行き遅れなのでお飾りも務まりません。プロポーズは真に受けないでくださいね。
努力をしたという痕跡さえあればいい。
何もしなかったのではなく、やることはやった。それで駄目だった。
婚活撤退の根拠としては、十分だ。
アンナは八年越しの夜会への参加を決意した。
最初で最後の婚活のためだ。
そして、事前情報の通り「難攻不落の社交界最後の砦」「女遊びは派手だが結婚には否定的で冷酷非道な毒舌家」という異色の噂を持つウォーレン・ミッドフォード侯爵にプロポーズしたのである。
(普段はかなり遊び歩いているのに、独身主義者で絶対に結婚には応じず冷酷に女性を捨てる。何故結婚しないのかは謎に包まれているそうだけど、私にはそういう方がいいわ。私のプロポーズを真に受けて検討されたり、その結果申し訳なさそうに断られてもいたたまれない)
成功など、まったく期待していない。
最低最悪ダサすぎるとされる普段通りのメガネと髪型で、申し訳程度に夜会仕様のドレスを身に着けたその場しのぎにもならない姿で、まるで道を聞きたい迷子のように近づき、声をかけてみた。
「そこの背の高い方。そう、あなたです。ウォーレン・ミッドフォード侯爵でいらっしゃいますね。私と結婚してくれませんか」
絹糸のようなプラチナブロンドにけぶる青の瞳、彫りが深い美貌で王宮庭園の彫刻に混ざってもわからないほど完璧なプロポーションの冷徹侯爵様は、無言でアンナを見下ろしてきた。
視線がぶつかると軽く眉をひそめ、形の良い唇を開いた。
「わかった。結婚しよう」
そこはわからないで欲しかった。
後の祭りである。
* * *
アンナ・ギボンズは二十八歳。二十歳前後が結婚適齢期とされるこの国の基準では、完全なる行き遅れだ。子爵家の生まれで当初は「結婚どうする?」と余裕だった親も、やがて「結婚だけはしておきなさい」と慌てだし、やがて「どうしても結婚はしないの?」と様子をうかがわれる年齢をも通り過ぎた。
いまや侍女として勤務しているモリス公爵家ではもっぱら「えっ、既婚者でしたよね?」という誤解が浸透している。
誤解の発端は、さかのぼること八年前。
モリス夫人の子たちがアンナによく懐いたことだった。「ニコルお嬢様は火がついたように泣いていても、アンナが抱き上げるとすぐに泣き止む」と、夫人の侍女であったアンナがにわかに乳児のお世話係として注目を集める一件があったのだ。
ニコルお嬢様はモリス夫人の最初の子で、公爵家の長女。本来であれば経験豊富な乳母やメイドの出番であったが、時勢が悪く流行り病で体調不良者が続出していた年であった。普段なら使用人を多数抱えていてどんな不便もない公爵家も、このときばかりはどうにもならず、余力のある者同士でできる仕事をできるだけこなすという危機的状況にあった。その中にあって「子育て」は、後回しも省略もできるものではなく、誰かが絶対にしなければならないことだった。
乳母も倒れ、貴族の奥様としては例外的にモリス夫人自らニコルお嬢様に授乳した。アンナは授乳以外の大体すべてのことをした。乳児育児のエキスパートとなった。
乳母だ、という誤解が生まれ育まれ確固たるものとなった。
モリス夫人はさらに三人の子を生み、アンナは公爵家きっての子育て要員として奮闘した。乳母の中の乳母と呼ばれ、誰もがその仕事ぶりから乳母であることを信じて疑わなくなった。
本来なら年齢的にも子爵家出身の家柄からしても、公爵夫人の社交に付き添う若くておしゃれな侍女として活躍する時期に、アンナは「お子様に大人気」「アンナさんがいれば大丈夫」「公爵邸の子ども部屋はアンナさんで成り立っている」という絶大な信頼のもと、公爵邸からわずかの外出も難しい生活を送ることとなったのである。
アンナが「花の盛り」を仕事に明け暮れて過ごしたことに、モリス公爵夫妻は絶大な申し訳なさと恩義を感じているようだった。
公爵は「アンナがあれにすると誰か指をさしてくれれば、すぐに夫として手配する」などと言い出した。まるで競走馬の競りのような話であった。金銭と権力ですべてを解決する。
