第二十七話 霧の中の咆哮
* * *
岩場を抜けた瞬間、世界が白に閉ざされた。
霧だ。濃く、重く、肌にまとわりつく湿り気が全身を包む。
視界は数歩先まで。音さえ吸い込むような静けさが広がっていた。
「もうすぐ集落に着くはずです」
エルさんの声が霧に溶ける。
俺たちは互いの影を頼りに、慎重に足を進めた。
岩肌のざらつきが靴底に鈍い感触を残し、胸の奥で鼓動がじわりと速くなる。
その時――
「助けて!」
悲鳴が霧を裂いた。
甲高く、必死で、耳に突き刺さる声。
「こっちだ!」
萬子さんが駆け出す。俺も続く。
視界が開けた瞬間、息を呑んだ。
二メートルを超える黒い狼。
煤のような毛並みが霧に濡れ、赤い瞳がぎらつく。
牙は岩をも砕きそうな鋭さで光り――
額に刻まれた獣の刻印を覆うように、黒い符板が食い込んでいた。
符板の表面を稲妻のような黒電が走り、脈打つ光が霧を不気味に照らす。
狼の前には、幼い娘を庇うドワーフの母親。
土の壁で必死に防いでいるが、ひび割れは広がり、爪が食い込むたびに土が砕け散る。
母親の腕は震え、限界は近い。
「……どうやら狼の狂乱の原因はあれのようですね」
エルさんの声が低く響く。
その眼差しは符板に釘付けだった。
「ネイさん!」
萬子さんの声と同時に、矢が唸りを上げて飛ぶ。
狼の足元に突き刺さり、動きを一瞬止めた。
「娘は任せて!」
風の刻印が緑の閃光を迸らせ、空気が裂ける。
足元で風が渦を巻き、爆ぜる音とともに疾風が解き放たれた。
霧を切り裂く音が耳を打ち、萬子さんの姿は一瞬で狼の牙の間を抜ける。
その軌跡に、風の残像が鋭い線を描いていた。
少女を抱き上げる動きは迷いなく、正確だった。
「よし……!」
萬子さんは少女を腕に抱え、振り返りざまにキャソさんへ鋭く合図を送った。
合図を受けたキャソさんが母親に飛び込む。
「グルル!」
獣のような唸り声を上げ、腕一本で母親を抱え上げると、岩を蹴って後方へ跳んだ。
その動きは、まるで獣の跳躍そのものだった。
「ケイタ!今よ!」
その叫びに応え、俺は土の刻印に意識を集中させた。
茶の光が脈打ち、岩盤に深い亀裂が走る。
低い唸りが地底から響き、圧力が爆発寸前に膨れ上がる。
「くらえっ!」
次の刹那――轟音。
地面が爆ぜ、岩が裂け、隆起した岩槍が獣を突き上げる。
岩片が嵐のように舞い、狼の巨体が宙を裂いた。
「ネイ君!額の符板を壊せ!」
エルさんの声が鋭く響く。
ネイさんの矢が一直線に走り、符板を撃ち抜いた。
砕け散る符板。黒い電気が霧に散り、空気が一瞬、静まる。
狼は地に叩きつけられ、岩を砕きながら低く唸った。
赤い瞳の光が薄れ、荒い息を吐きながらよろめく。
赤い瞳が最後にこちらを一瞥し、光が消えた。
黒い影が奥へと消えていく。
* * *
狼の影が消え、静けさが戻った。
俺は荒い息を整えながら、萬子さんの腕に抱かれた少女を見た。
怯えた瞳が涙で濡れている。
「怪我はない?」
萬子さんが優しく声をかけると、少女は小さくうなずいた。
キャソさんの腕に抱えられた母親も、必死に娘の名を呼ぶ。
二人が抱き合う姿に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
エルさんが静かに歩み寄り、母娘を観察するように視線を走らせた。
「大きな怪我は無いようですね。もう安心してください。集落までお送りいたします」
その声は落ち着いていて、張り詰めた空気をやわらげるようだった。
その言葉を聞いた瞬間、肩の力が抜ける。
――この人の冷静さに、何度救われているだろう。
母親は涙を拭いながら深くうなずいた。
* * *
岩壁に囲まれた集落が姿を現した。
石造りの家々が並び、煙突から白い煙が立ち上る。
ドワーフの集落だ。
門をくぐった瞬間、低い声が響いた。
「帰りが遅いじゃないか……心配したんだぞ!」
駆け寄ってきたのは、逞しい腕と灰色の髭を持つドワーフの男。
母親は娘を抱きしめながら、震える声で何があったかを語り始めた。
黒い狼、符板、そして俺たちが助けたこと――
男の顔がみるみる赤くなる。
「……そうか。助けてくれたのか」
その時、母親が言った。
「この人は……私の夫で、この集落の親方をしています」
俺は思わず息を呑んだ。
――親方だったのか。
親方は深く頭を下げた。
「命の恩人だ……本当にありがとう!」
何度も、何度も礼を言う声が震えていた。
その様子を見ていた周囲のドワーフたちが、次々と集まってくる。
鍛冶場から駆けつけた者は手にハンマーを握り、狩り帰りの者は背に斧を背負っていた。
子どもたちが母親の足にしがみつき、老人たちは杖を突きながら目を細める。
「我々は魔物の対処に来たのです」
エルさんが静かに告げると、親方の顔がさらに輝いた。
「そうか……! なら、この地も安心だ!」
歓喜の声が爆ぜるように広がり、集落全体が沸き立つ。
ハンマーが打ち鳴らされ、斧の刃が光を反射し、子どもたちの笑い声が混じる。
その光景を見ながら、俺は胸の奥で小さく息をついた。
狼の咆哮は、ようやく遠ざかったのだ。
* * *
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