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闇に光る眼、そして緑の園

 4


 貨物船から切り離されたアイランダー級シャトルは、トゥリオナの衛星軌道を周回しながら、徐々に高度を下げて、大気圏へその身を沈めてゆく。

 機体の震えは間断なく続き、窓の外側に流れるプラズマは、やがて、気体の分子になっていった。

 大気が濃くなると機体は冷え、窓は再び景色を映し出した。高度三万メートル。眼下に見えたのは、まず雲海だった。雲はしだいに切れ切れになり、その隙間から、本物の海が現われた。

 トゥリオナの海は、清流の淵のような淡いエメラルド・グリーンをしている。

 海中に大量に繁殖している海藻やシアノバクテリアが、この色を作り出しているのだ。大気の酸素濃度は標準大気――「地球」のもの――と大差なく、大気圏上層部にはオゾン層があり、人間が特別の防護措置を施さずに地上で過ごすことを可能にしていた。

「ここが、トゥリオナ……」

 武骨な耐Gシートに縛りつけられながら、リネットは窓の外を眺めていた。

「そうです。今日は静かですね」

 リネットの隣で操縦桿を握るラドラ氏が答えた。

 減速Gが、尻を押すようにかかってくる。さほど強烈なものではなかったが、三週間も恒星船のなかで低重力に慣れ切った肉体にとっては、ちょっとした負担に感じた。旅客用でないシャトルは、お世辞にも快適な乗り心地ではない。

 高度が低くなる。そろそろ、ランディングだ。

 トゥリオナには、原生の陸上生物は存在しない。陸地は惑星表面のわずか三パーセントでしかなく、唯一の大陸は北極にあるが、そこは氷に閉ざされた不毛の地である。その他には海底火山や、海嶺の頂上が、ところどころ海面の上に出ているのみだった。

 研究所があるウィンダム島は、その島々の中でも最大のものの一つだ。地下のマントルがマグマになって上昇してくるホットスポットに出来た島であり、中央部にそびえるドーネル火山は常に煙を吐いている。

 低緯度の亜熱帯、北回帰線上に位置し、平均気温は一年を通して二十八度前後だ。

 水平線の彼方に見えた島影は、みるみるうちに大きくなる。黒い山肌に、風力発電の巨大な風車塔が横一列に並んでいるのが目に入った。

「あれがウィンダム島です」

 ラドラ氏は言った。

 研究所は島の南部に作られ、海洋資源や生態系、気候などの観測を行っているという。古い火口に海水が流れ込んで出来た波の静かな湾に面し、シャトルもそこに着水することになる。

 身体に鈍い衝撃が伝わった。胴体が水面に接したようだ。続いて、飛行中を上回る減速Gが体を襲う。逆噴射し、急速に速度を落としたのだ。

 シャトルは浜辺に乗り上げるように停止した。

 ドアが開き、格納されていたタラップが下がる。機を降りた。

 南の空には、大きな太陽が光を投げかけている。中天にありながら、その輝きは夕陽のようなオレンジ色だ。地球の太陽や、ミュゼの太陽のようなG型恒星よりも、表面温度が低く暗いK型恒星であり、その分、惑星は太陽の近くを回っているためである。

 この太陽には、MXIー1715Aという無味乾燥なコードネームしかついていない。名前をつけるべき人間が、この星系にはいなかったからだ。

 地面は、玄武岩が破片となって敷き詰められ、土は存在しない。見渡す限り黒い大地が広がり、岩に封じ込まれたガラス成分が、陽光を反射してきらめいている。

 重力は1Gよりもやや小さい。身体が心持ち軽い気がする。

 初めて降り立つ星の空気は、高温で湿気が多かったが、べたついた感じはない。彼女には優しく感じられた。

 景色を見渡す。

 初めて訪れる星なのに、この光景はたしかにどこかで見たことがある。リネットは不思議な既視感に襲われた。

「まさか、あのときの……」

 立ちつくした彼女の横を、無人のトラックとロボットが通り過ぎ、シャトルの積み荷を下ろしはじめる。

 周りには、積み木のような建物が建ち並んでいる。シャトルに積まれたコンテナや、大気圏突入カプセルをそのまま倉庫として使っているようだ。どれも人が住んでいる気配はなかった。

 一番手前の一棟だけ、雰囲気が違う。かなり前から建っていたような、くすんだ雰囲気のプレハブ小屋である。

  正面のドアは、開け放たれたままだった。ひとがいるのだろうか。恐る恐る歩み寄って、中の様子をうかがってみる。

「……!」

 彼女は一瞬目を大きく見開き、続いて顔をしかめた。無理もない、開け放たれたドアの内側は、ひどい散らかり様だったからだ。

 中に足を踏み入れると、かびくさい空気が彼女の身体を包んだ。足元でばりばりという音がする。廊下一面に、がらくたやごみが散らばって――積もっているという方が適切かもしれない――いて、踏まずに歩くのは不可能だった。

