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プロローグ、目覚め、そして出逢い

 プロローグ


 あれからもう、どれくらい経ってしまったんだろう。 

 ぼくがまだ、今の半分くらいしか背丈がなくて、《マム》の銀色の手も、もっと大きく感じていたころ。

 今ではもう、記憶は白い朝もやのようにぼんやりしているけど、いくつかの記憶のかけらはぼくの眼や、ほほや、手のひらにはっきり刻みつけられていた。

 そう、まず彼はそっと、ぼくの手を握って……。


 さわさわという音が、耳元で絶えず鳴り続けている。風の舌先は、丈の長い草の葉末に波を造って、駆け抜けていった。風は朝霧を運び、ぼくらの髪にも、細かい水滴をまとわりつかせていた。

 ぼくら「いえ」に住む「こども」たちは全員草原に集まり、ぼくよりずっと背の高い、男の『こども』が、真ん中にいた。

「いよいよ、お別れだね」

「イーノ、どこかへいっちゃうの?」

「もう逢えないの?」

 ぼくと、ぼくの傍らにいたティアが、口々に言いつのる。

「そうだよ。寂しくなるね」

 イーノはあくまで、優しい眼をしていた。この日のためにあつらえた、まっさらの服を着ていたけど、裾が汚れるのもかまわずにひざまづいて、ぼくらに最後の別れをしようとしていた。

 イーノはぼくたちよりもずっと歳上だったけど、ぼくやティアと遊ぶのが好きだった。いつでも一緒にいて、歌を唄ったり、ときにはじゃれあうように喧嘩もした。

 この地に生まれた『こども』は、月日が経って大きくなったら、『おとな』になるためにこの地を離れなければならない。《マム》に常日頃から教えられてきたことだが、当時のぼくらは、そんなことが実感できるには幼すぎた。

 不意にやってきた、最後のお別れ。ぼくやティアには、そうとしか受けとれなかった。

「ひっく、えっく」

 ティアはもう、しきりにしゃくり上げている。

「そんなのやだよー、やだよー、イーノ。もっと遊ぼーよー……」

「ほら、泣いちゃだめだ」

 イーノは、ティアを胸にかき抱き、頬ずりした。ほんとはぼくがしなくちゃならないことだった。わかっていたけど、そのときぼくも、もう我慢が出来なかった。

「イーノ!」

 涙がじわじわにじんでくる。ぼくの声は、多分わなないていたに違いない。ぼくはイーノの胸目がけて飛び込んだ。

 そのまますがりつこうとするぼくに、銀色の手が伸びた。手は何本も相次いで伸び、ぼくは宙に抱き上げられた。

 イーノの脇にいた《マム》が、ぼくを止めたのだ。

「降ろしてよ、《マム》!」

「時間がせまっています」

「……」

「イーノはもう、行かねばなりません」

 《マム》の声が、諭すように響く。赤く光る目も、いつもより優しく、あたたかい。ぼくはじたばたするのを止めた。

 ゆっくりと地面に降ろされたぼくに、イーノと、顔をぐしょぐしょにしたティアが歩み寄ってきた。

「イーノ……こわくないの?」

「だいじょうぶ」

 彼の手は、そっとぼくの頬を包んだ。親指が目尻に触れ、あふれそうな涙をせき止める。

「いずれ……君たちにもわかることだから」

 ほほえむイーノ。どうしてこんなにやさしく低い声が出せるのだろう。

 ぼくは手を伸ばした。指先が彼の首筋に触れた。

 指先からイーノの心が流れ込んできた。彼の心は、とても安らいでいた。指は喉元まで滑り、そこに突き出ていた固いしこりに当たって、止まった。

「また、いつか逢えるよ、いつか……ね」

 そうつぶやくと、彼はぼくから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。広い背中をこちらに向け、さっきまでぼくを抱き上げていた《マム》が脇に連れ添った。彼はそのまま、しっかりした足取りで遠ざかっていった。

 峰がおぼろげに見える。あの山の向こう、そこは、『おとな』になろうとする者しか立ち入ることを許されないところだ。

 彼はそこで『おとな』になるための準備をするのだと、《マム》は教えてくれた。だが、それがどんなことなのかと問うと、《マム》はそれっきり、何も答えようとはしなかった。


 この記憶は、今まで折りに触れて幾度となく頭の中で転がし、取り出しては子細に眺めたりしてきた。けれど、どこまでがほんとうにあったことで、どこまでがまぼろしなのかは、今ではもうわからない。

 でも、確かなものはいくつかあった。そのなかでも、ぼくが最後にイーノに触れたとき、彼の喉にあった奇妙なしこりのようなものの感触は、ぼくの中に一番はっきりと焼きついていた。

 自分の喉に手を遣ってみる。そこには、あのときと同じ感触のものがあった。

 そうだ、ぼくはもうすぐ、あのときのイーノと同じ歳ごろになるのだ……。


 1


(……起きなさい、リネット)

 声が聞こえたような気がした。

 暗闇の天井が開き、光が満ちる。

 超空間航行から通常航行に移行したときの感触は、内容を憶えていない悪夢から目覚めたときに似ている。

 ほんの数秒間、まどろみの縁に落ちていただけなのか、それとも、長い長い間の眠りから、ようやくはい上がってきたのか。何百、何千光年もの航行の間、船内では時間という概念は、ほとんど役に立たない。

 熱病に浮かされたようなひとときから解放されて、少女はゆっくり目を開いた。

 少女は、超空間航行の際に肉体を保護するカプセルの中に横たわっていた。つめたい金属に囲まれた、音のないがらんとした一室に据え付けられたカプセルは、どこか棺桶を彷彿とさせる。