夫人はといえば毎回トランプができるくらいの絵姿と身上書を揃えてきては裏返して並べて「どれにする? 全部当たりよ?」とアンナに選ばせようとしてきた。他人の人生をギャンブルにしすぎである。
「子育てが楽しすぎて。どうしても結婚は必要なのでしょうか?」
アンナは常日頃、洗いやすさと頑丈さと動きやすさを優先した地味なドレスを身に着けており、髪型も子どもに引っ張られたりスープの皿に毛が落ちるなどないような目の固い編み込みで、物事をしっかりはっきり見るために度の合ったメガネをしていた。
いつも子どもを一人ないし二人小脇に抱え、歌を歌い、物語を語って聞かせながら「坊ちゃま! 急に走り出さない!」「お嬢様はカーテンにのぼらない!」と声の限りに叫んでいる。他の侍女やメイドが誰一人として追随できない八面六臂の活躍であり、自分の適性と能力の高さに自信を持って仕事人として生きてきたつもりだった。
公爵夫妻になんと言われても、自分はこの仕事を続けたいという強い願いを抱いていた。
そのアンナに、夫人は冷静に言い放ったのである。
「子どもたちはいずれ大人になり、あなたの手を必要としなくなるわよ?」
「奥様があと何人か産んでくだされば解決では?」
「名案みたいに言わないで。あなたが私の元で勤め始めた頃、本当なら毎晩夜会に連れて行ってあげるつもりだったのに、あの流行病で何もできないままの数年を過ごすことになったわ。その間あなたは、自分の幸せもかえりみず子どもの世話ばかりで」
「授乳以外のことはなんでもしてきましたから、いまでは立派な産婆としても独り立ちできそうです。三番目のトーマス様と四番目のステファニー様を取り上げたのはこの私ですからね!」
胸を張って言うアンナに対し、夫人は遠い目をした。
「あのときは、助かったなんてものじゃなかったわ。初産はともかく二人目以降は陣痛が来たらすぐって本当なのよね。ステファニーなんて、陣痛に気づいてベッドに向かって歩いている途中にすぽんって出てきて、床に落とすところだったもの」
「間一髪でしたよねえ。トーマス様を取り上げたときの経験が生きました。ここまできたら五人目も私が」
アンナ、と名を呼んで夫人は真顔になった。
「そんなに子どもが好きなら自分でも産んでみたらどうかしら」
「未婚の女に言ってはいけない言葉ランキング上位すぎますよ」
二人で少しの間見つめ合う。やがて、夫人がため息をついた。折れたわけではない。
説教の前触れだ。アンナと年齢はさほど変わらないのだが、そこは公爵夫人の貫禄である。
「あなたは隣国に留学していて二十歳で帰国、その段階ですでに社交界デビューには出遅れていたけれど、私の侍女として働く傍ら文句のつけようがないデビューをする予定だった。あの流行病で社交場が閉鎖され国内外の景気が一気に停滞し、何もかもままならなくなった数年がなければ」
「あの当時は確かに大変でしたが、私だけではなく皆が大変でした。デビューが数年遅れ、婚活も遅れたご令嬢も多かったことでしょう。結婚平均年齢という統計があるなら、今は少し上がっているのではないでしょうか?」
留学先ではのびのびと勉強に励んでいたアンナは、ときどき俯瞰で物事をとらえたような話し方をする。
ここで夫人はぴんときたように顔を上げ、真剣なまなざしでアンナを見た。
「お付き合いのある奥様たちから、そういった話を聞いたことはあるわ。あの時期デビューがままならなず、世が世なら社交界の華となれたはずのご令嬢たちが『行き遅れ』として扱われた。親に用意されたつまらない結婚に身を投じた方も多いのですって」
「強気に選ぶ側に回れたはずの美姫たちが、余り物のように片付けられたと? もしかしたら、家側の事情もあったかもしれませんね。流行り病で、どこの家も大きく傾くほどの打撃を受けたはず。さらに、領地で扱う特産品でずいぶん明暗を分けたかと思います。たくさんの薬師を擁し、薬草を扱うミッドフォード侯爵領などがその代表例で、流行り病への画期的な薬を開発したとして伯爵からの陞爵がありましたよね。逆に、風光明媚な保養地として名高かったオースチン子爵領は集客がまったくできずにいくつもの事業が撤退し」