 灯りは点っていず、薄暗い室内の様子はよく分からないが、どうやら倉庫だろうか。廃墟でも、ここまでひどいものは少ないだろう。

「うるせえなあ」

 奥から声がした。それに続いて、荷物の影から、立派な体格の男があらわれた。

 羽織っている白衣が、辛うじて彼の職業を示していたが、同時に彼の境遇も、より雄弁に物語っている。

 それはよれよれで、白衣とは名ばかりの、くすんだ灰色の上っ張りだった。ずっと洗濯もしていないらしい。

 充血した目をしょぼつかせ、無精ひげは伸ばし放題。

 男は、この建物には似合い過ぎの付属品といえた。

「ほう」

 入り口につっ立っていたリネットを見やって、男は口もとに下卑た笑いを浮かべた。

「そちら、新入りだったのか。おれはてっきり……」

 声は尻すぼみに小さくなり、語尾は不明瞭に口の中でつぶやかれただけである。

 男は人差し指をちょいちょいと動かし、招く仕草をした。リネットはためらったが、従うことにした。男は人差し指を引っ込めると、今度は親指で自分の胸元をさした。

「おれの名前はマニーだ。一応、ここの留守を預かってる者だがね」

 身近に寄ると、男の息がもろにかかった。熟れ柿のにおいがした。リネットは顔をしかめた。そういえば、この建物の中に漂っている異臭には、アルコールのものも混ざっているようだ。

「研究所の方だったのですか。あのー、私はどうすれば……」

「三号棟に行けばいい。もう少しましな部屋があるはずだ。それと、めしや洗い物がしたけりゃ、五号棟だ」

 マニーと名乗った男は、いかにもぞんざいに、研究所の概要を説明した。

「そうですか……ありがとうございます」

 おそるおそる後ずさった。

 飛び立ってゆくシャトルが描いた飛行機雲を背に、どうしようもなく佇んでいると、白い船が、水平線の向こうに姿を現す。

 観測用の、高速船だ。船は緩やかに右旋回しながら、崖の下に据え付けられた桟橋に接岸した。

 何人かが連れ立って、船を下りてくる。皆、銀色に黒い筋が入った、上下の作業服を着込んでいる。

 先頭を歩いていたひとりの足が、倉庫の前に止まる。

「……なんだ」

 マニーより一回りは若く見える、彼女とお揃いの作業服を着た男だった。

 腫れぼったい丸顔の彼の体格は、昔の童話にあった、擬人化された玉子をほうふつとさせる。

「お前、引っ込んでろよ」

 彼は明らかに見下した口調で一喝した。

 マニーは、薄ら笑いを浮かべながら、部屋のドアを閉めた。男は向き直ると、苦笑しながら肩をすくめた。

「や、これは失敬。お見苦しいところを見せてしまった……。君が今度いらしたアスロンさんですか?」

「はい、そうです」

 彼はまともな研究所員のようだ。

「改めて自己紹介します。僕は研究員のランディ・ベイツ。ランディで結構です」

「じゃあ、私もリネットって呼んでください」

 そういって、微笑みかけた。この惑星に降り立って、初めての笑顔だった。

「ここは、どうなってるんですか?」

 リネットが問うと、ランディは笑って答えた。

「みんな、海上の研究に忙しくてね。昼間はここ、出払ってるんです」

 「じゃあ、こちらへ」

 ランディは、芝居がかった調子でリネットをエスコートした。

 船から下りた十人ほどが、横一列に並んで、新入社員を出迎えていた。

 色違いの作業服を来た男が、一歩前に出た。彼女は直立不動で向かい合う。

「リネット・アスロン。トゥリオナ研究所に配属を命ぜられ、ただいま着任しました」

「ようこそ」

 握手を求めてきた。作業服である銀色のつなぎに、ほんのわずかの乱れもないところは、あの公園で逢ったときと、全く変わらない。

「お久しぶりです」

 彼女は両手で握り返して、目を輝かせた。

 彼は抜け目のなさそうな笑顔を、リネットへ向けた。

 皆と一緒に、リネットは居住棟に向かった。

 三号棟と男が呼んだ建物は、プレハブの向かいにあった。平屋で、五室ほどの居住室がある。一番右端の部屋が、彼女が入るところのようだった。

 住居は一辺が三メートルほどの正方形で、ベッドとユニットバスがしつらえてある。書き物机と、壁掛け式のディスプレイの他には、家具らしいものはなかった。

 部屋に戻ると、いつのまにか、ベッドの上に、この研究所の制服である、銀色のつなぎが、畳んで置かれていた。袖を通すと、サイズはぴったりだった。

研究所の一員になれたという実感がわいてきた。


 その晩、ささやかな歓迎会が開かれ、彼女は正式に研究所の一員になった。

 ベッドに寝ころびながら、リネットは、矢継ぎ早に降りかかってきた出来事の意味を、整理出来かねていた。

 しかし、彼女は見逃さなかった。倉庫に運ばれていった荷物の中に、あの白いカプセルがあったことを。


  5


 夜が明けると、通常の一日が始まった。研究所の皆は、めいめいの研究に戻った。

 彼らは皆、勤勉で物腰も柔らかく、よく笑った。初めのことなど、まるで悪い冗談のように思えた。

 研究所の目の前にある内湾に、浮き桟橋が突き出ている。研究用の高速船を係留しておくところだ。

 到着した頃には、はるか下にあった海面は、今では崖の中程まで、浮き上がっていた。

「ここまで潮が来てるんですか?」

「この星は、干満の差が激しいんだ。太陽からの距離が近い上に、二つも月があるからね。もっとも、大潮のときは、こんなものじゃないよ」

 腰を折って膝小僧に手を当て、海面をのぞき込んでみた。

 クリスタルガラスのような海水を通して、決して浅くないところにある海底まで、手に取るように見ることが出来る。一瞬、海中を何かが、目にも留まらぬ早さで横切っていった。彼女にはその物体の姿までは分からなかった。海底の砂地には、引っ掻いたような模様が、幾筋も見える。

