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夕餉、泉、そして夜


 7


 ティアと名乗った少女に連れられて、足で踏みしめられて出来たらしい、細く土の露出した道をしばらく歩いてゆくと、緩やかな丘の陰から、一軒の建物が姿を見せた。

「あれが、わたしたちの『いえ』」

 ティアが指さし言った。

 大きな建物は丸みを帯びた外観をしており、表面はライトグレーの金属と強化プラスティックで出来ている。地面に接触している部分は両端が浮き上がり、土台を打ったようには見えない。

 陸に乗り上げた船のようだと、リネットは思った。

 玄関近くでは、幼い男の「こども」が、どろんこをこねて遊んでいた。

 泥で汚した顔をにこにこさせて、少女と来客を出迎えた。

「ティア、おかえりなさーい」

「いい子にしてた?」

 ティアは慈悲深くほほえみかけた。

 扉は開きっぱなしになっていた。中に通される。廊下がまっすぐ延び、その両側に部屋が並んでいる。室内は、心の落ち着く暖色系でカラーコーディネートされていた。

 笑いさざめく声が、廊下の奥から聞こえてきた。

 奥まったところに、広い部屋がある。中央に長テーブルがしつらえてあり、「こども」が何人かいる。食堂か、ホールの役割を果たしていて、「こども」たちの遊び場にもなっているようだ。

 部屋を見渡して、リネットは問うた。

「ねえ、ここは誰か大人の人はいないの?」

「『おとな』?」

 彼女は不思議そうな表情をした。

「ここは『こども』の住む地。『おとな』はいないわ」

「じゃあ、誰が子供を育てるの?」

「産まれてすぐ、すごく小さなうちは《マム》のもとで育てられるの。少し大きくなって、自分の身の回りのことが出来るようになると、ここにやってくる。それからは、『おとな』になるまでここで暮らすのよ」

