第二十九話 鉱山の影
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朝の冷気が岩肌を撫で、鉱山へ続く道に粉塵が漂っていた。
俺たちは親方の背を追い、足元に散らばる砕けた鉱石を踏みしめる。
遠くで獣の唸り声が響き、胸の奥がざわりと震えた。
「警戒を怠るな」
エルさんの声が低く響く。
その言葉が終わる前に、茂みが激しく揺れた。
狂った狼が飛び出す。牙を剥き、赤い目がぎらついている。
「ケイタ君、右へ! ネイ君、動きを止めろ!」
エルさんの指示が鋭く飛ぶ。
俺は杖を構え、水弾を放った。
ネイさんの矢が狼の進路を裂き、萬子さんが踏み込む。
拳に炎を纏わせ、顎を打ち抜いた瞬間、火花が散った。
狼が怯んだ隙に、キャソさんが低く唸り、片手斧を振りかぶる。
「グルルガン!」
咆哮と共に、斧が狼の額を叩き割った。
硬い音が響き、食い込んでいた黒い符板が砕け、稲妻のような光が一瞬走る。
狼は痙攣し、血を吐きながら崩れ落ちた。
符板の破片が岩の上で不気味に光を残していた。
——完璧な連携だった。
息を整えながら、俺は胸の奥で小さく感嘆する。
エルさんの声があると、俺たちは一つの刃みたいに動ける。
その安心感が、緊張をわずかに和らげてくれた。
岩陰に、黒い影がじっと潜んでいた。
赤い光を宿した瞳が、戦場を見つめている。
その唇が歪み、湿った声が漏れた。
「ゲヒャヒャ……愉快だな……」
笑いは岩肌に絡みつき、風に紛れて消えた。
だが、その余韻だけが、冷たい鉱山に染み込んでいった。
* * *
鉱山の入り口は、岩壁にぽっかりと口を開けていた。
中は暗く、冷たい空気が肌を刺す。
親方が先頭に立ち、松明を掲げる。
「足元に気をつけろ。奥は迷路みたいになってる」
俺たちは慎重に進んだ。
岩壁には削り跡が残り、ところどころに鉄の枠が打ち込まれている。
やがて、広い空間に出た。
そこには、符板を製作していたと思われる工房のような部屋があった。
炉の跡、刻印を納めるための板、散らばった工具。
そして、まだ温もりの残る灰。
——誰かが、ついさっきまでここにいた。
「人影は……ないな」
萬子さんが低くつぶやく。
俺は胸の奥にざわりとした不安を覚えた。
何かがおかしい。
その時、背後から声が響いた。
「ここで生き埋めにしてやる」
振り返る間もなく、轟音が鉱山に響き渡った。
入り口が崩れ、岩の塊が雪崩のように落ちてきた。
粉塵が視界を奪い、息が詰まる。
「閉じ込められた……!」
萬子さんの声がかすれる。
エルさんは一歩前に出た。
崩れた岩の前で、黒いローブの裾が静かに揺れる。
本を開き、指先が刻印をなぞると、淡い光がページを走った。
低い声が岩壁に反響する。
「土よ、応えろ」
足元の砂が震え、岩の隙間から土の粒が舞い上がる。
崩れた塊がわずかに動き、暗闇に細い光の筋が差し込んだ。
「今だ、抜けろ!」
親方の声が飛ぶ。
萬子さんが先頭で穴をくぐり、外へ飛び出した。
冷たい空気が頬を打つ——その瞬間。
「きゃっ……!」
悲鳴が舞い上がった砂の渦を切り裂いた。
視界が白く霞み、萬子さんの影が揺れる。
俺たちは急ぎその影に近づく
そこには肩を手で押さえる萬子さんがいた。
その顔は苦悶に歪み、奥歯を噛みしめている。
何かに抗うように、肩口に力を込めて——だが、次の瞬間。
両手がだらりと落ちた。
その肩に、黒い符板が深く沈んでいるのが見えた。
稲妻のような光が走り、俺の視界が一瞬白く染まる。
「萬子さん……!」
喉が焼けるように乾き、声が掠れる。
符板は禍々しい光を放ち、刻印に食い込んでいく。
萬子さんの体が痙攣し、赤い光が瞳に宿った。
背後に立つ影——ダークエルフ。
額の刻印が妖しく輝き、冷たい声が響いた。
「ゲヒャヒャ……その二重刻印の小娘は、わが眷属となった!」
萬子さんの瞳が赤く染まり、肩口に黒い稲妻が走った。
空気がざわめき、岩壁の砂が舞う。
萬子さんは一瞬、膝を折り、崩れ落ちそうに見えた——その刹那。
風が唸りを上げ、体が疾風のように前へ跳ぶ。
火の打撃が、加速の勢いを乗せてエルさんの腹に叩き込まれた。
「——ッ!」
息が詰まる音。
エルさんの体が宙を舞い、岩壁に激突した。
鈍い衝撃音が鉱山にこだまし、岩片がぱらぱらと落ちる。
黒いローブが崩れた岩に絡み、動かない。
「エルネスト!」
ネイさんの叫びが響く。
だが、返事はない。
ダークエルフは肩を震わせ、低く笑った。
「ゲヒャヒャ……指示役を潰せば、烏合の衆。嬲り殺してやろう!」
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