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渚、そして秘密


 13


 リネットは耳の内側で、自らの呼吸する音を聞いていた。

 ゆっくり足をばたつかせながら海中を進んでゆく。頭部の露出部分に感じる水温は、あたたかくもつめたくもない。バックパックなどの機器、ダイビングスーツの保温機能は、すべて正常に作動している。

 バックパックの電源が保つ限り、いくらでも潜っていられる。ほとぼりが冷めるまで海中に身を潜め、それから、どこかの岸に上がればいい。彼らの手の届かないところへ。

 あとは……どうすればいいのか。

 あの「いえ」にでも戻ろうか。「こども」たちの元へ。

 しかし――。

そんなことを考えながら、彼女は異星の海中を進んでいった。

 人間を食べてしまうような生物はいないらしい。しかし、不気味さはぬぐいようもなかった。

 ダイビングの常識を外れた、夜間の単独行。しかも見知らぬ異星の海。ライトの光条線上に限られた視界。海水が澄み切っていたのが、多少の慰めではあるが。

 ダイビングコンピュータで、水温、海流、それに海底の地形などのデータを解析し、結果は腕のディスプレイに表示される。ひとりぼっちの今、それだけが頼りだった。

 一旦海面に浮かび、手元のジャイロコンパスで位置を確認する。あまり岸から離れると厄介なことになる。

 塔がもう、かなり大きく見える。どうやらあの塔は、ここからもっと北にあるようだ。リネットは再び潜り、一度耳抜きをして、さらに闇の奥深く進んでいった。

 コーヒーゼリーのような闇が、彼女の周りを包んでいる。ライトの光を向けたところだけに、色彩が現れた。

 夜は、生物たちがうごめきはじめる時である。海中の生物相は、驚くほど豊饒だった。

 目の前に壁が現われた。遊泳生物の群れだった。視界一杯に拡がっている生き物たちは、少なくとも数千匹以上はいるだろう。

 群れを構成していたのは、三十センチほどの半透明の生物だった。体の両脇に並ぶひれを波打たせて、かなり活発に泳いでいる。光の円錐を群れに向けると、体に光を乱反射させて、散り散りになっていった。

「あれは、たしか……」

 リネットは、マニーの生物図鑑にあった記述を思い浮かべた。

(トゥリオナイカモドキ。体は紡錘形。海面近くに棲息し、群れを作って海洋を回遊する。頭部に触手を持ち、遊泳する小動物を捕獲して食べる……)

 図鑑にあった画像データよりも、目の前の生き物は、はるかに美しかった。

 注意して見れば、ほかにも、あちこちに図鑑で見た記憶のある生物が泳ぎ、はるか頭上の波間を漂い、あるいは砂地をはい回ったり、岩や他の生物の上をうごめいてたりしていた。

 群れを避けると、こんどはコバルトブルーの海藻の林が行く手を遮っていた。絡みつかれないように、注意しながらくぐり抜けてゆく。

 海藻はところどころもつれたように固まっており、同じ色をした、細長い体の海老のような生き物が、何匹もそこに集まっている。オオニセワレカラの生殖行動のようだ。

 分厚い紫色の毛布を思わせるものが、海底から生えて、潮の流れにゆらめいている。

 潮流に流され、危うく触れてしまいそうになるが、すれすれで何とか体をかわした。あれに触ると、毛布のひだに隠れた毒針で刺される。

 砂地の海底に眼を移すと、底生生物が這い痕を幾筋もつけている。

 時折海上からサーチライトが照射される。リネットはそのたび、光から身をかわしたり、岩に身を隠したりしてその場を逃れた。

 白い粉のような砂地にライトが当たると、あちこちにドーム型の殻をかぶったトゲアワビモドキが、濃く長い影を落としてうずくまっている。

 突然、真下の砂がもくもくと泡立ち、リネットをひどく驚かせた。

 灰神楽のように沸き上がった砂煙の中から、ナマコと毛虫とミミズを足して十倍したような生き物が現われた。体中にびっしり生えた、赤や青の触手を、てんでにゆらめかせて、うねうねとのたくっている。砂の中の有機物を食べるおとなしい生物らしいが、ぞっとしない姿だった。

 辺りの海中には、薄いべっこう色をした甲殻類が、羽根のような鰓をひろげて漂っている。光の中に浮かぶ埃のようなものも、生き物だろう。

 巻き貝や、魚のような脊椎動物は見当たらない。

 リネットは海中に繰り広げられる光景を眺めながら、以前どこかで聞きかじった古生物学の知識を思い出していた。

 「地球」の、カンブリア紀初期の海中というのは、ひょっとしたらこんな様子だったのかもしれない。

 こんな時でなければよかった。何もないときに楽しみながら潜りたかった。彼女はそう思いつつ、先を急いだ。

 十分程、海の中を進んだ。沈没地点からは、だいぶ離れたようだ。

 水の透明度が、わずかに落ちたような気がする。

 相変わらず海底は砂地が続いていたが、その中に時折にょっきりと岩のようなものが、いくつも突き出している。

 その一つにライトを当てると、表面の疣のようなでこぼこが、不気味に浮かび上がった。

 リネットの背筋が、思わず粟立つ。

 岩の質感は、遠くから見ても、鉱物のものとは違っていた。これは――岩ではない。海綿やイソギンチャクのような底生の固着生物だ。

 どんな生物なのか。あの図鑑には、記載されていなかった。

 似たような姿のものを、思い浮かべられるだけ思い浮かべてみた。カイメンモドキ。タヌキノフグリ。珊瑚類の死骸。藻類の群体……いずれも違う。

(こんなにも大きくて目立つのに、何故? このあたりは、調査していなかったのかしら)

 リネットは不可解に思った。

 岩のような生物は、進むにつれて、次第にその数を増していった。姿形は基本的にはどれも似通っている。その大きさは、小さなものでもリネットの背丈より大きく、大きなものになると高さは四・五メートル、底幅も同じくらいの樽のような形をしていた。

 身体のてっぺんと、体側の上方には、それぞれ孔があり、静かに水が出入りしている。孔の中は、生の牛肉のような鮮紅色だった。

 遠目に岩と見間違えたように、身体の表面は固くごつごつしていて、大きなものではあちこち不規則にこぶが盛り上がり、もともとの姿を崩していた。

 白い煙状のものを、孔から漂わせている個体もある。

 海面は頭上十メートルほどにある。もうここは塔の真下、監視も相当厳くなっているようだ。

 海底には、いくつか円形の光が落ちている。光の中に漂う透明な生き物は、体をプリズムのようにきらめかせていた。こちらのライトを消しても光があるのは有り難いが、下手に照らされたら、どうなるか分からない。

 じわじわ動くスポットライトをかわしながら、何とか岩の一個に取りついた。

 表面を触ってみる。こびりついていた藻や水垢がぼろりと崩れると、暗赤色をした地肌が現われた。その手触りや質感は、珊瑚や貝殻のものとも、節足動物のキチン質のものとも、少し違っている。

 さらにリネットは、水が出入りしている体側上方の孔を覗き込もうとした。体を支える手が、孔の縁に触れる。肉の感触が伝わってきた。手に力をかけて、身体を孔の上に乗り出した。

 びゅう!