 リネットは傍らの所員に問うた。

「ここ、お魚はいないんですか?」

「脊椎動物のたぐいはいないなあ。魚だったら、これから持ってきて養殖する計画もあるけどね」

 長身で胸板の厚い彼は、その場に不似合いなほど白い顔をゆがめて笑った。

「きみ、ダイビングが趣味なんだってね。そのうち、好きなだけさせてあげるよ」

「うわぁ」

 彼女は子供っぽくはしゃいだ声を上げた。

 亜熱帯のウィンダム島は、昼間の気温は三十度を超えたが、照りつける日差しに苛烈さはなかった。表面温度の低いK型であるこの星の太陽光線は、紫外線をあまり含んでいない。日焼けの心配はなかった。

 リネットは、次第にこの研究所に馴染んでいった。

「リネット、ちょっと頼まれてくんない?」

 彼女はすぐにファーストネームで呼ばれるようになった。

 研究所の一員になれたような気がして、気分はまんざらでもなかった。

 もっとも、今のところの彼女の仕事は、もっぱら雑用と留守番である。特に食事は、段違いに質が良くなったと皆が褒めそやしてくれる。

 留守番のときは、機器の操作方法を自主的に練習していた。もっとも、彼女にとっては、子供のおもちゃで遊ぶようなものであったが。

 所長のナカオやランディは普段、船で外洋の調査をしていると聞かされた。頃合いを見て、彼女も乗せてくれるそうだ。しかし、調査の詳しい内容までは教えてくれなかった。

 無人の地であることから、ウィンダム島すべてが敷地であるとも言えるが、実際に建物が建ち並んでいるのは、南西の海岸に面した一角である。

 正面に研究棟がひとつ。三階建てで屋上には塔が建っており、発着するシャトルの管制室も兼ねている。

 平屋の居住棟が三軒ある。ほかの建物は倉庫だ。その周りには、入り切らない物品が、コンテナに詰まったまま無造作に並べられている。発電風車が並んでいる山肌の面積まで入れれば、ちょっとした町ほどはある。

 最初の日、マニーが「号棟」と言ったのは、この敷地に建ち並んだ仮普請のプレハブのことだった。

 その一番北側の建物の一角が、彼女にあてがわれた居室だった。

 そして、この星に来て幾度目かの日没がやってきた。

 夜のとばりは速やかに降り、とろりとした静寂が、ウィンダム島を覆った。

 リネットは簡易住宅のベッドの上で、寝つけずにいた。

 淡いピンクの寝間着――この星で着ることのできる、唯一の私服だ――に身を包み、亜麻色の髪をシーツに投げ出している。

 つるりとしたプラスティックに包まれた室内は機能的に作られていたが、その分無味乾燥だった。一日の三分の一を閉じこもるには、まったく向いていない空間である。

 ベッドサイドの時計は「AM11:25」と表示されている。銀河標準時だ。

 恒星船、または開拓星のような独自の時間単位のないところでは、六十分で一時間、二十四時間で一日の銀河標準時が用いられる。

 この星の自転周期は三十二時間。表記時刻と外の景色が大幅にずれているのは当然だ。

 勤務時間は原則として日の昇っている間、ということになっていた。夜間は持ち回りで当直になるのだが、新入りの彼女にはまだ回ってこない。

 他の研究員は、今日も全員海の上だ――ひとりを除いて。彼女の相手をしてくれるような人はいなかった。

 寝付くためにはメラトニンを飲めばいい、ということはわかっていた。でも、どうしても今日はそんな気にもなれない。

 ポートフォリオを取り出し、出発前にミチから送られたホログラフィを再生してみた。立体映像に浮かび上がった親友は、いつでも自信満々だ。

 返信を出したくても、いますぐには出せない。

 汎銀河系超光速通信網から外れているこの星系では、メッセージを恒星船に乗せる以外、光速の制約を超えて連絡を取る方法がないのだ。そして、次の寄港までは、まだ一ヶ月もある。

(……それにしても)

 いつしか、リネットの脳裏には、恒星船の中で最後に見た光景がよぎっていった。

 金色の眼の少年。

 彼は、いったい何者だろう。どうしてあの船に乗っていたのだろうか……。

 床に入って、頭から毛布をかぶっても、胸騒ぎは収まらなかった。

 不安に満たされた暗闇の中で、別れてきた親友の、抱きしめた感触を想った。

 胸に差し込むようなうずきが走る。

(お願い、そばにいて……)

 いつしか、身体の奥から熱いものがこみ上げてくる。

 下肢におずおずと手を伸ばし、指の腹でそっと撫で上げる。筋肉がびくりと収縮した。

 もう片方の手が胸に伸びる。

 上着の第二ボタンを外して、直接触れた。肌はじっとりと汗ばんでいた。

こんなことをするのは初めてではない。ひとりの寂しさを慰めるときに、ときおりしていた。自分の身体のことはよくわかっていた。やがて指先は快感の源を探り当てる。

 「……ううっ!」 

 うめき声が唇から漏れたとき、不意に気配を感じた。

 リネットは自分の世界から引き剥がされ、寝床から身を起こした。

「……あれは?」

 服を整えながら、窓に目を遣る。はめ殺しのプラスティック窓は、戸外の暗黒を背負い、鏡のように屋内の光景を映し出している。

 映り込んだリネットの姿の向こうに、何かが見える。

 暗黒の中に輝く、二つの金色の光――。

 リネットの身体が硬直した。

 光の主は、身を翻して闇の固まりとなり、そのまま消えた。

「待って!」

 窓にしがみついて呼びかける。窓は開かない。光が見えなくなると、衝動に突き動かされるように、部屋を飛び出した。

 廊下を端まで歩き、外に通ずる扉を開ける。向こう側は、真の闇だった。

 晴れた夜空には、大きな青白い月が浮かんでいる。

 この星は大小二つの月を持っている。今見えているのは、大きな方の月だ。クレーターと平原が作り出す模様が、人の顔のようにも見える。

 宝石箱を蹴飛ばしたような満天の星。そのすべてが、自然のものだった。

 静止軌道から惑星表面にまで伸びる軌道エレベーターも、大小様々の人工衛星も、宇宙船も、この星を回る軌道には存在しない。惑星の上から、人工のものが何もない空を見上げるのは、この時代の人々にとっては、滅多にない経験である。だが、彼女にとっては、幼い頃から幾度も経験してきたことではあるが。