すらすらと何も見ることなく貴族たちの事業や趨勢について当たり前のように話し始めたアンナを見て、夫人はため息をついた。
「あなたは乳母として大変優秀であるけれど、きっと違う仕事をしても輝けると思うの。もう十分に、うちの子たちのおしめを洗ってもらったわ。留学までした才を生かしてみない?」
「……興味はありますけど……それならぜひここモリス公爵邸で配置換えを」
アンナの申し出に対して夫人は「十年後ならともかく、今は子どもたちがあなたを見つけるとついて回るから仕事にならないわよ」と首を振った。
「転職がてら、同時に結婚して妊娠出産もしておくと、仕事しながらあなたの大好きな子育ても継続できて一挙両得だと思うの」
「一挙両得ってその使い方で合ってます? 私にとってはお得でも、さすがに夫となる男性に失礼ではないですか?」
「どこが?」
「目的が仕事と子どもだなんて。そんな打算的な妻を迎えたら大変ですよ。私絶対に、初夜に宣言してしまいますもの。『私を愛する必要はありません。私の目的はこの家の仕事と子どもだけです』って。これでは完全に、家を乗っ取りにきただけの鬼嫁ではありませんか」
あらぁ、と言って夫人はやわらかく微笑んだ。
「働き者で子沢山な嫁なんて、どこの家でも最高のお嫁様ではなくて? 私を見ればわかるでしょう?」
モリス公爵夫人は、世情が不安定な混乱期に自ら授乳して子育てをした。しかも、続けて総勢四人も産んだのだ。一人目で慣れていると言って、二人目以降も自分で授乳し、結果的に子ども部屋にいる時間が長かったことから、自ら子どもたちに教育を施していた。働き者で子沢山の自称に偽りなしである。
ここで初めてアンナは狼狽し、視線を泳がせた。
「私は、決してたくさん産みたいわけでは……」
産むにあたり、公爵夫妻が仲睦まじく過ごしていたのは知っているのである。「あのような相思相愛を自分が」と考え始めると急に落ち着かなくなってきたのだ。たくさん産みたいわけではなくとも、さしあたり産みたいと考えているならまずは初夜を乗り越えなければならない。
(初夜を? 乗り越える? 私が? 「愛していただく必要はございません」と初夜で口走るであろう女なのに?)
すでに千の夜も乗り越えた夫人が「ほほほほほほほ」と笑い出した。
「往生際の悪い真似はよしなさい。あまり出歩く機会もなく興味もなくて気にしていなかったかもしれないけれど、あなたの言う通りこの国の結婚平均年齢というものはここ数年で上がっているはずよ。かつてなら行き遅れと言われたご令嬢方が遅れてデビューしている例もたくさんあるの。あなたも今からだって全然平気よ」
「私はこの八年仕事しかしていませんでして……子育て仕事に特化した服装と髪型をしているために『クソダサイ』と若いメイドたちに言われているのも気づいています」
「今すぐクビにするわ。名前は教えてくれなくて結構よ。私の権限で調べ上げるから」
「一回目は指導くらいでお願いします。ひとを育てるとは信じることで、誰だって変われる、大人になっても成長できるものだと真心を持って接する必要があると思います」
「さすが当家の子どもたちを育てているだけあるわ。本当はね、私だってあなたを手放したくないの」
でしたら、とアンナは前のめりになりかけたが、夫人はここで話は終えるとばかりにさっと席を立ってしまった。
アンナを見下ろして、笑いながら言う。
「優秀であると知っているからこそ、私の元にずっと留め置いて年を取っていくだけのあなたを見ていたくないのよ。子どもを産みたい気持ちがあるなら、産んでよ。私の子どもたちの同世代にあなたの子がいる未来はとても素敵。そうやって私たちは未来を作っていくのよ。今ならまだ間に合うわ」