 その次の瞬間、孔から水が勢いよく噴き出た。水圧をもろに受けた彼女は、はじき飛ばされた。

 潮の流れに乗ってしまい、危うく光の中へ入ってしまいそうになる。彼女は際どいところでよけ、光のあいだを縫いながら、岩の立ち並ぶただ中へと泳いでいった。

 潜水をはじめてから三十分たった。海面からの水深二十メートル。水温二十八度。

 不意に奇妙なものが、リネットの眼に止まった。

 それは彼女の右前方、並んでいる中ではごく平均的な大きさの「岩」に起こっていた。

 体側上方の出水孔に、半透明の膜のようなものが波打ちながら見え隠れしている。それは見ている間にどんどん押し出されて膨れてゆき、シャボン玉のような球の一部になった。

(何かしら?)

 リネットは近くの岩――これは天然の岩だ――の陰に身を寄せ、様子をうかがうことにした。

 外側に出た部分だけでも、一抱えもありそうなそのシャボン玉には、中に何かが入っているようだ。さっき水を噴き出したのと同じ仕組みで、この生きものの体内から送りだされているのだ。

 やがてシャボン玉の、出水孔から出た部分は、半球のドーム状になった。中のものも、たゆたうように上下しながら、しだいにその全貌を明らかにしようとしている。

 膜の向こうに、ひとかたまりのピンク色の肉塊が見える。それは彼女のよく知っていたものだった。

(あああっ!)

 彼女の心臓が、一回大きく収縮した。

 それは身を縮こまらせ、へその緒をつけた、人間の赤ん坊。

(どうして、こんなところから……)

 リネットはその瞬間、我が眼を疑うばかりだった。が、不意に記憶の水面に、小さなあぶくが浮き上がってきた。ひょっとしたら、この生き物はティアたちの言っていた「おとな」なのだろうか。

 そして、沈没する前にナカオが言っていたこと。目の前の光景に、二つの記憶が重なる。

(大潮、満潮……まさか、そんなこと……)

 赤ん坊入りのシャボン玉は完全にその姿を現わすと、少し尖った出水孔の先からつるりと離れ、海中に漂った。球形をわずかに歪ませながら、いくつかの気泡を引き連れ、ゆっくりと浮上してゆく。

 孔からシャボン玉に続いて、血と胞衣が、こぼれるように排出される。周りの海水に赤い色が拡がった。

 生き物たちが血のにおいを嗅ぎつけ、どこからともなく集まってきた。シャボン玉よりも大きな生き物はいなかったが、赤ん坊は全くの無防備状態である。

 指の先程の鮮やかな原色をした蛭のような生き物が、平べったい体を波打たせながらシャボン玉に何匹もまつわりついてくる。蛭たちは膜の表面にぺたぺた張りついては、すぐにはがれてしまう。

 膜は、見た目よりかなり丈夫らしい。しかし、いつまで保つだろうか。

 リネットはとっさに飛びだし、自らの体で赤ん坊をかばおうとした。シャボン玉に寄り添い、手を振り回して、蛭たちを追っ払った。

 そして彼女は、シャボン玉を両手で抱えこむような姿になって、一緒に浮上していった。

 上方の水が動く気配を感じた。

 海面から、黒い影が迫ってくる。

(あれは……ガセティンクス!)

 リネットの記憶の中に、その姿は、ひときわ鮮明に刻み込まれていた。

 この海の生態ピラミッドの頂点に君臨する肉食生物で、体を固い甲皮で覆い、強靱な顎で、喰らいついたものを、何でも噛み砕いてしまう。

 目の前にいるそいつは、目算しても体長は二メートル以上はあるだろう。無抵抗の獲物を前に、黒い三つの複眼を、らんらんとさせている。

 リネットは、すねのホルダーからナイフを抜いて、構えた。セラミック製の刃が、ライトの光で白く輝く。

 ガセティンクスはシャボン玉に向かって、体の上下にあるひれをはためかせながら、不気味なほどゆるやかに接近してくる。地球の鮫などとは比べ物にならないほど動きが鈍かったが、水中で勝ち目のある相手ではない。

 ザクロを思わせる、四つに割れた顎を大きく開けて、口の周りの六本の捕食肢を一杯にひろげ、目の前の獲物を捕食する体勢に入っている。

 リネットはシャボン玉の前に浮かび上がり、手を広げた。ガセティンクスは、ひるまない。

 少女と獰猛な肉食生物は、シャボン玉の一メートルほど上方でもつれ合う。 肉食生物は、二本の触手を鞭のように伸ばし、絡めてくる。

 触手がリネットの二の腕や太股に絡まり、きりきり締め付ける。皮膚はダイビングスーツで完全に保護されていたが、身動きがとれない。

 ナイフを触手に立てようとした。が、細かい鱗で覆われたそれは、まるでワイヤーロープのようだった。

 触手の一本が胸に巻き付く。異常な力だ。

「……んあっ」

 ぎりぎりと肋骨のきしむ音が、身体の中から響いてくる。呼吸するのがつらい。

 不意に身体が冷えてゆくのを感じた。ダイビングスーツの温度調節機能に、異常を来したのだ。

 酸素の供給も止まり、コンピュータは反応を止めた。電源がやられたようだ。

 目前に青黒い顎が迫る。花弁のような舌がゆらめいている。食いつかれる! まさにそのとき、彼女の心に、なにかが触れた。

〈ネピ……いいの?〉

 バックパックのポケットにいた、借り暮らし(ボロワー)からだった。

〈分かったわ〉

 ネピの意志を読みとると、ポケットから取り出し、ガセティンクスの口の前に放り出す。

 動体視力しか持たないガセティンクスは、目の前で不意に動いた物体を、新たに出現した餌と認識した。リネットに絡めていた触手を解き、それでそのままネピをつかみ、自らの口へと持っていった。