 肌はまだ、蝋細工のように白く、行き場のない汗が、球になって表面に浮いている。

 亜麻色の髪は、頭の後ろで緩く纏めてあったが、ところどころがほつれている。翡翠色の眼は焦点が定まっていない。超空間酔いの余韻が、まだ体の中に残っているようだった。

 それでも、起きあがって一度大きく伸びをすると、カプセルを出た。人工重力は小さく設定されており、身体への負荷は軽い。

 部屋には、調度品と言えるものは何もなかった。金属の床に、彼女が入っていたのと同じカプセルがいくつか並んでいるだけ。壁や天井には、ケーブルがむき出しで這い回っている。

 部屋に満ちた空気は、かすかにオゾンのにおいがついている。

「……久しぶりね、この空気」

 彼女はひとりごちた。

 壁の一方には、3Dディスプレイがあった。窓の代わりのようで、先ほど軌道を横切ったばかりの、巨大なガス惑星の姿が浮かび上がっている。

 背景に見える宇宙空間に散らばった星々は、少女が幼い頃慣れ親しんだ銀河中心部よりも、はるかにまばらで、さびしかった。ここは銀河の腕の間――辺境なのだ。

 未開拓の星々を巡って、前線基地に定期的に物資を届ける貨物航路。彼女が便乗していたのは、そんな船の一隻である。

 建造三十年、宇宙軍輸送艦払い下げの老朽船は、相当傷んでいた。客船のようにきちんと危険がないか確認された空間を行くわけではないので、超空間航行の際には、肉体の害になる粒子などから絶縁されるカプセルに入らねばならない。

 ここは、人間の手がまだ届いていない宙域。

 この銀河系には、超空間への通り道が、網の目のように張り巡らされている。それが人類に知るところとなって以来、人類の行動範囲は飛躍的に拡大した。

 そこを通れば、この宇宙の光の速さに制限されずに、恒星船や情報を送ることが出来る。人類が文明を築いている星系のほとんどは、この網の目に沿って位置している。

 この宙域は、そのハイウェイから大きく外れていた。普通の客船で行けるのは、三十光年離れたところまで。そこからは、強力な機関を搭載した特別あつらえの恒星船で、強引に星々を巡る回廊を切り開かねばならなかった。

 部屋の隅にあったシャワー室で、寝汗を流す。

 テーブルの上にはブレックファストが用意されている。シリアルに牛乳、それにフルーツ。寄港地で買い込んだもののようだった。

 口を付けるのもそこそこに手元の端末を操作し、航行データを呼び出した。前の寄港地を発って二八.六主観時間、今のところ、航行はすべて順調だ。あと二時間足らずで、次の寄港地、MXIー01715星系第二惑星「トゥリオナ」に到着するだろう。

 トゥリオナはこの星系ではただ一つの、生命を育むことの出来る惑星であった。そして、リネットの行き先でもある。

 画面を切り替え、惑星の情報を表示する。

 絶対等級七.二等、スペクトル型K4の、ごくありふれた恒星を太陽とするこの星の半径は五千キロ、表面の重力は〇、八G。自転周期――一日は三十時間、公転周期は九十五日(標準時間――二十四時間で換算して)、衛星が大小ひとつずつ回っている。地殻を持ち、大気の主成分は窒素と酸素、地球型だ。

 表面の九七%は海に覆われている。陸地もその大部分が、氷に覆われた極地にあって、人間の居住に適するところは、大洋に点在する島々だけ。

 生物はかなり多様な種が海洋に棲息しているが、陸上に進出するような進化段階には達していない……。

 浮かび上がる文字の列を、読むともなく眺めていると、

「……あら」

 彼女は、顔を上げた。心にふっと、さざ波が立ったのだ。

 部屋の隅に視線を移すと、黒い影が、視界に見え隠れした。彼女は手招きをした。影の「こころ」に直接呼びかける。

〈……おいで〉

 影はおずおずと、光の中に姿を現す。

 銀色の金属の表皮に、ライトの光が、きらりと滑る。

 影の正体は、掌に乗るほどの機械だった。玉子を縦に割ったような外観を持ち、華奢なマニピュレータを前方に突き出している。

 触覚状の感圧センサーが二本伸び、その先端が、宙をまさぐるように動いている。体の前面には、六角形のパネルがあり、その真ん中が赤く光っている。アクティブ光センサーだ。

〈そのブラシを取って〉

 彼女は心の中で呼びかけた。ロボットは棚の上のブラシを取り上げ、マニピュレータで抱え、彼女の元へ運んでいった。

〈ありがとう、借り暮らし(ボロワー)〉

 生乾きの髪にブラシを通しながら、リネットは微笑んだ。

 ロボットは元々、この恒星船の一部だった。

 恒星船のような巨大で複雑なシステムには、メンテナンスのための端末ロボットが、内外くまなく配置されている。それらの中には、バグやコンピュータウィルスのためにプログラムが暴走し、統括制御AIの拘束を離れて、自律行動するようになったものがいた。船乗りたちは、いつしかその機械のことを「借り暮らし(ボロワー)」と呼ぶようになった。

 恒星船の中で、突然部品が無くなったり、電力配分に異常が観測されたりすることがある。それらの大半は、かれらの仕業だ。機器類を解体してその部品で自らを修復したり、電気を無断で拝借しているのだ。

