大人になるとき
18
「ここを見ろ」
一フロア上にある一室の前に来ると、彼は歩みを止めた。扉は開け放しになっている。
「ああ……」
「何よ、これ」
のぞき込んだふたりは、小さく驚きの声をあげた。
テニスコート2面ほどのその部屋は、一室まるごと、花畑になっている。
床には土が敷き詰められ、草が植えられて、黄色や白の野の花が咲き乱れている。野原の一部分をそのまま持ってきた、と言う感じで、花壇と言えるほど整備されたものではなかった。
植物の成長に必要な光は、天井に張られた発光パネルから供給されているようだ。
ここには、あの丘がそのまま再現されていたのだ。
「おそらく、生態系のモデルプラントだ」
マニーが言う。
「惑星の大地に緑を再現するために、必要な情報を収集する目的で作られたものだろう……」
部屋の中の空気が、廊下へあふれ出てゆく。土と、花の甘い香りが鼻をくすぐる。それは張り詰めていた彼女の気持ちをすこしだけなごませた。
リネットは部屋の中へ入っていった。草原となった部屋は、閉塞感を感じない。
一人の少女が、草の中に座っている。人の気配に感づいた少女は、こちらを見た。その顔は、驚いていた。
「リネット……」
「ティア!」
「どうしてあなたがここにいるの?」
少女のもとへ歩み寄る。素足にさくりと、土の感触がした。
あの日着ていたのと同じ、飾りのない、生物素材の洗いざらしのワンピース。
白銀の髪には、黄色い花の冠。その作り方は、リネットが教えたものだった。
彼女はどことなく、元気がないようにも見えた。でも、そこにいるだけで、辺りにふんわりとした空気が漂っているような感じは、あのときと変わっていない。
リネットは腰を下ろし、少女と向かい合う。
「また逢えるなんて思わなかったわ」
少女の膝の上に、一端に穴のあいた円盤形の、プラスティックパックが置いてある。
リネットが手にとって振ると、白い錠剤が、穴から何粒かこぼれてきた。
「これは?」
「ハドリが持たせたの。飲みなさいって……」
ティアは言った。
「ハドリはどこにいるか知ってる?」
「わたしといっしょに、ここに来たわ。いまは部屋にいるはずよ……」
真っ正面からティアの赤いうるんだ大きな眼を見据え、そして問うた。
「……こわくないの?」
「なにが?」
「『おとな』になるのが」
ティアは無言で首を振り、そして微笑んだ。
痛ましさのようなものが、胸に込み上げる。
あの海で見た、岩のような生き物。目の前の彼女も、もうすぐそんな存在になってしまうのだろうか。
リネットは何も言えなかった。眼を合わせることもできない。
向かい合ったままのしばしの沈黙ののち、不意にティアは、右手を差し出す。
「これ……忘れ物よ。どこかでまた、逢うかもしれないって思って、持ってきたの」
薄桃色の手のひらの上にあったのは、親指よりもやや大きい、金色に輝く円筒形の物体。シリンダーに入った、ローズピンクの口紅だった。
「……!」
そのとき、不意にある考えが、リネットの頭に浮かんだ。企むような笑顔を、ティアに向けた。
「そうだわ、いいことしてあげる」
底部を回し、紅を出して、そっとティアの唇に当てる。
「じっとしててね」
きゅっきゅっと小刻みに動かしていくと、やがて、彼女の唇が鮮やかに色づいた。それは、まるで薔薇のつぼみが朝の光を浴びて開いたよう。
「できたわ。どうぞ」
傍らに落ちていた金属片を鏡にして、ティアの顔を映し出す。
「まあ……」
鏡面の自分を、ティアは不思議そうに覗き込み、次の瞬間、目を輝かせた。
「ティア、きれいよ。とっても素敵」
「ありがとう」
ティアは微笑みかけた。こんどは、胸が安らぐのを感じた。
外にいたふたりも、入ってきた。マニーに話しかける。
「ここに来たことがあるんですか?」
彼はまず、黙って頷いた。それから口を開いた。
「……本当のことを言おう」
話を始める前に、彼は一度大きく息を吸った。
「五年前、最初にこの星に降り立ったのは、おれと、ジャンだった。惑星開発の下調べとして、海洋生物と、生態系の調査をするためだった」
「ナカオさんと……」
「おれたちの見たものは、想像を絶するものだった。あの野原を見ただろう。あれは、あいつらが独力で作った。われわれが膨大な時間と人手をかけなければならないものを、なんのバックアップもうけずにだ。
おれも、ジャンもただ驚嘆するばかりだった。
そしておれたちは『塔』の中に入った。そこは前世紀のオーバー・テクノロジーが詰まった、宝の山だった。『塔』のAIも、すべてを快く案内してくれた。あいつらは遭難者なのだから、再び文明世界に戻りたかったのだろう……」
そこで声が小さくなる。マニーは声を励まし、話を続けた。
「おれたちは見たものを全て、本社に報告した。しかし、会社の上の奴らは、とんでもないことを考えていたんだな。この星のお宝を独り占めにして、大儲けを企んでいたんだ。『大破局』前のテクノロジーは、途方もない価値があるからな。
ジャンはそれに唯々諾々と従った。自分可愛さのためかどうかは、知らない。ハドリを手先に、『こども』たちをバイオテクノロジーの秘密を探るために、次々と誘拐していった。皆、生体解剖されたと聞いたよ……」
「何ですって!!」
嘆きを聞くと、マニーは、額を指で押さえ、目を閉じた。
「会社はこういってきた。研究するために『こども』の何人かを連れてこいとな。おれは反対したが、ジャンは従った。
連れ去られた『こども』たちは、会社の息のかかった病院で、被験体にされた。そして、あいつだけが生き残った……というより、生かしておいたんだ。強力なテレパシー能力を持つあいつがいれば、何かと便利になるだろうから」
「何もかも、仕組まれていたの?」
リネットは嘆くように問うた。
「ジャンやハドリを、ここまでつけあがらせてしまったのは、おれの責任だ。研究の成果は、おれしか分からないところがあったために、奴らも迂闊には手を出せなかった。だが、こんな事態になっては」
そのとき、遠くでくぐもった爆発音が聞こえた。爆発音は何回も続き、そのたびに床はびりびりと震えた。
「証拠を隠滅しようとしているな。往生際の悪いやつらだ……」
マニーは、ミチの方に視線を移す。
「会社の犯罪を摘発するのは、あんたらの仕事だ。しかしおれは、おれの落とし前をつけねばならん。ジャンを探しに行く」
そう言い残して、マニーは立ち上がる。きびすを返して、回廊の暗がりに消えていった。
「……!」
その様子を見守っていたリネットの背筋を、悪寒が走った。
「《マム》の様子がおかしいわ」
「何?」
「AIよ」
異様なうなりが、どこからか響く。甲高い金属音も加わる。