 強靱な顎で、ネピの体は砕かれた。金属やプラスチックの破片が、口からこぼれる。

 ネピは、体内に電源として超電導コイルを持っていた。鋭い歯は、そこに突き刺さる。超電導コイルに蓄えられていた電流は、行き場を失って、ほとんど全てが熱に変わった。激しく熱せられた冷媒は口の中で膨張し、爆発した。

 水圧が襲った。薄緑色の濁り水が拡がる。ガセティンクスの上半身は吹っ飛んでいた。

 シャボン玉の周りをうかがっていた蛭たちが、攻撃の矛先をガセティンクスに変えた。黒っぽい甲皮に、赤や緑の原色がまとわりつく。海の生き物たちは、ガセティンクスの方により食欲をそそられているようだ。

 肉食生物は、生態系の冷厳な掟によって、食べられる側に回ってしまった。神経の反射で身体を痙攣させながら、生き物たちを引き連れて海底の砂地に沈んでいった。

 ネピの「いのち」を引き替えにして、ひとまず、危険は去った。

 赤ん坊は大丈夫だったろうか。リネットは目の前のシャボン玉に眼を注いだ。

 外界から膜で隔てられたままの中の赤ん坊は、先程の出来事を全く意に介さず、瞼を閉じている。頭にはうっすら毛が生え、皮膚は毛細血管が透けて薄桃色。赤ん坊を外界から隔てる膜は、水のわずかな動きに応じてかすかにふるえ、ライトの灯りを分光して、虹色の輪を作っていた。

 まだ、独立した人間と言うよりも、母体の臓器の一部のようなその姿。間違いない、本物の人間の赤ん坊だ。

(なんて恐ろしい光景。なんて異常な状況。でも、なんてきれい……)

 リネットはいつしか、眼前の光景を美しいと感じていた。

 これまで彼女は、新生児ですら実際に見たことがなかった。彼女の生まれ育った世界では、赤ん坊は殆どが体外受精で、人工子宮の中で育ち、産まれてくる。彼女も例外ではない。

 目の前の赤ん坊は、知識として知っていたそれよりも、もっとずっとはかなげだった。触れればぱちんとはじけて、そのまま消えてしまいそうに見える。

 呼吸の合間に、自分の心臓の鼓動が聞こえる。それは赤ん坊の心音とシンクロしているようにも感じた。

 ティアも、あの「こども」たちも、こうして産まれてきたのだろうか。

 リネットは、自分が厳粛な瞬間に立ち会っていることを想った。このシャボン玉は、犯すべからざる、いのちなのだ。自分の手の中に、それがある。

 このいのちを守れるのは、今は自分だけだ。しずかに呼吸をする彼女は、ふんわりと、だが確かな感触をもって決意をした。

 予備のエアーを使い切ると、マウスピースを外した。口から泡がこぼれる。それは無数の真珠になり、続いてゆくリネットと赤ん坊に道を開いているかのように、海面へ昇っていった。




 14


 ミチは天を仰いで、目を開いた。視界に飛び込んでくるのは深い暗黒の空。無数に散らばる、金色や銀色に冴え冴えと輝く星々。それらは輝きも色も配置も、彼女が見慣れたものとは全く違っていた。

(夜空にいつもの星が見えないことが、こんなにも心細いことだったなんて)

 故郷から五千光年も離れた星空の下、ミチはそう思った。

 たったひとり、しかも手負いだ。

  マルチブラスターは、まだ手の中にあった。今の彼女が頼れるものは、これだけだった。

 立ち上がると、身体の節々が痛む。膜がかかったようにうすぼんやりとしか見えない眼で、辺りを見回した。

 海面はかすかな燐光を放っているが、闇を照らし出すほどの明るさはなく、波頭がゆっくり上下しているのが分かるだけだ。

 音はほとんど途絶え、闇はねっとりと彼女を包みこむ。だが、今の彼女には、その静寂が恐ろしかった。

 口の中は、砂と鉄錆の味がする。唾がたまると、辺りにむやみに吐き散らした。

 自分の判断ミスでシャトルを撃墜させてしまい、先輩刑事までも失った。そして、おめおめと自分だけ生き延びたのだ。もっとも恥ずべき顛末である。

 覚悟は出来ていた。

 誰であろうが、気を許してはならない。

 どこかから、この場にはひどく場違いな音が聞こえてくる。

(……空耳?)

 そう疑いたくなってしまうような音だった。だが、それは実際に耳に入ってくるものである。

 音の発せられた方角へ足を向ける。重い砂に足を取られながら、渚を歩いてゆくと、彼女は人の形をした影を認めた。

 マルチブラスターは、セーフティを外されていた。モードは致死(リーサル)になっている。



 15


 ほのかに青白く光る海面に、ふたりは浮上した。

 背が立つところまで泳いでゆき、波間に漂うシャボン玉をそっとすくい上げた。シャボン玉――羊膜は自らの重みで崩れるように破れ、中の羊水があふれ出る。赤ん坊は外気にさらされた。


 おぎゃああーっ!! おぎゃあ、ほぎゃあ、ほんぎゃあ……


 産声は虚空へと吸い込まれてゆく。

 打ち寄せる波で、汚れていた赤ん坊を洗い、抱き上げる。砂浜に上がり、バックパックを下ろした。

 リネットの腕の中のものは、まだぶよぶよで、しわくちゃの肉塊。だが、まぎれもなく人間の赤ん坊だ。

 頭にはうっすら栗色の柔毛。耳も鼻もまだ、小さな肉の盛り上がりである。青紫色だった頬には、次第に赤みが差してくる。

 熱帯とはいえ、夜風は冷たい。濡れた体から体温が容赦なく奪われる。髪は水分を貯め込んでじっとり重く、ピアスの先から水滴がしたたり続ける。

「ごめんね。私も、何にもないの」

 赤ん坊を抱きしめて、肌のぬくもりを伝えた。そうするほかなかった。

 すきま風のように、不安が心に忍び込む。

 親指が赤ん坊の口に触れると、赤ん坊はそれをくわえ込んで、ちゅうちゅうと吸った。

 空には降るような色とりどりの星と、二つの大きな青い月。

 はるか向こうには、虚空を貫くような巨大な建造物が、黒いシルエットとしてそびえている。

(研究所の人たちは、まさか……)

「塔」を見上げたとき、彼女の心に、ぎゅっと差し込むような疑念が産まれた。

(そうだわ、早く行かなくちゃ)

