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第十話

「ほう…。ついに鍵は正しき所有者の手に渡ったか」

 午後の陽ざしが柔らかく差し込む、木のぬくもりで包まれた一室に厳かな声が静かに波紋を描く。

 彼は七色が揺れて互いに瞬き合う不思議な色合いの瞳を細めながら、窓の外へ視線を滑らせる。

「貴方のおかげで最も安全な場所へたどり着けたようです。感謝しています」

 傍らのソファにゆったり腰を落ち着けた紳士は、心底安堵したようにそう告げた。

 人の身である自分には到底守り抜くことのできない娘を、目の前にいる「彼」は「その時」が来るまで隠し通してくれた。

 そして然るべき相手に委ねられる時が来るまで守り通してくれたのだ。

 自分の命よりも遥かに大切で愛しい存在。

 彼女は覚醒の朝、誰よりも彼女を慈しみ愛し抜くであろう男の元へ旅立っていった。

 唯一無二の願いは娘が最高の幸せを手に入れることだ。

「アズナヴール公爵は信頼に足るお方です。安心して娘を託すことができた。…けれど貴方はまだ十分ではないとお思いで?」

「ふん、魔界の者に完全なる誘惑の拒絶など不可能だ。特に彼は生涯鍵の誘惑に魅了され続けることになろう。しかしそれを純粋な幸福と思えるのもまた、彼をおいて他にない」

「では十分です。夫婦円満が何よりですから」

「夫婦、か…。道はまだもう少しありそうだが」

「焦ることはありません。彼らには永い未来が待っている。そう急くこともないでしょう」

「…お前は人にしておくのが惜しいほど肝が据わっているな」

「どちらかと言えば貴方寄りの人間ですがね」

 紳士はそう言ってふっと笑みを浮かべると、眼前の彼に倣うように視線を外へ移す。

 彼にはどんな景色が見えているのだあろうか。

 その視線の先には自分には見えない世界が広がっているのだろう。

 自分が知りうる世界のその先を見ている彼を信じて良かったと心から思う。

 迎えた穏やかな午後のティータイム。

 落ち着いた心持の中ふと浮かぶのは、やはり愛してやまない一人娘の幸福。

 しかし離れて暮らす寂しさはどうしたって込み上げる。

 そんな自分の寂しさと喜びに揺れる心に紳士は小さく微笑んで、ティーカップの底で揺れる最後の一口を飲み干すのだった。







 第十話







 私はどうやら25年間、ごくごく小さな世界で生きていたようです。

 自分の知識や経験から得た「常識」なんてものは一瞬で吹き飛びました。

「ズモ゛ーゥ゛」

 重低音を響かせて鳴き声をあげたのは、もはや「怪物」と呼ぶに相応しい巨大なウシ。

 そう、目の前で嬉々とした様子で私を見つめるのは、とてもこの世のものとは思えないほど巨大な牛たちで、その大きさは象を軽く超えている。

 そんな牛たちがそよ風に吹かれて気持ち良さそうに牧草を食み、のんびり草原を歩いているのは家畜を育てている山の中腹にある牧場で、多分遠目から見たらのどかな風景に違いない(そう、多分反対側の国境付近から眺めれば)そんな様子が目の前に広がっている。

「まずはハニーちゃんの大好きな動物たちに会わせてあげるわね」

 というシルヴィ様に連れられてきた私を待ち受けていたのは驚愕の景色だった。

 何故にこんな大きさの牛が存在しているのでしょうか。

 私の常識はここまで大外れだったのでしょうか。

 これが本当は世界の常識なのですか…?

「ないない、この牛たちは「魔界」の常識よ。こーんなでっかい牛が普通に存在してごらんなさい、みんなひっくり返っちゃうわよ」

 けらけら笑ってシルヴィ様は言う。けれども。

「魔界の、常識?」

 決して聞き逃さなかった言葉を反復してみた。

 どうして魔界の生き物が人間界で存在しているのでしょうか。

 油が切れたブリキみたいなぎこちなさを伴って彼を見上げたら、んふっ、という笑みが返ってくる。

「アズナヴールが手広く商売を行っていることは知ってるわね?」

 もちろん知っています、と心で告げて私はこくりと頷く。

 貿易を主としながら畜産から農業、工業に至るまで事業を展開し、各分野で大きな成果と功績を上げている、そのオールマイティさは群を抜いている。

 さらにアズナヴールに連なる諸家は医学に精通する者、経済に精通するもの、武芸に秀でている者、芸術に秀でている者、と多岐に渡って専門家を排出。

 その繋がりは強固で隙が見当たらない。

 というのが世間一般の認識だ。

「うん、その通りよ。ただそこには世間一般の知らない「秘密」が確実に存在しているのよね。だからアズナヴール一族は人間界で「それなり」の権力を持ち、地位を保っていられるの」

「その「秘密」の一つが、これですか?」

「ええ。この牛たちは優秀よぉ!若いうちは濃厚な味わいを楽しめる牛乳が採れるし、年老いてくると身体が縮んで人間界のサイズになるんだけど、そうなると今度は肉の旨味が凝縮されて最高に美味しい牛肉になるの。それを市場に卸せば超絶美味な食肉として喜ばれるってワケ。しかも妊娠から出産までのサイクルが短いから、次から次へと増えてくれるわ。我が家の畜産業は安泰よ」

 得意げにシルヴィ様は教えてくれる。

 という事はつまり同じことがもしや農作物でも起こっている、とか…?

「察しが良いわね。もちろん秘密は存在しているわ。見てみる?きっとハニーちゃんの好きな世界が見られると思うわよ?」

「好きな世界?」

「そう。だってハニーちゃん、夢がいっぱいの物語が好きでしょう?そんな世界が現実にあったらワクワクするんじゃないかしら?」

 シルヴィ様の言葉に私の中の何かがぴくんと反応する。

 この際どうして私がファンタジー好きだなんてそんなことを知っているのか、っていうのは置いておこう。

 そんなことより、どういうこと?