 彼女の目の前の物体にも、不釣り合いなほど太いケーブルが、脇腹にはみ出している。どこかの配線からくすねてきたものだろう。

 かれらは恒星船の厄介者であり、しばしば、船や乗組員に危険を及ぼすものとして忌み嫌われる存在だった。

 だが、借り暮らし(ボロワー)を敵としないものがいた。それどころか、かれらは借り暮らし(ボロワー)を手なずけ、操り、そしてあるべきところへ戻すことすらできた。

 この時代に生きる人々は、かれらを、ドミナント――「統治するもの」と呼んだ。

 そして、リネットもかつて、そう呼ばれていた。

 機械と意思を通じ、宇宙に起こる現象のすべてを、五感のように感じとることが出来る、選ばれた人々。

 大脳視床下部に、バイオチップをインプラントされて、AIとの間に完全なコミュニケーションを行える、エキスパート。

 職能組合(ギルド)を結成し、何ものにも仕えず、孤高を保ちつつ人類に貢献する一族。

 かれらを評する言葉はいくつもあった。ヒトと機械に橋を架けるもの。銀河の秘密と知恵を知るもの。銀河文明の真の担い手。

 そう、間違いなく、彼女はその、誇り高いひとびとの一員だった。

 しかし――

 借り暮らし(ボロワー)は彼女の掌に乗った。わずかな時間で、すっかりなついている。

 ロボットの側面には、「NP3809286174」と数字が彫り込まれている。かつて恒星船の一部分だった頃の、シリアルナンバー。

〈これがあなたの名前ね。じゃあ、ネピって呼ぶわ。いいでしょ?〉

 名付けられたばかりの借り暮らし(ボロワー)は、応えるように、センサーを赤く光らせた。

 彼女の左耳には、ケルト十字の形をしたピアスがぶら下がっている。それは、AIと言葉を交わすための、ソロモンの指輪だった。

〈どうしたの〉

 手のひらの上の借り暮らし(ボロワー)は、何かにおびえているようだった。

 この恒星船に、異常が起こっているようだ。

 リネットは感覚を研ぎ澄ました。ピアスのセンサーが、信号をキャッチする。神経パルスが、恒星船のAIと同調してゆく。

 頭の中に入ってきたときは、すべての情報が混ざり合ったホワイトノイズだった。プリズムで白色光を分光するように、それぞれの情報を分解してゆく。

 感じる。視えてくる。

 ゆるやかにを出力を落としてゆくディラック・ドライブ。反応炉の中で踊るモノポール。敏感な皮膚に触れるように、それらの感触が伝わってくる。

目の前の赤い星から吹いてくる太陽風。何十億光年もの彼方を旅してきた、高エネルギーの宇宙線。空間の歪みと重力波。様々な波長の電磁波。

 リネットは、恒星船と、宇宙空間が奏でるハーモニーに身をゆだねた。

〈分かったわ。ここね〉

 AIネットワークから、連絡があった。反応炉がオーバーヒートしている。冷却パイプに異常があるようだ。このままでは、メルトダウンする恐れがあった。

 故障個所へロボット――まだ恒星船AIのコントロール下にある――たちを誘導し、修理に当たらせた。

〈そう、そこよ〉

 さほど複雑なトラブルではなく、有り合わせの部品を交換するだけで、修復は簡単に済んだ。

 完了の知らせが入ったとき、音もなく、扉が開く。船内作業服を着た中年の男が、扉の向こうから駆けつけてきた。

 リネットはあわてて、銀色の物体が乗っている手を後ろに回した。

「異常事態が発生したようです。船内のロボットたちが……」

 話しながらこちらに歩み寄ってきたが、そこまで言ったとき、彼の言葉が止まった。

(……わかったのね)

 彼女の表情に、翳りが走った。

「あなた、まさか……」

 男性はおずおずと尋ねた。リネットは黙ってうなずく。

「そうよ。でも、研究所の人には、言わないでくださいね。絶対」

 そう言って、リネットは顔を上げた。彼は怯むように目をそらした。

「わ、分かりました。えーと、私はこの恒星船の航法士、リー・ラドラと申します。目的地までもう少しですから、シャトルに移る準備をしてください……」

 リネットは男を軽くにらんだ。ラドラと名乗った男は、目をそらした。彼はリネットが何故腹を立てているのか、分からないようだった。

「忠告しておくわ。この船、早いとこ、オーバーホールした方がいいわよ。今のは応急処置だから。ほかにも船殻がかなり疲労しているみたい」

 精一杯内心の動揺を隠して応えた。それでも、唇はふるえている。

 ドミナントは、彼のような通常人の船乗りにとって、畏敬と恐怖の入り交じった対象だった。目の前の小娘が、自分には及びもつかない能力を持っているというのは、どうにも認めがたいものであるのかもしれない。

 危機を救ってもらっておいて、この仕打ちだなんて。でも、それも彼女にとっては慣れっこのこと。

 浅黒く宇宙焼けしたラドラ氏の顔から、血の気が失せる。

「そ、そうですか。失礼します」

 ラドラ氏はへどもどしながら、部屋を出ていった。

(こんなこと、もう、しない……)

 リネットは悔やんでいた。彼女が最後に吐いた言葉は、完全な脅迫だった。そして、彼女にはもう、そんな言葉を言う資格がなかった。

 鬱々とした気分を抱え、洞窟のような通路を通って、彼女はシャトルに乗り込んだ。この恒星船は、直接大気圏に突入出来る構造にはなっていない。軌道エレベータ付きの宇宙港なども、もちろんないので、惑星と宇宙を連絡するには、シャトルが必要になる。

 シャトルの内部は狭かった。床に立つと頭が天井に着いてしまうほどである。キャビンの後部には、ペイロードベイに収まりきらない貨物が、バンドや留め金で固定されている。

 髪をほどくと、ピアスは耳ごと隠された。

荷物の影から、先ほどの借り暮らし(ボロワー)が這い出てきた。

〈ついてきたのね〉

 彼女はそっと、荷物の陰に隠した。

 シャトルの機内では、恒星船のように人工重力はかかっていない。

 微少重力の中で機内のものがふわふわと浮き、パックが、目の前に漂い出てくる。彼女はそれを手に取った。ラベルを見る。メラトニン製剤だった。

「この薬……」

 メラトニンは大脳内の内分秘腺、松果体から分泌するホルモンである。体内時計をリセットする作用があり、恒星間航行に伴う時差ボケに効果を発揮する。また、慢性放射能障害の予防にも使われていて、宇宙で暮らす人々にとっては、欠くことの出来ない薬である。