 胸騒ぎにせかされ、闇に向かって彼女は歩き始めた。脚ひれを脱いだ素足に、砂が重くまつわりつく。そのときだった。

 きゅっ。

 背後から、白砂を踏みしめる音が聞こえた。足音だ。

 きゅっ。きゅっ。

 着実な一歩、一歩。音はしだいに大きくなる。こちらに近づいてくる。

 喉を鳴らした。唾がひどく硬いもののように感じた。

 再びナイフの柄に手をかけると、まぶされていた砂がざらりとすべった。

 意を決して、振り向いた。星明かりと、海面が発する燐光で、かすかに人影が照らし出されている。人影は、声を発した。

「誰、そこにいるのは?」

「――その声は?」

 背筋にぞくりという感触が走っていった。それは、とても懐かしい響きだった。声はこう続いた。

「武器を捨てて、手を挙げなさい!」

 声の発せられた方向へライトを向けた。人影は光に一瞬、たじろいたように見えた。

「……まさか?」

 短く切り揃えた黒い髪が揺れ、光に透けた。

 黒水晶のような瞳は、ライトの光を乱反射して、硬質の輝きを放っている。

 百八十センチを超える長身。

 ネコ科の猛獣を彷彿とさせる、しなやかな体躯と身のこなし。

 GFBIの制服に身を包み、左手には、ごついレーザー拳銃を構えている。以前見たホログラフィの姿が、今、彼女の目の前にいる。間違いない。親友だ――ミチ・アサガミ。

「リネット……やっぱり、この星にいたのね」

 ぽつりと口の中でつぶやいたが、その言葉の意味は、リネットには分からない。

「あなた、どうして、ここに?」

 しかし、突然現れた親友の姿に、懐かしさを感じないわけはない。彼女はミチのもとへと、足を踏み出した。

「動かないで!」

「……え?」

 返ってきたのは、思いもよらなかった言葉。彼女は顔に疑問符を浮かべたまま、表情を凍り付かせた。

 ミチは、腰のホルスターに手をやったまま、二、三歩後ずさった。

「手を挙げて、武器を捨てて。あんたを疑いたくないけど……」

 切羽詰まった様子が、口調から伝わってくる。

 リネットはまず、ライトを足元に捨て、それからナイフを放った。ぱさっと乾いた音を立てて、ナイフは砂に突き立った。しかし、ミチはまだ構えを崩していない。

「まだよ。何か手に持ってるでしょう。それもよ」

「これは……」

 おうあああっ!

 赤ん坊は再び、泣き声をあげた。ミチは咄嗟に駆け寄ってきた。そして、リネットの腕の中のものが何かを確かめてから、問うた。

「この赤ん坊、どうしたのよ?」

「産まれたのよ、海の中で」

「?」

「海底に、岩みたいな生き物がいっぱいいて、その中のひとつがこの子を産んだの。シャボン玉みたいに、膜に包まれててね……」

「あんた、どうかしちゃったの? しっかりしなよ!」

 言葉の途中で、肩を掴まれ、前後に激しく揺すぶられた。驚いてミチの顔を見上げると、彼女は呆然と眼を大きく見開き、どうしていいのかわからないとでも言う表情をしている。