年齢が行き過ぎると、結婚するのも子どもを産むのも難しいと夫人は言いたいのだろう。「私は行き遅れですから」と言っているくらいなら、まず行動しろと。
それはアンナにもよくわかった。
(奥様の描く未来は私にとってもきっと素敵……)
子どもたち同士で交流を……と未来を思い描いたところで、アンナは気を引き締めた。「たとえ公爵夫妻は気にしなくても」公爵家と交流を持つのであれば結婚相手は誰でもいいとは言えないのだ。
人品卑しからぬ人物にして、公爵家と付き合っていける身分や財力がなければならない。
考えるまでもなく、そんな人物が売れ残っているわけがない。もしいたとしても、アンナを妻に迎えたいとは絶対に考えないはずだ。クソダサイ行き遅れなのだから。
もちろん「夜会に行きます」と公爵夫妻に申し出れば、金に糸目をつけずに用立ててくれるのは目に見えている。しかし、アンナはその「魔法」を望まない。
いまのややくたびれたアンナの姿が、八年の現実なのだ。この姿を隠して見初めてもらっても、優良誤認を企てたとして後に揉め事の原因となることだろう。
クソダサイ疲れた行き遅れで、社交界における自慢やお飾りすら務まらない女。
それでも良いと言う相手と、交際期間はごく短めで結婚を決めてしまいたい。なぜ短期決戦を希望しているかといえば、さらなる加齢を気にしてのことではない。単純に、アンナは公爵夫妻の夫婦生活を間近に見ていたので、結婚に関してのイメージはあるがそれ以外のことは何もわからないからだ。デートなどしたこともない。できればその過程はスキップしてしまいたいのである。まずは結婚。仕事。出産。
「……絶対、相手は見つからないわね……」
そんな都合の良い男などいるものか。
早々とその結論に達したアンナは、次に大変後ろ向きながら「できるだけ後腐れ無く振ってくれそうな相手」を探すことに専念した。
婚活はした――それも破れかぶれで「誰でも良い」ではなく「誰もが憧れて好きになってしまう」相手に自分も恋をした。しかし、実らなかった……。さすがの公爵夫人でも「嘘でしょ」とも言い切れずに「それは大変だったわね」と認めざるを得ない相手に「一発プロポーズをかましてこよう」と思い立ったのである。
そうして目星をつけたのが、ウォーレン・ミッドフォード侯爵であった。
* * *
「わかった。結婚しよう。まず何からすればいい?」
即断即決にもほどがある。もう少し手加減してほしい。
ウォーレンは、呆然としたアンナの元へ歩み寄ってくると、手を取り身をかがめて甲に口付けた。切れ長の瞳でちらっとアンナを見て、響きの良い美声で尋ねてきた。
「次はなんだ? このままダンスホールにエスコートをすればいいのだろうか?」
「ええっと……。あなたはウォーレン・ミッドフォード侯爵様……だと思って私は話しかけているんですが、閣下は私が誰かご存知ではないですよね?」
ウォーレンは一度瞬きをし「ああ」と頷いた。
「まずは主催に婚約者を紹介しに行けば良いのかと思っていたが、名前を知らないわけにはいかないな。いま聞いておきたい」
この返事を聞いて、アンナは千分の一くらいあるかなと一瞬疑った「昔からの知り合い」「もしかすると前世の知り合い」の可能性を二重線で消した。違う、まったくの初対面だ。
「アンナ・ギボンズと申します。普段はモリス公爵邸で子守りの仕事をしています。今日もつい先程まで仕事をしていて、着替えだけしてきたのでこの格好です。見えてますか?」
質問の意図を捉えようとするかのように、ウォーレンは目を細めて考える仕草をした。すぐに結論が出たようで「見えている」とあっさり言った。
「目は悪くない。向かい合って立っている相手の顔は十分に見えている」
「服装も」
「白いドレスだ。光の加減で凹凸感のある模様が浮かぶ凝った織り生地だな。合っているだろう?」
クイズを出したかったわけではないのだが、大正解だったのでぐうの音も出ない。
(まったくの見知らぬ女で、この見た目だということもわかっていて、なぜこんなに乗り気なのでしょうか……!)