 東南の空高く、鈍く真珠色に光る、ひときわ明るい星がある。この星のすぐ外側を回っている第三惑星――巨大なガスの固まりだ。

 向かいの建物に、明かりがついている。確かそこは、倉庫だったはずだ。

 部屋から漏れる明かりを頼りに、建物の一角に取りついた。光の当たる部分は、半透明プラスチックの窓ひとつ除けば、のっぺらぼうの壁だった。彼女は裏に回った。

 影が消えていったあたりへ歩みを進めてゆく。

 手探りでドアを探し、ノブを引く。かちゃりと閂が当たる音がして、それ以上扉は動かなかった。

(――何のためだろう?)

 研究所の職員の他には、この地上に人間はいないはずだ。誰が侵入するというのだろう。それとも、内部の人間を警戒しているのだろうか。

 壁に手をついて伝ってゆくと、並びにもう一つ扉があった。これも中から施錠されている。

 三つ目にたどり着いた扉は、ロックが外れていた。薄く開けると、きいっと油の切れた音を立てた。内部からはオレンジの弱々しい光が漏れてきた。照明器具が故障したままほったらかしにされて、そのまま非常灯を使い続けているようだ。

 扉の向こうは、直接部屋になっている。部屋の中は、椅子や机が並べてあり、その隙間には、雑然と物が積まれている。もとは事務室として使われていたらしい。

 部屋の片隅に、何も書かれていない箱が、天井まで積まれている。その脇の机で、卓上コンピュータが埃をかぶっていた。

(ここ、電源が生きてる)

 試しに一台のスイッチを入れてみる。一瞬、彼女にとっては慣れ親しんだ行為を行おうとも思ったが、やめた。ここは彼女の勝手知った場所ではない。モニタが点き、画面が映った。メニュー画面にあるアイコンの一つには「海洋生物図鑑」とある。

 彼女は、それに興味を持った。ウィンドウを開くと、タイトル画面が現われた。

 タイトルの下に「作成者、イマニュエル・ボロコフ」とある。

(……そんな人、いたっけ?)

 あの日、研究所員はみんな紹介されたが、そんな名前の人はいなかった。もうここから去ってしまった人だろうか。

 ファイルの深い階層に降りてゆく。ホロプロジェクターから投影される画像に、極彩色の様々な異形の生き物が現われては過ぎていった。その画像には、それぞれに簡単な解説文がついている。

 リネットはしばらく、机の上に浮かぶ映像を眺め続けた。

 図鑑が入ったメモリカードが、同じ机の上に無造作に放られているのが見えた。顕微鏡標本のような透明なプレートの中に、ホログラフィが封じ込められている。膨大な情報を3次元フラクタル図形のホログラフィに描き出して、封じ込めてあるのだ。 

 手にとって矯めつ眇めつしてから、カードをそっとポケットに忍ばせる。自分のコンピュータにコピーして、あとで返せばいいと思って。

(これが研究の成果なの? どうして私に隠しておくのかしら)

 訝るリネット。

 隣の机には、布のカバーをかけられた、電子機器らしきものがある。カバーの下からはコードが何本も伸び、机の上でもつれあっていた。

 その脇に、黒光りする金属の物体があった。

 それは、この場にはまったく不似合いな代物だった――拳銃だ。火薬式の、オートマチック。

 レイガンやレールガンが主流となったこの時代においては、古典的とも呼べる代物だったが、それだけに信頼性は高い。

 手に取ってみる。金属の塊のそれは、ずっしりと重い。実弾が装填できる本物だった。引き金に手を触れないように取り上げて、顔の前に持っていこうとした。

 ばーん!