「惑星の時間にも、慣れておかなくっちゃ」

 パックを手に取り、タブレット三錠を口の中に弾き入れた。パックからストローで吸い上げた水を口に含み、飲み込もうとしたとき、ふと昔の記憶が脳裏をよぎった。

「子供のうちは飲んじゃいけないって、言ってたっけ。そう、お母さんは……」

 物思いに耽っていると、不意に、ネピが彼女の膝から飛び跳ねる。

〈どうしたの?〉

 ロボットは異様なほど機敏に動いた。キャビンの隅まで駆け抜け、跳び上がり、横向きに置かれていた半円形の物体の上に乗る。

 リネットは後を追った。

 そこにあったのは、カプセルだった。彼女が入っていたものとは、型が違う。傍らに寄ると、乳白色のボディの一部が音もなくスライドした。透明な樹脂一枚隔てて、中に納められていたものが見える。

 白い肌着をつけただけの少年が、横たわっている。年のほどは一四.五だろうか。ライトブラウンの髪が耳朶にかかるほどに伸び、瞼を閉じた顔は整っている。その顔立ちには、どこか既視感を感じる。

 瞼が開く。眼球だけが動き、彼女を見る。瞳を縁取る虹彩の色は、鮮やかすぎるほどの金色だった。

「……!」

 その輝きは、リネットの記憶を三ヶ月前に引き戻した。



 2


 りょうけん座ベータ星系第四惑星「ミュゼ」。その首都宇宙港、惑星側ステーション。

 外宇宙に開かれた、この星の表玄関である。静止軌道にあるステーションとは、軌道エレベーターで接続されていて、星系の他の惑星、さらには銀河系の星々からやってきた旅行者は、数時間かけて、地上のここへ降りてくる。それから、隣接する空港で発着する極超音速旅客機や、大陸の諸都市を結んでいるリニアトレインに乗り換え、惑星の各地へと散ってゆく。

 広大な到着ロビーでは、様々な人々が行き交っていた。空間に充満した喧噪の中には、さまざまな響きの言葉が混ざっている。星系国家の表玄関にふさわしい喧噪が、その場所にはあった。

 透明な天井を、傾きかかった陽が赤く照らし出す。

 中央の3Dディスプレイには、発着案内表示が浮かび上がり、その表示は刻々と変わる。それに合わせるように人の波は、右へ、左へと分かれて誘導されてゆく。

 ロビーの目立つところに、大きな彫刻が飾ってある。奇妙にねじれたその形は、人間の遺伝子を象徴していると、土台に埋められた説明プレートにはある。

 その周囲は待ち合わせには格好の場所のようで、辺りを見渡すと目に入ってくるのは、長旅を終えたばかりの、大きなバックパックを背負った若者。急ぎ足で乗り換えに向かうビジネスマン。どこか浮き足立っているような、新婚旅行のカップル。誰かを出迎えに来たと思しき中年女性。

 その人波に紛れるように、ひとりの少女が壁にもたれて佇んでいた。

 薄いピンクのワンピースの上に、白いジャケットを羽織った彼女は、端からはただ手持ちぶさたにしているように見える。

 しかし、彼女の眼には違ったものが見えていた。

 現実の光景の前に(レイヤー)がかかっていて、時刻やそのほかの情報が宙に浮かんで見えている。

 乗降口やカウンターにはタグが刻印されていて、それぞれの機能や情報を表示している。

 タグは行き交うひとびとにも刻印されていて、行き先や所属がそこには表記されている。それはほんらい機械のためのもので、人間には読み取れないものだったが、彼女はそれを認識することが出来た。

 それに飽きると、少女は頭上のホロディスプレイを見上げた。到着時刻を確かめると、人波に目をやる。

 不意に、視線を感じたような気がした。振り返って、見知った顔がいないのを確かめると、また眼を落とす。

 その行為を何度か繰り返した後だった。見やった人波の中に、頭一つ大きな姿が見えた。まっすぐこちらに向かってくる。そして、手を挙げて、微笑みかける。

「やあっ」

「ミチ!」

 リネットの表情が明るくなった。人並みをくぐり抜けて駆け寄り、腰に抱きついた。

「久しぶり!」

 吐息の温度、髪のにおい、そして肉体の質感。ホログラフでは感じられない親友のすべてが、リネットの五感を満たした。

 ミチ・アサガミ――彼女は、すこし前までは優秀な学生だった。ほとんど最優等で高等学院を修了したのち、難関の銀河連邦捜査局の特捜刑事を志願し、何百人にひとりという狭き門を、ストレートに突破した。

 人類が銀河系内に版図を広げてから、犯罪もそれとスケールを同じくした。単独の星系国家では対処できない海賊行為や、広域犯罪などを専門に扱うために、銀河連邦捜査局――GFBIが創立された。

 そこに職を得た人々は皆それぞれにプロフェッショナルであるが、その中でも、特捜刑事はエリートの中のエリートといえた。

 毎年、学校を優秀な成績で卒業した者や、星系の警察組織から推薦された腕に覚えの猛者たちが大挙して志願してくる。難関を選抜されたあとでも、警察学校や実務訓練――OJTでしごきにしごかれ、その間、大量の候補生がふるい落とされてゆく。