「?」

 何を言っているのか、皆目見当がつかない。ともかく、ティアの言う『おとな』は、リネットたちの世界のそれとは概念が異なっているようだ。

 不意の来訪者の顔を見に、「こども」たちがテーブルへ集まってくる。その中には、マイクロクラフトを隠した四人組もいた。

「……あんたたち」

「紹介するわ。こちらから、カル、ラモン、ペンネ、アンジュ、ホワン。あいさつなさい」

「もうしちゃったもん、ねー」

 右端のちび――ペンネという――が、白い歯を見せた。リネットは口をとがらせ、問うた。

「クラフト、どこにやった?」

「西の丘の、崖下だよ。でも、あの板っきれがなくちゃ、だめなんだろ?」

 キーのことらしい。

「じゃ、それはどこへやったの」

「谷に放っちゃったよ」

 ちびはしれっとした顔で言った。そして、こう続ける。

「でも、あれなに?」

「知らないの? じゃあ、何でそれが大事なものだって、分かったわけ?」

 発言の主は、彼女を押さえつけた太っちょの少年に移る。

「それが……急に頭の中で、声が聞こえたんだ。それを抜けって。言われるままにやったんだ」

「だれだか、わかる?」

 ちびは首を振った。本当に、見当がつかないようだ。

「わたし、わからないわ」

 ティアは困った顔をした。彼女を疑うなんて、そんな残酷なことはできない。途方に暮れた顔が並ぶ。

 小さな子が、大声を上げた。

「おなかすいたよー」

 その声で、こわばった空気は壊れた。

「わかったわ、さあ、食事にしましょう」

 ティアは苦笑した。

 食卓には、普段よりひとつ多く席を用意された。

 丸い椅子に腰掛けると、少し、尻がはみ出した。

 食事は、オートミールのような白くどろりとした汁と、チーズに似た黄色い塊。それと、彼女がさっき摘んでいた野草のサラダ。

 椀をのぞき込んでいるリネットに、ティアはその様子を察して、言った。

「マナを食べたことないの?」

「マナ? 初めてよ」

「《マム》から授けられた、わたしたちの食べ物。草が光と水を食べるように、わたしたちはマナを食べて生きるの」

 また、《マム》か。

 配膳が皆にひととおり行き渡ると、ティアは立ち上がり、お椀を頭の上に掲げた。

「わたしたちをいつもお守りくださる、《マム》へ感謝を込めて」

 頭を下げ、敬虔な表情になった。

 やんちゃ坊主たちも立ち上がって、神妙な顔で頭を下げている。

 リネットも見よう見まねで、祈った。

 胸の奥が、あたたかいもので満たされるのを感じる。

「さあ、いただきましょう」

「いただきまーす!」

 子供たちは元気よく、椀にむしゃぶりついた。

 リネットも恐る恐る汁を匙にすくい、一度鼻先に持っていった。すん、と鼻を一度鳴らし、不審な匂いがないことを確認してから、口に運んだ。

 粥のような汁は、かすかに塩の味がするだけだった。チーズのようなものは、その見かけとは裏腹に、あっさりした味だった。

 野草のサラダはほろ苦く、口の中と胃をすっきりさせた。

 何が何だか分からぬまま、彼女はこの子供たちと一緒に暮らすことになってしまった。

 それがどういうことなのか分からずに、リネットは窓の外に眼をやった。

 握り拳ほどありそうな太陽が、溶けそうなくらいに真っ赤に熟れ切って、山の端に隠れようとしている。

 この惑星の自転周期は、三十二時間である。長い一日が、ようやく終わろうとしていた。



 8


 ティアがリネットに話してくれたこと。

 ウィンダム島――子供たちはそう呼んではいなかった。それは、研究所の人が付けた名前である――この地では、「こども」と『おとな』は別のところで暮らしていること。

 一定の年齢に達すると、『おとな』になるための準備をするために、ここを離れること。

『おとな』とは何かは、そのときになるまで秘密にされているということ。

 そして彼女も、もうすぐそのときを迎えようとしていること。

「そう、こんどの『影がなくなる日』に、お迎えが来るんだって。あの山の向こうから」

 ティアは窓の向こうに見える、西の峰を指さす。

「そうしたら、どうなるの?」

 彼女は答える代わりに、曖昧に笑った。

「でも、なにも心配することはないわ。すべては《マム》の思し召しだから」

 ここで《マム》と呼ばれている存在は、「こども」たちの生活すべての面倒を見ていて、一定の周期で、この「いえ」に姿を現すらしい。あのマナという食べ物、衣服など、諸々の生活物資を補給しているという。

 侵入者である彼女も、そのときに引き渡されるようだ。リネットはそれまで、この「いえ」に住むことになる。

 彼女は寝床をあてがわれた。

 廊下の両脇に、葡萄の房のような小部屋が連なっている。

「あなたは、カフィの部屋で寝てね」

「カフィ?」

 紹介された中に、そんな名前は聞かなかった。ティアは言った。

「帰ってこないの。ずっと……。どこをさがしても見つからないの」

「神隠しね」

 ティアは泣きそうな表情をした。

「わたしがここで一番年上になってから、もう五人目なの。ここしばらくの間にもいたわ。……わたしたちは、お互い離れては生きていけないわ。」

「そう。でも大丈夫、気を落とさないでね。きっと見つかるわよ」

 リネットはそう言うことしか出来なかった。確かなことなど分かるはずもないが、目の前の悲しむ少女を慰めなければならない。ティアには、そう仕向ける見えない力が備わっているようだった。

 部屋はかなり古びていたが、荒れていたという感じではない。くすんだ飴色のシーツは、落ち着きすら感じさせ、この部屋の何代にもわたる住人たちが、大切に使っていった様子がうかがわれる。

 持ってきた通信端末は、沈黙を続けている。

 この「いえ」に住んでいる「こども」は、全部で二十人。一番歳上で、リーダー格の存在が、ティアだ。

 かれらはみんな、漂白したような肌に、薄い色の眼をもっていた。その中でも、完全にメラニン色素を欠いていたのは、ティアだけである。全員どことなく線が細く、華奢な体つきで、肥満体はひとりもいなかった。

 使っている道具類は簡単な食器くらいで、住んでいる「いえ」のほかには、文明の利器といえるものは使用されていない。かれらが使う身の回りのものはすべて共有され、個人の持ち物といえば、服だけである。

 もちろんリネットも、「こども」たちの行為をただ笑って受け入れているだけではなかった。警戒心がなかった、といえば嘘になる。

 研究所との連絡を幾度も試みたが、腰のホルダーに納めた通信機は、「そのまま次の連絡を待て」という指令以来、沈黙したままだ。

(ナカオさん達は何かを知っているに違いない。わたしにここで何かを期待しているのだろう)

 リネットはそう判断した。

 監禁状態はすぐに緩和されている。逃げ出そうと思えば出来なくもなかったが、ティアをはじめ「こども」たちの無垢な姿を見ているうちに、そんな気持ちもいつしか薄らいでいった。

 なにか、すべてのことが夢のようにすら思えてきてしまう。それほどここは「現実」からかけ離れた空間なのだ。

 このままここにいる。それがとりあえずの最善策のように思えた。


 「こども」たちの知らない世界から来たリネットは、いつでも皆の注目を浴びていた。

 彼女は捕虜であった。が、同時に賓客だったかもしれなかったし、ひょっとしたらペットでもあるようだった。

 とくに、リネットが持っていた身体は、「こども」たちには、まったく未知の存在だった。

 すんなり背中に流れた亜麻色の髪。白皙にはめ込まれた双つの碧玉のごとき眼。薄めの唇から見え隠れする歯。ほっそりと形よく尖った顎。

 そして、服に包まれていてもなおも存在を主張する、胸にせり出した柔らかな高まりや、まろやかに張り出した腰には、いつも複数の興味深げな視線がまつわりついていた。

 だが、それは決して不快なものではなかった。かつて母と一緒に銀河を旅していた頃に、周囲の人々から浴びせられた、怯えたような、憎まれているような眼の光に比べれば、それはまるで、心地よい春の雨のようにも感じられた。