ウォーレンは、ここでようやくアンナが引いていることに気づいた。いまさらながら「あれ?」という顔になった。確認するように尋ねてきた。
「もしかして乗り気ではない?」
「逆にですよ、逆になぜあなたさまはそのように割り切って前向きなのでしょうか?」
二人が話し込んでいたのは夜会の会場であるダンスホールへと通じる廊下であり、ウォーレンは「少し歩きながら話しましょう」と目配せをして手を差し出してきた。
すでにずいぶん人目を集めていると気づいたアンナは「賛成です」と言って、差し出された手を見下ろす。どうしたものかと悩んでいると「腕に手をかけて」と言われた。エスコートする気なのだ。
(さすが貴族の男性はスマートでいらっしゃる!)
長らくそのような扱いを受けたことがなかったアンナは、ドキドキしつつ腕に手を置いた。見た目は細身であったが、布越しに感じた腕は固くてたくましい。おそらくかなり体を使う武芸をたしなんでいらっしゃる、と意外な思いがあった。
ウォーレンは「足元に段差ありますよ、ドレスの裾に気をつけて」とアンナに声をかけてから前を向き、ダンスホールへと足を踏み入れた。
シャンデリアの光が溢れ、弦楽器の優雅な調べが耳に届く。
笑いさざめくひとを巧みに避けながら、ウォーレンは淀みのない口ぶりで話し始めた。
「私には、あけすけに言えば非常に女性関係の派手な従兄弟がいます。顔が私に似ていることもあり、出先でよく間違えられるんです。だいたいすでに恨みを買っていて、いきなり修羅場で満足な話をする間もなくワインをひっかけられて泣かれる。さすがに間違われすぎではないかと思っていたが、最近その理由がわかりました」
「間違われる理由?」
「彼は遊びの半分で私の名前を使い『面倒なことになりそうな相手』の後始末を私に押し付けているとのことです。私が仕事ばかりであまり社交界に出てこないのをうまく利用していたのです。ゆるせない」
「まさに外道……!」
思わず相槌を打ったアンナに対し、ウォーレンは「そうです」と真面目な顔で同意をしてきた。
「彼には二度と利用されたくない。さっさと結婚しようと決めた。従兄弟絡みの女性以外で」
なるほどですね~、とアンナは深く頷いてしまう。
「きっと従兄弟さんは大変な美女好きなのではないでしょうか。私は一目で従兄弟さん絡みの女性ではないとわかったと」
「従兄弟の好みではないかもしれないが、俺は即座にいけると思った。まず間違いなく、俺自身を見てプロポーズしてきたんだと判断した。初手で怒っていない女性は久しぶりだった。これだけでもう俺は乗り気だ」
「乗り気になるラインが低すぎませんか!?」
誰もが羨望のまなざしを送るであろう美青年で、事業は飛ぶ鳥を落とす勢い。女性にだらしないという噂に目を瞑ればこれ以上の好条件の男性もいないというのに、だらしない部分は別人だったという。
それで相手がどこの誰とも知らないアンナで手を打とうとは、自分を安く売りすぎである。
しかし、ウォーレンはアンナに視線を流してきて、きっぱりと言い切った。
「どうしてもこの機会を逃してなるものかと思ったんだ。私は自分の直感を信じる」
「……まさかモリス公爵閣下が根回しを……。いえ、でもミッドフォード侯爵には手を出せないはず。いくら公爵家でも、いまのミッドフォード侯爵家当主に何かを無理強いできるはずが……」
その点も、玉砕プロポーズの相手選びで重視した箇所である。「アンナ失恋」と聞いてモリス公爵がしゃしゃり出てきても、容易に頷かせることができない男性。
そうなると、この麗しい男性はまさに「直感」でアンナのプロポーズを受諾したことになる。冷徹な実業家の顔を持つはずなのに、そんなことで大丈夫なのだろうか?