リネットの胸騒ぎは収まらない。彼女は致命的な事態が進行しつつあることを予感した。
「どうしたの?」ティアは心細そうに問う。
「ごめんね。私たちは、この場を離れなきゃならないの……元気でね、『おとな』になっても」
部屋を去る前、リネットは、ティアの肩を抱きしめた。
それからしばらくたって、ひとりの少年が、あわただしく部屋の中へ駆け込んできた。
「ティア、ここにいたのか」
「ハドリ!」
「ここから出るんだ。いいから早く!」
どうしても、彼の本心が分からない。ティアは臆病な小動物のような目で、ハドリの金色の眼をのぞき込んだ。
「……!」
ハドリの眼に、薔薇の花が映った。
視界が一瞬、ローズピンクに染まる。そのとき、頭の中で、ぷちっとはじける音がした。心の中の扉が開き、なにものかが解き放たれた。
金色の眼が、攻撃的な輝きを帯びる。
ハドリは、性急な衝動に突き動かされた。ティアの肩に腕を回し、磁力に吸いつけられるように顔を近づけてゆく。
鼻腔にえも言わぬ香りを感じる。そして、唇で薔薇の花に触れていた。
彼の全体重は、華奢な少女へ向けてかかっていった。のしかかってくる重みに堪え切れず、彼女は尻餅をつき、花園に倒れ込んだ。その上にハドリが覆いかぶさる。
「んんっ……くうっ」
なめらかに動く舌が、上下の歯をこじ開けて侵入してくる。
ハドリの姿、ハドリの息遣い、ハドリの感触、ハドリの体臭、そして……五感すべてに、ハドリが襲いかかってくる。
どろりとした熱いものが、ティアの体の中に沸き上がった。彼女にとって、初めて感じる感触。
何をされているのか分からなかった。ただ、恐ろしかった。目の前の、心を通い合わせることの出来た少年が。少女はその暴威から逃れようと、顔を背け、身をよじらせた。
右手が身体に沿って動き、胸のふくらみに達したとき、ティアは大声を上げた。
「やめて!」
その言葉はハドリを目の前の現実に引き戻させた。彼の身体は弾かれたように飛びはね、少女の身体から離れた。
「……ごめん」
肩をぎゅっとつかんだまま、頭を下げる。まだ息遣いは荒い。
「わかんないんだ。君の唇を見て、気がついたら……ううっ」
ハドリは、不意に頭を押さえ、苦しそうに顔をゆがめた。
「だいじょうぶ?」
「平気だよ……」
脂汗のにじんだ顔に笑みを作ったが、その口調には余裕がない。弾む息をついて、ハドリは問うた。
「それより、どうしたんだ。その唇は?」
「さっき、リネットが来て」
「なんだって」
彼はわずかに背筋をびくりとさせた。
「リネットも、あなたを捜してたわ」
「……彼女に逢いに行く。ぼくといっしょに行こう」
彼はティアの手首を握り、立ち上がった。
もう片方の掌には、土と、草を押し潰したときに出た白い汁が、白磁器のようだった掌を汚している。
歩いている間にも、ティアは激しい胸騒ぎに襲われ続けた。身体の中から熱いものが、あとからあとから湧き出してくる。
頬の火照りは消えない。
彼女の身体の奥深くで、何かが蠢動をはじめていた。
19
「ティア。こっちだ」
ティアの柔らかい手を引いて、ハドリは薄暗く長い廊下を駆けていった。
「おねがい、そんなにせかさないで……気持ちが悪いの。おなかが重くて、ちょっと熱っぽくて……」
ティアの足取りは、しばしばもつれた。無理に引き立てるように、ハドリは足を進めていった。
「ランディ!」
入り組んだ回廊の隅。ハドリは、太った所員を見つけて、声をかけた。彼は腰のベルトに拳銃をぶち込んで、周囲を抜け目なく見回している。
「やあ、ハドリくんか」
呑気そうな返事が返ってきた。
「あんたがたと約束したことは、全部やった。こんどはぼくの約束を果たしてもらう番だ」
「……すまないが、状況が変わったんだ」
無表情な顔で、ランディは答えた。
「計画は中断だ。証拠を隠滅して、俺たちはこの星から撤収する。きみらともここでお別れだ」
「そんな……」
ハドリはランディの太鼓腹にすがりつき、訴えた。
「約束したじゃないか!」
「そんな事、言われてもなあ」
迷惑げな響き。
あくまでもそっけない、事務的な対応だった。
金色の眼に、憎悪の火が点る。
「ハドリ……なにをするの」
少年の発するただならぬ邪気を、ティアは敏感に察知した。
「……!」
ランディの手が、彼の意志とは関係なく動いた。
手はベルトに伸び、差してある自動拳銃を抜いた。そしてそのまま顔の前まで動き、銃口はランディの丸顔に向いた。
「ひい……どうなってるんだ」
「ぼくの言うことを聞け!」
悪鬼のような形相のハドリが、ランディに迫る。ランディは目の前の銃口におびえ、幼児がいやいやをするように首を振った。
「そ……そんな事言われたって、出来ねえもんは出来ねえんだ、勘弁してくれ!」
ハドリは、手首をねじり、親指を下に向けた。
銃口が、ランディの口腔にねじ込まれた。
人差し指が動く。くぐもった銃声が、密閉された空間の中で膨張する。
つんと鼻をつく煙が、口からこぼれた。首の後ろから赤いしぶきが飛ぶ。
ランディの巨体が崩れ落ちる音が、フロアに轟いた。
「いやああぁぁーっ<」
ティアは眼を覆い、絶叫した。
ハドリはランディの手から拳銃をもぎ取り、懐に納める。
「だいじょうぶだ。悪い『おとな』をやっつけただけだから。もう怖いことはないよ……」
ハドリはティアを抱きしめた。彼女に心を流し込んで、落ち着けようとした。
しかし、何故かどうしても入り込めない。ティアは心を閉ざしていた。
「さあ、行こう」
すべてを拒否する少女を、少年は無理矢理引き立てていった。
そのとき、ティアの心の中に、イメージが入り込んできた。
不意に、ハドリの心の中の壁が、消えてしまった。隠されていたものが見えてしまった。
彼がいた、白い部屋。
その地下の暗闇。
並んでいるガラス製の円筒の中には、飴色の液体に漬けられた、「こども」たちがいる。
あれは、シーン――以前いなくなった女の子だ。
彼女の胴体は、脂肪が付き始めた胸の下辺りから縦一文字に切り裂かれて、そこからは内蔵が全て引き出されていた。粘膜をむき出しにして、腹がえぐられている。
瓶の中に、腸がうねうねと、別の生き物のように漂っている。
隣の男の子は、顔の皮膚が全て剥がされて、引きつれたような筋繊維を、溶液の中に晒している。
さらには額の辺りから頭蓋骨が円形に切り取られ、灰色の脳が露出していた。
半分以上むき出しになった眼球は、黒い瞳を空洞のように、ぽっかりと空けている。
――まだいる。何人も。今まで「神隠し」に逢った「こども」たちが。みんな、死んでいる。無惨にそのむくろを弄ばれて。
ハドリ。
あなたがやったの?
あなたのしわざなの?
どうして!?
