第三十一話 静かな怒りの刃
* * *
萬子さんがよろめきながら立ち上がった。
肩で息をし、胸いっぱいに空気を吸い込む。
その瞳は、深い怒りを湛えていた。
前屈立ちに身を沈めると、両足がわずかに地面に沈む。
その姿は、嵐の中で折れない柱みたいだった。
「押忍!」
声が響いた瞬間、空気が震えた。
怒りをぶつけるんじゃない。
押し込み、研ぎ澄ませ、武道家として心を整える声だ。
その一言で、萬子さんの輪郭が鋭さを帯びる。
黄金色の光が、刻印から迸った。
冷たい刃のような輝きが、闇を切り裂く。
その光は、怒りを燃やす炎じゃなく、怒りを削ぎ落とした鋼の意志だった。
「これ以上、好きにはさせない……!」
低く、静かに吐き出された言葉が、空気を刺す。
俺は息を呑む。
次の瞬間、萬子さんの姿が消えた。
耳を裂く衝撃音。
視界の端で、ダークエルフの体が宙を舞う。
何が起きたのか、俺の目じゃ追えない。
ただ、地面に響く一閃の音だけが残った。
正拳突き――その一撃が、世界を断ち切ったみたいだった。
瓦礫が跳ね、空気が震え、俺の鼓膜が悲鳴を上げる。
その拳に宿った力は、怒りじゃない。
覚悟だ。
守るために研ぎ澄まされた、武道家の刃だ。
瓦礫に叩きつけられたダークエルフが、血に濡れた唇を震わせる。
「ま、待って……! 殺さないで……!」
声が掠れ、必死に命を繋ぎ止めようとしている。
「何でもする……命だけは……!」
その赤い瞳に、恐怖と絶望が滲んでいた。
萬子さんは歩みを進める。
その足音が、静かな怒りを刻むように響く。
普段は笑って、冗談で場を和ませる人なのに――今は鋼の意志を纏っていた。
命乞いするダークエルフに油断する事無く追撃の構えをとる萬子さん
ダークエルフが地面にひれ伏そうとする素振りを見せた――
が、一瞬の内に懐に手を入れ黒い符板を地面に投げ出した。
床に叩きつけられる音と同時に、砕けた破片が赤黒く光る。
次の刹那、黒煙が爆ぜた。
視界が闇に呑まれ、焦げ臭さが鼻を刺す。。
「くっ……!」
萬子さんが跳ぶ。
煙を裂くように後退する、その動きも速い。
そして――影が走った。
黒い獣が、煙の中から飛び出す。
狼だ。
煤にまみれた毛並み、血のような瞳、牙の奥で渦巻く黒い霧。
その姿が、俺の目に焼き付くより早く――
ダークエルフを噛み締め、抱え込むように引き寄せた。
湿った音が、煙の中で短く響く。
次の瞬間、壁を蹴り、闇へと消える。
疾風みたいに。
俺の理解が追いつく前に、すべてが終わった。
残ったのは、符板の残骸と、血の匂いだけ。
萬子さんが低く息を吐いた。
その肩がわずかに震えている。
俺は唇を噛む。
逃げた……。
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あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。