「待って。ミッドフォード侯爵家は新薬の開発で躍進したのよ。どうにかあやかりたい相手や、逆に足を引っ張りたい相手が山程いてあらゆる業種から狙われているはずだし、ハニトラだってさかんに仕掛けられていると考えるべきじゃない? こんなにガードがゆるゆるの男性でこの先大丈夫なの?」
考えていることが全部声に出てしまったと気づいたのは、ウォーレンに「その通りだ」と認められた瞬間だった。
さーっと血の気が引いたアンナの異変に気づかず、ウォーレンは淡々と話し続ける。
「私の妻の座はいつまでも空けておくべきではない。従兄弟絡みではなく、ハニトラでもない、私自身に入れ込んでくれている相手を早急に見つける必要があった。いまのあなたの言葉を聞いて確信したが、ずいぶん私のことを調べているだろう? 好きってことでいいですね?」
「良くないです! たしかに私はずいぶんあなたさまのことを調べ上げました。プロポーズをするのだから当然です。そしてこれ以上の相手はいないと結論が出たので今日この場でプロポーズをしたんです!」
「それは好きってことだろ」
「す……」
絶句してしまった。ビジネスの話の最中にいきなり「人柄が気に入ったからもうなんでもいいわガッハッハ」と言われたようなものである。なんでもよくはないし、もう少し真剣にこの取引の有用性について検討してほしいと思う。そもそも取引すらまだ持ちかけていない。
「私は、初夜で『私を愛する必要はありません』と口走る予定の女ですよ!? 目的は家業と夫との間の子どもですから! あら怖い!」
「まったく怖くない。子ども作ることに同意してくれるんだね? ありがとう。励もう」
女好きの従兄弟に翻弄される悲劇の朴念仁みたいなことを言っていたのに、あら~貴族の男性はやっぱりおスマートでいらっしゃる~という衝撃で口も利けない。頬が染まるのがわかった。なぜかはわからない。
「プロポーズしただけで、そんな口説き文句みたいなこと言われるなんて、それじゃ本当に私たち、恋をしているみたいじゃないですか……! あんまりですよ、会ったばかりなのに!」
最終的に捨て台詞とともに逃げ出すことになった。「また会おう、会いに行くよ!」とウォーレンの声が追いかけてきたが、日頃四方八方に走り出す子どもたちを追いかけて鍛えた俊足で、アンナは馬車まで逃げ切った。
そして、隠しておくこともできずにモリス公爵夫人に事の次第を報告することとなった。
夫人からは「あんまりなのは出会い頭のプロポーズをしたあなたではなくて?」と言われたが、アンナは「まさか実るとは思ってなかったんですよ!」と言い訳がてら自分の浅はかな目論見まで全部白状してしまった。
子育てよりよほどぐったり疲れて寝て起きた翌朝、律儀なウォーレンからの手紙が届いていた。
前夜の出来事には特に触れておらず「二週間後の王宮での舞踏会へパートナーとして同行してほしい」という誘いであった。
* * *
王宮へ行くにあたり、準備期間もあったというのになんの手入れもしない姿で出向くわけにはいかない。
元来アンナは努力を惜しまない性格であり、また夫人に「公爵家の威信にかけて、ミッドフォード侯爵家に目にものを見せてあげなくては」と言われたこともあって、やるべきことはすべてやるだけという気になった。
四人の子どもたちもこの期間は非常に協力的で、アンナと夫人は「私の育て方が良かったから」と互いに譲らず言い合いつつも徹底的に髪や肌を磨き上げ、ドレスも綿密な打ち合わせのもと流行の店に依頼をした。
当日、出来上がった姿はアンナ自身できすぎだと思ってしまい、鏡の前で著しい優良誤認に気後れまでしてしまったが、一番上のニコルお嬢様に「素敵! こんなアンナが見たかった!」と言われたことですべて報われた気になってしまった。
夫人はアンナの姿を見て得意げになり「あなたはうちの子たちのお手本でもあるんですから、そのくらい当然なんです」と言い切った。
ウォーレンは「迎えに行きます」と手紙をくれていたが、アンナは丁重に断っている。そもそもこの二週間、多いときは一日二回も三回も手紙の行き来があった。その中でウォーレンは絶対に迎えに行きたいと譲らず、アンナは「帰りは別々になることも考慮し、行くときは公爵家の皆さんと」と言い張る攻防戦となっていたのだ。最終的にウォーレンが「来てくれなくなると困るので」と譲った形だ。夜会の前日まで粘られてようやくの結論だった。
「恋文じゃないです、内容を読んで頂いたって構いません。単なる大人同士の喧嘩です」