 リネットは、「こども」たちが集まったとき、外の世界のいろいろな話をしてあげた。

 熱心に耳を傾ける「こども」たちの眼は、知らない世界を知る喜びに輝いていた。かれらはまるで、リネットの口から放たれた言葉を、ひとかけらも漏らさず集めようとしているようだった。

 話も終わり頃になって、ひとりの「こども」が問うた。

「『おとな』って、どんなの? ね、知ってるでしょ?」

 隣にいた女の「こども」も、訊ねた。

「そうだ、まだ聞いてなかった。どんなの?」

「どんなの?」

「どんなの?」

 居並んだほかの「こども」たちも、それに併せて唱和した。

「えっ、えーと……」

 リネットは言葉を詰まらせた。

「そうねえ……大きくて、何でも知ってて、頼りになるひと……かな」

 右端の「こども」が言う。

「じゃあ、ティアみたいなひとかな?」

「そうかもね」

 リネットはほほえんだ。


 夜が明けて、床の中で彼女を目覚めさせたのは、首筋や腋の下で拭えなかった汗が粘ついた不快感だった。

 朝食の席でティアにそれを訴えると、彼女は「いえ」の裏手にある、水浴び場へと連れてゆかれた。

 水浴び場は公園の噴水ほどの、円形の泉だった。水は完全に澄み渡って、さほど深くない底を、手に取るように眺めることができた。底のところどころでわき出した清水が、敷き詰められた白い砂を踊らせている。

 溜まった水が、池の一端から流れ出して、小川を造っている。そこでは「こども」たちの服を洗濯している。簡素な衣類は、流水ですすいで、半日陽に当てれば、次の日にはまた「こども」たちの素肌にまとわれることが出来るだろう。

 汗と埃をたっぷり吸い込んだ、上下の作業着を脱ぎ捨てた。素足を一歩、泉の中に踏み入れた。

「ひゃあっ!」

 思わず嬌声を上げた。冷たかったが、身を切るような過酷さはない。

 砂地からわき出し続ける清水を、両手ですくい上げて、頭にかぶる。その仕草を何度か続けた。指先から飛び散った飛沫が、七色にきらめいた。肌の上で玉になった水滴にも、飛び跳ねるたびに踊るピアスにも、同じ陽光が飛び散っている。

「気持ちいいよ!」

 岸辺のティアに手を振る。

 足の付け根を覆う布きれに手がかかったとき、背後にいくつかの視線を感じた。男の「こども」が何人か、こちらを注視していたのだ。

「向こうにいって」

 かれらに背中を向け、胸を左腕で覆って、右手で払いのける仕草をする。が、かれらは気にした風もない。

「どーしてさ」

 ひとりが口を尖らせる。

「わ、私たちの世界じゃ、そうなってるのよ」

 へどもどしながら、泉のほとりに立っていた、大岩の陰に回った。男の子たちはなおもついてくる。

「ティアがいるじゃん」

 別の「こども」が口答えする。

「ティアは女の子だからいいの! とにかく、あなたたちはだめ!!」

 顔をそむけて、あさっての方向に叫んだ。耳の奥まで真っ赤になったように感じた。

「あら、どうして」

 ティアが問いかけてきた。彼女も、行きに着ていたワンピースを脱ぎ捨てている。

「みんなといっしょの方が楽しいわよ。さあ、おいで」

 ティアは男の子たちに相対していた。両腕を広げ、どこも隠そうとせずに。

 そっとティアを盗み見る。

 こちらに向けた白い背中の、天使の羽根のようにくっきり浮き出た肩胛骨。水面に洗われている、微妙にカーブを描いた背と腰の境目。その下の双つのふくらみが、水中でゆらゆらと頼りなげな映像になっている。