 不意に、扉が荒々しく開いた。彼女が入ってきたところとは別の扉だ。

 背筋がびくりとなった。いたずらが見つかった子供のように、彼女は銃を元あった場所に戻した。

 扉の影に、人の姿が見える。

「なんだ、お嬢ちゃんか」

 顔を覗かせたのは、あの酔っぱらい、マニーだった。

「どうした。別れた彼氏でも恋しくなったのかな……」

 件の白衣を着て、扉に寄りかかっている。アルコール臭が漂ってきた。質の良くない合成酒のにおいだ。相も変わらず飲み続けているのか。

 ズボンのポケットから、ボトルを取り出した。そして、無遠慮に近寄ってきた。

「仕事熱心なこって……ま、ちょっと一休みして、おれと一杯やるかい。お嬢さんの口に合うかは分からんがな」

「けっ、結構です!」

 リネットは顔を伏せ、床に言葉をぶつけた。

 構わず、マニーは顔を近づけた。酒くさい息が顔にもろにかかった。

「なんだよ、そのしけた面は。お嬢さんはもっと愛想よくしなきゃなあ……」

「同僚なんですから、そんな呼びかたはしないで、名前で呼んでください!」

「はははっ、分かった、分かったよ。リネットちゃん……って、こんな感じで呼べばいいのかい? ひゃひゃひゃっ」

 品のない笑い声を立てた。完全に、なめられている。

 彼女としては、精一杯毅然とした態度に出たつもりだった。しかし、人間としてまだ迫力にかけるところがあったのだろう。マニーに、彼女の強がりを一蹴されてしまった。

「お仕事、なさらなくていいんですか?」

「仕事? はっはん、おれの仕事はこれさ」

 目の前に、ボトルをかざされた。

「……!」

 リネットは、とうとう切れてしまった。ボトルを押しのけて顔を上げ、男をにらみつける。

「出ていって! あんた、人間のくず中のくずよ。みんなに無視されてるわけが分かったわ」

「何だとお……」

 彼の目が据わった。

「お嬢ちゃん、見かけによらず生意気だな」

 ボトルのキャップをねじ切り、くいとらっぱ飲みした。そして、リネットの下顎を節くれだった指で触れた。

 ぬめぬめした生き物が、背筋を這っていったような感触が襲った。

「案外可愛い顔してるじゃないか。ええ」

 リネットは首を振って、拒絶の意志を表わしたが、目の前の酔漢には通じなかった。長い髪がかき上げられ、耳が露わになった。

もう一方の手が、左耳のピアスに伸びた。

 ピアスがしゃらりと揺れる。

 部屋の隅に掃除機があった。機械には大概、インターフェイスが付属しているから、彼女の思念で操れるはずだ。この部屋にはコンピュータもある。味方は大勢だ。

 ポルターガイストを起こしてやろう。掃除機をぶつけて、ディスプレイや非常灯を一斉に点滅させるのだ。ひょっとすれば、外のヴィークルも動かせるかもしれない。この男が眼を白黒させている隙に、逃げることは出来るだろう。

 しかし、その意志に反して、心がついてこない。思考がまとまらなかった。

 男の顔に光る、青くよどむ眼でのぞき込まれると、心の中の秘密、動揺、恐怖、何もかも見透かされそうだ。

「やめてください……。わ、私、怖いんですから。私が本気出したら、あなた、どうなるかわかんないですよ……。だって、私、こう見えても……」

 ドミナントなんだ、と喉まで出かかった。辛うじて、その言葉を飲み込んだ。パジャマの胸を波打たせながら、彼女はそういうのが精一杯だった。

 汗ばむ首筋をつかむマニーの指に、力がこもった。

 リネットの呼吸が荒くなる。それとシンクロして、部屋の片隅にあった掃除機の電源が入った。部屋の空気が低くうなる。

 だが、同時にそのとき、彼女は怯んだ。

 濁った眼の底に潜む、光の鋭さに気圧されたのだ。

 全く予想していなかった。傲慢は一瞬のうちに裏返り、恐怖に変わった。

「いやあっ!」

 こらえ切れずに悲鳴をあげた瞬間、マニーは動きを止めた。そして、不意に冷静な口調になった。

「……可愛いな。ま、それも今のうちかもしれん。なんたって、お前さんは幹部候補生なんだからな」

「え……?」

「そう、いきなりここに配属されるなんて、そんだけ期待されてるのさ。お前さんは運がいいよ」

 マニーの口から次々に繰り出された言葉に、リネットは翻弄されるだけだった。その場では、訊き返すことしか出来なかった。

「どんな意味ですか、それ?」

「ふっ」

 話をはじめる前に、マニーはまず、軽く鼻で笑った。

「嘘でも皮肉でもねえ、マジな話だぜ。そう、幹部候補生ってーのはな、まず最初にダーティーな仕事をやらされるものなのよ。それで根性と、要領と、忠誠心を試されるのさ。無事にこなすことが出来たなら、そいつはもう一人前。前途は洋々ってね」

「何のこと……。マニーさん、あなた、何か御存じなんですか?」

 マニーに詰め寄るリネット。

「教えてください。ダーティーな仕事って……」

「さあな。酔っぱらいのひとり言さ。さっさと忘れたほうがいい……」

 軽くいなされたが、そこには、かすかな疑惑が見て取れる。

「ついでにもう一つだけ忠告してやる。海には近づくなよ、危ないからなあ……ふははははっ」

 そして彼は、額を片手で押さえ、天井を仰ぎながら、声をあげて笑った。

「……?」

「いい子だよ。お前さんはほんとにいい子だ……」

 マニーはそうつぶやきながら、多少おぼつかない足取りで、部屋をあとにしていった。

「何よあれ。アルコールでいかれちゃってるの」

 どうにもおさまりがつかず、彼が出ていった扉へ向かって毒づいた。それにしても、気になるあの言葉。

「ダーティーな仕事……」

 その言葉はリネットの胸の中に、奇妙に引っかかり続けた。

 そしてもうひとつ。

 部屋に帰って、床についてから、リネットはあることに気づいた。

 マニー。その名前は、イマニュエルの愛称型である。


 6


 リネットがこの研究所に来て、さらに何回か、太陽が水平線から昇り、そして沈んでいった。しかし、相変わらず、分からないことがあまりにも多かった。

 まずは、マニーのことである。正面切って尋ねるにも抵抗があるので、食事のとき、それとなく口の端に上らせてみた。

 皆あの男については一様に口が重かった。かろうじて聞き出せたことは、ナカオと同期入社で、大学で生物学を研究していたらしいことくらいだった。

「あの姿を見れば分かるだろ。それ以上のことは、言う必要はないね」

 ある所員は、それだけ吐き捨てて、後は沈黙した。彼の話題は、完全なタブーであると見える。

 他のことは、なかなか切り出せなかった。新参者の彼女が触れてはいけない壁のようだった。

 時間があるときは、あの生物図鑑を観て過ごした。海に満ちる生命たちの模様は、いくら観ていても飽きなかった。

 海は変わらずに、そこにあった。熾き火のような陽の光で照らされた海原は、光の加減によって、寒々しく黒みを帯びたり、明るく輝いたりした。

 そんな日が、幾度か続いた後。

 いつものように朝起きて身支度をしていると、傍らのインターフォンが着信音を鳴らした。

 ランディがホログラフィに現れる。

「リネット、所長が呼んでるよ。10:00に所長室だってさ」

「了解しました」

 時計を観ると、標準時間で9時を回ったばかりだった。

 彼女は鏡の前でいつもより丁寧に髪をとかし、この星に降り立って初めて、口紅をつけた。クロークからまだ袖を通していない作業服をおろし、心持ち足を軽やかに弾ませ、建物を出た。