 一人前の特捜刑事になったとしても、それは想像を絶する激務。危険も多く、殉職率も高い。頑強な肉体と明晰な頭脳、鉄のごとき意思、そして強烈な使命感がなければ務まるものではない。

 もっとも、以前、当の本人に志望した理由を訊ねたところ、「連邦の機関に入局すれば、奨学金を返済しなくていいから」と、さらりと言ってのけただけだった……。

 訓練期間を終えた彼女は、一日だけ身体が空いたのだという。それを利用して、当分会えないであろう親友の顔を見に来たのだ。

 ロビーから通路へ伸びるウォークベルトに乗る。自動的に、宇宙港の外へと運ばれる。

 途中、ミチを見上げて話しかける。

「見違えちゃったね」

 彼女は百八十センチの長身で、機能的な、引き締まった体型をしている。黒髪を短く刈りそろえ、化粧っ気のない顔は、昔と変わっていない。

 ただ、その肉体から発する雰囲気は、学生時代とは全く違っていた。

 鋭い眼光と隙のない目配り。贅肉がそがれた頬。強靱なばねを内蔵した太股。そのひとつひとつに、激しい訓練の日々が刻みつけられているようだった。

「そう? 自分じゃ、あんまり気がつかないけれどね」

 彼女の声は、昔に比べてややハスキーになったように感じた。

 ミチの肢体、能力、生き方、すべてが女性としては規格外であるはずなのに、彼女は、「女性」としての枠に、不思議なほど無理なく納まっている。彼女自体が、ひとつの美しい完成品であるかのようだ。

 しかし、その筋肉を包み込んでいる肌が柔らかくデリケートなのも、リネットは知っていた。

 ウォークベルトに乗って、宇宙港を出たふたりは、メトラムの停留所へ向かった。宇宙港と都市部各地を結んでいる近距離用の公共交通機関である。

 ホームに流線型の車両が滑り込んできた。ゲートを通ると自動的に電子ウォレットが照合され、精算が確認されると車両とホームの扉がシンクロして開く。タグには引き去られた額が表示された。

 ふたりは十人乗れる一車両を占領した。

 行き先には、丘の上にある公園を選んだ。この街で一番の眺望を誇る場所。

 車窓から観る太陽は――カラという恒星としての名前があるのだが――その端を山際に沈めようとしていた。

 シートに座ったミチは、窮屈なシートからだらんと長い足を投げ出した。

「ふう。こんなだらしないかっこしてたら、警察学校(アカデミー)じゃ、腕立て十回ね」

「そんなに厳しいの? 訓練」

「そうね、これからはインターンに入るの。部隊に配属されて、恒星船に乗って、実際に海賊を追いかけ回すのよ」

「わあ、すごい」

「へへへ、そうかな」

 ミチは苦笑しつつも、まんざらでもない表情になった。

「それはいいんだけどさ」

 不意に、表情から笑みが消え、まじめな顔つきになる。

「あんた、決まったの? 身の振り方」

「え、ううん……」

 その途端、リネットは口ごもった。

「まだなのね。どうするのよ?」

 単刀直入な訊ねかたは、以前と変わっていない。

「この間、お母さんからメールが来たわ」

 おずおずと口を開く。

「帰ってこいって。こんなところにいても、いいことないって。もう、相変わらずなんだから……」

 そこで声が途切れる。彼女は頬杖をついて、車窓に流れてゆく街の景色を見やった。

 リネットは、ミチにやや遅れて、学校の課程を修了した。が、それから先の進路は白紙だった。

「で、帰るの?」

 ミチは応えた。リネットは返事を返せなかった。

 リネットの母親も、ドミナントだった。母親の意思で、リネットの運命は定められたのだ。

 彼女は銀河中心部にあるという、ドミナントの惑星で産まれた。人工子宮の中で、バイオチップをインプラントされ、ミルクしか飲めない赤ん坊であったころから、高次集積回路と調和する訓練を受けていた。

 幼い頃から、母親に連れられて、銀河の星々を巡った。ふつうの子供がベビーベッドであやされているとき、彼女は恒星船の中で、あるいは異星の大地に赴き、そこで起こる現象やデータバンクに蓄えられた情報を、自分の能力を総動員して、幼い脳に焼き付けた。

 宇宙空間に繰り広げられる驚異、様々な異星の生き物、文化――同世代の遊び相手を見つける前に、世界のすべてを「見て」しまったのである。

 彼女の将来には、何の迷いもないはずだった。ギルドの一員として、自らに課せられた使命をこなし、AIを友に一生を送るはずだった。

 しかし――

 次第に、彼女は自らに疑問を持つようになっていった。

 銀河の何処に行っても、母子に向けられる見るまなざしは、他の人たちと違っていた。そのことを、彼女の幼く柔らかい心は、敏感に感じていた。

 羨望、恐怖、それとも憎悪……? 人間の瞳の奥に潜む感情は、巨大な謎に満ちていた。

 あからさまな侮蔑の言葉を投げかけられることも、まれではなかった。

 自らの能力や境遇は、次第に、自分を束縛するものに思えてきた。

「どうして私は、お母さんの娘なのだろう――」

 母親から、逃れたかった。みんなと同じ、当たり前の青春を味わってみたかった。その思いは、年を経るごとにつのる一方だった。

 それに、もうひとつの理由が加わった。

「どうするんだ?」

 数日前のことだった。母からのメールを受け取ったリネットは、詰問された。

「おまえは、結局あのおふくろのところへ帰るのか」

「な、何よ、その言い方は」

「ずっとおふくろに飼われていたいのか」

 彼女には、兄がひとりいた。名をニールという。彼もドミナントとして産まれるはずだった。だが、手術の直後、脳に微細な障害が発見された。ほんの数ミクロンの傷は、知能や運動能力など、脳の通常の機能には何の支障ももたらさないものであるが、大脳とバイオチップのハーモニーを乱すには、充分すぎるものだった。