 岩陰で膝を抱えていたリネットはなぜか、言い様のない羞恥心に、居たたまれなくなるのだった。

「いいから。私、もう上がる」

 立ち上がって、泉を出ようとしたとき、幼い女の「こども」が、彼女の腰にすがってきた。

「ああ、何するの」

「リネットって、ぷくぷくして、こーしてるときもちいい」

「そ、そう?」

 眉間にしわを寄せて、眉を八の字型にする。が、次の瞬間その表情は崩れる。

「あっ、駄目よ、そんなとこ引っ張っちゃ!」

 岩陰から引きずり出されるリネット。「こども」たちに囲まれる。

「そうらっ!」

 油断していたところへ、もろに水しぶきを食らった。

「このぉ、やったなあ!」

 ふざけてこぶしを振り上げる。

「ほーら、出てきたあ」

 水をかけた「こども」たちは、恥じらいのなくなったリネットを指さしながら、きゃらきゃらと笑った。

「あはははは」

 いつの間にか彼女も、両手で泉の水を跳ね上げていた。

 みんなが息を荒くして、疲れ果ててしまうまで、水浴びは続いた。岸辺に寝そべると、照りつける陽射しがやさしかった。


 9


「こども」たちは、遊ぶのが仕事だった。

 みんな毎日、飽きもせずに野原を駆けずり回っている。

 大きくなるにつれ、掃除や食事の準備など、何がしかの用事を分担されるのだが、すぐに済んでしまうようなものばかりである。空いた時間は、もちろん遊びに費やされる。

 もっとも、かれらにとっては、仕事と遊びの境目さえ、厳密ではないのだったが……。

  晴れた昼下がり、リネットは、ティアと何人かの「こども」を引き連れて、なだらかな斜面で野草を摘んでいた。

 紫外線のほとんど含まれていない陽光は、眩しいというよりも間接照明のようにやわらかい。

 野原いっぱいに生えた野草の中から、サラダに入っていた、ぎざぎざの葉っぱを集めているのだった。

「これは、葉っぱの他に根も食べるのよ。煮込んで、スープに入れて……」

「へえ」

 マナだけでは、栄養が完全ではないのかもしれない。黄色い花を咲かせているものや、花が散って綿毛の塊になってしまったもの、まだ茎を伸ばしていないもの。様々な姿のものが交じりあって、地面を覆っていた。

「ダンディライオンね」

 リネットが、草を見てつぶやく。

「ダンディ……ライオン?」

 ティアは復唱した。ただの雑草の名前でも、その澄んだ声で唱えられると、何か神秘的な意味すら帯びているように感じられる。

「この草のことよ。人類にとって、もっともありふれた路傍の花。私はいろんな星に行ったことがあるけど、どこの道端にも生えていたわ。この星にもあるなんてね」

 リネットは微笑む。

「それから、これがクローバー、これはオオバコ……」

「ふうん。花に名前があるなんて、知らなかった。《マム》はそんなこと、教えてくれなかったから……」

 ティアは茎を手折って、花弁をしげしげと見つめた。

 リネットはもうあの、研究所であてがわれた作業服は着ていなかった。小川で洗った後干しておいたが、なかなか乾かず、そのままにされた。

 ティアの服を貸してもらったが、胸や腰がきちきちに詰まった。あちこちを破いたり繕ったりして、なんとか体に合うものにしたが、ティアのふくらはぎを覆っていた裾の丈は、膝小僧のはるか上にまで後退している。丈足らずでつんつるてんの出で立ちは、よく「こども」たちの笑いの種になった。

「うわぁーぃ」

 ひとりの「こども」が、なだらかな斜面を転げた。花が散って、白い綿毛になった株が集まっているところで身体は止まり、白い風が吹き上がった。

 リネットたちは目を細めて、その様子を見守っていた。手には黄色の花束。

長い銀髪を丁寧に整え、三つ編みにしてやった。

 そして花で冠を編み、ティアの頭に載せた。銀色の髪に、暖色の黄色い花はよく似合った。

「はい、お姫様の出来上がり」

「ありがとう……いろんなことを知ってるのね」

 素直に感動するティア。だが、彼女にとってそれは桎梏だった。

 幼い頃から、彼女はずっと注目され続けていた――悪い意味で。

 嫌悪と羨望の混じった視線を投げかけるもの、通り過ぎたあとでひそひそ話題にする者。彼女たちを万能であるかのように誤解――曲解か――して、あからさまに無理難題をふっかける者までいた。

 それらにはもう、いい加減、うんざりしていたが――

 リネットは草むらに向かって身体を投げ出し、視線を天空に向ける。ふかふかした感触が心地よい。

「この星の太陽光線は、赤外線が多いのね」

 リネットは「第二の視力」を持っていた。ピアスに似せたプラグと、大脳視床下部にインプラントされたバイオチップで、通常人よりもはるかに多くの情報を処理できる。

 ガンマ線の放射や、重力波、ニュートリノ。人間の感覚ではとらえられないものを、生々しく「視る」ことが出来た。恒星船の異常を告げる諸々の微細な「兆候」を、「予感」として察知することも出来た。

 しかし、ここでは何の役にも立たなかった。高原を吹き渡る風は、ただの空気の移動ではなかった。空で輝く太陽は、電磁波を放出するプラズマ体ではない。

 ただ、存在すること。それがこんなにも、満ち足りたことだなんて。

「リネットがいたところって、どんなの? 何度も聞いたけど、どうしてもうまく思い浮かべることができないわ」

 ティアは問う。リネットは空を見上げたまま、口を開いた。

「にぎやかで、うるさくて、うれしいことも、悲しいことも、いっぱいあったわ……ありすぎるのよ」

 こみ上げてくるものを、かろうじて飲み込む。

「ティア、私は、こんな一日にあこがれてたわ」

 彼女は、幼い頃から母親に連れられて、方々の星々を巡った。そこで、 普通の人々が、一生の間にそうそう体験しないであろう異常な経験を、彼女は数限りないほどしてきた。

 彼女がまだ、幼かったとき。ある異星にやってきたときのことだ。その惑星にいる先住知的生物に、コンタクトを取った。人類とは全く異質の生態と、思考方法を持っている生物との接触。幼く柔軟な思考を持つ彼女は、適任だった。

