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洋が電車の中に入った時には、既にほかのドアから入ってきた乗客が座席をとり始めていた。ボックス席となっているため、座席に座ったあとに横に荷物を置く人もいる。ほかの客にとってはかなりの迷惑だ。
「鱒渕君、こっち、こっち!」
友海の声がする方を振り向くと、彼女は既に座席を確保していた。横に荷物を置いて、ほかの人が座れないようにしている。
洋はすかさず、友海の方へ歩いていき、座席の前で止まると荷物を自分の横から膝の上へと移動させた。
「ありがとう」
「さっき列に入れてくれたお礼だよ」
洋がお礼を言うと、友海はパチンとウインクして答えた。
友海の横に座り、周りを見渡すと既に座席は埋まっているようで、つり輪などを掴んで立っている人が出始めた。
「それにしても、よく席が取れたね」
「たまたま空いてたからラッキーだったよ」
『たまたま』で、この既に満員といってもおかしくはない電車の座席を確保できるものなのだろうか。洋は不思議に思ったが、口にはしなかった。
立っている人が増え、壁に潰されそうな人も出ている中、座席に座っている自分になぜか罪悪感がわいたが、洋はそれを受け流し、電光掲示板に目を移した。だが、電車が停車する駅を次々と表示されるだけで、暇を潰せるほどでもなかった。
車内の広告を見ても面白いものがなく、目のやりどころに困っていた洋は、横に座っている友海を見た。彼女も、同じく暇そうにしている。
「あのさ、氷山さんはどうして浜枦高校(はまはしこうこう)に進学したの? 氷山さんなら絶対、水泳の強豪校に行くと思ってたんだけど」
そう、彼女は水泳の強豪校に進学できる実力を持っている。中学校の最後の大会も、同期の仲間が全員引退しても、彼女の夏は終わらなかった。その実力は県では収まらず、地方、そして全国まで、舞台を広げた。さらにそれだけでなく、引退してからも学校の名前を借りて招待制の大会に何度か出場していた。だから実際には引退したのは中学の卒業式を終えたあとに行われたJO(ジュニアオリンピック)なのだ。これは中学の先生曰く、水泳部女子で過去最長の部活動在籍日数、水泳部設立から最も実績を残している女子選手らしい。
そんな彼女が、なぜ私立の強豪校に進学しなかったのか。自分を受け入れてくれた高校には失礼だが、浜枦高校は決して強い高校ではない。ここ数年、県大会で名前が消える高校だ。
「きっとそう思うでしょうね。理由になるのかわからないけど、一つは寮生活が嫌だったからかな。それと同じくらいに、二つ目は地元を離れたくなかったの。生活環境の変化とか、あんまり変えたくないの」
そんな理由で、と思ったがそれも一理ある。人によっては、生活環境が変わってしまうと、そのままスランプ状態が続いてしまう、なんてよくある話だ。おそらく、洋も今の生活から全く別の生活に変わると、しばらくは調子が出ないだろう。
だが、友海が浜枦高校に進学した理由はそれだけではない気がした。
「ほかには?」
洋はさらに友海に問い詰めた。
「三つ目は全く確証がないけど、浜枦高校には、影の選手がいるらしいの。なんでも、今までの高校の大会は一度も出ていないらしいよ。その人が今年、三年生になるからきっと大会にも出るって、私は思ってる」
友海の言うとおり、全く確証のない、理由にもなっていない返答だった。もしこの情報が嘘だったら、彼女はどうするつもりなのだろうか。
「それより、鱒渕君はどうして浜高に行こうと思ったの?」
「俺!?」
思いがけない返答に、洋は戸惑った。彼が浜枦高校に進学した理由など、彼女もわかりきっているはずだろう。
「まあ、家の近くの水泳部のある高校より強いってのと……やっぱりこれが一番の理由、あの三人に少しでも認めてもらえるように、かな」
洋が話し終えると、友海は悲しそうな顔をした。だが、すぐに返事は帰ってきた。
「……そっか。みんな、散らばっちゃったんだっけ?」
「ああ。三人とも、強豪校に推薦で入学した。呼ばれなかったのは俺だけだ。だから俺は、少しでも強いところに進学して、もっと速く泳げるようになって、あいつらを見返してやりたいんだ」
途中から怒りがこみ上げたことに、洋は気づいていなかった。全て言葉を言い終え、それが八つ当たり気味になっていたことに気がついた。洋は怒りを押さえ込みながら横を見ると、そこには友海の笑顔があった。
「そっか。頑張れ! 私も頑張る!」
何事もなかったかのように友海は洋に笑顔で返事をしてくれた。その笑顔は、洋の怒りを鎮めていき、次第に洋を同じように笑顔にしていった。
「ありがとう」
洋は友海に笑顔でお礼を言った。電車の座席を開けてくれた時とは違い、深い感謝の意を表して。