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禍人

作者: 聖湾

  私の家は、古くから忌むべき一族とされてきた。

 時代の流れに取り残されたような萎びた村にある、空虚と言っていいほど閑散とした屋敷が、私が四十年以上暮らしてきた世界の全てだった。

 今この屋敷に住んでいるのは、妻と、その間に生まれた二人の息子だけだった。

 日の出ている間は、村の者が家事や雑用をこなしにやってくる。しかし、彼等は私達と決して視線を合わせようとはせず、必要がない限り決して口を開こうともしない。

 まるで、そうすれば取り返しのつかない災いに巻き込まれると信じているかのように。

 いや、実際そう信じているのだろう。

 そうでなければ、わざわざこの家に奉公に来るわけがない。私は彼等を雇っているのではない。彼等には一銭も払っていないのに、欠かさずやって来るのだ。

 それは代価。

 自分達の身に災いが降りかからないように捧げられた貢物なのだ。

 だが、私に言わせれば、それは余りにも馬鹿馬鹿しい事だった。

 彼等に災いをもたらす力など、在りはしないというのに。

 私の一族は古くからこの地方に権勢を誇ってきた一族であり、確かに余りにもおぞましい血塗られた歴史を持っていた。

 気に入った女が居ればその夫を殺して奪い、ただの気紛れで幼子達を殺した。そして、それを止めようとする者が居れば、その一族郎党に至るまで皆殺しにしたのだという。

 戦国時代には、この地方でも有力な豪族として覇を争っていた。その戦い振りは鬼神の如く凄まじく、敵対する一族を根絶やしにしながら勢力を広げていった。

 それにも拘らず、私の一族は単なる地方の一豪族でしかなかった。

 なぜなら勢力を広げても、またすぐにその利権を争って肉親同士の骨肉の争いを繰り広げ、衰退してしまったからだ。

 そして、衰退してもまた戦を繰り返し、勢力を広げていく。そしてまた、内紛によって衰退していく。そんな歴史をずっと繰り返していたという。

 全てを踏み躙りながら、結局何一つ得られない。

 まさしく、災いだけを振りまく一族だった。

 故に村人達はこう呼んだ。

 禍神…と。

 それは私の一族の、間上まがみという家名の由来でもある。

 しかし、それ等は全て過去の話だ。

 明治維新と第二次世界大戦の敗戦という二つの出来事は、私の家のような古い一族から、ありとあらゆる権勢を奪い取った。

 それから半世紀以上経ち、残されたのはこの朽ちかけた屋敷だけで、もはや富もなければ従う者も居ない。ただ、過去の幻影に怯える村人達が、遠巻きに見詰めるだけだ。

 空虚な過去に埋もれ、私はただ朽ちていく……

 私だけではない。私の妻も子供達も、そしていつか生まれてくるだろう孫達も、同じように朽ちていくのだ。

 それは、私には耐えられなかった。

 このまま朽ち果てたくはなかった。

 まるで人身御供のように私の家に嫁がされた妻も、まだ小学生と中学生の二人の息子も、誰一人そんな目には遭わせたくなかった。

 だから私は、この村を出て行こうと決心した。

 行き先はまだハッキリとは決まっていない。東京でも、もっと他の場所でも、禍神の歴史が知られていない場所なら何処でも良かった。

 だが、そう決心しても、すぐにというわけにはいかなかった。

 この村を出て仕事を見つけるまでの、当面の間暮らせるだけの資金を捻出する必要があったし、妻や息子達と話し合う必要もあった。

 資金に関しては何とかなりそうな目処があった。この屋敷に残されている古い家具や古美術品を売り払えば、まとまった金額になるはずだ。

 残された問題はただ一つ。家族にどうやってその事を伝えるか…だ。

 

 ある日、私は家族全員を居間に呼び、この村を出て行くと宣言した。

 それを聞いた家族の反応は様々だった。

 妻は私の考えに驚きを隠せない様子だった。村の中で暮らしていた事のある妻は、村人達の迷信に強く影響を受けた古い人間だった。この村を出て行くなど、想像も出来なかったに違いない。

 それに比べて、中学生の長男は私の考えに大賛成していた。毎日バスで山向こうの隣町にある中学校に通っている長男は、妻に比べて外の世界の影響を大きく受けており、この村での澱んだ生活にウンザリしていたのだろう。

 小学生になったばかりの次男は、この村を出て行くという事の意味が良く分かっていないようだ。首を捻って、その意味を理解しようと考え込んでいるようだった。

 しきたりに囚われた妻は、考え直すように必死に訴えた。意に沿わぬ婚儀だったとはいえ、長年連れ添ってきた妻の訴えを退けるのは、私にとっても辛いものだった。

 しかし、私は考えを変えるつもりはない。このまま村に残る事は、妻にとっても良くない事だと思ったからだ。

 この家に嫁ぐ以前、妻はこの村で最も美しい娘として評判だった。そして、その美しさゆえに、禍神と恐れられるこの家へ人身御供として嫁がされたのだ。

 だが、この屋敷で過ごした長い月日は彼女の頬をやつれさせ、もはやこの家に嫁いできた時の美しさは微塵もない。

 村を出て外の世界に触れる事が、彼女の疲れを癒す事を期待していた。

 

 私がこの村を出ると宣言してからの数日間、我が家はこれまで考えられないくらいの慌しさだった。

 家の中にあるものを、これからの生活に必要な持って行く物と置いて行く物、そして売り払えそうな物に分けていく。古い家だけに物が多く、価値があるのかどうか分からない物もあって、大変な作業だった。

 手伝ってくれるのは長男だけで、妻は自室に閉じこもってしまった。

 妻が自室で何をしているのかは分からない。

 長男は外の世界での生活に期待を膨らませ、仕分けしている間もこれから先の生活の事ばかり話していた。

 まだ小学生の次男は私達の作業を好奇心に目を光らせて眺め、興味を引かれた物があると勝手に持って行ってしまう。興味を持つのは置いて行く予定の物ばかりなのだが、引っ掻き回して元に戻さずに何処かへ行ってしまうので、片付けるのが大変だった。