薬が回ってきて、ティアの意識は朦朧となり始めた。足がもつれて、その場にへたり込む。
彼は少女の身体を、冷たい床にそっと横たえる。
「少しの間だけ、ここにいてくれ。だいじょうぶだ、もうすぐ、何もかもうまくゆくんだ……」
目を閉じたティアに彼は語りかけ、そして、来訪者を待った。
20
リネットとミチが先ほどの場所に戻ると、そこには、人影があった。
「ああ、あなたは!」
「リネット、ここに来ると思ってたよ」
サーバーの部屋、大樹の前には、ハドリが立っていた。
以前よりも線が細くなり、やつれたような感じであったが、金色の眼は、前にもまして炯々と輝いている。
彼の背後に、目を閉じて横たえられている少女がいた。ティアだ。
リネットは少年ににじり寄り、問いを投げつける。
「……彼女に何をしたの?」
「薬だよ。メラトニンだ。副作用はない」
「別の作用があるんじゃない?」
リネットは切り返す。
人間の体内でメラトニンの分泌量がもっとも多いのは、五歳から六歳の幼児期で、十代半ばの思春期を迎えると減り始める。
そのため、メラトニンは、性腺刺激ホルモンの分泌を抑制しているともいわれる。かれらが「おとな」になる過程においても、重要な役割を担っているのかもしれない。
個人差はあるものの、思春期を迎える前の人間――「こども」が大量に服用すると、第二次性徴の発現が遅れる可能性があるのだ。
「そうだよ」
彼は、手品の種がばれた、とでも言った感じで唇を歪めた。
そして、ハドリは歩み寄る。硬い靴底が床を叩く。そのたびに、かちかちという足音が、鐘の音のように吹き抜けに響き渡る。
「ぼくたちに協力してくれないか。どうしても、きみの力が必要なんだ」
「……いやよ」
リネットは毅然と応えた。
「あなたは、何をしてるか分かってるの!」
「ぼくは、この星を救いに来たんだ」
平静な口調で間髪を入れず、あらかじめ用意されていたように、その言葉を答えた。
リネットの身体の中を、意味の分からない衝撃が駆け抜けた。彼女の口は、一瞬こわばった。
「きみも見たんだろう、海を。ぼくたちは、まがい物だったんだ。不完全なゲノムから再生された、ぼくは、この星の『こども』たちを、呪われた運命から救いたいんだ。元に戻るんだよ。『おとな』にならずに済むんだよ」
憑かれたように一気にまくし立てるハドリ。リネットは呆然と押し黙るだけだった。
「早く返事をしてくれ。でないと……」
ポケットから鈍く黒光りするものを取り出した。拳銃だ。あのとき倉庫で見たのと同じもの。
「捨てろ、そんなもの!」
ミチは、腰のホルスターに手を伸ばす。
「やらせないよ……な、なに!?」
身体が、言うことを聞かない。肘の関節が半分曲がったまま、固まった。
「二人だけで話をつけようじゃないか」
ハドリは不埒に微笑んだ。
「ぼくはもう『おとな』になることはないんだ。ホルモンの抑制処理を受けて、成熟を止めてもらったから。ティアにも受けさせてくれると、ナカオさんは約束してくれた」
「そんなの、嘘に決まってる!」
辛うじて動く口で、ミチは叫んだ。しかしハドリは、それを意にも介さず続けた。
「ドミナントのきみがいれば、AIはすべて言うことを聞く。そうだろう。戻れるんだ、みんな。まがい物ではない、本物の『ひと』に。ぼくと、きみがこの星の未来を……」
「そんな問題じゃないわ」
「きみなら分かってくれると信じてたよ。『こども』たちを操って、あんなことをしたのも、ここの本当の姿を知ってもらうためだ。きみをあの公園で見つけたときから……」
「都合よく私がドミナントだった、ってわけかしら……まさかね。最初から、私に目を付けていたんでしょう。こんなこと、ギルドを通せるわけないもの」
図星を突かれたらしく、ハドリの表情に、焦りの色が見える。
「きみは、このままでいいと思ってるのかい」
「それと、あなたがしてることとは、別の問題よ」
「だまれ!」
うわずった叫び声で、会話を中断させようとした。
金色の眼がいよいよ猛り、禍禍しい放射を放つ。
「おやめなさい。そんなことをしても、何の意味もない……」
「それが、きみの答えか……残念だな」
ハドリは銃口を、リネットの顔の真っ正面に向けた。
「やめて!」
絹を引き裂くような叫び声が響いた。
ティアが飛び出した。ふわふわと歩いて、ハドリの腰にすがりついた。
「どくんだ。向こうに行って……」
もたれかかってきた華奢な身体を振り払おうとした。が、次の瞬間、彼は絶句した。
ティアの肉体に、一目で分かる異変が起こっている。頬の薄桃色が、見る見るうちに淡くなってゆく。大きく見開かれたルビー色の眼からも、精気が抜けていった。そして彼女は膝を折り、ハドリにもたれるように倒れかかった。
「どうしたんだ?」
胸を大きく上下させながら、とぎれとぎれの声で答える。
「わたし、あの薬、飲んでなかったの。飲むふりだけしてたの。あなたが怖くて、入り込めなくて」
両の眼から涙がこぼれる。頬のゆるやかな白い丘を越えて、顎までつうっと一対の筋が伝った。
「ごめんなさい、ハドリ。ごめんなさい……」
声が消え入った。瞼を閉じ、がくりと頭を落とす。そのまま全身の力が抜けていったのを、支えていたハドリの腕が感じた。
ティアの容態は、普通「人事不省」と呼ばれるそれとは、明らかに違っていた。
手足はしんなりとなって、肌には温もりがなく、鉱物的な印象すら抱かせるほどの真っ白。紅を差されたままの唇だけが、鮮やかな赤みを保っている。
耳元で声をかけたり、青白い頬を軽くたたいてみる。しかし、反応は返ってこない。
「しっかりしろ!」
身体を揺さぶっても、支えを失った頭が力無く揺れるだけだった。
「私に診せて」
リネットがティアを抱き上げる。
「これは……」
血のようなものが、腿の内側を伝い落ちてくる。白磁のような肌に、一筋の赤い色が、痛々しいコントラストをつけた。リネットは顔を近づけて様子をみると、それを指ですくい、目の前に持っていった。
「……いけない、もう始まってる」
彼女は首を振った。
「これは『おとな』になる一番最初の兆候なのよ。あと一時間もすれば、本格的な身体の変化がはじまるの。それまでに海水に漬けないと……」
「どうなる?」
「死ぬわ」
「そんな……」
みるみる蒼白になるハドリ。
「今から止めたり、元に戻すことはできないわ……どうするの?」
「決まってるじゃないか……こうだ」
そして、震える手で拳銃を握り直し、リネットの腕の中で眠るティアに向けた。
「今のうちに、ひと思いに死なせてやるんだ!」
「あなた……」
「貴様」
ふたりは同時に絶句する。
リネットは身をよじって、少女の身体を銃口から庇った。
「撃たないで! 落ち着いて……ティアはまだ、生きているのよ」
「同じことだ。さっさとどけよ、どけったら! 当たってもいいのかよ!!」
声はひどくうわずっている。銃を構えた両手が激しくふるえ、銃口はその標的を定めあぐねた。
ぱあーん!