手紙が届くたびに「熱烈交際」「デートは夜会だけではない」「朝帰りも可」とひやかしてくる公爵夫妻に対し、アンナは「誤解です、これはお付き合いなどではありません」と主張したものの「犬も食わない」と一蹴されて終わった。
のみならず、舞踏会の場では「やっぱり私など壁の花で十分ではありませんか?」と急に弱気に言い出したアンナを、ダンスホールの手前で投げ捨てていく非道ぶりを発揮してくれた。
「そんな殺生なですよ……」
二週間、マナーもすべて学び直してきたつもりだが、実践と経験が足りていない。玉砕プロポーズの夜会は緊張しなかったのに、この日はすでに足がふらふらとしている上に喉もからからに干上がっていた。
帰りたい。
心細くなっていたときに、やけに美しい男性に声をかけられた。
「こんな美しい花がこの国にはまだ見つけられずに咲いていたのか? 信じられないな」
知っている声に似ていたが、どこか違う。
アンナは目を見開き、首を傾げながら声をかけてきた男性を見上げた。
相手はにこりと笑って手を差し出してきた。「ダンス手帳を貸してください」と。
「なんですか?」
おっと、と相手は大げさな反応をして肩をすくめる。
「ダンスの予約を書き込む手帳です。覚えきれないほど申し込まれる女性は、承諾した相手の名前を順番にメモしておくものですよ」
「は~、そんな習慣が……。私は持っていないです。ダンスなんて実践で踊ったことはないですし。練習してきたので、やるだけやってみたい気はしますけどね……!」
思わず本音で答えると、相手はふふっと軽い笑い声をたてる。
「不慣れなところが愛しい人ですね。扇子は持ってきていますか?」
「ありますあります。奥様に持たされてきました。レースの」
真っ白く繊細な編みの扇子を取り出すと、あっという間に男に巻き上げられてしまった。
「何をなさるおつもりで」
「ここに、俺の名前を書いておきます。今日のダンスの予約は全部俺」
「扇子は文字を書きこむものではないですよ……!」
相手が懐から万年筆を取り出したのを見て、アンナは悲鳴を上げる。
そのとき、目の前に風を巻き起こしながら走り込んできた大きな人影があった。
「“ウォーレン・ミッドフォード”とそこに書くのか? 間違いではない」
場の空気が凍りつくほど冷ややかな声。
アンナの視界を塞ぐ広い背の向こうで「おいおい、久しぶりだな」と笑い混じりの声が響く。
それに対し、ウォーレンは淡々と言い返した。
「お前の所業に関してはだいたい調べがついている。関係先に全部連絡をしておいた。王宮の警備隊も待機している。もし刃傷沙汰になっても安心だ」
「刃傷沙汰に安心要素はないな?」
すかさず言い返した相手の男は、ウォーレンによく似た容姿の特徴からしてもお騒がせ従兄弟殿で間違いないだろう。アンナも「安心要素はないですね」と同意しそうになったが、加勢するつもりはないので余計なことは言わずに口をつぐんだ。
言葉通り王宮の警備隊がすぐに到着し「別室で話を」と従兄弟殿を連れて行った。
「詐欺まがいの件がいくつか出てきて、王室の関係者にも被害者がいたんです。このまま速やかに面通しをして尋問して詰めることになります。うまくおびき出せて良かった」
ウォーレンは、緊張したような顔のままアンナを見ることはなく、視線を泳がせた。まだ何か警戒しているのだろうか。
「策略を仕掛けたのですか?」
「やっぱり腹の虫がおさまらないから、結婚前に全部片付けておこうと」
「結婚なさるおつもりなんですね……」
何度も手紙のやりとりはあったものの、改めて目の覚めるような美貌の青年に宣言をされて、アンナは感心してしまった。思い込みの一念で岩をも砕きそうな気迫がある、と。
ちらっと、ウォーレンがこの日初めてアンナに目を向けてきた。
「元々これが目当てで出席をするつもりでいたんですが、変な巻き込み方をしたくなかった。それで最初から最後までついていると言ったのに、断られてしまいまして。遅くなってすみません」
「大丈夫、間に合っています。侯爵様と一緒にいることで早くも目立ってしまっていますが」
「目立っているのは私ではないですね。今日はこのままずっと気を張っていることになりそうだ」
エスコートします、と腕を示されてアンナは手をのせる。二人で並んで歩き出すと、たしかにずいぶん視線を集めていると気づいた。
「ハニトラとは」
藪から棒に、前を向いたままウォーレンが話し出した。「はい?」とアンナは訝しみながら中途半端な相槌を打つ。何を言い出したのだろう?