「ミチ、落ち着いて!」

 手を振り払い、ミチの眼をまっすぐ見据え、しっかりした口調で応える。

「私はだいじょうぶよ」

 ミチは、自分が取り乱していたことを悟ったようだった。ふうっと息をつき、表情を和らげた。

「……ごめんね、たびたび疑っちゃって」

 ミチは制服のジャケットを脱いだ。そして、まだ水滴がしたたっていたリネットの肩に掛けた。

「寒そうね……これ」

「ありがとう。でも、この赤ちゃん……私、何にも持ってないの」

 リネットは赤ん坊の頭を、柔らかくなでる。

「今はあたしも、こんなのしかないけど」

 カーライルに貰ったバンダナを首から外し、赤ん坊の体を包んだ。薄い布だが、何も無いよりは格段にましである。

 リネットは再び赤ん坊を胸に抱いて、心臓の音を聞かせた。程なくして、赤ん坊はすやすやと寝息を立てはじめた。

「見て、ミチ。かわいい寝顔よ」

「ふふっ、ほんとに」

 手負いの特捜刑事は赤ん坊をのぞき込み、にっこり微笑んだ。リネットも微笑む。三ヶ月ぶりに、ふたりは笑顔を交わした。

 が、次の瞬間――

 ミチは不意に叫んだ。

「リネット、後ろ!」

「どうしたの?……あっ」

 リネットは振り向くと、絶句した。

 闇の中に赤い光が浮かんでいる。ライトを向けると、華奢な金属の腕が鈍く銀色に輝いた。

 不揃いな四本の脚で身体を支え、二本のマニピュレーターを伸ばした、彼女たちより一回りほど大きい作業機械だった。

 こちらへ歩みを進めてくる。関節がきしむきいきいという音が、かすかに聞こえてくる。

「とうとうここまで来たのね……」

 ミチは、納めていたマルチブラスターをホルダーから抜き、両手で構えた。

「言葉が分かるなら止まりなさい。撃つわよ!」

 照準レーザーの赤い光点が、金属剥き出しの地肌に映る。

 リネットは、赤ん坊を強く胸に抱きしめた。

 トリガーには、指がかかったままだ。

 ふたりと睨み合っている機械の背後に、もう一組赤い光が点った。

 同じような、三つ並んだ赤い光が暗闇の中に、ひとつ、またひとつと現われる。

 いつのまにか機械たちは、彼女たちを遠巻きに取り囲んでいる。

 くぐもった音が耳に入ってくる。それはまるで、地の底に潜む巨獣が呼吸をする音のようだ。

「あいつらだ……囲まれてる」

 ミチは喉の奥から、言葉を絞り出した。

 ライトの光を辺りに投げかけてみる。銀色の機械たちが、三人の前後左右を、わずかな隙もなく囲んでいた。

「あたしの先輩は、こいつらにやられたのよ!」

 リネットは、赤ん坊をかばうように体を丸めた。赤ん坊は、再びむずがりだした。

声が聞こえる。

「子供をこちらに渡してください」

 中年の女性に似せているが、明らかに合成されたと分かる音声を、機械は発した。

「大事なわたしの子供なのです」

「あなたの……子供? どういうことなの?」

 リネットは思わず問い返した。にわかには意味が分からない。しかし、機械が嘘をつくはずもない。

「何言ってるの?」

 ミチは警戒を緩めない。

「子供をこちらに渡してください。大事なわたしの子供なのです。子供をこちらに渡してください……」

 闇の中の作業機械は、疑問には答えずに、先程と同じ語句を幾度もくり返した。

「この機械、これだけしか喋れないみたい」

「わけがわかんないわ。駄目よ、気を許しちゃ」

 そして背中越しに、ミチは語りかける。

「こいつらはあたしが引き受ける。あんたは赤ちゃんを連れて、安全なところへ逃げなさい。もうすぐGFBIの本隊が降りてくる。そうしたら、投降するのよ」

「……やっぱり、この会社は」

 リネットのつぶやきをよそに、ミチは眼前の機械たちを正眼に見据えながら、言葉を続けた。

「あんたがここで、何をしていたかは知らない。でも、自首して。悪いことをしていたのなら……」

 そこまで言葉をつないで、振り返る。リネットは、その場を動いてはいなかった。

「どうしたの、早く!」

「……待って」

 リネットは小さく、だがはっきりと言った。

「撃たないで。私に任せて」

「そんな……」

「借り暮らし(ボロワー)よ、この子たちは」

 リネットは赤ん坊を抱いたまま、一歩前に歩みを進める。

 囲みの中から、一台の機械が歩み寄ってくる。

 機械とふたりは、1メートルほどの距離を隔てて、相対した。

 そしてリネットは、目の前の機械に向けて、自分の思考を送りこむ。

 彼女が慣れ親しんだ、定められた手順に従って、意識をしだいに集中させてゆく。

 AIは、認識方法も、反応の仕方も、一体一体違っている。いわば、「個性」があるのだ。それを感じ取り、調和するためには、柔らかい心の持ち主でなくてはならない。熟達とイノセント。彼女はその相反する二面を持っていた。

 機械の「リズム」をつかみ取ると、大脳の視庄下部に埋めこまれたバイオチップが、彼女の思考を機械の言葉――電気信号に翻訳する。左耳のピアスに似せたインターフェイスが、それを目の前の機械に送信した。

 彼女はネットワークの一部となる。ドミナントにのみ可能な、冗長性ゼロの完全なマン・マシン・インターフェイス。

 彼女の「想い」が、機械と通じ合ってゆく。

 不意に外部入力を受けた目の前の機械は、戸惑ったように動きを止めた。

〈私の言葉がわかる?〉

〈……はい〉

 調和の最初の段階に成功した。

〈私の固有名称は、トライネットADA15686、現在の人格名はリネット・アスロンです。あなたの名称をこちらに通知してください〉

〈わたしは、統轄制御AI《MAJZ2874》の自律端末です。シリアルナンバーは989502、AIの人格名は、ありません〉

 この「わたし」とは、目の前の機械――自律端末と、それを背後で制御しているサーバーAIそのものを同時に指していた。

〈もっとも、「こども」たちはわたしのことを《マム》と呼んでいます〉

 かれらはネットワークの端末でありながら、サーバーの命令だけに頼らず、自らの行動を決定できる存在である。

 それは自己決定型OS――SIOSのなせる業だ。恒星船のAIネットワークに使われているOSである。生物脳の特徴である自己組織化をソフトウェア的にシミュレーションして、状況に応じて、自らの目的意識を変更でき、人間の判断を仰がなくても、事態に対処することができる。