 ただ……一度だけ、次男にこれからの生活についてどう思っているのか聞いた時、あの子の答えた言葉が記憶に残っていた。

『出て行けるのかな?』

 未知の世界への不安でもなく、急変する周囲に対する怯えでもない。

 何処か思慮深ささえ感じさせる瞳で、ただ疑問を呈したのだ。元々物静かな性格で、滅多に喋る事のない子だっただけに、印象に残ったのかもしれない。

 当然だと言って笑った私の顔を、じっと食い入るように見詰めていた。

 私自身が抱える不安を、あの子は敏感に感じ取っていたのかもしれない。

 私の一族をずっと縛り続けていた過去の凝り、それを私の代で断ち切れるものかどうか、本当は纏わりつくような不安に囚われていた。

 それでも、やらなければならないのだ……

 

 とうとう、この村を出る準備が整った。

 朝早く目覚めた私は、生まれ育った我が家を隅々まで見て回った。ずっと疎ましく思っていた屋敷だが、もう二度と帰ってくる事はないと思うと、感慨深いものがあった。

 明日の正午にはこの村を通る唯一のバスを使って隣町に行き、そこから電車に乗って一番近くにある市に向かう予定だ。

 まだ仕事は見つかっていないが、家にあった古美術品を全て売り払った蓄えがある。かなり買い叩かれたものも、5、6年暮らすのに十分な金額になった。

 妻は、結局あれから一度も顔を見せなかった。一体どうしているだろう。

 夕方になって、試しに妻の部屋に行ってみると、中からは物音一つしなかった。声をかけても全く返事がない。

 何処かへ行っているのだろうか。

 妻が情緒不安定になっている事を知っていただけに、私は強い不安を感じた。

 誰か妻の居場所を知っている人間が居ないかと、妻の名を呼びながら屋敷の中を走り回ったが、返事は一度たりとも返ってこなかった。

 妻だけではない。いつも奉公に来る村人達さえ居なかったのだ。

 まるで、この屋敷には私一人しか居ないかのように。

 それとも、本当に誰も居ないのだろうか。

 妻は村を出るのが嫌で、実家に帰ったのかもしれない。村人達も、この村を出て行く相手に奉公に出ようとは考えないだろう。

 そこまで考えた時、私はふと恐ろしい疑問に囚われた。

 息子達はどうしているのだろうか。

 私が妻の名前を呼びながら走り回っているというのに、息子達は一度も姿を見せていない。それはどう考えても異常な事だった。

 この村を出るにあたって息子達も転校する事になり、今日は二人とも学校には行っていない筈だ。

 慌てて息子達の部屋に向かった。

 しかし、息子達の部屋はどちらももぬけの殻だった。

 妻は、息子達は何処へ行ってしまったのだろうか。

 その時。立ち竦む私の後ろで、軋んだ音を立てて扉が開いた。

 ハッとなって振り返ると、そこに居たのは捜していた妻だった。

 私は思わず妻に駆け寄り、一体何処に行っていたのか問い詰めた。妻が無事だった安堵と、息子達の行方が知れない不安。相反する想いに、心を引き裂かれるようだった。

 私の詰問に、妻は穏やかな笑みを浮かべて答えた。私と同じように、この屋敷を隅々まで記憶に留めようと歩き回っていたらしい。

 なるほど、納得のいく話だった。私も走り回っていたから、何処かで擦れ違ってしまっていたのだろう。

 しかし、納得はしたものの、何か拭いきれない違和感のようなものを感じた。

 それは、妻の浮かべる穏やかな笑顔だった。

 私の知る限り、この村を出ると決めてから、妻はずっと塞ぎ込んでしまっていた。

 それが何故こうも変わったのだろう。自分なりに心に区切りをつけて、この村を出る事に納得してくれたのだろうか。

 その変化は私にとっても好ましいものであった筈だが、何かが私の知らない所で起きているような焦燥を掻き立てられた。

 しかし、そんな事よりも、今はもっと重要な事がある。

 必死に心を落ち着かせ、息子達が何処にいるのか知らないか、出来る限り穏やかな口調で尋ねた。

 妻は笑みを深めてたった一言囁いた。あの子達なら大丈夫だ…と。

 一瞬、私は唖然として妻の顔を見詰めた。そして、思わず安堵の溜息を漏らした。

 私の取り越し苦労だったのだろうか。もしかしたら、息子達はこの村を出る前に誰かの家に挨拶に行っているのかもしれない。事情は妻に聞いてみれば分かる事だ。

 私が息子の事を尋ねようと口を開きかけたその時、妻が私の胸にフワリと飛び込んできた。私は反射的に妻の身体を抱き止めた。

 そして……

 

  ドンっという衝撃が身体にはしる。

 

 何が起きたのか分からなかった。ただ何か冷たい感触が私の身体の中に潜り込み、私の背筋に凍えるような寒気が走った。

 一瞬遅れて、脳を貫くような凄まじい激痛が襲ってきた。反射的に腹部を押さえた手を、生暖かい感触がする液体が濡らした。

 咄嗟に妻の身体を突き放し、妻と自分の身体を見比べるように見やった。

 私の腹部からは紅い血が溢れ出ていた。妻の手の中に、紅く染まった銀色の刃が光を反射していた。

 私には、何が起きているのか分からなかった。私は訳も分からず、掠れた声で尋ねた。

 何故なのか…と。

 妻はそれまでの笑みを一変させ、燃え滾る炎のような激情に身を震わせながら、憎悪と嫌悪の瞳で私を睨み付けていた。

 