 ちょうどこの島の上でも朝だった。外は風に乗って朝霧が流れている。並んでいる一番奥のプレハブにある、所長室へ向かった。

 ちょっと緊張しながらドアをノックする。

「あの……お邪魔します」

「やあ、こうやって話すのも久しぶりだな」

 ナカオは椅子だけをくるりと回して、彼女に向き直った。

 彼は、清潔な服を着て、髪を整え、ひげをきちんと当たっている。無精ひげを伸ばしっぱなしにしている所員もいたが、彼はさすがに、管理職らしい身なりを保っている。

 部屋は綺麗に整頓されていた。

 密封カプセルに入った観葉植物が窓際に据えられている。机に置かれた端末とディスプレイの横には、卓上の立体投影機があり、家族のホログラフが浮かんでいる。

 自宅の庭で撮ったもののようで、彼と、彼の妻が中央に、二人の子供がその脇に立っている。皆ほほえんでいた。どこにでもありそうな、家族の情景だ。

(……いない)

 無意識のうちに、そこにあの少年を捜していた。だが、映っていた子供は、ふたりとも娘だった。

 その様子をよそに、彼は用件を切り出した。

「頼みというのは、他でもない。ここからちょっと離れたところに、前線基地を、今造っている最中なんだ。わたくしたちが、あんまり君に構っている暇がないのは、そのせいなんでね」

「……そうなんですか」

 リネットは表向き納得したような表情をした。

「で、ちょっと荷物を届けてもらいたいんだ。場所はナビゲータに入力されてるから」

「はい、了解しました」

 彼女は元気よく、返事をした。

「クラフトはもう用意してあるから。ブツも積んである」

「行ってまいります」

 一〇分後、リネットは、マイクロクラフトにまたがって、研究所を出発した。

 マイクロクラフトは、ひとり乗りの浮上移動機械である。イオンの原理で浮上し、地上近くをあまり速くない速度で飛行する。エンジンの上にサドルが据えられ、長い柄のようなハンドルに、コントロールパネルがついたシンプルな構造をしている。

 彼女と一体になったクラフトは、快調に飛ばしていった。さほどスピードは出ないものの、風を切る音は軽快だった。

 進んでゆくうちに、霧は次第にその濃さを増してゆく。研究所を発ってから十分もたつと、まるでミルクの中に飛び込んだようになった。

 視界はすべて白一色。風景と呼べるものは、なくなっていた。位置を知るには、ナビゲータの画面を見るしかなく、それでも今どのあたりにいるのか、皆目見当がつかない。

 峠にさしかかる。

「えーと、ここを通るのね」

 ナビゲータによると、順路はこの谷の底になっている。植物の生えていないこの地では、浸食活動は激しかった。眼下の景色は、餌を捕まえるときの肉食動物の口をほうふつとさせる。