 結局、彼は通常人として、母親やリネットとは離れて育てられた。彼女たちが銀河を巡っていたときに、彼だけは、星の上に置き去りにされた。リネットがドミナントとして得た知識は、何も共有することはなかった。きょうだいが顔を合わせる機会は、年に何回もなかった。

 そして、大きくなると、彼はひとりでこの星に追いやられた。留学という名目だったが、捨てられたようなものだ。

 なんてひどい仕打ちだと、リネットは子供心に思った。

 そして標準時間で三年前、積もりに積もった鬱憤は行動となって、一気に噴き出した。密かに兄を頼り、母親には内緒で、留学の手続きをとったのだ。が、その実態は家出だった。初めての反抗だった。

 その幼稚な企みは、すぐに母親の知るところとなった。無論、それはすんなりと許されるものではなかった。母娘はあっと言う間に戦争状態に入った。

 騒動はギルドも巻き込んで、標準時間で一ヶ月も続いた。結局、ドミナントであることは周囲に秘密にすることと、卒業したら母親の元へ帰ってくることを約束し、彼女は留学を許された。

――だが、その猶予期間ももうすぐ終わってしまう。

「兄さんはそんなこと言うけど……」

 表面では反発しながらも、痛みのような感情がわいてくるのを否定できなかった。

 ニールが好きだった。

 ここで兄を見捨てたら、彼はまた、ひとりぼっちになってしまうのだろうか。

 彼は母親を憎むあまりに、ミュゼで「地球的な」価値観にどっぷり浸かってしまった。

 もはや、ふたりは相容れることはないだろう。母と兄、どちらをとっても、どちらかを裏切ることになってしまう。

 どうしていいのか分からないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

 そんな有様を、かいつまんでミチに話した。

「――あんたの気持ちは良く分かるけどさあ」

 口を開いた。

 自らの素性を、ミチにだけはうち明けていた。それだけ、彼女は信頼するに足る友人だった。

「でも、この辺ですっぱり決めちゃったほうがいいと思うな。あたしとしては」

「え……」

「だらだら引き伸ばしたって、いいことないでしょ」

 筋肉のついた立派な腕を組んで、ミチは応えた。

「そういうものなの……」

 リネットは額にかかった前髪を掻き上げる。

「帰るところがあるんだったら、帰った方がいいような気もする」

 ミチは視線をまっすぐ前に向けて、言った。

 ふたりを乗せたメトラムの車両は、公園前の停留所に滑り込む。

 アーチの向こうに、遊歩道が続いている。公園はよく整備されていた。花壇の中を、二本の小径が螺旋状に絡み合いながら、小高い丘の上へと上ってゆく。

 崖にせり出した頂には、四阿の休憩所があった。吹き抜けの屋根の下にベンチがしつらえてある東屋で、先客はいない。

 眼下に広がる街の灯りと、暮れなずんだ空に輝く光の粒。正面にそびえるのは、高度四万キロの静止軌道から延ばされた、宇宙への回廊。

 柵から身を乗り出しながら、不意にリネットは口を開いた。

「今だから言うけど……私、ミチがうらやましいな」

「え?」

「難関に受かったってことだけじゃないよ。自分の手で、自分の将来を切り開いてゆけるから」

「……」

「私がドミナントになったのは、自分の意志じゃないもの、産まれる前から、いえ、私って存在を作るって決めたとき、同時にお母さんは私の将来を定めてしまったのよ。分かる? 産まれたときから人生が決定されているって、どういうことか」

 そう言って、微笑んだ。笑顔には、ほんのわずかの自嘲がこもっている。自分の感性が相当「地球的」になってしまったことに。

「私だって、まっさらなまま産まれて、自分で思い通りの色をつけたかったわ。誰を恨む気もないんだけどね……」

 左耳のピアスを、手でいじる。まるで、もぎ取ってしまいたいとでもいうかのように。

「……そんな、難しく考えない方がいいよ。何にしてもね」

 ミチは、リネットの肩に手をおいた。

「世の中なんて、いい加減なもんだから。適当にうわべをつくろってれば、みんな、だまされてくれるよ。そうして、誰もいないところで、ぺろっと舌出してりゃいいんだ。そう思わない?」