『私は何だったのですか?』


 それが、彼女の答えの全てだった。

 …………ああ、そうだったのか。

 私はようやく理解した。

 彼女はずっと……私を憎んでいたのだ。

 望まぬ婚儀を強いられた彼女を、私はずっと哀れに思っていた。この村を出て行く事が、彼女を忌まわしい過去の凝りから助け出す事にならないかと期待さえしていた。

 しかし、妻にとっては全く違ったのだ。彼女にとっては、この家が、私の存在そのものが、自身を縛る忌まわしき因縁そのものだったのだ。

 この家が、私が存在する故に、望まぬ婚儀を強いられ、その人生をこの空虚な屋敷で過ごす事を強いられたのだ。

 彼女はそれでも、そうする事が村の為だと信じて耐えてきたのだろう。

 それが、私がこの村を出て行くと決めた事で、これまで彼女を縛り、支え続けていていたものがなくなってしまったのだ。

 そんな事でこれまで彼女を縛ってきたものが無くなってしまうのなら、これまでこの屋敷で耐えてきた事は何だったのか。ずっとその疑問に自問自答していたのだろう。

 そして……彼女は壊れてしまった。

 血の溢れ出る傷口を押さえながらそれを理解した時、私は先程までの不安が再び首をもたげてきた。

 息子達は大丈夫なのだろうか。もしも彼女の憎悪が私だけでなく、息子達にまで向いていたとしたら。息子達の行方が知れない今、その不安はどんどん大きくなっていった。

 だが、今の状態の妻に尋ねても、まともな答えは返ってこないだろう。私自身の手で見つけ出し、この村から連れ出すしかない。

 それも、出来る限り早く。

 幸いな事に、腹部の傷は出血こそ激しいものの、そう深手ではない。

 覚悟を決めると、仁王立ちになった妻の後ろにある扉に向かって、一気に走り出した。

 咄嗟にナイフを振りかざしてきた妻を左腕で払った。二の腕に新たな痛みが奔るが、気にしてはいられない。振り払った妻の脇を駆け抜け、廊下に出る。

 もはや手遅れなのではないかという不安が私の心に纏わりつく。息子達の事を尋ねて時、妻は笑って大丈夫だと言っていたが、それも今では不安を煽るものでしかない。妻が既に、息子達に対して何かしたとしか考えられない。

 息子達の無事を祈りながら屋敷の中を走り回っていると、何処からか私の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 ハッとなって声の聞こえた方へ振り返ると、まだ小学生の次男が真っ青な顔をして廊下の角からそろそろと出てきた。私に気付いていないようで、まるで肉食獣に狙われた子ウサギのように、周りを恐々と窺っている。

 私は思わず大声で呼びかけていた。次男はいきなり聞こえた声に震え上がり、そのまま逃げ出そうとしたが、私の声だとすぐに気付き安堵の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

 私もまた、幼い息子の元へ駆け寄り、傷の痛みも忘れて力の限り抱きしめた。

 しばらくそうして抱きしめていたが、息子が私の胸の中でもがいているのに気付き、慌てて力を緩めた。

 すると、息子はスルリと私の腕から抜け出し、服の袖を掴んで必死に引っ張った。

 息子がもがいていたのは力を入れすぎて苦しかった所為だと思っていたが、何か急いで私に伝えたい事があった為らしい。

 しゃがみ込んで視線を合わせ何があったのか尋ねたが、息子は話す時間も惜しいように私を何処かへ引っ張って行こうとする。

 仕方なく息子に急かされるままに縁側の方へ向かった時、私はふと焦げ臭い臭いがする事に気が付いた。それは間違いなく、息子の向かっている先から臭ってくる。

 慌てた私は、息子をその場に置いて走り出した。そして縁側に辿り着いた時、私は何が起きているのかやっと理解した。

 この屋敷の敷地内に広がる、広大な庭が炎に包まれていた。燃え盛る火勢は、もはや私一人の力ではどうにもならない状況に達している。このままでは屋敷に燃え移るのも、そう先の事ではないだろう。息子が知らせようとしたのは、この事だったのだ。

 私は急いで息子の下へ戻った。そして、一体何があったのか急いで尋ねる。

 本当は一刻でも早くこの子を安全な場所に連れて行ってやりたい。しかし、長男の行方が分からないのだ。場合によっては、この子を先に行かせて、私は長男を探しに行かなければならないかもしれない。

 

 息子がたどたどしい口調で言うには、こういう事だった。

 今朝、妻に探し物を手伝ってくれと言われて、長男と一緒に裏の土蔵に連れて行かれたのだという。そして、何を探すのか教えてもらう前に、妻は先に済ます用があったといって土蔵を出て行った。妻はそこでいきなり土蔵の戸を閉め、鍵を掛けてしまったのだ。

 二人は土蔵に閉じ込められたまま、誰かが助けに来てくれるのを待っていた。

 しかし、助けに来てくれる者は誰も居らず、恐慌状態に陥りかけていた時、何処からか焦げ臭い臭いがしてくるのに気が付いた。

 二人は手探りのまま扉の位置を見つけ出し、何とかして開けようとした。すると、元々ガタが来ていたのか、扉の南京錠が壊れてしまったのだ。

 そして外へ出た二人は、土蔵のすぐ脇の地面が燃えているのを目にした。長男が慌てて火を消そうと上着を叩き付けたが、火勢が強く、逆に上着に炎が燃え移ってしまった。そして、長男は咄嗟に手を離したものの間に合わず、やけどを負ってしまった。

 激痛にのた打ち回る長男を見て、この子は屋敷へ水を探しに行ったのだが、水を桶にためて戻ってきた時には、長男は何処にも居なかった。

 その後、誰か大人を探して屋敷をうろついていた時、私と再会したのだという。

 事情を聞いた私は、これからどうするべきか途方に暮れた。結局の所、長男が何処に居るのか、手掛かりが全くなかったからだ。

 その時、息子が私の服の袖を引っ張った。ハッと顔を上げると、廊下を塞ぐように妻が仁王立ちになっていた。

 妻は息子の姿に驚いているようだった。まさか息子達が自力で脱出するとは思っていなかったのだろう。それまで憎悪一色に染まっていた彼女の顔に、何か躊躇うような、苦しげな陰が宿った。

 私の家そのものを憎んでいた妻も、自分が腹を痛めて産んだ子には何かしら思うところがあったのだろう。わざわざ土蔵に閉じ込めて焼き殺そうとしたのも、直接自分の手で殺す事にためらいを感じた為かもしれない。