 濁った薄紫色の空。顕微鏡で見たカビのコロニーのような植物たち。

「リネット、ご挨拶なさい」

 母親に促され、彼女は震える手を伸ばした。目の前の、暗緑色の肉塊から伸びる触手にさわった。

 彼女はこわごわ、顔の筋肉をゆるめた。そして、スカートの裾を広げて、会釈をした。

 そんな体験を思い出して行けば、きりがない。「うらやましい」と無邪気に言われたことも、何度もあった。

 でも――

 自分の横にいる少女。この草原しか世界を知らない少女の方が、世界のことをより深く「知っている」ような気がする。

 彼女は、生まれながらに、この世界に祝福されているのだ。その前では、自分の奇異な体験や、知識など、いかほどのものだろうか。

「やっぱり、私は……」

 青空を見上げて、ひとりごちた。

 そのとき、上着のポケットから、なにかが這い出す。赤い光が、彼女の眼に乱反射した。

 金属の甲皮をかぶった、ネズミほどの大きさのロボット。

 恒星船からついてきた、借り暮らしだった。

「ネピ」

「ネピって言うの?」

「そうよ。初めて見るの」

 ティアは表情を明るくさせ、好奇心をむきだしにした。小さな手に乗せて、ためつすがめつしていると、その視線に戸惑ったのか、ネピは急に、フットスプリングを使って跳ねとんだ。

「きゃあっ」

 手を引っ込めるティア。

「びっくりしたのよ。ネピにしたって、今まで狭い恒星船の中しか世界を知らなかったんだから」

 リネットはくすりと笑った。

 ふたりの目の前に、一匹の蝶が、そよ風に乗ってひらひらと舞い込んできた。

 その羽は、透明な膜で、光を分光して鮮やかな虹色にきらめいていた。生物の色ではなかった。

 ティアの花冠に止まったところを、そっと手をかぶせて捕まえてみる。ぶるぶる震える羽根を摘んで、目の前に持っていった。

「あら、これは」

 それは、蝶ではなかった。虹色の羽は、プラスチックのフィルムで出来ている。頭部から突き出た触覚はセンサーだ。単純な構造のロボットで、本物の蝶の代わりに、花から花へと花粉をつけて回っているのだろう。

「ここのチョウチョは、ロボットなの?」

 ティアに問う。

「それは《マム》の使いよ」

「これもなの?」

 彼女は、すべてをそう呼んだ。

「この地にあるものすべて、土も草も花も、そしてわたしたちも《マム》が造ったの」

「あなたたちも?」

 ティアはうなずく。

 たしかに、ここは不思議なところだった。昆虫がいない。鳥がいない。獣もいない。ほんの何種類かのお花畑と、「こども」だけのパラダイス。

 この景色。まるで百年も前から変わらないように思える。

 「こども」たちを遊ばせるために、この草原は造られたのだろうか。

 リネットは、ぼんやりと思考を宙に漂わせていた。彼女の膝には、ティアが身体をもたれさせている。銀色の髪がぱらりとほどけて、膝下を覆った。

 白湯のような陽射し。地面のやわらかな感触と、土と草と花の甘い匂い。隣では、ティアの安らかな寝息が聞こえる。

 いつの間にか、リネットはまどろんでいた。

 それからどれほど時間が経ったか。目覚めたときにはもう、陽は大きく傾いている。

「あら、ティアは」

 いつの間にか、リネットの傍らからティアの姿は消えていた。

「ティアー、どこにいったの!」

 立ち上がって呼びかけた。しかし、その声は、丘陵の向こうへ消えていった。

「先に帰ったのかしら……」

 草原には、霧が再び立ちこめてきた。



 8


(ティア……)

 あの声で、ティアは、まどろみの淵から浮き上がった。

 リネットのもとを離れたティアは、花の咲き乱れたゆるやかな下り坂を歩いていった。

 彼女の心の中に、誰かが語りかけてくる。

(こっちへおいで)

 彼の「こころ」は、やさしかった。昔と同じだ。

(だれ、わたしを呼ぶのは)

 右斜め前に大きな岩がある。その陰から、誰かがこちらを見ている。

 心の中で、まだ見ぬ相手に想いを送った。

(あなたなの)

(そうだよ)

 岩の背後から、人があらわれる。

 そして、そのままティアに向かって歩いてくる。

「あ……」

 その姿を認めたとき、ティアは、化石化したように歩みを止めた。

「あなたは……」

 姿が露わになる。銀色の上下を着た、少年。

 目の前に現れた「彼」は、微笑んでいた。かつてのように。そして語りかけた。

「ティアだね」

「そ、そうよ」

 少年には、あのときの面影が、かすかに残っていた。顔の作り、髪の色。そして、忘れもしない金色の虹彩。

 懐かしいあの顔――彼だ。

「ティア……」

「ハドリ!」

 頬を一筋しずくが伝う。夕陽を浴びてそれは赤く輝いた。あとかあとから流れだし、やがてワンピースの胸は、しっとり濡れた。

 そして少女は、少年の懐へ向かって飛び込んでいった。

「どうしたの、一体。今までどこに行ってたのよ……」

 ハドリの胸を濡らしながら、ティアがつぶやく。

 彼はその質問に答える代わりに、黙って少女の頭に手をおいた。

 掌に覆われ、銀色の髪がくしゃっと音を立てる。彼の記憶が、流れ込んでくる。


 ――白い壁、白いカーテン、白いベッド。白い部屋に、彼が横たわっている。そして彼のまわりのみんなは、白い服を着ていた。口々に、彼女に理解できない言葉で何か喋っている。