「……どう?」

 不安そうに、ミチが覗き込んできた。リネットは振り返り、ウインクで答える。

〈あなたの望みは、分かってるわ〉

 リネットは一回大きく息を吐いた。そして、赤ん坊をそっと機械の前に差し出した。

「やめなよ!」

 事情のわからないミチが叫ぶ。彼女は動ぜず、微笑みを返した。

「いいのよ。かれの言うことを聞きましょう」

「……分かった、あんたに任せる」

 ミチは不承不承、うなずいた。

 機械は止まったまま、二本のマニピュレーターを伸ばした。彼女から赤ん坊を受けとり、慈しむように押し抱いた。

 腹部にしつらえてある、透明なカプセルの扉が開いた。機械の腕が、蟹が獲物を食べるときのように動き、赤ん坊は、カプセルの中に収納された。

 プラスティックを透かして、中が見える。赤ん坊は柔らかそうなベッドに横たえられ、眼を閉じて眠っている。

「……どうなの」

「大切に扱われているわ、よかった」

 リネットは安堵のため息を漏らした。

「やったじゃない!」

 ミチはリネットの肩を叩いた。

「まだよ。この際、洗いざらい訊かせてもらうわ」

 機械を見やったまま、リネットはふたたび問いかける。

〈ねえ、教えて。この赤ちゃんは、どうしてこんな風に産まれてくるの? この星は、いったいどうなってるの?〉

 一拍おいて、機械が応える。

〈わたしは、その情報に関するアクセス権限を持っておりません〉

 こんどの「わたし」は、端末本体のことだけを指していた。そして、端末はもう一つのメッセージを送った。

〈わたしとともにおいでください〉

 機械は四つの足をかがめて、跪く。

「行きましょう、ミチ」

 リネットは促す。

「あたしが先に乗るわ」

 ミチは先に機械の背に跨った。



 16


 機械は立ち上がった。

 ふたりを背中に乗せ、赤ん坊を腹の中に抱えこんだ機械は、波打ち際に向かってゆっくりと歩みを進めていく。

「こんなになっても、『こども』たちのために……」

 ぎくしゃく動く左右不揃いの機械の脚、あちこちへこみ、塗装がはがれたボディを見て、リネットはつぶやいた。

 ふたりを背中に乗せた機械は、波打ち際までたどり着き、海の中へ入ってゆく。

 背中の上半分は海面から出ている。ここは相当な浅瀬らしい。

 凪いだ海面を渡り、なんとか真下までたどり着いた。

 「塔」は、暗闇の中でも、圧倒的な質量を感じさせて、ふたりの頭上にのしかかっている。

 重金属の外壁のところどころに照明がともり、海面を照らすサーチライトも輝いている。この威容、見上げると、目眩がしてきそうだった。

「この中へ入るのね……」

 ミチは背筋が細かく震えるのを抑えられなかった。無意識に腰に手を当てて、マルチブラスターの固い感触を確かめていた。

 傍らのリネットは、口を閉ざしてまっすぐ前方を見つめている。

 「塔」から突き出た、桟橋のような場所に上がった。奥には扉が見える。

 近寄ってみると入り口は意外に小さく、高さ二メートル、幅三メートルほどの、スライド式の扉である。

 扉の向こう側には、小さい部屋を間にはさんで、もう一つの扉がある。

「これは……」

「エアロック?」

 ミチがつぶやくと、リネットは応えた。

 その構造は、宇宙船のエアロックそのものだった。

 二つ目の扉の内側は、長い廊下に直結している。中は薄暗い。

 廊下はかなりの幅があった。視界の続く限り、むき出しの金属の壁が連なっていた。ファイバーケーブルや配管が、壁に奇妙な装飾を作っている。

 そのところどころが、欠けたようになっているのは、借り暮らし(ボロワー)たちが、取り外していった跡だろう。

 相当使い込まれて、古びているが、荒れ果てているという感じではない。

 壁に手を当てて、リネットはつぶやく。

「かなり古いものね。たぶん『主の時代』……」

 それは、この時代よりもはるかな昔、人類文明が銀河系全域に拡がり、その絶頂期に達した時代のことである。

 その頃の超絶的な科学技術に関しては、失われてしまったものはあまりにも多い。そして、わずかに生き延びたものだけを残り火のように使用しているのである。超光速航法、重力制御、SIOS、そしてドミナント……これらは皆、この時代ではすでに開発、改良する技術が失われてしまったものばかりである。

「遺跡なの?」

「いいえ……まだ、生きてる」

 壁をさすりながら、リネットは応えた。

 長く続く廊下は、壁に一つの窓もなく、岩盤に穿たれた洞穴のようだった。足下だけを、心許ないオレンジ色の光が点々と照らしていた。少し進むほどに分かれ道があり、複雑に分岐しているようだ。床の中央に青く光るラインが伸び、ふたりの順路を指し示していた。

 進んで行く途中、溜まっていたものを吐き出すように、ミチは傍らのリネットに問うた。

「ねえ……どうして、あんたはそんなに平静なの? こんな目にあっても」

 リネットは前を向いたまま応えた。

「私には、『信じられない』ものなんて、ないのよ。産まれたときから

この銀河にあるものを、何でも見て、感じてきた。だから私は、見えたもの、教えられたものは、すべてあるがままに受け入れてしまうようになってしまったの……」

 上着を脱いで、白いシャツの上に防弾ベストを着用した姿のミチは、何も言えなかった。

 リネットはジャケットに腕を通し、余った袖をまくった。ダイビングスーツの上に、二回りも大きなGFBIの黒いジャケットを羽織ったまま、裸足で冷たく硬い床を歩いていった。

 廊下は、ゆるやかにカーブしている。先は見渡せない。

 前を歩いていた機械は、脇の通路に入った。そこはリフトのようになっていて、床ごと下へさがっていった。

 彼女たちの正面に、もう一つ小さな扉がある。

 中に入ると、手の届くところにタッチパネルがあって、アラビア数字の表示が並んでいる。

「エレベーターみたいね」

 ミチが赤く光っている壁の一部に手を触れると、上方に加速度を感じた。エレベーターは音もなく速度を増してゆき、程なくして耳がつんと痛くなった。

 昇り切って扉が開くと、正面はがらんどうの広い部屋になっている。

 急に空間の中の光が増えた。

 目の前の空間は、大きな吹き抜けになっていた。高さ、直径とも、少なく見積もって百メートルはある円筒。

 床はテラスのようになっている。端に立って下を見ると、底の部分には、水が溜まっているのが見える。かなりの深さだ。海水が浸入したもののようだ。

 壁や天井は、一面にタイルが張り付けられ、てんでばらばらに白や薄桃色の光を放っている。

 空間の中央、上下を貫く巨大な柱が、ふたりの目の前にそそり立っていた。

 差し渡された一本の回廊が、そこに通じる唯一の道で、下に広がっているのは、大きな奈落だ。

 柱の表面には複雑な模様が浮き出ていて、遠くから見ると、よじった縄を幾重にも巻き付けたようにも見える。

 これが、AIネットワークのメインサーバーであるらしい。この塔の脳でもあり、脊髄でもあるそれは、まるで光を放つ大樹。

 頭上では冷却パイプや光ファイバケーブルが絡み合い、壁や天井に延びている。

 破損したファイバーからこぼれた光が、床に降り注ぐ。そのさまは、まるで木漏れ日のようだ。

〈あなただけ、こちらへ〉

 回廊の手前で、彼女の頭の中に、メッセージが入った。

 リネットは向き直る。

「あなたはここで待ってて」

 ミチは黙ってうなずいた。

「じゃあ、行って来る」

 一人渡れるだけの幅しかない回廊を、リネットは一歩一歩踏みしめ、歩いてゆく。

 間近で見る、光をまとった大樹は、彼女を包み込むように、圧倒的な存在感と、崇高な気配すら漂わせて、ただそこにあった。

 リネットは金属の幹に寄り添った。表面に広がる迷路のような模様に額をつけ、腕を回して、金属の冷たい肌を抱きしめる。

 照らす光が、ひときわ激しく明滅した。

 探針コマンドを送り込む。

 手応えがあった。

 一回息を大きく吸い、そして意識を集中する。こういうときにはどうすればいいのか、やがて、記憶の奥底から呼び出した。

〈われは古よりの盟約を携えてここに来た。汝に問う。古よりの盟約のもとに、今こそ、すべての権限を我に与えよ!〉

 扉が、開いた。

(やったわ……!)

 ミューオンビームがピアスに向けて照射される。ピアスがかすかに震えた。AIの純粋な「想い」が、彼女の脳に流れ込んでくる。

〈ずっと、待っていました〉

〈私を?〉

〈そうです。わたしと完全な意志の疎通が可能な人間――ドミナントは、AIの運用に不可欠なものです〉

 「人間的」な束縛から自由な、もっともふさわしいパートナーであり、お互いに「盟約」で結ばれた存在だった。

 AIから伝わる「想い」は、まるで雪解け水のようだった。透明で手が切れそうなほど冷たく、切ない。

〈かつては、この恒星船にも二名が搭乗されていました〉

「恒星船……!」

 やはり、この塔は宇宙船だったのか。AIは続けた。

〈しかしながら、標準歴二八五八年三月十五日十八時二十六分に発生したランクE非常事態によって、二名とも永久損耗してしまいました〉

〈永久損耗――死んだのね。何があったの?〉

〈ドミナントを伴わないAIは、被使用対象者にとっては完全な存在ではありません。人間に奉仕するために作られたわたしは、それ以来ずっと完全な存在になることを切望していました……〉

