第九話
シルヴィ様に着付けてもらったドレスで長い階段を一歩ずつ降りる。
つま先で踏み出すたびに幾重にも薄い生地を重ねた裾がふわりふわりと揺れて、まるで本当のプリンセスになったような気分。
ドレスに見合うように少しでも優雅な仕草が出来ればいいな、なんて浮かれている自分に、ああやっぱり私も女性なんだわ、なんて妙な実感が湧いた。
何しろ隣には、指先をそっとつないでエスコートしてくれる、おとぎ話からそのままこの世界に現れたかのようなシルヴィ様。
こうしていればその佇まいは威風堂々といった感じで、凛とした空気を纏い、涼やかな瞳で先々の行動を促してくれるのだから、まさに国内外の女性の誰もが憧れる「王子様」だ。
そんな人にエスコートされているんだと意識すると、途端に腰を支えるために回された彼の腕をくすぐったく感じてしまう。
なんだかんだ言って、私も乙女思考の持ち主だったみたい。
って、こういう思考も全部シルヴィ様には筒抜けなわけで、私が「シルヴィ様考察」をやめるか、もしくは気絶でもしない限り多分彼の機嫌が降下することはない、と思う。
隣でずっとキラキラ王子様スマイル炸裂させてるもん。
「当然じゃないの。アタシの可愛い子猫ちゃんが心を開いてくれてるんだもの、絶好のチャンスでしょ?それなら頑張っちゃうわよ、黙っていれば見てくれだけはちゃんと「王子様」なんだから」
見てくれだけは、だなんてさらっと自虐的な事もおどけて言えちゃう、そんな軽やかさは私の警戒心を解くのにかなり効果的だ。
ただ、私は思うの。
「外見は素敵な王子様、心は母性本能に溢れて女性への理解度抜群、となったらやっぱりシルヴィ様は最強なんじゃないかしら」
と思ったままを伝えたら
「あら、あらあらあら」
なんて瞬きを繰り返して、みるみるうちにシルヴィ様の頬が紅潮した。
しかもそっと顔を背けたりして。
もしかしなくてもこれって
「照れてます?」
ちょっと「してやったり感」を抱いて問いかけたら、シルヴィ様は無言でこくりと頷いた。
それから思い切り息を吸い込んだシルヴィ様は、肺の奥から全て吐き出すみたいに深呼吸をして、パタパタと手で顔を仰いでから、螺旋階段を下りきった私に向き直り、その勢いのまま私の額に口付け。
「あのね、アタシこれでも舞い上がってるの。本当はね、ハニーちゃんに拒絶されることも、殻に篭られちゃう事も、もしかしたら泣き叫ばれるかもしれないことも、罵詈雑言を投げかけられるかもしれないってことも…色々想定したし覚悟もしてたのよ。そりゃもう一万メートルの山頂から海底めがけてダイヴするくらいの、凄まじい緊張感とプレッシャーをもってアナタを迎えに行ったの。ところが実際はどう?立派な警戒心は最初だけ。今じゃド天然なんじゃないかって心配になるくらい素直に心を開いてくれちゃって、あまつさえアタシへの称賛まで無邪気に送ってくれちゃって、これ以上アタシを悦ばせてどうしたいのよ!?って都合よく期待したくなっちゃうくらい距離を縮めてくれるし。ずっと片想いしてた相手にこんな態度取られたら、アタシだって男だものイチコロよ」
「イチコロ?」
「そう!イ・チ・コ・ロ!」
ちゅ、と頬骨に触れるだけの口付けを彼はする。
「男は単純な生き物なの。だからお願い、もう一度念を押すわよ?アタシ以外の男には、絶対警戒心最高レベルで接して頂戴。いいわね?」
ずずいっと綺麗な顔が鬼気迫った感じで寄ってくる。
今度は自分の顔が熱くなる番。
濃くなった紫色の瞳から視線を逸らすことができなくなって、じっと見つめていたら何だか瞳の奥がじんわりしてきて。
自然と浮かぶ涙で視界がにじむと同時に、何故だか体の芯が熱を持ち始めた感覚を覚える。
何、これ。変だ。
体が動かない。
どうして?これって…シルヴィ様の力…?
「ふふ、分かる?アナタがちゃんと納得して頷いてくれるまで離さないわよ?」
「ど、して?」
「魔族の力を知って欲しいの。こうして体の奥に眠る快感で支配して心ごと惑わすのがアタシたちヴァンパイア。ねぇ、こうされて動けなくなったでしょ…?まだハニーちゃんはアタシたちの魔力に抗う術を持たない。ってことは油断すればもっと凶悪な力で全てを奪われる危険性もある、ってこと。アナタを狙ってるのはただの「男」とは違う。全員が「魔族」なのよ。不用意に心を開いちゃダメ。そしてアタシの側を絶対離れないで」
耳元で響くのは甘く深いシルヴィ様の声。
所々に混ざる吐息が内耳をくすぐる。
耳の奥からゾクリとする何かが体中を這い回り、訳の分からない震えが全身を襲った。
そうされると同時に私の鼓動が早鐘を打ち始めて、胸の奥がむず痒くなる。
「っ」
身動きの取れない体をどうにか動かして頷こうとしたのに、シルヴィ様はそれを許してくれなくて、私が硬直しているのをいいことに、長く温かな舌で首筋から耳の裏側までをそっとなぞっていく。
ぞわりと全身に電流が流れる。
くすぐったいのとも、怖いのとも違う、やめて欲しいのにやめて欲しくない。
そんな、こそばゆい、不思議な感覚。
もどかしくて堪らない。
どうして欲しいのか分からないくせに、何だか焦らされているみたいで体中が疼いてる。
シルヴィ様、もうやめて…。
大丈夫よ、ちゃんと分かったから。
絶対あなたの側を離れないし、あなた以外の男性に簡単に懐いたりしない。
そもそも私、結構な人見知りなのよ?