 これはかけがえのない機会だと思った。こうしている間にも火の手は広がっているのだ。妻が躊躇っている内に何とか説得して、一刻も早くこの屋敷から逃げ出さなくては。

 だが、事態は私の思惑を無視して急転していった。

 突如として、甲高い叫びの声が屋敷の中に響き渡った。私だけでなく妻や次男も、驚いたような顔をして声の聞こえてきた方向に注目した。

 そこにはずっと行方の分からなかった長男が立っていた。その姿を目にした瞬間、妻が押し殺したような悲鳴をあげた。

 長男の顔は、右半面が焼け爛れていた。残った左目を見開き、狂気に彩られた憎しみを浮かべて妻を、母親を睨み付けている。その手には妻の手にあるのと同じ銀色の光を放つ刃物が握り締められていた。

 そして、彼は奇声を上げて妻に飛び掛っていった。誰もが呆然としていて、止められる者は居なかった。

 次の瞬間、この世の物とも思われぬ絶叫が響き渡り、世界が紅く染め上げられた。

 それは妻の断末魔の叫びだった。

 それは妻の身体から迸る血潮だった。

 何もかもが現実味を失い、全身の感覚が無くなったかのようだ。

 床にどんどん広がっていく紅い液体。もはや動かない妻の身体に、狂ったように刃物を突き立てる長男の姿。全てが映画の一シーンのように、私を置き去りにしていた。

 私を正気に引き戻したのは、必死に私の服を引っ張る次男の幼い手だった。

 正気を取り戻した私は、慌てて長男の元へ駆け寄り、刃物を取り上げて落ち着かせようとした。中学生になって力の付いてきた長男は、狂ったような奇声を上げながら、私の腕を振り解こうと暴れ回った。

 必死に声をかけながら、力の限り抱き締めた。だんだん暴れる力が弱くなり、やがて私の胸にもたれかかるようにして、ぐったりと全身の力を失った。心配になって顔を覗き込むと、無傷の左半面には何の感情もない空虚な表情を浮かべていた。

 ……心の壊れた息子の姿は、まるで操り糸を失くしたマリオネットのようだった。

 それを見た時、私は大声で叫びだしたい衝動に駆られた。

 私は家族を救いたかった。この空虚な屋敷の外へと連れて行ってやりたかった。呪われたこの家の束縛から解放したかった。ただ、皆がこの一族の歴史など忘れて、笑顔で暮らせるようにしたかった。

 ただ…それだけだったのに……

 身動き一つせず血の海に横たわる妻の姿が、抜け殻のようになってしまった長男の姿が、私を底無し沼のような絶望へと突き落とした。

 それでも私が彼女等のように壊れなかったのは、私の服を掴む次男の幼い手があったからだ。私はこの子を守らなければならない。それに、長男も病院で治療を受ければ正気を取り戻すかもしれない。

 いや、取り戻すに違いない。

 長男を抱きかかえたまま立ち上がり、周囲の様子を窺った。焦げ臭い臭いは漂ってくるが、まだ屋敷には燃え移っていないようだ。急いでこの場を逃げ出さなければならない。妻をこのまま放っていくのは心残りだが、今は彼女の亡骸まで連れて行く余裕がない。

 この場から急いで移動しないと、火の手が回って逃げられなくなる。

 火の元が裏の土蔵の脇だとすると、正門が距離的に正反対に位置し、一番安全性が高い。そう判断すると、長男を抱きかかえたまま次男の手を引き、玄関口へ急いだ。

 玄関から屋敷の外へ出ると、左手の庭が燃えているのが見えた。それを横目に閉ざされたままの正門に辿り着いた時、私の口から不審と絶望の呻きが漏れた。

 正門が、ピクリとも動かなかったのだ。

 ありえない事だった。この門は普段、内側から閂で閉ざされている。それ以外には鍵も何もないシンプルな造りだ。閂さえ外してしまえば、遮る物は何もない。

 立て付けが悪くなったというのなら話は別だが、そんな傾向はこれまで全くなかった。元々古いがしっかりした造りなので、地震でもない限り急に歪む事など有り得ない。

 私は長男を地面に降ろし、何度も体当たりをした。しかし、外界とを隔てる門は、微動だにしなかった。

 この屋敷にはこの正門しか出入りできる場所がない。裏手に山があるため、普通ならある裏門もない。他に逃げられる場所など……

 その時、次男が急に背を向けて何処かへ走り出した。私は慌てて呼び止めようとしたが、その幼い背中は何も聞こえなかったかのように遠ざかって行った。咄嗟に追いかけようとしたが、地面に座り込んだまま動かない長男の姿が視界に入り、刹那の判断に迷った。

 結局、長男を抱きかかえて後を追った。一人の方が身軽だが、この状況では目を離す事に対する恐怖の方が強かったからだ。

 どうやら息子は、炎とは反対周りに屋敷の裏手に回ろうとしているようだった。

 それに気付いた時、私はハッとなって立ち止まった。

 屋敷の裏には山の急な斜面になっているので、ちゃんとした塀がない。この村には、わざわざ禍神の屋敷に入り込もうとする人間など居ないので、この屋敷を囲む塀は文字通り形だけの物なのだ。

 だから、その気になれば裏山からこの屋敷に出入りできる。おそらくあの子も裏山から外へ逃げようと考えているのだろう。

 だが、それは最悪の選択肢と言えた。

 裏の斜面は急で、上っている最中に火の手が回ってきたら逃げようがない。それに火の手はより高い方へと広がる。もし山火事になったら、それこそ助かりようがない。

 私は必死になって追いかけた。今は一刻一秒を争う。

 裏手の斜面に辿り着くと、次男はそこで私が来るのを待っていた。勝手に行った事を叱ろうと口を開きかけた時、息子の脇に垂れているものが目に入り、私は思わず驚きの声を漏らしていた。

 それは一本のロープだった。斜面の上の方からロープが一本垂れ下がっている。

 次男はそのロープの端を持って、焦れた様子で私を待っていた。その足元には何故か長短様々なロープが数本転がっていた。

 駆け寄った私は、判断に困ってロープと息子の顔を見比べた。何故こんな物があるのかは、後で次男に聞けば分かることだろう。問題はこれを使うべきかという事だ。確かにこれなら次男を連れたまま斜面を登る事も出来るだろう。しかしその後、山火事になったら助かりようもない事も確かだ。