引き金を引いてしまった。銃声がフロアいっぱいに轟き、白い硝煙が漂う。銃弾はティアのドレスをかすめ、布の一部を引きちぎった。浅い角度で床に当たり、青白い火花を上げて、はじかれて飛んでいった。
「ううわあああああああぁぁーっ<」
ハドリは銃声に負けないほど、声を限りに叫んだ。その声は喉の堅いしこりに当たって割れ、かすれた。
ふたつの残響はフロアを満たし、廊下やダクトの硬い表面に跳ね返って、長々と木霊を続けた。
一瞬、ミチの呪縛が解け、体に自由が戻った。彼女はそれを認識するのと同時に、特捜刑事の職務と、人間としての純粋な怒りに従って、自らの身体を踊らせた。
ハドリに飛びかかり、みぞおちに当て身を食らわせる。二人はもつれ合いながら吹っ飛んだ。
彼の身体は、硬くなめらかな床に、したたかに打ち付けられる。そのまま二.三メートルも床を滑り、壁にぶち当たって止まった。
拳銃はもぎ取られ、彼はうつぶせに組み伏せられた。
「ふざけんじゃないよ!」
「ティア……」
床にこすりつけられたハドリの目から、光る粒がこぼれ落ちた。
「ずっと人間のまま、ずっとティアのままでいてほしかったんだ。ぼくが望んでいたのは、それだけなんだ……」
顔をゆがめて歯を食いしばり、身体を激しくふるわせている。ぴたぴたと音を立てて床に水滴が落ち、硬い表面に水たまりを作った。
ミチに身体を引き起こされても、首をうなだれているばかり。
「知ってたよ。みんな知ってたよ。ナカオさんたちが何をしていたのか。自分の手を血で汚したって、構わなかった。それもこれも、みんなティアと……」
それから先は、言葉にならなかった。顔を両手で覆って、嗚咽するばかりだった。
「ハドリ、聞いて」
リネットは口を開いた。彼女は一転して、声のトーンを落とした。慰撫するような眼つきで、激しく感情を燃えたぎらせる少年の眼をのぞき込んだ。
「私はもう、この星にいられないの。いてはいけないのよ。草原も、丘も、泉も、小川のせせらぎも、そしてこの海も、この星の『こども』と『おとな』たちのためにあるの。ここは素晴らしいところ。ずっとここにいたいけど、それは叶わないことなのよ。だって、私は『こども』じゃない。そして、『おとな』でもないから……」
彼女から発せられた声は、深い井戸の底から響くような、甘やかな反響を残して、周囲の暗黒に溶けていった。
「なにが言いたいんだ」
ハドリは苛立つように問い返した。リネットは少年の手を握りしめた。
「ティアを帰してあげるの。あるべきところに。今はあなたについて詮索している暇はないわ。ことは一分一秒を争うのよ」
「……」
「お願い、これだけは考えて。今のティアにとって何が一番よいことなのか。どうしてあげるべきなのか」
ただしゃくり上げるだけだったハドリの眼に、光が宿った。しばらくすると顔を上げ、はっきりと言った。
「……ティアはぼくに任せてくれ。海に連れていく」
「ありがとう!」
リネットはハドリの肩を抱きしめた。
「いいの、こいつを信じて?」
ミチは胡散臭げに、彼を一瞥する。
「そうするほか、ないでしょう」
意識を失ったままのティアを抱きかかえ、ハドリは言う。
「ぼく一人でいい。今この星を救えるのは、きみたちだけだ。それに……」
そこで、一回大きく息を吸った。
「ぼくは、この手でティアを守ってやりたいんだ」
その言葉に、リネットは微笑みながら頷いた。
21
意識のないティアを背に負い、ハドリは「塔」の出口に向かっていた。
長く狭い階段を、たんたんと高く響きわたる音を立てながら、二段飛びに降りてゆく。その足の運びは、あまりにももどかしい。
「もうすぐだ、がんばれ、ティア」
背中の上の少女、というより、自分に言い聞かせながら、彼は走り続ける。気ばかりが急いていた。
柱の陰で、ふたりを狙うまなざしがあった。
「てめえを生かしておくと、あとあと面倒なことになるんでな」
コーディだ。レールガンの銃床を肩につけ、グリップを握っている。
ゆらゆら揺れる銃口は、次第にふたりに向けて、位置を定めてゆく。
引き金に指が掛かったとき、彼の頭を背後から衝撃が見舞う。
「ううっ……」
呻きながら、コーディはその場に跪いた。
マニーが、彼の傍らに立ちはだかる。右手には、布を巻き付けた鉄棒を持っている。
襟首をつかんで引き起こし、そのまま柱に顔をたたきつける。
「ジャンはどこだ」
「へへへ……」
彼は青黒く鬱血した顔を、それでもふてぶてしくゆがめる。
「答えろ!」
膝で下腹部を突き上げる。アヒルを思わせる口から、白い飛沫が飛び散る。二度、三度繰り返すと、飛沫に赤い色が付いた。それをもう何度か続けたとき、彼は口を開いた。
「わ、わかった、言う」
「どこだ?」
「サーバールームだ……」
コーディのつぶやきを聞き取ると、マニーはその身体を解放した。彼はその場にくずおれた。
彼は床に横たわるコーディから銃をもぎ取り、肩に担いだ。
(まさか……)
悪い予感がマニーを襲った。
(それだけはしてくれるなよ、ジャン)
鼓動とともに、歩みは次第に速くなる。
おそらく、ナカオは「塔」の中枢部へと忍び込んでいるのだろう。
ナカオは急いでいた。
「塔」の内部構造は分かっていた。すべて、マニーが以前に調べていたからだ。
複雑な分岐を迷わず選び、監視をかいくぐりながら、大きな黒い扉の前にたどり着くと、その前には、マニーが立っている。
「ジャン、もういいだろう」
マニーが歩み寄り、肩をつかむ。
「貴様か……」
ナカオは冷ややかな目を、マニーに向ける。マニーは口を開いた。
「GFBIが来ている。お前さんも、この会社も、もう潮時じゃないのか」
「あいつらがこの辺を嗅ぎ回っていたことは、感づかないでもなかったがな……まさか、貴様がたれ込んだんじゃないだろうな?」
そう言って視線を逸らす。マニーは哀れむような目つきで、ぽつりと言った。
「まだ、殺すのか……」
ナカオはわずかに背筋をぴくりとさせた。
「ジャン、もう止せ。終わったんだ」
マニーはレールガンを腰だめに構えた。ナカオは、マニーの顔を見上げて口元を歪める。
「おまえに出来るのか、腰抜けが」
マニーは引き金を絞った。一発発射音が響いた。ナカオの足下に穴が開いた。
「どこまでも、甘いやつだな!」
ナカオは嘲る。マニーは筒先をナカオの真っ正面に向けた。しかし、それよりも先に、ナカオは腰のホルスターからニードルガンを抜く。
銃声はしなかった。無数の細い針が銃口から飛びだし、ミートソースのようなものが、ナカオの上半身に飛び散った。
無表情のまま何度も引き金を引く。旧友の頭部は、砕けた西瓜のようになった。
肉塊と化したマニーを見下ろし、ナカオはつぶやく。
「そうだ、もうすぐすべてが終わる。何もかもうまく行くんだ……」
死体を見捨てて、扉へ向かう。解除信号を入力すると、電子ロックは、簡単に開いた。
扉の内側の狭い空間で、彼はこの星での最後の任務に取りかかった。
回路を覆うパネルに、プラスティック爆弾を仕掛けた。雷管に通電すると、轟音とともに大きな穴が空いた。バーナーで乱暴に、露出したケーブルの束を焼き切る。