 切望。そのAIの「想い」を言葉で表現しようとすれば、この言葉が一番適切だった。

〈太古からの盟約が、今こそ成就されるときです〉

 向こう側でせめぎ合うものが、こちらへ流れ込んでくる。

 タイルは、AIの歓びを表わすように、次第にその輝きを増してゆく。赤から白に変わり、波打つように点滅する。

 大量の情報が、ピアスのインターフェイスを通じて、リネットの脳に流れ込んでゆく。

 右の耳たぶが熱い。背筋に電流が走る。

 眼を閉じる。瞼の裏に光があふれた。幾何学的な模様が、光にあふれた闇の中から、次から次へと沸き上がり、ぐるぐる回転し、はじけていった。

 AIは、これまでに起こったことを何もかもリネットに伝えようとしていた。

「ああっ……ああ……」

 情報の奔流は、いつしか肉体の苦痛に変わっていった。

 脳細胞が飽和しそうだ。体の自由が利かない。

 身体中の皮膚がぱんぱんに張り詰め、感覚神経が極度に敏感になった。

 遠くで、ミチの声が聞こえたような気がした。

 彼女の意識は、この世界、肉体を離れていった――。


 リネットは虚空に漂っていた。

 彼女を包んでいたのはホワイトノイズ、無秩序な情報の奔流だった。

 蛍のような、淡い光の塊が、周りを飛び交っている。猛スピードで目の前を通り過ぎてしまうのもあれば、ふわふわと漂っているのもある。

 それらは、情報の塊だった。AIから送られてきたメッセージ体が、光の形を取っているのだ。

 手に取ったり、身体に触れたりした光は、砕け散って、仮想上の身体から、情報として染み込んでくる。

 すべての情報、知識が、彼女の中に流れ込み、やがて、ひとつの明確なイメージが、彼女を包んでいった。

 ――螺旋だった。色とりどりの二重の螺旋だ。

 それらは、見る間に壊れてゆく。鋭い刃のようなものが飛び交って、切り刻まれてゆくのだ。

 ばらばらになった螺旋は、やがて、再び集まってきた。螺旋のかけらたちは、繋がり合ってもとに戻ろうとする。しかし、ピースの違ったジグソーパズルのように、それらは完全に元通りになることはない。

 それでも、螺旋は形を取り戻した。しかし、どれもが歪んでいた。いびつな螺旋たちは、次々に分裂して、辺りを埋め尽くしてゆく。

(自己修復……出来なかったのね)

 調和に治められていた世界は、混沌に乗っ取られてしまった。

 二重螺旋は引き延ばされ、紡がれて糸になり、ぐるぐると渦を巻く。哀しみ、寂しさ、望郷、それらを全てあわせたような切なさの固まりが、繭のようにリネットを包んでゆく。

 それが一体、どれくらい続いたろう。

 水面に浮かび上がって息をつくように、彼女の意識がこの世界に戻る。

 全身、汗みずくだった。

 翡翠の珠のような眼が、ゆっくりと開かれた。目尻に溜まっていた涙が、ひとすじこぼれおちた。

 すべては終わった。

 リネットは、この世界の歴史のすべてを認識した。



 17

リネットは手すりを伝いながら、おぼつかない足取で戻ってきた。

「大丈夫?」

 ミチはリネットの肩を抱きあげた。

「うん……平気」

 自分の力で立ち、テラスを囲っている柵にもたれかかった。

「盟約が成就されたわ。この恒星船はようやく、戦いの時が終わったの」

「……何のこと?」

「ずうっと昔」

 リネットは、宙に視線を浮かせて、歌うように話しはじめた。

「……そう、『大破局』のときの話よ」

「まるで、歴史の授業ね」

 ミチはつぶやいた。

「大破局」とは、彼女たちの時代から数百年も前に起こった、「主の時代」を終焉に追い込んだ、文明社会の崩壊のことである。

 人類と他の知性体との接触、人類同士の戦争、あるいはシステムの大事故――原因にはいまだに諸説があるが、詳細はすでに歴史の闇の中である。

 この事態で、銀河系全域に広がっていた人類は、存亡の危機にまで追いやられた。混乱は数世紀に渡って続き、その結果、ほとんどの地域で技術文明は大幅に後退した。

 いにしえの超技術を保持しているのは、銀河中心部のいくつかの星系国家――その中には、リネットが生まれたところもある――のみであるという。

「その前後、ある大規模な戦争が起きた。『大破局』と直接の関係があるかどうかはわからないけど。人間が住む星という星は、どこもかしこも否応なしに巻き込まれていった。かれらの星もそのうちの一つ。

 そこは特に激しい戦場になって、悲惨な闘いが、いつ果てるともなく続いた。何もかも破壊されて、住民はほとんど死に絶えてしまったの。ほんのわずか残った人々にも、滅びの日がすぐそこに迫っていた。

 それでも戦争は、終わる気配を見せなかった。全員がこの星を捨てて、脱出することは、もう出来なかった」

 一拍おいて、リネットは視線を落とす。眼下に見える水面は、鏡のようだった。水中には機械の残骸がいくつも沈んでいるのが見える。

「最後の力をふり絞るようにして、恒星船が作られたの。この宇宙には、人類の手がまだ届いていない星が一杯ある。戦争のない世界で、子孫たちがずっと平和に暮らして欲しいと願ったのね」

「それが……この塔なの?」

 リネットはそこだけ話を中断してうなずいた。

「積み荷は、人間を初めとする生物たちの遺伝子バンクだった。水が液体の形で存在できるハビタブルゾーンにある地球型惑星、植物と酸素のある、人間が住める惑星が見つかったら、そこで再生させるつもりだったようね。でも」

 喉を鳴らす。

「運悪く、航行中に敵に見つかってしまった。攻撃を受けたけど、なんとか逃げ延びて、この星にたどり着くことが出来たの。

 受けた被害そのものは、そんなにひどくなかったみたい。船体の一部が破損しただけで、恒星船本体はほとんどダメージを受けなかった。

 ただ、その破壊は生き物には致命的なものだったの。当たりどころが悪かったのね。乗務員は全員死んでしまい、積み荷の遺伝子バンクの中にも放射線が入り込んで、ほとんどが再生不可能なほどに破壊されてしまった」