 試しにロープを強く引っ張ってみたが、しっかり括りつけられているようだ。数瞬の躊躇の後、このロープを使うことを決心した。

 結局の所、これ以外に脱出の手段が無かったからだ。

 息子に先に登って行くように言い付け、私は後ろからついて行く事にした。地面に転がっていたロープを使って、長男の身体をずり落ちないように私の腰と強く結びつける。幼い背中が斜面の上に辿り着くのを見届けてから、長男の体重を支えながら斜面を登った。

 背後から何かが崩れ落ちるような音が聞こえ振り返ると、屋敷に火が燃え移っていた。今の音は、おそらく柱が倒れた音だろう。

 斜面の上に辿り着くと、眼下に燃える屋敷の姿が見えた。私には、それがこれまで私達の一族を縛り付けてきた因習の終わりのように感じた。禍神の一族であるが故に、あの屋敷で暮らす事を強要されてきた私にとって、あの屋敷は一族の象徴だったからだ。

 私はしばしの間、呆然としてその光景を眺めていた。

 

 やがて我に返った私は、腰に巻きつけていたロープを外し、長男をゆっくりと地面に横たえた。出来れば少し休ませてやりたいが、いつ山火事になるか分からないこの状況ではそうもいかなかった。

 長男を抱え直し、麓に降りる道を探そうと周囲を見回した。その時、木々の向こうから、懐中電灯の明かりのようなものがチラチラと見えた。

 誰か居るのだろうか。

 私は安堵の余りその場に座り込みそうになった。そして初めて、自分がどれほど心身共に疲弊していたかを実感した。他人の存在をこれほどありがたく感じた事はない。

 山道を歩くのに明かりは必要だったし、この懐中電灯の主に山火事が起きる危険性を忠告しなければならない。

 明かりの方へ駆け出そうとした時、不意に後ろから引っ張られて転びそうになった。

 何事かと思って振り返ると、次男が怯えたような顔をして私の服の裾を掴んでいた。

 何を怯えているのかは分からなかったが、今は一刻を争う。そっと手を握って裾から手を離させた。

 しかし、今度は私の手を握ったままその場を動かない。

 どうしたのかと私が尋ねると、次男はしばし迷った挙句、やっと何かを言おうとした。

 ちょうどその時、背後から強い光が投げかけられた。

 慌てて振り返ると、私達に気付いたらしい明かりの主が、私達のほうに向かってゆっくりと歩いてくるところだった。

 やって来たのは、登山靴を履き、大きな荷物を持った中年の男だ。確か、この村の数少ない産業である林業を営んでいる男の一人だ。

 ほとんど会った事の無い男だったが、この小さい村では、お互いに顔の知らない人間など居ない。

 禍神と恐れられる私達とこんな所で出会うとは思わなかったのだろう。加えて、私達の様子を見れば、ただならぬ事があった事は疑いようが無い。

 何があったのかと尋ねる男に、私は何処まで話して言いか迷ったが、最低限の事は教えておかなければならないと判断した。

 だから妻が錯乱した事は伏せ、屋敷が火事になった事を告げ、妻はその火に巻かれて死んでしまった事にした。

 男は驚き、伸び上がって私の背後を見ようとした。それに釣られて、私もまた屋敷の方を振り返った。

 その瞬間、次男の悲鳴が響き渡った。

 そして、その声に私が反応するよりも早く、私の身体が地面に叩きつけられる。

 何が起きたのか、全く分からなかった。

 息子の悲鳴が聞こえた次の瞬間、私の後頭部を何かが殴打したのだ。

 ふらふらする頭を両手で抱えながら頭を起こすと、信じられない光景が目に映った。

 男の足に次男が必死にしがみ付き、それを男が振り払おうとしていた。

 何よりも私の目を引いたのは、男の手の中にある、僅かに血の付いた棍棒のようなものだった。

 そして、苛立った男が次男目掛けて棍棒を振り下ろした。

 息子の危機に、私は思わず絶叫した。

 ドカッという音を立てて棍棒が次男の身体を打ち、まだ小学生の小さな身体が、地面をころころと転がった。

 這うようにして次男の傍に辿り着き、幼い身体を抱き上げた。幸いにして命に別状は無いようだ。男は明らかに息子の頭部を狙っていた。咄嗟に頭を逸らしていたおかげで、狙いが外れて肩に当たったのだ。

 私と次男を交互に睨みつけ、男は吐き捨てるような口調で言った。

『鬼共が!』

 男の目は狂気に血走っていた。そこには妻の目と同じように、押さえ切れない憎悪が篭っている。

 ……またか。

 分かっていた。分かっていたつもりだった。

 自分達がどれほど村人達に忌まれているかなど。

 それでも、突き付けられた憎悪を前に、私は泣きたくなるほどの悲しみを覚えた。

 息子を必死に抱く私の姿を見ていた男の視線が、ふと脇に逸れる。

 私も釣られて振り返り、男の視線の意味に気付いた途端、どうしようもない焦燥に駆られた。

 先程倒れた際に私の背中から転げ落ちた長男が、地面に力無く倒れていた。男はその姿を見て、嗜虐的な笑みを浮かべた。

 慌てて起き上がろうとするが、足が震えて力が入らない。

 男は悠然と長男の傍らに歩み寄ると、私に見せ付けるように棍棒を振りかざした。

 私は絶叫していた。

 今日何度目になるかも分からない叫びが、山の静寂を破る。

 余りにも呆気なかった。

 棍棒が無造作に振り下ろされ、長男の頭がまるで果物か何かのように潰れた。

 私はただ呆然と、地面に広がっていく血の池を見詰めていた。

 もう何も聞こえなかった。もう何も見えなかった。

 ……私は……私は……

 自分の心臓さえ止まってしまったのではないかと疑うほどの静寂の中、不意に轟いた哄笑が、私の意識を強引に現実に引き戻した。

 男が笑っていた。

 地面に横たわる、もはや動かない息子の姿を見て。

 我が子を失い、呆然とする私を見て。

 男は笑っていた。

 無意識に地面を掻き毟っていた私の手が、一掴みもある大きな石を探り当てた。

 喉の奥から雄叫びが迸った。

 立つ事さえ出来なかった筈の身体が猛然と跳ね起き、私は哄笑する男に襲いかかった。

 哄笑していた男は、突然の出来事に何もする事が出来なかった。

 私は手の中にある石で男の頭を殴り付けた。一撃で地面に倒れこんだ男に馬乗りになり、恐怖で歪んだ男の顔に何度も石を叩き付ける。

 男の悲鳴も、私の怒りを煽る結果にしかならない。

 何故、息子が殺されなければならないのだろう?