ハブを探しだしてコネクタを引き抜き、そこにブックパソコンを接続した。キーボードを操作する。パソコンのディスプレイに、文字列が送り出されていった。
プロテクトを解除する、無力化コード。研究所に捕らえられた《マム》の一体の制御回路を、ミュゼのしかるべき機関で解析したプログラムだった。
そして、同時にもう一つのプログラムが流し込まれる。それは、恒星船の主機関に再び火を入れるコマンド。
もはや、なにも抵抗は出来なかった。
獲物を追う猟犬のように、それはもとの回路に流れ込み、ある目的に向けて、疾走をはじめた。
すべてが順調にいったのを確認すると、パソコンをそのままに、彼は部屋をあとにした。
外へ出ると、重い扉はスライドし、硬くとざされた。
この星での全ての仕事を終えた男は、その場にへたりこんだ。かつて旧友だった肉の塊が、脇に転がっている。
上着のポケットから、カードを取り出した。家族のホログラフィが映し出された。ミュゼにいた一ヶ月前、収録したものだ。最後の団欒。
ナカオは天井を見上げ、大きく、ため息をついた。
「誰かいるのね?」
不意に、廊下の奥から女性の声が響く。
ナカオは立ち上がり、筒先を声のした方向に向けた。その途端、みぞおちに鋭い衝撃が走った。低いうめき声を上げながら、手からニードルガンを落とし、その場に崩れ落ちた。
彼女は左手で、落ちた銃を拾い、ナカオに突きつけ返した。
「あなたには、弁護士を選任する権利があります。そして、自らに都合の悪い供述を拒否する権利があります。いいですね」
ナカオは手を上げた。しかし、その顔は笑っていた。
黒い柱のような姿のサーバーは、その全身から、異様な気配を放射していた。
送風タービンの音はがらがらと濁り、タイルが不規則に明滅している。明らかに、《マム》は病んでいた。
さっきのように、リネットは柱の前にひざまずく。そして、回路の中に意識を飛ばした。
〈どうしたの?〉
〈……何者かが、わたしの中に侵入して……ネットワークを擾乱しています……物理的な破壊活動も……〉
《マム》の「声」は、リネットの頭の中で、息も絶え絶えに響いた。
光学素子の輝きが、不規則にちらつきはじめた。ディスプレイにはすべて、「非常事態」の文字が映り、耳障りな警報音が部屋じゅうに鳴り響いた。
ランクE緊急事態。この「塔」にとっては、あのとき以来の非常事態だ。
奇妙に濁った「声」で、《マム》はこの「塔」を襲うであろう破局を予言した。
〈本恒星船は、超空間航行の動力源としてディラック・ドライブを搭載しています。その制御回路に、外部から異常な入力がなされ、続いてネットワークが途絶しました。現在、統轄制御が不可能な状態です〉
〈どうして?〉
〈主電源が切断されています。予備回路、切り替え不能です。一連の事態は、意図的な破壊によるものである可能性が、極めて濃厚です……〉
《マム》の「声」は、さらに切迫した調子になった。
〈機関の安全装置が、次々に解除されようとしています。破壊活動の目的は、ディラック・ドライブの起動だと推測されます。現在のエネルギーポテンシャル、18パーセント。ジェネレータへのエネルギー注入回路は、現在途絶状態。このままでは、重大な事態に陥る危険があります。このままでは、このまま、このこのままままでででで……〉
ノイズレベルは、上昇する一方だった。リネットへ伝わる「意識」はとぎれとぎれになり、やがて、増大するノイズの中へ消えていった。
〈どうなってるの!〉
問い返したが、返事はなかった。
機械たちは、動きを止めた。《マム》は、沈黙してしまった。
彼女は懸命に念じた。だが、反応は全く返ってこない。
〈なんで動かないの、みんな!〉
戦慄したリネットは、叫んだ。
「ミチ、大変!」
「塔」が直面している危機は、この島、いや、この星全体に関わるものであった。
「塔」――恒星船は、千年近い時を経ても、その機能は未だに「生き」続けていた。
恒星船は、超空間への扉をこじ開けるための膨大なエネルギーを、真空のエネルギーがせめぎ合う領域――ディラックの海から汲み出している。
その機関が、惑星上で起動する――空間をゆがめるジェネレータを切ったままで。行き場のないエネルギーが、そのごく一部でもこの宇宙に解放されるとしたら、それは軽々と星一つを消滅させてしまっても、まだお釣りが来るほどのものだろう。
「もうすぐ、この星が吹き飛ぶっていうの!?」
リネットの説明を聞いたミチは、絶句した。
「ええ、このままいけば」
「ドライブの制御回路にリンクすることは出来ないの?」
「回路が完全にクローズドになってるから、今からじゃ間に合わない。それは『塔』の一番上にあるの」
リネットはこわばった顔で、首を振った。
「ちくしょう、誰だ、そんな事しやがったのは!」
ミチは壁を拳で叩いた。
廊下の奥から、不ぞろいな足音が近づいてくる。
二つの人影が、回廊に見えた。
右腕を三角巾で吊った、ココア色の肌の特捜刑事が、うなだれた中年男を前に立たせて現われた。
男は手を上げさせられていた。銀色の作業着は、上下とも油や煤で真っ黒に汚れている。顔や襟には、赤黒い飛沫がぽつぽつとこびりついていた。
「警部!」
「ナカオさん!」
ふたりは同時に叫んだ。
「無事だったのね、ミチ」
カーライルは、ミチに向けてウインクをした。
「捕まったあと、この中に連れてこられたの。機械たちが、わたしの怪我を診て、手当てをしてくれたのよ。皆さん方、意外に親切だったわ。拘束されることもなかったし。もっとも、武装はみんな取られちゃったけどね」
彼女は左手で拳銃を構え、ナカオの背中に突きつけている。銃は特捜刑事のシンボル、マルチブラスターではなく、一般人の護身用である、ニードルガンだった。
「射殺死体の横で、この男が銃を持ってるところを見つけたのよ。殺人容疑で現行犯逮捕したわ」
「あなた、マニーさんを!」
リネットは叫んだ。
「そうだ。あの野郎、邪魔しやがったから、始末してやった」
肩で息をしながら、ナカオは吐き捨てた。
「これも、あんたがやったの?」
ミチが暗闇を指さし、詰問する。ナカオは黙ってうなずいた。
リネットは問うた。
「教えてください。どうしたらもとに戻せますか?」
「……それは無理だ」
ナカオはかぶりを振った。
「プロテクトの無力化コードを止めるコマンドはない。ついでに、物理的破壊工作もしておいた。そう簡単に修復などできめえ」
煤がついた顔に、薄笑いを浮かべる。
「しかたないんだ」
ナカオはつぶやいた。
「どういう意味?」
「会社と……家族のためだ」
彼は唇をかみしめた。
「……まあ、いいじゃねえか。惑星トゥリオナで前世紀の遺物である恒星船を発見、調査中に不慮の事故で主機関が暴走。惑星壊滅、調査員全員死亡。これで何が悪い?」
この場にいたナカオ以外の三人は、皆、口もとをわなわな震わせていた。
「そうさ、おれは犯罪者じゃなくなるのさ。証拠は何もかも、星ごとふっとんじまう。故郷に残してきた家族だって、犯罪者の家族じゃないんだ。退職金も、殉職見舞い金も、労災も、保険金だっておりる。暮らしには困るまい。会社にも迷惑はかけずに済む……」
「本気なんですか?」