「私自身ではなく、私の配偶者に仕掛けられることも考えられる。つまり二人の間に隙があると思われるわけにはいかず、誰かによって隙を作られるわけにもいかない。あなたは大丈夫なのですか」
「……あっ、非モテだからですか? 誰かに優しい言葉をかけられたらついていってしまうのではないかと? どうなんでしょう、我がこととして考えたことがありませんので……」
これまで一度も想定してもいない危機についていきなり可能性を示唆されても「絶対大丈夫ですよ!」とは言えない。根拠がないからだ。
アンナの鈍い様子が気になったのか、ウォーレンはまじまじとアンナの頭頂部を見つめた。少し視線に角度をつけただけで、胸が際どく見えることに気づいて視線を背ける。
そのついでに、アンナに目を奪われている周囲へ鋭く睨みをきかせた。
「扇子は無事ですか?」
「はい、その前に侯爵様が来てくださったので」
言いながら、アンナは寄り添って立つウォーレンを見上げる。深くため息をついて目を逸らしながらウォーレンは「貸してください。扇子」と言ってきた。
(何をなさるつもりでしょう?)
不思議に思いながらアンナが扇子を差し出すと、ウォーレンはぱらりと開いた。「今日は眼鏡はないけど大丈夫?」と耳元で囁いてきたので、アンナは「近くなら見えています」と答える。
ウォーレンは、指でさらさらっと扇子の表面に文字を書きつける真似事をした。
“ウォーレン・ミッドフォード 今日は全て予約済み 次回以降も”
「読めた?」
「読めたと思います……」
ウォーレンは扇子を丁寧に畳んでアンナに「はいどうぞ」と差し出してから、ダンスホールに進んだ。
「それでは、二人の間に隙はないと知らしめるために。踊りましょう」
ようやくアンナを正面から見ると、ひとこと「綺麗です」と生真面目な顔で言ってから、そっと目を逸らした。
※最後までお読みいただきありがとうございました(*´∀`*)
ここからデート10回くらいの攻防の末に結婚すると思います。
【追記】
たくさんお読みいただきありがとうございました!(誤時報告もありがとうございます!)
この続きは?という感想を複数いただきまして自由すぎる感想返信していました。
以下抜粋。ご興味のある方だけ(詳しくは感想欄へ)(著しく読後の印象が変わるおそれがありますので閲覧はご注意ください)
★実はラストの続き削った会話が
侯爵「そんなに胸が大きいとは思わなくて」
アンナさん「えっ?胸とか気にするひとなんですか?」
侯爵「いや、全然。最初会ったとき一切見てなかったから何も覚えてない。今日、あれ?って」
アンナさん「それって、つまり興味あるんですかないんですか? 私の胸に」
侯爵轟沈。
※さすがにひどすぎると思って綺麗なところで終わりました。
★子どもたちの中にひとりくらい「僕はアンナとは結婚の約束していた」って言い出す男子がいて(たぶん名前が出てこなかった第二子、長男)「侯爵とアンナ箱推し」のニコルお姉ちゃんにしめあげられてそう。
★公爵夫妻は間違いなく「計算通り」みたいな顔しているかと。自分たちの権力では侯爵を動かせなかったことなど塵の彼方に忘れて「まあ当然ですようちのアンナにかかれば(後方保護者面)
★結婚前後の会話。
アンナ「だって事業内容見せてほしいだの自分の子どもを跡継ぎにしたいだの、まさに侯爵家乗っ取りじゃない?」
侯爵「家業に尽力して跡継ぎを産んでくれるのが乗っ取り?? この後愛人でも連れてきて当主をすげかえるとかなら乗っ取りかもしれないけど」
アンナ「非モテの私に愛人なんかいるわけないじゃない!なんの話してるの?」
※お前がなんの話をしてるの?だよ!(周囲総ツッコミ)
★10回くらいデートしそうってあとがきで書いちゃったんですけど連載するならデート10回連作短編形式?
たぶん9回目くらいまでヒロイン「付き合っている自覚なし」
などなど