 何故、私達が苦しめられなければならないのだろう?

 私達が現実に、村人達に危害を加えた事など一度も無い。

 ただ彼等が勝手に怯え、恐れ続けていただけなのだ。

 なのに、何故……

 私は狂ったように、男を殴り続けた

 …………

 ようやく私が我に返った時、もはや男は息をしていなかった。私の腕にすがり付く次男が、怯えたような顔で私を見上げていた。

 だが、男を殺した事に後悔や罪悪感を持つ事は無い。

 私は立ち上がると、フラフラと長男の元へ行き、その傍らにしゃがみ込んだ。

 倒れ伏す息子の身体は、もう既に冷たくなっていた。

 私は嗚咽を漏らしながら冷たい息子の身体にしがみ付き、ただ泣き続けた。

 

 どれほど泣き続けていたのだろうか。

 鼻を突く煙の臭いに、私はハッと我に返った。

 振り返ると、屋敷はもう完全に炎に包まれていた。この裏山に火が燃え移るのもそう先の事ではないだろう。むしろ、これまで燃え移らなかった事が不思議なくらいだ。

 私は長男の亡骸を前に一瞬悩んだ。

 息子の亡骸を、妻の時と同じように置き去りにしたくはなかった。

 しかし、一刻を争う今の状況で、息子の亡骸を抱えて山を降りるのは自殺行為だ。

 私は悩んだ挙句、傍らに立つ次男に告げた。

 行くぞ…と。

 次男は泣き出しそうな顔で私と兄の顔を見比べていたが、やがて小さく頷いた。

 山を降りる道を探そうと私が周囲を見回していると、次男は私の元を離れて死んだ男の元へ駆け寄り、その傍らから懐中電灯を拾い上げた。

 それを見て、私は思わず舌打ちした。明かりの事を忘れるなど、私も余程動揺していたようだ。

 私は懐中電灯を受け取ろうと次男の方へ向かった。

 しかし次男はそれを私に渡そうとはせず、私に向かって手を振ると、明かりを持って山の奥に向かって駆け出してしまった。

 私は慌ててその後を追った。

 次男は何かハッキリとした目的を持っているのか、真っ暗な山の中を迷い無く走っていく。普通なら歩幅の長い私がすぐに追いつく筈だが、慣れない木の生い茂った山の斜面の所為で、なかなか息子に追いつけない。

 山の奥に分け入ってしばらくすると、息子の持つ明かりが止まった。

 ようやく次男に追いつくと、息子は大きな樹の根元に立ち、その樹を見上げていた。

 それは樹齢数百年と思われる大樹だった。何故かその幹には注連縄のようなものが張り巡らされている。

 その樹を見上げていた次男は、私が追いついてきた事に気が付くと、樹の根元にしゃがみ込んで何か探り始めた。

 何をやっているのかと私が背後から覗き込むと、その樹の根元に大きな洞があり、息子はその中に手を入れて手探りで何かを探していた。

 息子はすぐに探していたものを見つけたようで、洞から手を引き抜くと、何か大きな風呂敷包みを取り出した。

 一瞬それが何か分からなかったが、風呂敷からはみ出している物を見て、それが何だか分かった。

 それは以前、村を出る為に家の物を整理していた時、次男が勝手に持って行ってしまった物の一つだった。

 その時になって初めて、家の裏に垂れ下がっていたロープの意味や、息子が何の迷いも無く山を歩いていた理由が分かった。

 おそらくここは、息子が集めた宝物の秘密の隠し場所だったのだろう。

 家から持ち出した物を、この大樹の洞に隠していたのだ。あのロープは、その為に次男が用意したものだったのだろう。

 息子はよろよろとふら付きながらも、何とかその風呂敷包みを抱きかかえた。

 私はそれを見て顔を顰め、次男にそれを置いて行くように言った。

 息子にとって、それが大事なものであろう事は分かる。しかし、今はこの山を降りる事が先決だ。余分な物を持っていく余裕は無い。

 だが、次男は首を横に振るばかりで、決して手放そうとはしない。

 私がどんなに宥めすかしても、どんなに厳しい声で咎めても、絶対に手放そうとはしない。

 このまま愚図愚図している暇は無かったが、母親と兄を立て続けに亡くした息子から、無理矢理に取り上げるのも憚られた。

 私は嘆息すると、仕方が無いのでそれは私が持って行こうと提案した。

 すると次男は、ホッと安堵の表情を浮かべ、私の腕の中に押し付けるように風呂敷包みを渡した。

 そのまま手の中にある懐中電灯をある方向に向け、私を急かした。なんでも、そちらの方に古い登山道があるらしい。

 この裏山に関しては、次男の方が良く知っているらしい。いや、長年この地に住みながら、裏山のことさえ知らない私の無知を自嘲すべきか。

 私は次男の指示に従って、その登山道を目指した。

 …………

 

 それから程なくして私達は山の麓に辿り着いていた。

 あれから、次男の言ったとおり登山道に辿り着き、その道に沿って山を降りたのだ。幸いにして、山火事に巻き込まれること無く麓に辿り着いた。

 麓に辿り着いた時には、もう既に山から煙が立ち昇っていたので、もう少し遅かったら逃げ遅れていたことだろう。

 だが、本当に大変だったのはそれからだった。

 長男を殺した男の他にも私達を狙っている村人が居るかもしれなかったので、そこから村には帰らず、直接隣町に向かったのだ。

 本来の予定では、バスを使って隣町に向かう筈だったのだが、バス停は村の中にあるのでバスを使う事は出来なかった。

 山の中を通る自動車道を辿って隣町に着いたのは、もう日が昇る頃だった。

 ちょうどその時、隣町では何台もの消防車が、まさに私達が通ってきた道に向けて走り出すところだった。

 何処へ行ったら良いのか分からなかった私は、迷った末に全てを話さなければならないと思い警察署に向かった。

 警察署で全てを話した私は、その日は警察署に留め置かれ、後日ちゃんとした調書を取る事となった。

 私の話を聞いた警察官はすぐさま村に事実の確認を取ろうとしたのだが、村では山火事の消火作業に追われて、まともな連絡が取れないらしい。

 何でも、山火事が起きた時、最初は村が単独で消火作業をしようとして連絡しなかった。ようやくこの町に応援要請が来たのは、今朝になってからだったらしい。

 その所為で山火事はかなりの規模になっており、消火作業が遅々として進んでいないというのだ。

 警察からは、事実関係の確認が取れるまで、この町を離れず宿泊先をハッキリさせるように言われた。しかし、自分の身ひとつで逃げ出した私達にはホテルに泊まるお金も無く、そのまま警察署に寝泊りさせてもらう事となった。