 はるか下に、霧が流れている。ミルクの川のようだ。マイクロクラフトはミルクの川に、ゆっくりと沈んでいった。

 谷を抜けて、高原を突っ切って行くルートを取った。海抜は、千六百メートル。地表からの高度三メートル。速度は時速五十キロ。

「あら……」

 彼女を包む空気のにおいが変わったのに気がついた。

 水気を含んだ風の中に、かすかに土のにおいが混ざっている。

 この島には、いや、この星には土は存在しないはずだった。陸上に生物が存在しないので、地上に有機物はほとんどないと聞かされていたのだ。

 見下ろすと、黒一色だった地面に、点々と緑色が加わっている。

 草だった。この星にはあるはずのないもの。

 通信端末のスイッチを入れた。この状況を、研究所に報告しようとした。何か変わった状況に遭遇したらすぐに報告するのは、基本中の基本である。

「もしもし、こちらリネット、応答してください……」

 ピーッという警告音のあとに、「受信側スイッチが切られているか、電波状態の不良です」というメッセージが、インカムから聞こえた。

「そんな、馬鹿な」

 一瞬呆然として、がちゃりと音を立てて、端末を腰のホルダーに納めた。

 研究所との通信は、静止軌道を回っている衛星を通じて行っている。電波が不良なんてことはあるはずもない。

 それとも、何かほかの意図があるのだろうか。

 地上の緑色は、進むにつれて、その割合を増してゆく。一〇分も飛んでいると、眼下の大地は、一面緑色の絨毯になった。

 濃い霧の中に、丘陵が群島のように浮かび上がっている。

「なんてこと」

 リネットは放心した。

 クラフトの操縦も、おろそかになった。機体は次第に斜めになる。彼女はあわててステアリングをひねり、姿勢を戻した。

 これは、夢でも見ているのだろうか――。

 ヘルメットのバイザーを上げ、頬をつねってみる。古典的だが、一番確実な方法に思えた。

「いたっ!」

 果たして、痛みが走る。馬鹿なことをしたと思ったが、夢でないことは確実になった。

 ナビゲータの画面で、自分の位置を示すプリップが明滅する。現在位置は火山帯の真ん中、カルデラの中だった。

 目的地は、確かこのあたりだったはずだ。

 操縦桿を押し下げ、クラフトの高度を下げた。高度をゆるやかに下げてゆき、静かに着陸する。

 足を地面に着ける。水分を含んだ土と、萌え出たばかりのみずみずしい草の葉を踏みしめる感触が、ブーツを通じて伝わってくる。

 彼女の周りは、一面の草原だった。丈の低い草がブーツのくるぶしを埋める。ところどころに咲いている黄色や白の花は、緑色のキャンバスに飛び散った絵の具のようだ。

「どうなってるの……」

 だが、景色に見とれている暇はない。端末との格闘を再開する。

「こちらアスロン、こちらアスロン。研究所、応答願います」

 幾度目かの試行ののち、ようやく交信が通じた。雑音の中から、ナカオの声を拾い出す。

「今、ドーネル火山のカルデラにいるんですが……」

「……説明はあとだ。君の質問は、今は許されない」

「ええっ」

「しばらくそこにいて、次の指示を待て、以上だ」

 そう言って、交信は一方的に途切れた。

 ひとりで取り残されてしまった。

 誰にも頼りにならない。自分だけで――そうだ、自分だけなのだ。

 自分の身ひとつで、目の前の出来事に対処する。自分の活路を切り開く――それこそが求めていたものではなかったか。

 気を取り直して、まず初めに、目の前に広がる光景の意味を考えた。

 レクチャーで教わったところによれば、研究所の周辺では、屋外に草花を植えても、ほとんどの種類はやがて枯れてしまうそうだ。大気中に二酸化炭素が殆どないため、光合成が出来ないのだと説明された。

 では、何故ここだけに植物があるのか――

 ここは、カルデラの火口原だ。火口や噴気口から流れ出た火山ガスに含まれている二酸化炭素が低地に溜まってゆき、植物の光合成を可能にするだけの濃度になったのだろうか。

 そんな考えが浮かんでは消えた。

 つんつん尖ったイネ科の植物の葉が、ズボン越しに太股を刺激する。

 地面に直に置いて露に濡れないように、マイクロクラフトを手頃な岩に立てかけた。そのとき、わずかに霧の薄くなった岩の向こう側に、違和感のあるものが映った。

「?」

 ――人工物。草に半分以上埋もれているが、どうみても自然に出来たものではない。

 確かめようと、近寄った。

 地面に据え付けられた、ドーム型のシェルターだった。表面は土埃で真っ黒に汚れ、その一端は、玉子が割れたように大きく壊れている。

 リネットはかつて、それを幾度も見たことがある。

 野営用簡易居住モジュール。熱や寒冷、組成の違う大気、放射線、さらに異星の生物など、脆弱な人間の身体を異星の自然の猛威から保護するもの。人間の手がまだ触れていない異星では、不可欠なものだった。