こんなふうに、距離をとったり壁を作ったりせずに済んでいる方が珍しいの。
ねえ、シルヴィ様、お願い。
お願い…ッ。
「ふふっ」
「っは」
彼が微笑むのと同時に瞳の色が薄く変化して、同時に目に見えない何かから解放されて力が抜ける。
膝から床に崩れ落ちそうになるのをシルヴィ様が支えてくれて、どうにか顔面から転ぶのはまぬがれた。
でも。
さっきまでの甘く疼くような感覚が余韻として体の奥に残っていて、何だかものすごく恥ずかしいことのような気がして、シルヴィ様の顔がまともに見られない。
何なの。何だったの、さっきの。
こんな恥ずかしい気分にさせられるなんて、何だか釈然としない。
「シルヴィ様の、イジワル…ッ」
「お褒めに預かり光栄です。マイプリンセス」
「ッ」
背中が泡立つような吐息混じりの言葉がまた私を震えさせる。
彼の紫紺の瞳はまるで感情の読めない色を浮かべていて、先刻までの馴染みやすさなんてどこかに消え去っていた。
怖い、のに、逸らせない。
捕らわれる。
と、感じた次の瞬間
「怖がらなくていいわ。意地悪してごめんなさい」
なんてしおらしくぺこりと会釈しながらシルヴィ様は言った。
おかげでさっきまでの緊張感はどこへやら。
彼の纏うオーラは完全に緩められて穏やかなものに変わっている。
しかも、ちょっと何かを思案するような仕草をしてから、胸元でパンッと両手を合わせて一撃必殺のスマイル。
「なるほど、経験のない快感は快感とは認識されないのねぇ。まあいいわ、いずれそれが「キモチイイこと」って教えてあげるから。真っ白なものを自分色に染めるなんてこれぞまさしく男のロマンだわ~!あぁ、俄然やる気出ちゃった!」
なんて「男のロマン」とは正反対の様子で言うから、なんだかホント、拍子抜け。
力が抜けて全身の強張りがとけると、その場でぐしゃりとしゃがみこみたくなる。
まあ実際はシルヴィ様に腰を支えられているから、崩れ落ちることなんて絶対有り得ないんだけど、心の中の私は盛大に地面に崩れ落ちた。
シルヴィ様って一体…一体何なの?
まるでつかみどころがない。
「ミステリアス」なんて言葉、シルヴィ様にかかったらその意味なんて一気に薄まっちゃいそう。
何だかすべてをするりとかわされて、掌の上で転がされてる気分だわ。
核心を突いた答えはくれない代わりに、きっとヒントだけがあちこちにちりばめられていて。
するりするりと私の問いをうまくはぐらかしてしまうんだもの、ウナギみたい。
「ちょっとぉ?ウナギとは何よ、ウナギとは!」
ウナギが不満なら、えーと、他に何があるかな。
あぁ!
「「なめくじ!」」
「!?」
「…言うんじゃないかと思ってたわ。ヌルヌルヌメヌメって連想したらアタシも連想しちゃったもの。それならいっそもうウナギの方がいいわよね。ただでさえジメジメしててくら~いイメージなうえに、ナメクジなんて塩ふられたら死んじゃうのよ?とけて固まって一巻の終わり!!それに比べてウナギったら塩ふってかば焼きにしてごらんなさい。あっという間に白身がふっくらと焼けて香ばしい、素晴らしい一皿に華麗な変身!!もう月と鼈だわ!ほら、ハニーちゃんも考えてみて?ナメクジなアタシとウナギなアタシ。どっちが美味しいか一目瞭然じゃない?」
…その二択でいいの?
「いいわよ、だってそういう話でしょ?イメージの問題っていうのかしら。と、に、か、く、ハニーちゃんの前では「美味しい」アタシじゃなきゃ意味ないじゃない。誘惑できないじゃない。魅了できないじゃない。ただでさえギャップ萌えも真っ青のハイスペックオネェなんだもの!」
そこまで一息で言い終えて、ぴた、とシルヴィ様は動きを止めた。
「あ」
じ、と視線がこちらを向く。
良いこと思いついちゃったッ。的な微笑みの後、更に口角を上げて笑みがどんどん深くなる。
え。何?ヤダ、何だか心臓が嫌な感じに飛び跳ねたんだけど。
無意識のうちに本能が彼から逃げろと言わんばかりに、繋がれた手を反射的に引こうとしたけれど、それを穏やかながら絶対的な力でもって引き止められて、そのままぐっと抱き寄せられる。
え、え、え、ちょっと、まっ
「んちゅ」
「ッ、シルヴィ様っ!?」
「美味しいアタシをハニーちゃんに食べてもらうっていうのも、アリよね?」
なんて、とんでもない爆弾を落として彼はぱちりと綺麗なウィンクを炸裂させた。
続く
一年もの間、更新停滞してしまい申し訳ありませんでした。そのうえでご一読いただき本当にありがとうございます。