 私の好きな物語の世界が実在するってこと?

 それってまさか純白のユニコーンがいたり可愛い妖精たちがふわふわ飛んでいたり?

 超絶美形のエルフが微笑んでいたり、輝く果実が実っていたり?

 と、期待を込めてシルヴィ様を見上げたら、何だか剣呑な視線がこっちを向いていた。

 ぐい、っとあの紫色の瞳が間近に迫る。

 え。

 シルヴィ様の首元からは何やら芳しく甘い香りが漂ってくる。

 焦点を失いそうになるほど近く、でも唇は触れそうで触れない距離。

 紫色の瞳が濃さを増す。

 それはもう、力が抜けてくらくらするくらい。

 強かな腕に腰を支えられ、逃げるなんて選択肢は一瞬で取り上げられていた。

「超絶美形のダーリンがここにいるんですけど。それじゃご不満かしら?」

「へ?」

「セレ姉さまといい、想像の中のエルフといい、何なの?アタシのライバルは直接対決出来ない相手ばっかりなの?」

 え?…シルヴィ様ったら、もしかして妬いてるの?

「そうよ、妬いてるわよ。だってハニーちゃんはアタシのプリンセスなのよ?それなのにハニーちゃんの瞳を輝かせるのは、ハニーちゃんと同性でまあ可能性的に0とは言えないけどハニーちゃんにそっちの趣味がない限り、決して奪われるはずがないって分かってるセレ姉様と、どっから湧いて出てきたのか分からない、心の中の微笑み王子よろしいエルフだなんてっ。太陽の光なんて嫉妬の炎に比べたら可愛いもんだわ。姿かたちのない幻に嫉妬して焼け死ぬなんて、アタシもぅ寂しいったらないわッ」

 くうぅ、なんて泣き真似までしながら両手で顔を覆って…指の間からおちゃめな瞳が見えてますけれども。

「てへ」

 てへじゃない、てへ、じゃ。

 あーもう、はいはい、と彼を宥めてみるけれど、その頃には私の興味は別のものに移っていて、私はシルヴィ様の黒髪を撫でながらそのひと房を手にとってみた。

 そういえばシルヴィ様はずっと私の隣にいた。

 ここは空を遮るものなんて何一つない気持ちのいい屋外。

 透き通るような青い空と、のんびり漂う白い雲が心地いい。

 太陽は…そう、太陽はもうすぐ私たちの真上にやってくる。

 今日は快晴。

 太陽、平気なの?

 そんな私の問いかけは案の定彼にすぐさま届く。

 シルヴィ様はなにやら期待に満ちた目でこちらの様子を窺ってくる。

「なあに?ハニーちゃん。アタシが心配?」

「心配、っていうか、だって、でも」

 空の上にさんさんと輝く太陽とシルヴィ様を交互に見比べる私に、彼の口角はより一層上がっていく。

 心配っていうより、疑問に思っただけだもの。

 と、視線を外してそっぽを向けば、チャンスを逃すはずのないシルヴィ様は私の頬に小さく口づけて、嬉しそうにふふっと笑った。

 やきもち妬いて、拗ねてたのに。

「やあねぇ、やきもちなんかこれっぽっちも妬いてないわよ」

「え?」

「だーってハニーちゃんがセレ姉様にときめくのは憧れみたいなものでしょ。それに超絶美形なエルフだってハニーちゃんの豊かな想像力の産物だし、アタシの目の前で生きてるハニーちゃんをどうこう出来るわけじゃないもの。そりゃハニーちゃんの好みとアタシの間にちょっとした相違があることは否めないけど、理想と現実に差が生じるのなんて当たり前よぉ。だったら実際あなたの目の前でこうして傍にいられるアタシが一番でしょ?」

 ぱちこん、ときれいなウィンクがとんでくる。

 そ、れは…そうだけど。

 熱を持ち始めた頬を隠すのに両手を頬に添えれば、その手を覆うように彼の大きな手のひらが包み込む。

 その温もりは更に私の熱を上昇させるわけで。

 いつの間にか再び目の前に迫っていた彼の瞳に見つめられるのもいたたまれなくなって目を伏せれば、それはもう彼の思う壺。

 額から頬、頬から唇へと、流れるように口づけが続けて落とされていく。

 ああもう思考が沸騰しそう。

 それなのに彼を止めようなんて思うことも出来ないなんて。

 そんな私をやんわりと彼は抱き込んで、言葉にしたわけじゃないのに溢れ出てくる彼の想いが私の胸の奥の方を捉える。

「大丈夫よ、太陽の光を浴びたら死んじゃうヴァンパイアなんて、ずーっと大昔の話。アタシたちはそんな軟じゃないわ。いまどきのヴァンパイアってね、朝から行動できるしステーキに添えられたガーリックも大好きよ。教会の厳かな雰囲気も好きなの、神様は好きになれないけど。弱点なんてほとんどないわ、銀の銃弾も怖くないわよ?そもそも当たるわけないんだけど」

「本当?」

「ええ、本当。ヴァンパイアって最強なのよ。だから安心してアタシの傍にいてちょうだいな。ずっと、ずーっと大切に可愛がってあげるから。想像の世界よりずっと素敵な世界を見せてあげるわ。エルフなんてお呼びじゃないくらいに、甘くて素敵な世界をね」

「…」

 そんな魅力的な誘惑に条件反射のように頷いてしまったのは、込み上げる熱に沸騰しそうになった思考が停止していたからに違いない。







 続く


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