第二十六話 英雄の価値と異世界の味
* * *
宿の部屋に入った瞬間、張り詰めていた空気が緩む。
窓から差し込む夕陽が床を淡く染め、外の喧騒が遠くに聞こえる。
俺はベッドの端に腰を下ろし、深く息を吐いた。
けれど、頭の中には一つの疑問が渦を巻いていた。
あの信書――何が書かれていたんだ。
「……依頼って、なんですか?」
声に出した瞬間、部屋の空気がわずかに重くなる。
エルさんが本を閉じ、静かな眼差しをこちらに向けた。
「ここから少し離れたところに、ドワーフの集落があります。そこで起きている問題を解決して欲しい、と」
「問題?」
思わず聞き返す俺に、エルさんは淡々と続ける。
「ドワーフは採掘や鍛冶を生業としています。しかし、鉱山に魔物が出現し、助けて欲しいと帝国へ要請があったようです」
萬子さんが目を見開き、声を弾ませた。
「魔物!?モンスターはいないんじゃ……」
エルさんは首を横に振り、低く言う。
「魔物は、四属性の加護を持たない『知識』を持った種族です」
「加護を持たないって……刻印が無いってこと?」
俺の問いに、エルさんは指先で本の縁をなぞりながら答えた。
「魔物はその名の通り、魔の刻印を宿しています。魔の刻印は四属性に劣らぬ力を秘めていますが、その力を正しく使うことはありません」
ネイさんが弓を壁に立てかけ、冷ややかな声を落とす。
「他の種族に害をなす存在だ。目的は分からないが、現れれば必ず混乱を招く」
エルさんが頷き、言葉を重ねる。
「幸い、魔物は群れることが少なく、種族としても規模は小さい。だからこそ、現れたら種族や勢力を超えて協力し、排除する。それがこの世界の常です」
萬子さんが腕を組み、眉間に皺を寄せた。
「……対処法含めて、まさに災害そのものね」
俺は胸の奥にざらつく違和感を覚えながら、問いを投げた。
「なんで俺たちが選ばれたんだ?偶然近くにいたからってわけじゃないよな」
エルさんは視線を伏せ、わずかに息をついた。
「私は宮仕えの身。街に立ち寄れば、帝国へ居場所や旅程を報告する義務があります」
萬子さんが肩をすくめ、苦笑を浮かべる。
「それで、近くを通る私たちに白羽の矢が立ったってわけね」
エルさんは一拍置き、低く言った。
「……恐らく、宰相も一枚噛んでいるでしょう」
「宰相?」
俺は思わず声を上げる。
「あなた達に問題を解決させることで、より英雄としての価値を高める。……そういう思惑でしょう」
萬子さんが唇を噛み、吐き捨てるように言った。
「価値って……完全に物扱いじゃん!」
その言葉が胸に突き刺さる。
俺は視線を落とし、心の奥で複雑な感情が渦を巻いた。
英雄――その言葉の重さを、今さらながら痛感する。
* * *
「やったー、ご飯だー!」
萬子さんが両手を広げ、階段を駆け下りる声が食堂に響いた。
その勢いに、俺は思わず笑ってしまう。
旅の疲れを引きずっていた空気が、一瞬で軽くなった。
食堂は木の梁がむき出しで、壁には古びた鍛冶道具が飾られている。
獣脂と香草が混ざった濃厚な匂いが鼻をくすぐり、腹の奥がきゅうっと鳴った。
テーブルに並んだ料理は、どれも見たことのないものばかりだ。
まず目を奪ったのは、淡い緑色のスープ。
「セリュナスの花湯」――エルフの料理だと宿の主人が説明する。
透き通った液体に白と紫の花びらが浮かび、光を受けて微かに輝いている。
スプーンを口に運ぶと、舌に触れた瞬間、柔らかな甘みと草木の香りが広がった。
その後に訪れるのは、ほのかな苦み――森の奥でしか味わえない静けさのような余韻だ。
喉を通ると、体の奥がすうっと軽くなる。
まるで長い旅で重くなった心が、少しずつほどけていくようだった。
隣には、獣人の料理「ラグロスの骨焼き」。
巨大な骨付き肉が皿に鎮座し、表面は黄金色に焼け、獣脂が光を弾いている。
鼻を近づけるだけで、香ばしさと獣の力強い匂いが押し寄せてきた。
萬子さんが豪快にかぶりつくと、肉が裂ける音が響く。
俺も恐る恐る歯を立てる――瞬間、肉汁が爆ぜ、舌を熱く満たした。
脂の甘みと香草の刺激が絡み合い、噛むほどに旨味が濃くなる。
骨の近くはさらに深い味わいで、獣の野性がそのまま舌に刻まれるようだった。
そして、琥珀色の酒「ファングエール」。
角杯を傾けると、鼻腔を突き抜ける強烈な香りが広がる。
ネイさんが無言で一気にあおり、喉を鳴らす音が低く響いた。
「……悪くない」
その短い言葉に、酒の強さがすべて詰まっている気がした。
キャソさんは瓶を片手に「グルルガン!」と吠え、豪快に飲み干す。
その喉の動きは、まるで獣が血を啜る瞬間のようだ。
「んー!最高!」
萬子さんは肉を頬張りながら笑う。
「こういうガッツリしたの、やっぱり元気出るね!」
エルさんはスープを丁寧に口に運び、目を細める。
「……花の香りが魔力を鎮める効果を持っていますね。長い旅の疲れを癒すには理にかなっています」
ネイさんは角杯を置き、低く言った。
「この酒、獣人の誇りが詰まってるな。……強いが、悪くない」
キャソさんは肉を噛みながら「グルル……」と満足げに鳴き、瓶をもう一本手に取った。
その仕草が、妙に誇らしげだ。
俺は骨の近くの肉を噛みながら、思わず笑みをこぼした。
「……うまい。こんな味、日本じゃ絶対食えない」
舌に残る獣脂の濃厚さと、花湯の静かな余韻。
異世界の味が、確かに俺の中に刻まれていく。
その時、エルさんが静かに口を開いた。
「明日は、ドワーフの集落へ向けて出発します。今夜はゆっくり休みましょう」
その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。
異世界の晩餐の余韻が、静かな夜へと溶けていく。
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