 ミチは肩をと引き寄せる。身体ごと持って行かれたリネットは、胸にもたれて、うなずいた。

 夜風がふたりの頬をなでる。制御されていない惑星の気候は、気まぐれだった。

 リネットはミチの手に、そっと自らの手を寄り添わせた。

 手を握ったとき、ミチはモニュメントに埋め込まれていた時計を見上げた。

「じゃ、これで」

「もう行っちゃうの?」

 リネットは何とも心細そうな声を出した。

「忙しいのよ。これからまた、とんぼ返りなの。そろそろ宇宙港に行かなきゃ、間に合わないもの。じゃあね」

 ミチは左手を差し出した。彼女は左利きだった。

「頑張ってね」

「あなたも」

 固く握り返すと、ミチは駆け足で、先ほどくぐったアーチへと駆けていった。


「もう……すっかり、あっちの人になっちゃって」

 ひとりになったリネットは、夜風に吹かれながら、ぶらぶらと街灯が点る遊歩道を歩いていった。

「私が帰ったら、ドミナントとしての生活に戻ったら、私とあなたはもう二度と逢えないのよ。それでもいいの?」

 口の中でつぶやいてから、そっと苦笑した。

「……そうね。よくないのは、私だものね」

 夜はあっと言う間に深くなっていった。人影はもう、まばらだ。

「おねえちゃん」

 不意に、どこからか声が聞こえた。

 リネットは辺りを見回す。だが、知った顔は見あたらなかった。

「そこの、白い服を着たおねえちゃん」

 もう一度、彼女の背に言葉が投げかけられる。

 五メートルほど背後、地面に落ちた円錐型の光の中に、声の主はいた。

 顔をうつむかせた、やせっぽちの少年が街灯に凭れて立っている。

 リネットは光の中へ歩み寄った。

「あなたは誰?」

 当惑と警戒心をありありとその口調に浮かばせて、問うた。

「ずっと、捜してたんだ……」

「私のことを?」

 彼はその問いに無言の笑みで答えた。どこかに挑戦的にも見える表情だ。からかっているようにも思えない。

 少年の歳は、見たところ十四、五ほどに思えた。だが、それにそぐわない雰囲気を、そのひょろっとした身体から発散させていた。

 チェックのカッターシャツを着て、ベージュのチノパンをはいていた。薄茶色の髪はやや長く、後ろ髪がシャツの襟にかかっている。

 だが、何よりも強烈な印象を与えたのは、その眼だ。ほっそりした顔に開いた、アーモンド形の大きな眼。

 黒い瞳を縁取っている虹彩は、金色に輝いていた。まるで、朝の陽光をそのまま封じ込めたような……。

「ぼく、おねえちゃんのこと、何でも知ってるよ」

 リネットは眼をしぱしぱさせた。

 タグを読み取ろうとした。しかし、読み取れない。

 ――関わらないのが無難だ。

 踵を返し、少年から離れようとした。

 すると、不意に目の前に、少年の顔が現れた。足音も立てず、空気を揺らすこともなく、こちらまでにじり寄ってきたのだ。

 異様な気配を感じた。

「何よ、気持ちの悪い子ね」

 少年は上目遣いに、リネットの眼をのぞき込んでくる。

 金色の目に封じ込められた彼の眼光には、ただならぬものを感じる。

「い、いや」

 光が強まった。リネットは眼をそらした。が、不意に少年は、リネットの手の甲をつかんだ。

 女性のような、やわらかく、すべすべした手触りが伝わってくる。握る力はそれほど強くない。振り払おうと思えばできたが、身体が言うことを聞かなかった。

「ああ……」

 我知らず、声が漏れる。

 地面が消えた。足の裏から、感触がなくなったのだ。

 リネットの眼の焦点が合わなくなった。網膜に映るものとは別の映像が、頭の中に直接送り込まれてくる。彼女が慣れ親しんでいた、AIとの接触とは、全く違った感触。

「海……」

 エメラルドグリーンの岸辺に、白い波が打ち寄せては砕ける。その映像が、くっきりとした輪郭を伴って、彼女の頭の中に立ち現れた。

 感じたのは、視覚だけではない。頭の奥で、ざああっという潮騒が響いた。潮の香りが、鼻腔の中に広がった。

 見たこともないのに、ひどく懐かしいような、そんな光景だった。

 一瞬の恍惚ののち、彼女は我に返る。重ねられた手を振りほどいた。

「あ、あなた、何をしたの?」

 彼はふたたび微笑した。

「ぼくはハドリだよ。覚えておいて」

 少年は小走りに、その場を去っていった。

 少年の背中を見ながら、彼女の脳裏に、ある言葉が浮かぶ。

 テレパシー。

 現象そのものは、太古の昔から報告はされていたが、正統的な科学として認知され、研究の対象とされたのは、ごく最近のことだった。

 彼女も銀河巡りの中で、そんな能力を使えるものに、何度か出会ったことがある。しかし、先ほどのように鮮やかなヴィジョンを送ってくる者は、いなかった。

(まさか、あんな少年がいるなんて……)

 彼女は、今起きた現象の意味をつかみとれずに、ただ立ちつくしていた。

「どうも、すいませんでした」

 別の男が声をかけてきた。広い肩に杉綾のジャケットを引っかけた、中肉中背の、中年に差し掛かった男である。

「彼が粗相をしでかしまして」

 リネットは訊ねた。

「あの、お子さんですか?」

「そんな歳に見えますかね」

 男は苦笑しながら、頭の丸みに沿って丁寧になでつけた黒髪に手をやった。

「まあ、ちょっとした縁で、世話を頼まれてるものでしてね。あ、私は、こういうものです」

 ジャケットの内ポケットをまさぐり、携帯端末――リネットの持っていたポートフォリオよりは小さい――を取り出す。指先でパネルをなぞり、リネットのポートフォリオに情報を送り込んだ。

「ハーディーマン惑星開発株式会社 異星生物研究主任 生物学博士 ジャン・ゴーシュ・ナカオ」

 ホロディスプレイに浮き出た文字には、そうあった。

 会社の名前は、どこかで聞いたことがある。惑星の資源や生物環境などの調査を請け負って、惑星を開発する能力のある、国家や大企業への橋渡しをするという、一種のベンチャー企業である。

 銀河系を開発の波が一渡りして、長い停滞状態にあるこの業界の中では、最近目立って業績を上げているという。

 目の前のきちんとした着こなしの男と、彼女のイメージにあった、白衣の研究員を直結させるのは難しい。

「ミュゼに帰ってきたのも、久しぶりでしてね。今まで、海しかない惑星にいたもので」

「海……ですか?」

「そうですよ。航路も通っていない辺境でしてね。ここでの用事が済んだら、また、すぐに戻らなくちゃいけないんです」

 彼の言葉に、さっき「見た」海の像が重なる。その様子を察したのかどうか、ナカオ氏は質問を発した。

「海が好きなんですか」

「ええ。ダイビングをちょっと」

 スキューバダイビングを趣味にしていた。バカンスのたびに赤道直下の海浜公園に出かけ、珊瑚礁の海に潜った。

 「地球」原産のものだという珊瑚の間をくぐり、異星から持ち込まれた、奇妙な生き物たちを眺めた。コバルトブルーの熱帯魚と戯れ、それに鯨やイルカと泳いだこと――海中で過ごしたひとときは、とても楽しかったのを憶えている。もっとも、今はそんなのんきなことを思っている場合ではないが。