 病院の個室で、少年はベッドに横たわっていた。

 医師団がベッドを取り囲んでいた。

 一番若い医師が少年に話しかける。

「手術は成功した。大丈夫だ」

「そうですか……」

 少年は意識が戻ったばかりで、まだ目の焦点が合っていない。医師の顔も薄ぼんやりとしか見えなかった。

「まだ体内にナノマシンが残っている。暴走する可能性がゼロではないので、しばらく安静にしていて欲しい。数日経てば腎臓から排出されるとは思うが……」

 看護婦が脇腹をつついた。

「わかるんですか? この子に」

「あ、ごめんごめん。難しい言葉使っちゃって」

「いいんです」

 少年は笑った。

「まあそういうことだ。心配しないで、ゆっくり養生しなさい」

 一番年かさの医師は、少年の手首を取って脈を診た。

 実用的な意味は殆ど消えていたが、医者が患者とコミュニケーションを取るには、一番確かな方法だ。

「ふむ、問題ないようだ。養生しなさい」

 一団は部屋を出ていった。

 少年はひとり残された。


 ――しかし。

 あのような「ひと」を、ティアは見たことがなかった。

 ハドリに話しかけている「ひと」。彼はどうして、顔や手に皺があんなに寄っているのだろう。どうして、髪の毛がところどころ白くなっているのだろう。

 そして、彼らはハドリに何をしていたのだろうか。

 目の前の少年に流し込まれた記憶は、彼女の想像の範囲を超えるものだった。ティアは根が生えたかのように立ち尽くしていた。

「まるで、リネットの話に出てきたみたいな……」

 ティアはひとりごちた。

「リネット……ここにいるんだな」

「ハドリ、リネットを知ってるの?」

 彼はうなずいた。そして、ポケットをまさぐる。

「ティア、これを」

 ケースから、白い錠剤を2.3粒手のひらに乗せて差し出した。

(だいじょうぶ)

 彼はテレパシーで、怯えるティアをなだめた。

「それ、なあに?」

「薬だよ」

「……どこも悪いところはないけど」

「そのうちわかるよ」

 ハドリは微笑んだ。

 ティアは言われるがままに口に含み、水も無しに、錠剤を喉に通した。

「よーし、いい子だ」

 抱き寄せて、ティアの顔を胸に押しつける。背中を二三度平手で叩いた。

ティアはぎこちなく笑みを浮かべた。

「『お迎え』が来る日は、いつだっけ?」

 ハドリは突然、話題を変えた。

「もうすぐ。こんどの『影がなくなる日』だって。たぶん、あなたもじゃない?」

「え、そうなるのか――」

 ハドリは天を仰いだ。

「でも、よかった。一緒に行けて」

「……そうだな」

 ティアは唇から、真珠のような歯をほころばせる。ハドリは、ぎこちない笑いで応えた。

「帰りましょう」

「ああ」

 ふたりは並んで、草原を歩き出した。


 一足先に「いえ」に帰っていたリネットは、配膳の手伝いをしていた。皿を規則正しくテーブルに並べて、スープを注ぐのを待っている。

「あ、あなたは……」

 少年の顔を見た途端、言葉を失った。手に持っていた皿を落としそうになった。

 ティアの横に立つ彼は、あのとき公園で出会った少年、シャトルでカプセルに入っていた少年ではないか。

 彼女が着ていたのと同じ、研究所の作業服を着ている。

「やあ」

 ハドリは手を軽く挙げた。

「リネット、ハドリよ。知ってるんでしょう」

 ティアは無邪気に言う。

「え……ええ」

 いろいろな思いがリネットの頭の中で、銀河のように渦巻いた。

「どうしたの」

 ティアの表情に、不安の影が差す。

「ううん、何でもないわ」

 曖昧な返事をした。しかし、忘れようもない。あの眼の輝き。なぜ彼は――。

 夕食の席で、ティアは小さな「こども」たちにハドリを紹介した。彼のことを知っていたものは、ティアのほかに、何人かの年長の「こども」だけであった。リネットに続く来訪者に、「こども」たちは歓声を上げた。

 食事が終わると、程なくティアは、うとうとと舟を漕いでしまった。リネットはテーブルに突っ伏した身体にシーツを掛けた。

「ちょっと、来てくれないか」

 片づけが終わったあと、ハドリに、誰もいない廊下の隅へ呼び出された。

「こっちが聞きたいわ。どういうこと?」

 リネットは腕を組んで詰め寄る。ハドリはポケットから、銀色の物体を取り出す。

「マイクロクラフトのキー……どうして、あなたが持ってるの?」

「研究所に帰りたくないのかい」

「そりゃ、帰りたいけど……」

「ナカオさんから、言付かってきた。ぼくに従って、任務を遂行しろとね」

「何を考えてるの? ナカオさんは」

 ナカオはおそらく、わざとここに来るように仕向けたのだろう。そして、彼女に何かをさせようとしている。それが何かは、分からないが……。

「きみにはまだ言えない」

 ハドリは涼しい顔だ。

「今夜、モジュールのところへきてくれ。研究所の作業服を着てね」

「……分かったわ」

 釈然としない思いで、了承する。

 この部屋に照明はない。床に入って、シーツを頭からかぶり、寝たふりをした。


 8


 眠っていた「こども」の頭の中で、声が響く。

(きみは、だれだっけ)

