーを解き放った。一瞬、球形の光が表面に輝く。

 漆黒を切り裂いて閃光が走る。ほぼ同時に、鈍くこもった音が鼓膜をふるわせた。

 次の瞬間、完全な暗黒となった。点っていたわずかな光も消えた。

 もつれた青白い電光だけが小さく浮かび上がる。

 明かりが点る。はじめはぽつりぽつりと、だが、空洞の中はしだいに明るくなってゆく。

 低いうなりが、どこからか聞こえてくる。

 光学素子に、光が戻る。大樹は木漏れ日を取り戻す。

《マム》は、蘇った。

 リネットの表情が、歓喜に満たされてゆく。

「やったあ!」

 リネットは宙に舞い、ミチの胸に飛び込んだ。翡翠の眼はうっすら濡れて、木漏れ日を乱反射している。

 ふたりはひしと抱き合って、歓びを分かち合った。

「有難う、ミチ!」

 リネットは、ミチの頬にキスをした。

「あんたが教えてくれたからよ、リネット!」

 ミチも、リネットの額にキスを返す。

「……でも、どうして分かったの? AIは駄目になってたんでしょう」

 唇を耳元に移し、ミチが囁いた。

「それが、私にもよく分からないの。突然、《マム》とは違う声が頭の中で響いて、その声が、あそこだって……」

 どうしてだかわからない。リネットは、元どおりになった《マム》に意識をさしのべ、思考を送った。

〈今のは何かしら。御存じ?〉

 元どおりの意識の「声」が、頭の中に響いた。

〈わたしではありません。わたしの『意識』がなかったとき、何者か、『意志』を持った存在が、わたしの回路を通り道にして、あなたの脳の中にメッセージを送ったのです〉

〈それは、だれ?〉

〈発信された場所は分かります。それは、海の中……〉

 そこで、一方的に沈黙した。

 顔面蒼白のナカオは、口をただぱくぱくさせながら、その場にへたりこんでいる。

「ちゃんと立ちなさい!」

 ふたりの特捜刑事に両脇を支えられ、引きずられるように連行されていった。

廊下には、金色の光が、浅い角度で長く差し込んでいた。

 夜はもう明けていた。光球が水平線から顔を出し、無数の光の欠片が波間に振りまかれている。

「塔」の外に出た途端、ミチとカーライルは、表情を輝かせた。

 島の南方、基地のある方角の上空に、巨大なシャトル型恒星船がホバリングしているのが、眼に入ったからだ。

 角度の浅い朝日が、パールホワイトの機体を赤銅色に照り返している。

翼の下に突き出た緩衝脚は、着陸態勢に入っていることをこちらに知らせる。

 二枚の垂直尾翼には、「GFBI」と大きくマムキングされている。

「本隊だわ!」

「やっぱり、来てくれたのね」

 ふたりの帰るべき船が、そこにあった。

 潮は引いていた。「塔」から岸辺まで一筋の陸地が、海が割れたように浮き上がっていた。

 歩いて、浜辺までわたってゆく。

(あのふたりはどうなったのかしら)

 全てが終わったあと、リネットは、ふと、心に引っかかりを覚えた。

 対岸の砂浜に渡ったあと、エメラルド・グリーンの海面を見渡しながら、彼女はひとりごちた。

「海の中……ひょっとして、あなたが?」




 22


 ティアは再び眼を開いた。視界は一面、エメラルド・グリーンだった。

「ここは……」

 海水は澄み切っていた。彼女の回りにはどこまでも砂地が広がり、明るくなり始めた海中には、様々な生き物たちがうごめいている。そして、見渡す限り砂地に突き出た岩――『おとな』たちが立ち並んでいる。

 自分もそこにいるらしいと、ティアは感じた。それにしては、息が苦しくないのは何故だろう。

 彼女は、海中にいた。

 体は自分の思い通りにならず、呼吸すら全く出来なかったが、苦痛はない。

それどころか、不思議なほど、気持ちは安らいでいた。

 身体がくるりと反転した。視線が上方に向く。

 そこにあるのは、ゆらめきながら、昇り始めた朝日を浴びて、きらきら輝く水面だった。

(ああ……)

 彼女の記憶にある中で、一番美しい光景。

 何かと、一体になってゆく。

なつかしい声、いや、声ではない。想いだ。この海は、想いで満ちているのだ。

 彼女の心の中で固まっていた哀しみ、

それらはほぐされ、海水の中に散ってゆく。

 そして、その代わりに、いい知れない快感、至福感が彼女の中にしみこんできたのだ。

(唱ってるわ……みんな)

 圧倒的な至福感はどんどんティアの体の中に広がっていく。やがてそれは体を満たし、溢れ、そして海中にどこまでも広がっていった。

(何だかとってもいい気持ち……。これが、『おとな』になるってことなの……)