「前線基地って、これ?」

 壊れた部分から中を覗くと、備品はなにもない。空っぽの空間の底には埃が分厚くたまり、かなり長い間、人の出入りがなかった様子を思わせる。

 身を乗り出すと、背後から、衝撃が襲った。

「きゃあっ!」

 どんがらがっしゃん! と派手な音を立てて、彼女の身体はモジュールの中へ転がり落ちる。泥水の溜まっていた床に、しりもちをついた。

「いったあい……」

 つぶやきが狭い空間に反響する。

 誰かが、穴の上からのぞき込んでいる。逆光に浮かび上がった影の中に、六つの眼が光る。彼女は体勢を立て直しながら、声をかける。

「誰?」

 返事はなかった。

「ナカオさん? 研究所の人ですか!?」

 縁に手をかけ、身を乗り出した。

「あら……」

 目に入った人影は、子供だった。十二・三歳の男の子が三人、穴を取り囲んでいる。全員お揃いの、洗いざらしの白い半袖シャツと、膝までしかないズボンを身につけている。

 子供など、この惑星にいるはずがない。研究所の人たちは皆、単身赴任だ。では、目の前に見えるのは……。

 穴から半身を出して、リネットはもう一度、問いかけた。

「あなたたち、誰? どこから来たの?」

 またも、返事なし。きょとんとして、こちらに六つの丸い眼を向けている。

「ねえ、とにかく誰か、大人の人を呼んで」

 その言葉を発したときにようやく、真ん中の一番背の高い子供が口を開いた。

「『おとな』なんか、ここにいるわけないだろ」

「いない……何言ってるの?」

 話が全然つながらない。そんな問答を繰り返しているうちに、外で、ずるずるという音がする。

 彼女は音の方に顔をむけた。そこに見えたのは、別の、ふたり組の子供たちがマイクロクラフトを持ち上げ、どこかに運び去ろうとしている模様だった。

 軽金属製のクラフトは、それほど重くない。小さな男の子でも、ふたりがかりならゆうゆう持ち運べる。

「待って、返してぇ!」

 叫びながら、ハッチの縁に手をかけ、よじ登った。

 立ち上がると、背後に気配。それに続いて、がっちりとホールドされる。

「へへへ、そうはさせないよ」

 声変わり前の、男の子の声。彼女は羽交い締めにされた。

「何するのよ!」

 もがくが、身体は動かない。

 焦りの中で、ひとつだけ、奇妙な感触がしていた。

 密着している彼には、この年頃の男の子なら、もうむんむんと発散しているはずのにおいがしない。女性としての恐怖は、感じられなかった。

「これ、なーんだ?」

 少年の手には、銀色のキーが握られている。クラフトのキーだ。

 キーを抜かれたら、ドミナントと言えど操ることは出来ない。クラフトには無線機も搭載されていたので、基地と連絡をとることも出来なくなってしまう。

「お願い、そのキーを返して」

「やだよー」

 一番背の低い少年があかんべえをした。なんとも可愛げのない仕草だ。

「私、これに乗れないと帰れないのよ」

「帰んなきゃ、いいじゃん」

「……!」

 一瞬、二の句が継げなかった。こめかみの動脈が痙攣した。

「あ、あなたたち、一体どういうつもり!?」

 居並んだ少年たちはへらへらと笑っていた。もはや悪ふざけではない。犯罪だ。

「冗談はよして! たいがいにしないと、ひどいわよ!」

 鍵を持っている少年につかみかかった。力ずくでも、とり返すのだ。

「おっと、そうはさせないよ」

 彼は身を翻した。

「そらよっ」

 右手のキーを、後ろの少年に投げる。キーは少年たちのあいだで、キャッチボールをするようにたらい回しされてゆく。彼らは一目散に逃げていった。

「あんたたち、いったいどういうつもり?」

 叫びながら追いかけるが、石につまずいてしまった。頭からつんのめり、草原に頬ずりしてしまった。

「待ってよ、返してぇ……」

 青臭い汁を服に飛び散らせ、何とも情けない声を発して、立ち上がった。まるで、こちらの方が子供になってしまったようだ。

 子供たちの姿は霧の中へ消えてゆき、完全に見失ってしまった。マイクロクラフトも、どこにもなかった。

 途方に暮れたリネットは、無数の光の粒がきらめく草むらに腰を下ろす。

(どうしたらいいのよ……)

 リネットは空を見上げ、嘆息した。ひどく心細かった。

 この島の上、どこにいるのかも分からない。

 機械たちに見守られず、母親もいず、異星の大地に身ひとつで投げ出されたのは、彼女の人生の中で初めての経験だった。

 腰の皮膚は、ウェア越しに土と草の感触を感じている。恒星船はもとより、惑星の都会の生活でもあまり縁のないものだった。

 霧は、次第に晴れていった。先ほどまで、目の前に差し出した掌すら霞んで見えるほど濃かったが、今はそれほどでもない。

 風に吹かれて、霧は一時的に濃くなり、また薄くなってゆく。その陰影の中から、何かが、明確な形を取って、目の前に姿を現してくる。

「……!」

 目の前に現れたのは、ひとりの少女だった。先ほどの子供たちよりも、歳上のようである。

 リネットはその姿に眼を奪われた。

 腰まで達している髪は、ゆるやかに波打ち、グラスファイバーのような銀色の輝きを放っている。

 こちらをじっと見やっている、ルビー色の眼。半袖からのぞいている腕は、ほんのり桜色がかった白。華奢な体つき。

 コットンのような素材の、装飾のない、素朴なデザインのワンピースを身にまとっている。

 その出で立ちは、先ほどまで立ちこめていた霧が、現し身の姿を取って凝固した、とすら思わせるほどの純白。

 少女は、まるで真綿で出来ているように見えた。

「……あなた、だあれ?」

 リネットの先手をとって、少女は口を開いた。鈴を転がすような声。今ではもうほとんど聞かれなくなった、端正な発音の銀河標準語だった。

「わ、私……」

 それだけ答えるのが、やっとだった。何故かは分からないけれども、胸がどきどきしている。

 あたりの霧は、もうほとんどなくなっていた。雲の隙間から、幾条もの光の束が地上へ伸びている。

 霧のなごり。地面の草の葉や、リネットの撥水性の作業服にも、無数の光の粒が付着していた。

 少女は歩み寄ってきた。

 リネットは動けない。見えない力が、彼女をしっかりと捕まえているように感じた。姿こそ小さく見えたが、彼女は奇妙な存在感をたたえている。

 少女はリネットの答えを待たず、次の質問を発した。

「どこから来たの?」

「えーとね、ミュゼ……。分かる?」

 少女はきょとんとしている。

「あの山の向こうよ」

 リネットはドーネル火山を指さした。

「……ごめんなさい」

 少女は沈んだ表情になった。

「あなたは、帰すわけにはいかないわ。《マム》が、山の向こうの人間は災いをもたらすと……」

「何よ、それ」

「それ以外、言いようのないもの。わたしたちをはぐくみ、見守ってくださる、唯一の……」

 少女は歌うように言葉を宙へ解き放つ。そして、不意にほほえんだ。

 奇妙な波動が、リネットを包んだ。それはどこか、遙かな昔から知っている感触がした。

 ここは丘の中腹だった。緩やかな起伏がうねり、視界いっぱいに緑の絨毯が敷き詰められている。

 涼やかな風が、丘の上から吹き降りてくる。雲雀の鳴き声が聞こえてきそうだったが、あたりは奇妙に静かだった。空を見ると、雲の切れ間から、半熟玉子の黄身のような太陽が浮かんでいるのが見える。

「あなた、あの子たちの仲間なの? あなたがやれっていったの? あんなこと」

「……違うわ。わたしは、ただ……」

 眉根をひそめ、目線をそらせて、心底申し訳なさそうな表情をした。

 少女は嘘をついてはいない。リネットはそう思った。

「まあ、いいわ。事情はあとでゆっくり聞こうじゃない。で、私、どうすればいい?」

「……ついてきて」

 少女は作業服の裾をつまんで引いた。確かに、それ以外の選択肢はなさそうだ。

 道すがら、リネットは、忘れていた大事なことを思い出した。

「そうそう、名前、まだ聞いてなかったね。私はリネット。あなたのお名前は?」

「ティア」



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