「……イエナ」

 よく回らない口で、もごもごと唱えた。

(おいで、イエナ)

 声に応えて、イエナはおぼつかない足取りで廊下を歩いていった。

「どこいくの?」

 偶然用を足しに起きていた、男の「こども」が問いかけた。

 イエナは答えなかった。幼い彼はさほどの疑問を持たず、イエナを見送った。

「いえ」からずいぶん離れたところで、男の子は目覚めた。

「ここは、どこ?」

「イエナ……きたね」

 ハドリは問いかける。

「きみは『おとな』になりたい?」

「ううん……まだ、わかんないや」

 ハドリは軽く笑って、背中をぽんと叩いた。手を握って、闇が降りた草原を歩いていった。


 夜半、ほかの「こども」たちを起こさないように、リネットはそっと寝床を抜け出した。研究所の作業服を身につけ、明かりのない廊下を手探りで進み、外へ出る。

 曇っていたようで、見上げた夜空に星が見えない。

 空間が、ひどく重たく感じる。

(何が起きてるの……)

 ここにある光と言えば、薄雲を通してぼんやり輝く二つの月だけ。それらを集めても、彼女の網膜に像が映るような光の量にはならない。

 それでも、異様な雰囲気、もっと言えば殺気が充満しているのは感じ取れた。

 ポケットから、金属のロボットを取り出す。

〈ネピ、私の眼になって〉

 彼女は、掌の上の借り暮らしを、左の肩に乗せた。

 思念を同調させてゆく。「リズム」をさぐり当てると、集積回路は、彼女の脳の延長となる。アイセンサーの映像が、彼女の視床下部へと送り込まれてくる。

 草原の画像が、認識された。リネットは、第二の視力を手に入れた。

 鼻をつままれても分からないほどの暗黒が、ぱっと明るくなる。地面の様子、草の生え方も、昼間のように鮮明に見て取れる。彼女は歩き出した。

 十五分ほど、北東に歩いただろうか。「いえ」からは、相当離れた。

「……いた」

 彼女の目前に、小さな白い影が浮かび上がる。表面温度三五度。人間だ。身長一三〇センチほどの「こども」だった。赤外線では、詳しい顔の表情までは分からない。

 そろそろとにじり寄る。作業服の裾と、草がこすれる音が、やけに大きく耳に響く。

「あら、あなた」

「こども」の姿を認めた。イエナだ。

「むにゃむにゃ……」

 ボタンのような鼻をつついてみた。しかし、寝ぼけた声が返ってくるだけだ。

「どうしたの?」

 目の前の「こども」は、様子がおかしい。揺すっても、たたいても元に戻らないと言うのは……。

「リネット……来たね」

 ハドリの声。そして白い影が、彼女に寄り添う。

「こっちだ。その子をつれて、早く」

 ハドリはイエナの手を引く。しかし、この子はどうするのだ。

「『いえ』に帰さなくていいの?」

 リネットは手を取りのけた。

「いいから」

 イエナの柔らかい腕を、ハドリは強く引く。

「いたいっ!」

 イエナはむずがる。リネットはハドリの手からイエナを奪い、抱きしめた。

「ほら、泣いちゃったじゃない。おお、よしよし、いい子だから……」

 腕の中の男児をあやしながら、少年をにらみつける。

「……あれ、ぼく、なにしてたの?」

 イエナの声。きょとんとしている。正気に戻ったようだ。

「ハドリ、あなたが子供をさらっていたの……!」

 ハドリは黙って、胸ぐらをつかみ上げる。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、彼女を見舞った。

 そのとき、空気をしびれさせるような鈍いうなりが、どこからか響いてくる。

 暗闇に赤い光。それに呼応するかのように、肩の上のネピは、作業服のポケットに潜り込む。

 彼女の心の中にも、奇妙なものが入り込んでくる。いったい、目の前のものは……。

「あっ、《マム》だ!」

 イエナは無邪気にはしゃぐ。

「あれが……」

 暗闇の中で一瞬、かいま見た姿。しかし……。

 そのとき辺りが、はじけるように、強烈な光で照らされた。

「きゃあっ!」

 鋭い悲鳴を上げた。暗闇に順応しきったの眼は、痛みすら感じるほどの衝撃に見舞われた。

 光に目が慣れてきて、網膜に像が浮かぶ。視界の中に、赤い光の飛沫が飛び散っている。

 逆光の中に、人の姿が浮かび上がった。

 銀色の作業服が、ライトを反射して、ぎらりと光る。ビークルの脇に、男がなにかを持って立っているのが見える。

「……コーディさん」

 研究所のやせぎす男だった。よけいなことはしゃべらず、いつも機械いじりをしていたように記憶している。

「どうしたんです」

 そこまで言葉を繰り出したとき、右のうなじを鋭い衝撃が襲う。

 ひゅうん!