 気づかぬ間に、ティアも唱い始めていた。その調べは、海中に満ちているハーモニーとシンクロし、そのひとつのメロディになっていくことを感じていた。

 ティアは、満たされていった。

 彼女は海底にたどり着いた。皮膚は次第に赤みを帯び、そして固くなっていった。


 ハドリは、「塔」を仰ぎ見る渚にたたずんでいた。

 ティアと最後の会話をかわそうとしていたのだ。

 太陽はもう水平線の上に完全に姿を現していたが、東の空はまだ赤みが残っている。

 曖昧な色の空から、つめたい風が吹いてきた。海はにわかに荒くなり、白い波がひっきりなしに、寄せては返している。

 彼は手のひらを海水にひたし、意識を集中する。彼の意識は、湾の中のティアへと向けられる。

 意識の指先が海中を進む。

 海中には、いくつものかすかな意識が漂っている。意識、であることは分かるが、それらが何者かは感じ取れない。

 彼が初めて感じるものだ。

 それらをくぐり抜け、目指すところ、ティアのもとへとたどり着いた。

(ティアだね……)

(ハドリ……あなたが連れてきてくれたのね。ありがとう)

 ティアの思考は伝わってくるものの、それ以上彼女の意識には入り込めない。

(ティア。ぼくはきみに謝らなくちゃならない)

(そんなことはもう、どうでもいい……)

 彼女はとても安らかな心境だった。

(いまわたしは、海の中にいるのね。水の流れを頬に感じる。とても静か。あたたかい。

(ついさっきまで見えていた眼も、もうかすんでしまった)

(恐くはないかい……)

(ううん……わたしはもう、ひとりじゃないから)

(……!)

 ティアが微笑んだように感じられた。

(ずっと、さびしかった。あなたがいないあいだ。でももうだいじょうぶ。みんながいるから……)

 ティアの「想い」が、ハドリの胸を満たしてゆく。涙があふれるほど切ない。そして、言葉に尽くせない至福感に満ちていた。

しかし、彼はもう、それに一体化することができない。

 ハドリとティアは、別の存在になろうとしている――

(いまのわたしは、ここにいるみんなといっしょなの。わたしは、ここにも、あそこにもいるの。わたしがみんなで、みんながわたしになるのよ)

(じゃあ、ぼくは……)

(ねえハドリ。もうすぐあなたもここに来るのね)

 彼はここに来ることは出来ない。もう『おとな』にはなれない体だからだ 

(だいじょうぶ。わたしは、みんなになるのだから。わたしは待ってる。

わたしたちは、何もかも分かち合ってゆくの。さびしいことも、悲しいことも、ここにはないの……)

 しかし――

(ティア、行かないで。ぼくをひとりぼっちにしないでくれ)

(悲しむことなんてないわ。あなたにも、もうすぐわかるもの。わたしは、しあわせ。みんな――あなたも)

 自他の区別が、次第につかなくなっている。

(みんな、ずっとここにいる。待ってる。……は、しあわせ。しあわせ……)

 彼女自身の意識は次第に弱くなり、バックグラウンドの意識、海にあまねく拡がる大いなる「想い」の中へ、すうっと消えていった。

 砂浜に一人残されたハドリは、手のひらを引き上げる。海水が、くぼみにたまっていた。

 目の前の波間、はるかな水平線、そして彼がすくった海水、手のひらからこぼれる一粒、一粒にも、ティアはいた。

 しかし、ティアは、完全に「おとな」になった。そして、もう二度と手の届かないところへ行ってしまったのだ――。

 「ティアーっ!」

 ハドリは声を限りに叫んだ。しかし、その声は空気の中、水平線の彼方に拡がるばかりで、彼女のいる海には届くことはない。

「うわあああーっ!」

 彼は暗い哀しみに翻弄された。

 もう、彼はひとりぼっちになってしまったのだ。

 いつまでも、いつまでも、ハドリは波打ち際で泣き続けた。



 23


 銀河連邦捜査局、カラ星系支局所属、アルバレート級強襲揚陸艇「ナーティウルス」は、1G加速の通常航法で、黄道面から鉛直方向に遠ざかり、MXI-01715星系を離脱しつつあった。