リネットにとって、彼の考えは全く理解できなかった。この男にとって人間とは、自分の家族や、自分に忠実な部下だけを指しているのだろうか。
ミチは肩を大きく上下させた。
「その言葉、あんたの家族の前で言ってみろ!」
ナカオの手首を捻り上げ、電子手錠を食い込ませる。ナカオは苦しい息の下でつぶやく。
「……この星のやつらが、人間であるものか」
「それがあなたの本音だったんですね」
リネットは、生ゴミでも見るような眼で、ナカオを睨んだ。
巨大な円筒の中は、恐ろしいほど静かだった。
大樹に点っていた明かりは、今にも消え入りそうな様子で、不規則に明滅している。
機械たちが、廊下に濃い長い影を曳いて、奇怪なオブジェのように静止している。
「塔」のなかのすべてのものが、動きを止めていた。
不気味な交響楽は、止まない。
「お願い、答えてよ、《マム》。この星のみんなを助けて……」
リネットは壁をさすり、訴える。しかし、ピアスにはどんな信号も入ってこない。今の《マム》は、拒絶するようなただの冷たい壁だ。その向こうでは、悪魔のプログラムが、この星を宇宙の塵に変えてしまうために、何重もの防壁を次々に打ち破って、進軍しているのだ。
「まあ、あと保ってせいぜい、二,三分ってとこかな。ひゃひゃひゃ……」
ナカオは小さく、しかし耳障りな笑い声を上げた。
不意に、リネットのこめかみを、ほんのかすかな何かが貫いていった。実体のあるものではない。意志のベクトルを持った情報――「意識」だ。
「……え?」
うつむいていた顔を上げ、小さく声を漏らした。
「どうしたの」
ドミナントの少女は、何があったか信じられないといった表情で、ミチの声に振り向いた。
「……ミチ。あそこに、黄色く四角が描いてあるでしょう」
リネットは、向こう側の壁を指さす。たしかにそこには、何かを縁どったように、黄色い縦長の長方形が蛍光塗料で描かれていた。
「あれは、配電盤なの。そこを壊せば、回路は自動的にバックアップに切り替わるわ!」
「本当?」
リネットは、ぽかんとしているミチの手をとって、訴えた。
「お願い、早くして。もうそれしか方法はないのよ!」
「ミチ、あなたがおやりなさい」
ふたりの背後で、カーライルは言った。そして、左手でバイザーをミチに放った。
「これを使って」
「了解しました」
受けとって、敬礼を返す。ミチはバイザーを装着した。シャツの袖から発信される電波に反応して、バイザーにはさみこまれた液晶に通電し、表示が点る。
腰のホルスターから、マルチブラスターを抜いた。四角形までは、目測でもおおよそ五十メートルはある。この距離から、目標を一撃で破壊できるのは、この光線銃だけだ。
遠射の構えをとった。目標に対して正対し、左手を伸ばして銃を構える。余った右手は、銃床に添えられた。
親指でダイヤルを破壊モードに合わせる。
バイザーの液晶に、エネルギー残量が表示された。思ったよりも消耗が激しかった。一発撃ったら、バッテリーパックがあがってしまうだろう。
トリガーを軽く押し、目標に照準レーザーを照射する。バイザーの液晶に、データが表示された。
距離、五十七メートル。十字型のレチクルがゆらゆらと動き、円と重なる。ロックオン。
人差し指がかかっていた三日月の形をした金属部品を、一気に引き絞った。
電気の形でパックに封じこまれていたエネルギーのすべてが、レーザーに変換され、目標へと突き進んでゆく。
レーザー光線の強烈なエネルギーは、その通り道にある空気を、プラズマに変えた。プラズマは、後続する光線のエネルギーを加えて、さらに高温になっていった。その間、一マイクロ秒にも満たない。
配電盤の表面で、プラズマはそのエネルギーを解き放った。一瞬、球形の光が表面に輝く。
漆黒を切り裂いて閃光が走る。ほぼ同時に、鈍くこもった音が鼓膜をふるわせた。
次の瞬間、完全な暗黒となった。点っていたわずかな光も消えた。
もつれた青白い電光だけが小さく浮かび上がる。
明かりが点る。はじめはぽつりぽつりと、だが、空洞の中はしだいに明るくなってゆく。
低いうなりが、どこからか聞こえてくる。
光学素子に、光が戻る。大樹は木漏れ日を取り戻す。
《マム》は、蘇った。
リネットの表情が、歓喜に満たされてゆく。
「やったあ!」
リネットは宙に舞い、ミチの胸に飛び込んだ。翡翠の眼はうっすら濡れて、木漏れ日を乱反射している。
ふたりはひしと抱き合って、歓びを分かち合った。
「有難う、ミチ!」
リネットは、ミチの頬にキスをした。
「あんたが教えてくれたからよ、リネット!」
ミチも、リネットの額にキスを返す。
「……でも、どうして分かったの? AIは駄目になってたんでしょう」
唇を耳元に移し、ミチが囁いた。
「それが、私にもよく分からないの。突然、《マム》とは違う声が頭の中で響いて、その声が、あそこだって……」
どうしてだかわからない。リネットは、元どおりになった《マム》に意識をさしのべ、思考を送った。
〈今のは何かしら。御存じ?〉
元どおりの意識の「声」が、頭の中に響いた。
〈わたしではありません。わたしの『意識』がなかったとき、何者か、『意志』を持った存在が、わたしの回路を通り道にして、あなたの脳の中にメッセージを送ったのです〉
〈それは、だれ?〉
〈発信された場所は分かります。それは、海の中……〉
そこで、一方的に沈黙した。
顔面蒼白のナカオは、口をただぱくぱくさせながら、その場にへたりこんでいる。
「ちゃんと立ちなさい!」
ふたりの特捜刑事に両脇を支えられ、引きずられるように連行されていった。
廊下には、金色の光が、浅い角度で長く差し込んでいた。
夜はもう明けていた。光球が水平線から顔を出し、無数の光の欠片が波間に振りまかれている。
「塔」の外に出た途端、ミチとカーライルは、表情を輝かせた。
島の南方、基地のある方角の上空に、巨大なシャトル型恒星船がホバリングしているのが、眼に入ったからだ。
角度の浅い朝日が、パールホワイトの機体を赤銅色に照り返している。
翼の下に突き出た緩衝脚は、着陸態勢に入っていることをこちらに知らせる。
二枚の垂直尾翼には、「GFBI」と大きくマムキングされている。
「本隊だわ!」
「やっぱり、来てくれたのね」
ふたりの帰るべき船が、そこにあった。
潮は引いていた。「塔」から岸辺まで一筋の陸地が、海が割れたように浮き上がっていた。
歩いて、浜辺までわたってゆく。
(あのふたりはどうなったのかしら)
全てが終わったあと、リネットは、ふと、心に引っかかりを覚えた。
対岸の砂浜に渡ったあと、エメラルド・グリーンの海面を見渡しながら、彼女はひとりごちた。
「海の中……ひょっとして、あなたが?」
22
ティアは再び眼を開いた。視界は一面、エメラルド・グリーンだった。
「ここは……」
海水は澄み切っていた。彼女の回りにはどこまでも砂地が広がり、明るくなり始めた海中には、様々な生き物たちがうごめいている。そして、見渡す限り砂地に突き出た岩――『おとな』たちが立ち並んでいる。
自分もそこにいるらしいと、ティアは感じた。それにしては、息が苦しくないのは何故だろう。