 風を切る音が聞こえた。亜麻色の髪が何本か、はらはらと舞った。鈍い音を立てて、足下の草が、土ごとはねとばされる。

 冷たい刃を押し当てられたような恐怖が、彼女の背中に走った。口を開くが、声は出なかった。

「何をするんですか……」

 言葉に出来たのは、それだけだった。

 彼が携えていたものは、銃だった。特徴的な形をした自動小銃である。銃把は銃の中央部に位置している。銃床の最後尾に、四角いカートリッジがはめ込んであった。弾倉と、電気を供給するための超電導コイル。加速コイルに高圧電流を流し、発生するローレンツ力で弾丸を高速で発射するレールガンだ。

 加速コイルが埋め込まれている銃身は、まがまがしい銀色の光沢を放っている。

 その瞬間、ばらばらだった謎が一本の線につながった。

「こども」たちをさらっていたのは、彼らだったのだ。そして、その手引きをしているのは……。

「イエナ、逃げてぇ<」

 リネットは声を限りに叫んだ。

「撃たないで!」

 イエナと銃口との間に、身体を割り込ませる。

「邪魔だ!」

 スナイパーは甲高い声で警告した。再び彼女に向かって、レールガンの斉射が襲う。煎り豆がはじけるような音がして、飛び散った土のかけらが、ふくらはぎに当たった。

 吹き飛ばされるように、つんのめった。

 あの平和そのものだった草原は、一瞬のうちに戦場と化した。

 地面のくぼみに、エアクラフトが停まっている。ローターを使って低空を飛行できる、乗用車タイプの乗り物だ。

 闇に身をひそめるその姿は、待ち伏せして獲物を狙う猛獣のようだった。

 モーターが搭載されている部分が、ほのかに明るい。熱せられて、赤外線を放っているのだ。

 イエナの小さな身体は、小走りに赤い光のもとへと駆けていった。

リネットも、イエナを追った。が、草が吹き散らされる音が、背後に迫ってくる。彼女は捕捉された。

 背中を荒々しく捕まれる。そして力強く引き寄せられ、魚を釣り上げるように、リネットの身体はエアクラフトの荷台へ引き揚げられた。

「おまえ、二度もしくじりやがったな、こんちくしょう!」

 ランディが耳元でわめき散らす。

「おい、さっさとしろ。今日は大潮だぞ」

 冷静なナカオの声。

「例の場所に直行する。時間がない」

 ローターがうなりを上げた。引っ張られるような加速度を感じる。垂直上昇したのだ。窮屈な格好で、奥に転がり込む。激しく頭部を打つ。

 空気のなかに、かすかに、潮の香りを感じたような気がした。

 エアクラフトにはナカオ、コーディ、ランディが乗っている。操縦席にはもうひとり座っているが、誰かは分からなかった。

「情が移るとはな。アスロン君、君には失望した」

 後部座席に座っていたまず口を開いた。

 リネットは問い返す。

「子供をさらって、どうするつもりだったんですか? この惑星には、何があるんですか? あなたがたは、何をしてるんですか?」

「答える必要はない」

 仮面をかぶったような顔で、問いをはねつけた。

「君は新人研修に失敗したんだ。この会社の一員となるための、イニシエーションに。研究所員になる資格はない。荷物をまとめて、帰ってもらおう……この次の便でな」

「そんな」

「……残念だよ。君には特別の期待をかけていたのにな」

「困ったお嬢さんだこと」

 乗り込んだ所員たちは、薄ら笑いを浮かべながら、口々に言いつのる。ついこの間まで、「仲間」だったはずなのに。今ではもう、「よそもの」にしかすぎないのだろう。

「ドミナントだったんだろ、おまえ」

 コーディが指さして訊ねる。

「……知ってたんですか!?」

「そうだよ。知らぬはおまえさんばかりだったのさ」

 皆は下品な笑い声を上げる。

 何てこと。私は利用されていたのか。名状しがたい戦慄と怒りが背筋を走る。

「絶対、許さない……あなたがたを!」

 ナカオは強者の余裕を浮かべていた。

「まあいい。もうすぐ、面白いものを見せてやろう……それまでちょっと、ここに入っていてもらおうか」

 ナカオが顎で指図をすると、所員がふたり、彼女の背後に回った。

 腕がねじ上げられる。

「いやあーっ!」

 リネットは絶叫した。が、ガーゼで口と鼻を覆われる。薬品のにおいがつんと鼻を突く。

(……麻酔薬!)

 身体が末端の方からしびれてゆく。

 白濁してくる脳裏で、白い少女が、脳裏に浮かんだ。それに寄り添うように立っているのは、金色の眼の少年。

(ティア、彼について行っちゃ、だめ……)

 懸命に呼びかけたが、言葉は声にならなかった。



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