 しかし……

 それから半月ほど経って、改めて取調室に呼び出された私は、思い掛けない事を聞かされた。

 私の妻と長男、そして私の殺した男は、全員火事で死んだというのだ。

 私は愕然としてしまった。

 慌てて聞き返すと、その警察官は困ったような顔をして話し始めた。

 ようやく消火作業が済んだ後、村の駐在の協力を得て現場調査を行なったのだが、その結果、私の証言とは食い違う事が幾つも発見されたというのだ。

 私の妻と長男、そして林業をしていた男の死体は見つかったのだが、山火事で損傷しており、その一部は欠損して発見されなかった。

 その遺体を調べたのだが、他殺であるという決定的な証拠は発見されなかった。

 いや、発見されなかったというより、遺体が不完全であった為に外傷を確認する事が出来なかったのだ。

 それだけなら私の証言を覆すには及ばないが、決定的だったのは、長男の遺体が発見された場所だった。

 長男と思しき少年の遺体は、裏山に置き去りにしたという私の証言とは異なり、屋敷の中で妻の遺体に抱かれるようにして発見されたのだ。

 そしてまた、私が殺した男は、消火作業を行なっている際に日に巻かれて死んだという事になっていた。

 これについては複数の村人の証言があり、まず間違いないのだという。

 信じられなかった。

 全てがただの夢だったというのだろうか?

 そんな事はありえなかった。

 私の耳には、妻の残した怨嗟の声が残っていた。私の目蓋の裏には、血の海の中に倒れる長男の姿が残っていた。私の手には、男を殴り殺した感触が残っていた。そして、私の体には妻に刺された刺し傷が残っていた。何もかもが残っていた。

 私は警察に再度の調査を頼んだ。

 だが、それから数ヶ月が経っても、私の証言を裏付けるものは、何一つとして見出されなかった。

 ある日、私は警察からカウンセラーに引き合わされた。

 そのカウンセラーは私に語った。

 私の記憶は全て、錯乱によって生まれた悪夢なのだと。

 目の前で妻と息子が死んだ事で私の精神の平衡が失われ、歪んだ妄想を産んだのだと。

 私は何度も訴えた。

 違う。全ては本当にあったことだと。

 カウンセラーはそんな私に、全ては妄想なのだと、子供をあやすように言った。

 それから警察やカウンセラーに、何度も訴えた。

 だが、もはや私の言葉に耳を貸すものは誰も居なかった。

 そもそも近代的な生活をする人々にとって、私の家に纏わる禍神の歴史など、まさに噴飯物に過ぎなかったのだろう。

 しかもそれが自分達の住む町のすぐ隣の村に残っているなど、笑い話にしかならない。

 ましてや、それが原因で殺傷事件が起きるとは信じられないのだろう。

 結局、全ては私の妄想として片付けられた。

 妻達の遺体の欠損は、火災で倒れた柱や木に潰されたのだろうとされた。私の傷は刃物によるものではなく、逃げた際に何か尖ったものにぶつけた傷と決めつけられた。

 こうして、全ては闇に葬られた。

 それから、長い月日が流れた。

 …………

 

 私は長い回想を終え、ぼんやりとタクシーの窓から外の光景を眺めた。

 あの後、私達は一番近くにあった市に移り、そこで生活を始めた。

 家財道具も通帳も失い、最初はこれからどうやって生活すれば良いのか途方に暮れた。通帳の再発行を申請したが、それは数日の内に出来るものではなく、当座の生活資金にも困る有様だった。

 その上、あの山火事の出火元が私の屋敷だったことで、消火作業にかかった費用を負担する事を強いられた。

 そこに、意外な所から救いがあった。

 次男が持ち出した宝物だ。

 まだ小学生だった次男が、生活費に役立ててくれと、自分から宝物を差し出したのだ。

 最初はあれほど大切にしていたものを貰えないと断ったが、息子は頑固に差し出し、結局、息子の望みどおり骨董品商に持ち込んだ。

 息子の持ち出したものは、私の目から見れば何の価値も無いものばかりだったが、骨董品商の鑑定の結果は驚くべきものだった。

 幸運にも良心的な骨董品商に巡り合えたという事もあるのだろうが、信じられないような額で引き取られた。

 そのおかげで、アパートを借りて通帳が再発行されるまでの生活資金を得る事ができた。預金のほとんどが、山火事の消火作業の負担費用で消えてしまったので、その生活費はまさに私達の命綱となった。

 その後、息子の宝物を買ってくれたのが縁で、その骨董品商で働く事になった。

 そこで働いていて分かったのだが、どうやら息子には骨董的価値のあるものを見抜く、鑑定眼のようなものがあった。

 まだ幼く大した知識も無いのに、骨董的価値があるものは一目で分かるのだ。

 私達の新しい暮らしは、この息子の鑑定眼に大いに助けられた。

 さすがに具体的に幾ら位かまでは分からないので、専ら古物が投売りされているような所で貴重なものを探し出し、それを転売する事で大きな利益を得た。

 おかげで今では独立し、古美術商の店を開いている。

 息子の鑑定眼は美術にも通じるらしく、今でも大いに助けられている。

 ……私は息子に助けられてばかりだ。

 今年、高校生になった息子の顔を思い出し、私はこの生活を始めてからもう何度目になるかも分からない苦笑を浮かべた。

 だが……

 最近、あの頃の事を思い出すたびに、気になっている事がある。

 息子は、一体何処まで悟っていたのだろ?