 船内では、向かうときとは違った種類の喧噪が充満している。捜査官や航行技術者たちが忙しそうに動き回っている。皆、今回の一件の後始末に追われているのだ。

 その喧噪から隔離され、リネットは狭く殺風景な部屋に入れられていた。留置所ではないようだったが、常時厳しい監視の目に晒されていることは違いない。

 ベッドに腰を下ろし、つるりとした白い壁に向き合っていると、天井の照明以外のところから光が射し込む。入口のプラグドアが開いたのだ。

「出ていいわよ、リネット」

 向こう側にはミチとカーライル、ふたりが光を背に立っている。

 すぐには顔を上げられなかった。

 立ち上がると、ミチが手を取った。

「ごめんね、あんただけを特別扱いするわけにはいかないの。ミュゼに着くまでの辛抱だから我慢して」

 廊下には、くすんだ色の丈夫な扉が並んでいる。その向こうには、研究所員たちが勾留されているはずだ。

 それだけで、ミチの言葉とは裏腹に、自分が特別扱いされているのが分かった。何のためかには、だいたい見当がつく。

 ふたりのエスコートで廊下を渡り、突き当たりにある部屋に通される。

 しかし、入ってみると部屋には、予想にそぐわない雰囲気が漂っている。

 机こそあるものの、その上には花が飾られている。

 取調室ではなく、ここはオフィスの応接室ではないだろうか、そう感じさせるほどだった。

 ふた付きの紙コップがテーブルに置いてある。

「お茶はいかが? アールグレイよ」

 そう言ってふたを開けると、あたりにかぐわしい匂いが漂った。

「燃料タンクの純水じゃなくて、ミネラルウォーターを使って煎れたからね、お味は保証するわ」

 カーライルは笑った。

「安心して。あなたは悪いようにはならないから」

「そ、そうですか」

 

 どうしていいのか分からず、視線を移した。一方の壁がそのまま3Dディスプレイになり、外の宇宙空間が映し出されている。

「今頃、ミュゼの本社にも手入れが入ってるでしょうね」

 ミチは言う。

 たしかに、この事件の規模は、一企業に可能な範囲を大幅に超えている。背景は相当大がかりなものだろう。

「研究所の皆さんは、どうなりました?」

「船内の留置室に入ってる。全員、逮捕したわ――失礼、ひとり取り逃したけど。ハドリよ。結局、あいつは見つからなかった」

 吐き捨てるように言った。

 所長のナカオ以下、研究所のメンバーはことごとく逮捕されたという。だとすれば、事件の全貌が白日の下にさらけ出される日も遠くはないだろう。

 この一件に関わっていた者は、司直の手にゆだねられ、犯した罪に見合った報いを受けることになる。それは決して生半可なものではないだろう。

 だが、生きている者で、そこからはみ出した存在が2人だけいた。リネットと、ハドリだ。

 リネットは事情を知らぬまま赴任してきた平社員で、違法行為に関与してはいず――逮捕された同僚もそう証言しているそうだ――、捜査には一貫して協力的であった、というのがカーライルから説明されたところだが、無論、額面通りには受け取っていない。

 一方のハドリは、あのとき以来行方が知れない。

 「おとな」への変容を始めようとしていたティアを連れて、海へ向かったところまでが、リネットの知っている彼の消息だ。

 ティアは、恐らくは無事に「おとな」になれたようだ。彼女はそう確信している。しかし、彼は戻ってこなかった。彼の行方は誰も知らない。

 彼がただひたすら願っていたこと、それはティアと、いつまでもこの姿のままでいることだった。それが叶えられなかった今、彼は何を支えに生きてゆくのか。

 ひょっとしたら――最悪の想像も、脳裏をよぎった。

「もし、見つかったらどうなるの?」

「そりゃ、決まってるじゃない。これよ」

 ミチは手を揃えて前に出し、何を当たり前のことを、とでも言いたげな表情をした。確かに少年だとはいえ、彼の罪は決して軽くはない。

 彼の居場所は、ミュゼにも、そしてあの星にもないのだ。

 しかし――居場所がないという点では、リネットも同じなのかも知れない。

 たとえ会社の組織は生き残ることが出来たとしても、そこに彼女の居場所は、もうないだろう。もとより、残る気もなかったが。

「ミュゼへ戻ったらどうするの? 故郷へ帰るんじゃないの?」

 ミチは問うた。いつか聞かされたことを思い出し、何の気なしに口に出してみたのだろうか。

 返事はすぐには帰ってこない。

「ん……」

「……あ、まずいこと言っちゃったかな、ごめん」

「そんなことないわ」

 リネットはミチの顔を見上げた。

「何だか、いろんなことがありすぎて、今はそこまで考えが回らないわ。でもね」

「?」

「今までずっと、私は母親の掌から逃れられなかった。ミュゼにいても、この身体と心が、自分であって自分でないような感じが、ずっとしてた。それが、この星に来て初めて分かったわ。私が本当に誰かの役に立てるって、たしかに思えたって。だから……ほんの少しだけど、自分が、この身体と能力が好きになれそうな気がするの」