 彼は話題を変えた。

「あなた、学生さん?」

「は、はい。そんなところです」

 返事も、どこか上の空だった。

 それからなにを話したのかは、あまり覚えていない。ただ、男の脇にいつの間にか先ほどの少年が寄り添い、不思議な微笑を浮かべながらこちらのやりとりを見守っていたことだけは、彼女の記憶に残っている。

「じゃあ、またね」

 別れしな、少年はリネットに手を振った。彼女は、狐につままれたような表情で、それを見ていた。

 翌日、リネットは教えられた連絡先にコンタクトを取った。どうしても、しなければいけないような気でいたのだ。

 言われたとおりに、オフィス街にある本社まで足を運んだ。

 高さ数千メートルのビルが林立する中心街。その中でもひときわ目立つビルに、その会社の本社はあった。

 摩天楼の上部は雲に隠れている。

 建物の中まで入り込んだハイウェイを進み、ホールでメトラムを降りた。玄関の大理石に閉じこめられた、太古の生物の化石を眺めながら、リネットはぽつりと言った。

「結局、来ちゃったなあ……」

 高層階用リニアエレベータに乗り、行き先を「1109」と押した。

リニアエレベータはなめらかに加速してゆき、程なくして1109階に到着した。

 不意の来訪だったが、ナカオ氏は時間を取って会ってくれた。

「どうです、うちの会社に入ってみませんか?」

 彼は単刀直入に切り出した。

「そんな……いいんですか?」

 不思議なことに、抗いがたい衝動を感じる。

(ここで人生を決めるべきなのかもしれない)

 多少戸惑ったが、その求めに応じることにした。無論、余計なことは言わなかった。

 それからまもなく、正式に入社が決まった。

 この会社の規定では、新人は最初の数年間、辺境の惑星で働くことになっている。彼女はナカオ氏の元で、生態系の調査をすることになった。

 不安はあった。でも、あの見た目にソフトで、

 人当たりの良さそうなナカオさんという人の下で働くのは、悪い選択ではないように思えた。今まではずっと、母親と一緒だったが、これからはひとりだ。

 国家や企業に籍を置いてしまうと、ギルドに所属することはできない。彼女はもうドミナントと呼ばれることはないのだ。

(でも……いいわ。いつまでも、母親の操り人形じゃないもの)

 そう言い聞かせて、自らを納得させた。

 進路を決めたことを告げると、ニールは「良かったな」と言っただけだった。

 母親には、連絡を取らなかった。ほんとうはいけないことだったのだが、またあの騒ぎを繰り返すのはいやだったからだ。

 既成事実さえ作ってしまえばこっちのものだ。

 一番親しい友人には、もちろん真っ先に伝えた。彼女の現在の住所である、官舎に連絡すると、合成音声で応答が返ってきた。

「――本人は現在、都合により応答できません。少々お待ちください」

 一拍おいて、「メッセージをどうぞ」という表示が、ディスプレイに現れる。

「あ、私、リネット。私ね、進路が決まったの。今まで心配かけてごめんね。じゃ、また」

 端末のカメラアイに向かって一方的に話しかける。回線を切ったときには、すっかり上気していた。

 諸々の手続きや新任者研修を済ませ、赴任先に向けて旅立ったのは、それから二ヶ月後のことだった。

――そして今、リネットはシャトルに乗っている。もうすぐ大気圏突入だ。四点式のシートベルトをきっちりと締め、彼女の身体は座り心地の悪い耐Gシートに固定された。

 機窓の向こうには、青い大気のヴェールをかぶった惑星が、視界いっぱいに広がっている。太陽が、惑星の影から現れる。光が黄金のリングのように、上層大気に広がってゆく。

(金色の光……)

 瞼の裏に焼き付いて離れない、あの眼の輝きが、彼女の心をさざめかせていた。


 3


 金色の陽光は、この日も穏やかに、地上に降り注いでいる。

 少女は、草につつまれた丘の上で、「声」を待っていた。

 眼を閉じて、心を穏やかにする。すると、「声」が胸にしみこんでくる。どこか懐かしい、かれの「声」が。

(もうすぐ、きみのそばにいく。きみを助けにいくよ)

(助けに……何から?)

 かれはその問いには答えなかった。かれの「声」は、草原を吹き渡るそよ風と、朝露のにおいに紛れ、消えていった。

 かれはいったい、何処にいるのだろうか。どうして彼女に語りかけてくるのだろうか。少女には何も分からなかった。

(ひょっとしたら、あなたは……)

 少女は、閉じた瞼の裏で、ある人物の像を思い浮かべた。

 しかし、その人物であるはずがない。彼女の目の前から姿を消してから、もう長い長い時がたっている。

 かれはもう、少女とは無関係な存在になってしまっただろう。《マム》も、そう言っていた。

 冷たい風が頬をなで、髪を乱してゆく。足下ではさわさわと、草たちがさざめいた。

(もし……もしあなたが、かれだったら)

 少女は思った。

(おねがい。もう一度だけでいいから、わたしの前に姿を現してください……)

「声」は、その願いに構わずに、彼女の中から去った。だが、少女の思いは痛切だった。

 もう、少女に残された時間は、わずかだったからだ。


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