「人間のも?」

「もちろん、例外じゃなかった。放射線の刃でずたずたにされて、復活は絶望的だったみたい。他の生物の遺伝子に最優先して、人間だけはなんとしても再生せねばならない。そういう命令が組み込まれていた統括制御AIは、遺伝子工学を駆使して、ヒトゲノムの修復を試みた。

 残った遺伝子を復元し、他の動物のもつぎはぎして……でも、完全には修復できなかった。プログラムそのものにも、損傷があったようね。その結果、再生された『ひと』は、第二次性徴の発現期――思春期になると、子孫を残すために、体の仕組みを変えなければならないようになってしまったの。あんなふうに」

「それが……あんたの見た」

 リネットはうなずいた。

「私たちの遺伝子――ゲノムには、単細胞生物がヒトになるまでの、三五億年の進化の歴史が書いてあるの。サルだった頃のものも、魚だった頃のものも、そして、もっと前のものも。

 その中には、発現しないまま眠っている部分、条件が変わると、発現する形を変える情報がいっぱいある。少し手を加えれば、それらは、刻み込まれている情報を再び形にするのよ。

ホヤって知っているでしょう」

「え? ええ。あの海にいる、グロテスクな生き物……」

 ミチの種族は、ホヤを食用にする習慣がある。そのためか、ミチにも比較的なじみのある生物だった。

「ホヤは、あんな外見をしていても原索動物――脊椎動物に一番近い無脊椎動物なのよ。産まれた頃は、尻尾に原始的な背骨を持っていて、それを振って、海の中を泳いで移動する。そして、海底に付着すると成体になる。感覚器や、筋肉を退化させて、岩のような姿になって一生を過ごすの。私たち人類をはじめとする脊椎動物は、そのホヤの幼型成熟体――『こども』から進化したと言う説がある。

 少なくとも、脊椎動物のゲノムの中には、ホヤになる因子が眠っている可能性があることを指摘するひとは少なくないわ。

 あの『おとな』たちは、脊椎動物本来の成体――ホヤなの。眼もない、耳もない、そして脳もない。ただ、呼吸をして、海中のプランクトンを食べ、『こども』を産むだけの生き物なんだって。そうAIは言ってたの……」

 ミチは言った。

「でも、他に方法はなかったのかな。クローンとかさ……」

「そういう人工的で不自然な方法じゃなく、母親の体から自然に産まれてくるように。AIはそれが最善の方法だと判断したのね」

「自然? 全然、自然じゃないじゃない。おかしいよ」

 ミチの言葉にはっとしたリネットは、言葉を返す。

「あなたも、そう思うのね」

「当たり前じゃない」

 ミチはそういって、さらに続けた。

「やっぱり、いくら進歩しても機械は機械でしかないのね。人間にはどうしても叶わないのかなあ……」

 嘆くように、ミチは言った。

「ミチ、それは違う!」

 リネットは、急に声を硬くした。

「たしかに、AIは人間じゃないわ。でもそれは、人間が花じゃないってことと一緒なのよ」

「……どういうこと?」

 いつもよりも低い声で、リネットは話しはじめた。

「花にとって、人間の価値観は意味を持たないのよ。世界はまるっきり違った意味を持ってる。同じことが、機械にも言える。私たちDNAを土台にした生物と、AIとでは、アイデンティティのあり方が違っているの。

「それは……何となく分かるけど」

「人間は、人間の論理で世界を切り取って認識しているのよ。同じように、AIはAIの論理で、花は花の論理で世界を認識して、解釈しているだけなの。それはみんな同じ、正しくもあり、間違うこともある。結局は相対的なものでしかないわ」

 普段は全く見せない、切羽詰まった口調だった。

「私たちはよく、『人間』って言葉に、価値判断を含ませてしまうわよね。『人間的』なことは『よいこと』だって。私たちが人間である以上、それは仕方がないんだけど。でも、違うの。『人間』であることは価値中立――よいことでも、悪いことでもない。AIはAIの論理や、状況認識や、価値判断で動いているだけ。必ずしも人間並みの情緒を持つ必要はないのよ。宇宙みたいな極限状況では、『人間的』でないことがプラスに働く局面もあるから。

だから……そのために、ドミナントが必要なのよ。私たちが橋渡しとなって、機械と人間のあいだを埋めなくちゃならないの」

 ミチはいった。

「そんなこと、あんたから聞くのは、初めてよ。あんたはずっと、普通の人間でありたいとか、そんなことばっかり言ってたじゃない。

 ドミナントの義務。彼女の口からそんな言葉が出たのは、初めてのことだった。今までの彼女は、ドミナントである前に普通の人間でありたいということばかり、話していたのに。

 リネットは、やはり自分はドミナント――普通の人間とは違う存在なのだと、悟ったのだろうか。

「……」

「そう、AIはAI。人間は人間。花は花。どれがいいとか、悪いとかってことはないのよ……」

 そう言ったきり、リネットは眼を伏せて、口をつぐんでしまった。

 ミチはそれ以上、なにも言わなかった。余計なことを言ってしまった、という後悔だけが、彼女を包んでいた。

 そのとき、甲高い足音が、廊下の奥から響いてくる。

「……何なの?」

 ミチが、振り向いた。

 姿を現したのは、マニーだった。上下の作業服。船で見たのと同じ出で立ちである。

「どうして」

「ここまでたどり着けたんだな」

 マニーはにやりと笑った。そしてミチを見やった。

「とうとう来たんだな。まあ、いずればれることだとは思っていたがな……」

 彼の笑みは、自嘲めいた色彩を帯びている。。

「さっきの粒子ビームもそうか。この「塔」はもともと恒星船だからな。下手に近づくと、自動防護システムに引っ掛かって、隕石と同じように撃たれるんだ」

「えっ」

 ミチは不意にやってきた種明かしに、驚くだけだった。

「おれたちのときもそうだった。だから、向こうから見渡すことの出来ない山の陰に研究所を建てたんだ」

「あなたはご存じなんですか?」

 マニーは黙ってうなずいた。

「こっちへ来い」

 ぷいと後ろを向き、彼は廊下を歩きだした。足取りには迷いがない。まるで勝手を知っているがごとく進んでゆく。

「ジャンを探しに行く」

「ジャンって……ナカオさん? ここに来ているんですか?」

「そうだ。あの沈没は、偽装だったんだ。わざと攻撃させて、こいつらを油断させるようにな。おれも一役買ったが……」

「どうしてなんですか?」

「説明はあとだ。あいつらを早く見つけないと……」

 言葉の途中で、彼は歩き出す。男に引き連れられて、ふたりはもと来た廊下を戻っていった。


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