彼女は、海中にいた。
体は自分の思い通りにならず、呼吸すら全く出来なかったが、苦痛はない。
それどころか、不思議なほど、気持ちは安らいでいた。
身体がくるりと反転した。視線が上方に向く。
そこにあるのは、ゆらめきながら、昇り始めた朝日を浴びて、きらきら輝く水面だった。
(ああ……)
彼女の記憶にある中で、一番美しい光景。
何かと、一体になってゆく。
なつかしい声、いや、声ではない。想いだ。この海は、想いで満ちているのだ。
彼女の心の中で固まっていた哀しみ、
それらはほぐされ、海水の中に散ってゆく。
そして、その代わりに、いい知れない快感、至福感が彼女の中にしみこんできたのだ。
(唱ってるわ……みんな)
圧倒的な至福感はどんどんティアの体の中に広がっていく。やがてそれは体を満たし、溢れ、そして海中にどこまでも広がっていった。
(何だかとってもいい気持ち……。これが、『おとな』になるってことなの……)
気づかぬ間に、ティアも唱い始めていた。その調べは、海中に満ちているハーモニーとシンクロし、そのひとつのメロディになっていくことを感じていた。
ティアは、満たされていった。
彼女は海底にたどり着いた。皮膚は次第に赤みを帯び、そして固くなっていった。
ハドリは、「塔」を仰ぎ見る渚にたたずんでいた。
ティアと最後の会話をかわそうとしていたのだ。
太陽はもう水平線の上に完全に姿を現していたが、東の空はまだ赤みが残っている。
曖昧な色の空から、つめたい風が吹いてきた。海はにわかに荒くなり、白い波がひっきりなしに、寄せては返している。
彼は手のひらを海水にひたし、意識を集中する。彼の意識は、湾の中のティアへと向けられる。
意識の指先が海中を進む。
海中には、いくつものかすかな意識が漂っている。意識、であることは分かるが、それらが何者かは感じ取れない。
彼が初めて感じるものだ。
それらをくぐり抜け、目指すところ、ティアのもとへとたどり着いた。
(ティアだね……)
(ハドリ……あなたが連れてきてくれたのね。ありがとう)
ティアの思考は伝わってくるものの、それ以上彼女の意識には入り込めない。
(ティア。ぼくはきみに謝らなくちゃならない)
(そんなことはもう、どうでもいい……)
彼女はとても安らかな心境だった。
(いまわたしは、海の中にいるのね。水の流れを頬に感じる。とても静か。あたたかい。
(ついさっきまで見えていた眼も、もうかすんでしまった)
(恐くはないかい……)
(ううん……わたしはもう、ひとりじゃないから)
(……!)
ティアが微笑んだように感じられた。
(ずっと、さびしかった。あなたがいないあいだ。でももうだいじょうぶ。みんながいるから……)
ティアの「想い」が、ハドリの胸を満たしてゆく。涙があふれるほど切ない。そして、言葉に尽くせない至福感に満ちていた。
しかし、彼はもう、それに一体化することができない。
ハドリとティアは、別の存在になろうとしている――
(いまのわたしは、ここにいるみんなといっしょなの。わたしは、ここにも、あそこにもいるの。わたしがみんなで、みんながわたしになるのよ)
(じゃあ、ぼくは……)
(ねえハドリ。もうすぐあなたもここに来るのね)
彼はここに来ることは出来ない。もう『おとな』にはなれない体だからだ
(だいじょうぶ。わたしは、みんなになるのだから。わたしは待ってる。
わたしたちは、何もかも分かち合ってゆくの。さびしいことも、悲しいことも、ここにはないの……)
しかし――
(ティア、行かないで。ぼくをひとりぼっちにしないでくれ)
(悲しむことなんてないわ。あなたにも、もうすぐわかるもの。わたしは、しあわせ。みんな――あなたも)
自他の区別が、次第につかなくなっている。
(みんな、ずっとここにいる。待ってる。……は、しあわせ。しあわせ……)
彼女自身の意識は次第に弱くなり、バックグラウンドの意識、海にあまねく拡がる大いなる「想い」の中へ、すうっと消えていった。
砂浜に一人残されたハドリは、手のひらを引き上げる。海水が、くぼみにたまっていた。
目の前の波間、はるかな水平線、そして彼がすくった海水、手のひらからこぼれる一粒、一粒にも、ティアはいた。
しかし、ティアは、完全に「おとな」になった。そして、もう二度と手の届かないところへ行ってしまったのだ――。
「ティアーっ!」
ハドリは声を限りに叫んだ。しかし、その声は空気の中、水平線の彼方に拡がるばかりで、彼女のいる海には届くことはない。
「うわあああーっ!」
彼は暗い哀しみに翻弄された。
もう、彼はひとりぼっちになってしまったのだ。
いつまでも、いつまでも、ハドリは波打ち際で泣き続けた。
23
銀河連邦捜査局、カラ星系支局所属、アルバレート級強襲揚陸艇「ナーティウルス」は、1G加速の通常航法で、黄道面から鉛直方向に遠ざかり、MXI-01715星系を離脱しつつあった。
船内では、向かうときとは違った種類の喧噪が充満している。捜査官や航行技術者たちが忙しそうに動き回っている。皆、今回の一件の後始末に追われているのだ。
その喧噪から隔離され、リネットは狭く殺風景な部屋に入れられていた。留置所ではないようだったが、常時厳しい監視の目に晒されていることは違いない。
ベッドに腰を下ろし、つるりとした白い壁に向き合っていると、天井の照明以外のところから光が射し込む。入口のプラグドアが開いたのだ。
「出ていいわよ、リネット」
向こう側にはミチとカーライル、ふたりが光を背に立っている。
すぐには顔を上げられなかった。
立ち上がると、ミチが手を取った。
「ごめんね、あんただけを特別扱いするわけにはいかないの。ミュゼに着くまでの辛抱だから我慢して」
廊下には、くすんだ色の丈夫な扉が並んでいる。その向こうには、研究所員たちが勾留されているはずだ。
それだけで、ミチの言葉とは裏腹に、自分が特別扱いされているのが分かった。何のためかには、だいたい見当がつく。
ふたりのエスコートで廊下を渡り、突き当たりにある部屋に通される。
しかし、入ってみると部屋には、予想にそぐわない雰囲気が漂っている。
机こそあるものの、その上には花が飾られている。
取調室ではなく、ここはオフィスの応接室ではないだろうか、そう感じさせるほどだった。
ふた付きの紙コップがテーブルに置いてある。
「お茶はいかが? アールグレイよ」
そう言ってふたを開けると、あたりにかぐわしい匂いが漂った。
「燃料タンクの純水じゃなくて、ミネラルウォーターを使って煎れたからね、お味は保証するわ」
カーライルは笑った。
「安心して。あなたは悪いようにはならないから」
「そ、そうですか」
どうしていいのか分からず、視線を移した。一方の壁がそのまま3Dディスプレイになり、外の宇宙空間が映し出されている。
「今頃、ミュゼの本社にも手入れが入ってるでしょうね」
ミチは言う。
たしかに、この事件の規模は、一企業に可能な範囲を大幅に超えている。背景は相当大がかりなものだろう。
「研究所の皆さんは、どうなりました?」
「船内の留置室に入ってる。全員、逮捕したわ――失礼、ひとり取り逃したけど。ハドリよ。結局、あいつは見つからなかった」