 今にして思えば、息子はずっとあの事態が起こる事を予期していたように思える。

 あの頃はまだ小学生だった息子が、何もかも予期していたとは思えない。まさか、母親に殺されそうになったり、兄が死んだりする事を予期したりはしないだろう。

 だが、私達を恐れていた村人達が、あの機会に何かするだろうとは漠然と感じていたのではないかと思う。

 だから価値のありそうな物をこっそり持ち出し、裏山に隠したのだ。

 あの宝物を本当に大切に思っていたのなら、それを小学生が売ろうと言い出すとは思えない。

 最初から、いざという時の事を考えて隠していたのではないか。

 私はそう疑っていた。

 直接尋ねてみたいと思った事もあったが、心の傷を抉るような質問は憚られた。

 あの事態をある程度予期していたにせよ、あの出来事が息子にとって大きな心の傷となった事は想像に難くない。

 実際、今回の帰郷に、息子は絶対についてこようとしなかった。

 そう、私は今、自分が生まれ育ったあの村に向かっていた。

 正直言って、あの村に良い思い出はなかった。

 そして、私が村人達に歓迎されないだろう事も分かっていた。

 あの事件は、全ての痕跡が隠滅され、私の妄想だった事にされた。

 一人や二人の人間では、警察の目を欺くほどの隠蔽は不可能な筈だ。おそらく、村人達のほとんど全員が、何らかの形で隠蔽に加わっていたのだろう。私の傷を診た医者が刃物によるもの傷だと認めなかったのも、あの医者がこの村の縁者か何かだったからに違いない。

 息子は、今更行っても何も残っていないだろうと言っていた。

 しかし、私も今更何かあの事件の痕跡を探そうとは思っていない。

 どんな形であれ一度あの村に帰り、心のけじめをつけたかったのだ。

 あの村に行く唯一のバスは、今では廃線になっていた。そこで、町でタクシーを拾って、こうして向かっているのだ。

 あの村はどうなっているのだろうか。

 禍神の恐怖から開放されたあの村は……

 

 村に辿り着いた私は、タクシーを降りてすぐに呆然と立ち竦んだ。

 どれぐらい我を失っていたのかは分からない。タクシーの運転手の心配するような声を聞いて、ようやく我に帰った。タクシーの運転手にここで待っているように頼んで、私は村の中に入って行った。

 荒れ果てた畑。割れたままの窓ガラス。何年も手入れされていないだろう生垣。

 生活の気配というものが、全く残っていなかった。

 そこにはもう村ではなかった。

 もはや誰一人住んでいない廃村だった。

 おそらく、人が住まなくなって何年も経っているのだろう。

 何も残っていない廃村で、私はポツンと一人立っていた。

 無意識に携帯電話を取り出し、息子の携帯番号を呼び出していた。

 今はただ、誰かの声が聞きたかった。

 だが、電話は繋がらない。

 確かめてみると、ここは圏外だった。

 村の中をフラフラと歩いていると、無意識に足が私の家があった場所に向かっていた。

 かつて私の屋敷があった敷地は、まだ火事の痕跡を残したまま放置されていた。

 私は呆然と辺りを見回していた。

 ふと裏山を見上げた視界の中に、何処か見覚えのある大樹が映った。

 山火事に焼かれた裏山には、もう既に背の低い新たな木々が生い茂っていた。

 その中にあって、その大樹は、他の木々とは違う年季を感じさせた。

 その大樹に吸い寄せられるように足が向いた。

 かつてロープで登った斜面を何とかして登り、裏山の中を進む。何故か手に取るように、あの大樹が何処にあるか分かった。

 しばらく山を登り、ようやくその大樹の根元の辿り着いた時、その樹が何であったかを思い出した。

 その樹は、息子が宝の隠し場所にしていた樹だ。

 大樹の根元には、記憶にあるのと全く同じように、宝を隠した洞が残っていた。それどころか、大樹に巡らされた注連縄さえも残っている。

 何となく、息子が宝物を隠していた洞に手を入れると、指先に何か木の板のようなものが触れた。

 取り出してみると、それは腐りかけた長方形の木片だった。

 あの時、持って行き損ねたものの一つかと思って裏返してみると、そこには家紋が刻まれていた。

 もはや見る事の無い、禍神の家紋が。

 それを見た瞬間、何故か私の心がすとんと落ち着いた。

 私は禍神の家を疎ましく思い、ずっとそこから逃れたいと望んでいた。だが、すべてが失われてしまった今となると、あの家がここにあった証が残っていることにひどく安堵していた。

 どれほど疎ましくとも、あの家は私の半身であったのだ。

 その木片を見ていた私は、ふと見慣れない名前が記されていることに気がついた。

 その名前が何の意味かを確かめようとしたがそれは叶わなかった。他にも何か書かれていたようなのだが、腐りかけているせいで文字がかすれて何が書いてあったのか分らなかった。

 何故か、その名前だけがかすれることなくはっきりと残っている。

 

 『真神』

 

 それが記されている名前だった。『まがみ』と読むのだろうか。

 『間上』と『真神』。

 偶然の一致とは思えなかった。私の家の名の由来は禍神ではなく真神だったのだろうか。

 真相はわからない。

 ただ、古美術商として仕事をするうちに雑学として昔の言い回しに触れる機会のあった私には、真神という名に見覚えがあった。

 真神とは狼の異称であったはずだ。そして、狼は山の神の使いとして崇められることもあったのだという。

 

 私はその木片を洞の中に戻し、その大樹を見上げた。

 禍神の家は、その歴史と共に忘れ去られる。絶滅してしまった日本狼のように。

 そして、この大樹だけが残っている。

 注連縄の巡らされたこの大樹や、木片が何なのかは分からない。

 しかし、あの木片がここにある事は、おそらく良い事なのだろう。

 何故だか分からないが、私はそう思った。

 私は大樹に背を向けて歩き出した。

 山を降り、息子の待つ場所へと帰るために。

 ここに来る前に考えていたものとは違ったが、心のけじめは付いていた。

 ここはもう、私の帰る場所ではない。

 だから私はもう帰ろうと思う。

 

 息子の待つ現在に……

 





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