「そう……よかったわね」

 ミチは微笑む。

 そのとき、注意を促す電子音がスピーカーから流れ、会話は中断された。

 ディスプレイには、景色に割り込んで「ディラック・ドライブ作動準備」という黄色い文字が明滅した。

「そろそろ、超空間に入るわよ。カプセルへ移った方がいいわ」

 そう言って、ミチは席を立った。

「ありがとう。でも、もう少しだけここにいさせて」

「え?」

 意外な返事に、戸惑うミチ。

「もう少しだけ。すぐに行くから」

 リネットは答え、ふたたび船外の景色を映し出したディスプレイに眼を向けた。

 トゥリオナの淡い光はもう、銀の砂を播いたような無数の星々の中に紛れ込んでしまった。

 これから、あの小さな緑の星――トゥリオナの「こども」と「おとな」たちはどうなるのだろうか。

 たしかに、今は一つの嵐が過ぎた。しかしもうすぐ、もっともっと大きな嵐がやってくるのだ。

 今回の一件でこの惑星は、外の世界の注目を浴びてしまうことになるだろう。大学などからきちんとした調査隊が派遣され、金儲けや歪んだ名誉欲のためではない研究が行われる。かれらと、かれらを取り巻く自然環境にはしかるべき保護措置がとられて、かれらを直接に脅かすものは遠ざけられるだろう。そうでなければならない。

 だが、その一方で、外の世界の皆はこの星の住人に、「病気」や「異常」という眼差しを否応なしに向けてしまうに違いない。そして、もっと積極的に「治療」を施そうとする意見も現われてくるのではないか。

 すでに「おとな」になってしまった――ティアのような――のはどうしようもなくても、卵子や胎児、あるいは「こども」のうちに「正常な」遺伝子を植えつければ、そのままの姿で子孫を残すことが可能になるかもしれない。「まがい物」で無い、「本物」の「ひと」に。

 しかし――。

 リネットは想う。

 それは、よいことなのだろうか?

 たとえ純粋な善意と、慈悲から発した行為であっても、かれらにとって大切なものを、根こそぎ奪ったりしてしまうことにはならないのだろうか。

 そう、もしかしたら、かれらは……。

 警報音がひときわ大きくなった。「作動準備」の黄色い表示が「作動開始 六〇〇秒前」という赤い表示に変わり、その数字は一秒ごとに一つずつ小さくなっている。

 いよいよ、カプセルに入らねばならないときがきた。

 追い立てられるような気持ちで、席を立つ。

 リネットは心の中で祈った。

 これからの未来が、かれらにとっても、そして私たちにとっても、佳きものであってください。

 どうか、それだけは。

 ディスプレイが消えた。彼女の目の前は、ただの白い壁になった。

 そのときリネットは、ふっと緑色の潮の香りが鼻先を撫でていくのを感じた。

もう手の届かない、宇宙の彼方の輝き。

(……さよなら)

 心の中でつぶやくと、身を翻し、部屋を後にした。


 ジャン・ゴーシュ・ナカオ所長をはじめとするハーディーマン産業株式会社トゥリオナ生態系研究所所員たちは、ミュゼに送還されたのち、惑星開発法違反、生態系保護法違反、第一級殺人などの罪状で、本社上層部の関与者とともに、連邦裁判所で、有罪の評決を受けた。

 イマニュエル・ボロコフ、ランディ・ベイツのふたりは、被疑者死亡のため不起訴。

 そして、リネット・アスロンは、捜査と真相解明に協力することと、本人に関する情報を秘匿することを条件に司法取引を行い、刑事責任を問われないこととなった。



  エピローグ


 エメラルドグリーンの波が、静かに寄せては返す砂浜。中天で穏やかに光を放つ太陽が、波頭を茜色に染める。

 それは、この星で太古から続いてきた光景だった。

 北回帰線上にある島の、高い山の中腹にある高原。どこまでも不毛の地である地上に、そこだけには緑の草原が広がっていた。

 それらを見守るように、島の沖合いには、金属の「塔」がそびえている。

 テラスのように張り出した、その一角。小さな人影が見える。

 薄茶色の髪を潮風になびかせた少年だ。

 彼の横顔には、あれから少しだけ、歳月が刻まれていたようだ。

 金色の虹彩にぽっかり開いた、深淵のような瞳は、ゆらめく水面をじっと見つめている。

 寄せては返す波が、彼の足下を洗ってゆく。

 手には、花束が握られていた。

 ティアがいつも、摘んで、花束にしていた花だ。

 彼はそれに顔を埋め、においをかいだあと、海に放った。

 重りをつけた花束はゆっくりと沈んでゆき、かつてティアだった「おとな」の傍らに横たわった(了)。


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