吐き捨てるように言った。
所長のナカオ以下、研究所のメンバーはことごとく逮捕されたという。だとすれば、事件の全貌が白日の下にさらけ出される日も遠くはないだろう。
この一件に関わっていた者は、司直の手にゆだねられ、犯した罪に見合った報いを受けることになる。それは決して生半可なものではないだろう。
だが、生きている者で、そこからはみ出した存在が2人だけいた。リネットと、ハドリだ。
リネットは事情を知らぬまま赴任してきた平社員で、違法行為に関与してはいず――逮捕された同僚もそう証言しているそうだ――、捜査には一貫して協力的であった、というのがカーライルから説明されたところだが、無論、額面通りには受け取っていない。
一方のハドリは、あのとき以来行方が知れない。
「おとな」への変容を始めようとしていたティアを連れて、海へ向かったところまでが、リネットの知っている彼の消息だ。
ティアは、恐らくは無事に「おとな」になれたようだ。彼女はそう確信している。しかし、彼は戻ってこなかった。彼の行方は誰も知らない。
彼がただひたすら願っていたこと、それはティアと、いつまでもこの姿のままでいることだった。それが叶えられなかった今、彼は何を支えに生きてゆくのか。
ひょっとしたら――最悪の想像も、脳裏をよぎった。
「もし、見つかったらどうなるの?」
「そりゃ、決まってるじゃない。これよ」
ミチは手を揃えて前に出し、何を当たり前のことを、とでも言いたげな表情をした。確かに少年だとはいえ、彼の罪は決して軽くはない。
彼の居場所は、ミュゼにも、そしてあの星にもないのだ。
しかし――居場所がないという点では、リネットも同じなのかも知れない。
たとえ会社の組織は生き残ることが出来たとしても、そこに彼女の居場所は、もうないだろう。もとより、残る気もなかったが。
「ミュゼへ戻ったらどうするの? 故郷へ帰るんじゃないの?」
ミチは問うた。いつか聞かされたことを思い出し、何の気なしに口に出してみたのだろうか。
返事はすぐには帰ってこない。
「ん……」
「……あ、まずいこと言っちゃったかな、ごめん」
「そんなことないわ」
リネットはミチの顔を見上げた。
「何だか、いろんなことがありすぎて、今はそこまで考えが回らないわ。でもね」
「?」
「今までずっと、私は母親の掌から逃れられなかった。ミュゼにいても、この身体と心が、自分であって自分でないような感じが、ずっとしてた。それが、この星に来て初めて分かったわ。私が本当に誰かの役に立てるって、たしかに思えたって。だから……ほんの少しだけど、自分が、この身体と能力が好きになれそうな気がするの」
「そう……よかったわね」
ミチは微笑む。
そのとき、注意を促す電子音がスピーカーから流れ、会話は中断された。
ディスプレイには、景色に割り込んで「ディラック・ドライブ作動準備」という黄色い文字が明滅した。
「そろそろ、超空間に入るわよ。カプセルへ移った方がいいわ」
そう言って、ミチは席を立った。
「ありがとう。でも、もう少しだけここにいさせて」
「え?」
意外な返事に、戸惑うミチ。
「もう少しだけ。すぐに行くから」
リネットは答え、ふたたび船外の景色を映し出したディスプレイに眼を向けた。
トゥリオナの淡い光はもう、銀の砂を播いたような無数の星々の中に紛れ込んでしまった。
これから、あの小さな緑の星――トゥリオナの「こども」と「おとな」たちはどうなるのだろうか。
たしかに、今は一つの嵐が過ぎた。しかしもうすぐ、もっともっと大きな嵐がやってくるのだ。
今回の一件でこの惑星は、外の世界の注目を浴びてしまうことになるだろう。大学などからきちんとした調査隊が派遣され、金儲けや歪んだ名誉欲のためではない研究が行われる。かれらと、かれらを取り巻く自然環境にはしかるべき保護措置がとられて、かれらを直接に脅かすものは遠ざけられるだろう。そうでなければならない。
だが、その一方で、外の世界の皆はこの星の住人に、「病気」や「異常」という眼差しを否応なしに向けてしまうに違いない。そして、もっと積極的に「治療」を施そうとする意見も現われてくるのではないか。
すでに「おとな」になってしまった――ティアのような――のはどうしようもなくても、卵子や胎児、あるいは「こども」のうちに「正常な」遺伝子を植えつければ、そのままの姿で子孫を残すことが可能になるかもしれない。「まがい物」で無い、「本物」の「ひと」に。
しかし――。
リネットは想う。
それは、よいことなのだろうか?
たとえ純粋な善意と、慈悲から発した行為であっても、かれらにとって大切なものを、根こそぎ奪ったりしてしまうことにはならないのだろうか。
そう、もしかしたら、かれらは……。
警報音がひときわ大きくなった。「作動準備」の黄色い表示が「作動開始 六〇〇秒前」という赤い表示に変わり、その数字は一秒ごとに一つずつ小さくなっている。
いよいよ、カプセルに入らねばならないときがきた。
追い立てられるような気持ちで、席を立つ。
リネットは心の中で祈った。
これからの未来が、かれらにとっても、そして私たちにとっても、佳きものであってください。
どうか、それだけは。
ディスプレイが消えた。彼女の目の前は、ただの白い壁になった。
そのときリネットは、ふっと緑色の潮の香りが鼻先を撫でていくのを感じた。
もう手の届かない、宇宙の彼方の輝き。
(……さよなら)
心の中でつぶやくと、身を翻し、部屋を後にした。
ジャン・ゴーシュ・ナカオ所長をはじめとするハーディーマン産業株式会社トゥリオナ生態系研究所所員たちは、ミュゼに送還されたのち、惑星開発法違反、生態系保護法違反、第一級殺人などの罪状で、本社上層部の関与者とともに、連邦裁判所で、有罪の評決を受けた。
イマニュエル・ボロコフ、ランディ・ベイツのふたりは、被疑者死亡のため不起訴。
そして、リネット・アスロンは、捜査と真相解明に協力することと、本人に関する情報を秘匿することを条件に司法取引を行い、刑事責任を問われないこととなった。
エピローグ
エメラルドグリーンの波が、静かに寄せては返す砂浜。中天で穏やかに光を放つ太陽が、波頭を茜色に染める。
それは、この星で太古から続いてきた光景だった。
北回帰線上にある島の、高い山の中腹にある高原。どこまでも不毛の地である地上に、そこだけには緑の草原が広がっていた。
それらを見守るように、島の沖合いには、金属の「塔」がそびえている。
テラスのように張り出した、その一角。小さな人影が見える。
薄茶色の髪を潮風になびかせた少年だ。
彼の横顔には、あれから少しだけ、歳月が刻まれていたようだ。
金色の虹彩にぽっかり開いた、深淵のような瞳は、ゆらめく水面をじっと見つめている。
寄せては返す波が、彼の足下を洗ってゆく。
手には、花束が握られていた。
ティアがいつも、摘んで、花束にしていた花だ。
彼はそれに顔を埋め、においをかいだあと、海に放った。
重りをつけた花束はゆっくりと沈んでゆき、かつてティアだった「おとな」の傍らに横たわった(了)。




