第二十五話 魔術師長からの信書
* * *
焦げた匂いがまだ鼻に残っている。
倒れた熊の怪物の巨体は、森の中で黒い塊となり、沈黙を守っていた。
枝葉の隙間から差し込む夕陽が、その毛並みに赤い光を落とす。
煙が細く立ち上り、空気は熱と血の匂いを帯びて重い。
俺は杖を握り直し、荒い息を整えた。
胸の奥で心臓がまだ暴れている。
「……ふぅ」
エルさんが本を閉じ、静かに言った。
「恐らく……冬眠明けのところに、運悪く遭遇してしまったみたいですね。飢えが極限まで達していたのでしょう」
その言葉に、萬子さんが肩で息をしながら苦笑する。
「この世界の熊、いろんな意味でヤバいね……サイズも、牙も、刻印まであるとか反則でしょ」
俺はうなずきながら、視線をキャソさんに向けた。
斧を肩に担ぎ、鼻息を荒くしているその姿。
……さっきの一閃、あれは忘れられない。
けど、それ以上に――
(……さっき、喋ったよな)
意を決して、口を開いた。
「……キャソさん、喋れたんですね」
その瞬間、キャソさんの耳がぴくりと動いた。
表情からは何も読み取れない。
ただ、困惑したように小さく鳴いた。
「グルル……?」
俺は思わず固まる。
萬子さんが苦笑して肩をすくめた。
「あたしも、てっきり喋れないと思ってたよ」
場に微妙な空気が流れる中、ネイさんが弓を下ろし、助け舟を出した。
「そう思うのも仕方ない。獣人は寡黙なやつも多いが、こいつはその中でも特に無口だ」
「俺はてっきり、喋らないタイプの獣人かと思ってました」
「うん、あたしも。意思の疎通はできるから、なんとなく『言葉は分かるんだけど喋れない』って勝手に思ってた」
ネイさんは淡々と続ける。
「獣人は基本、話せるぞ。……こいつの場合、極端に面倒くさがりで話すのが億劫なだけだ。私もあまり口数は多くないから、一緒にいるうちにこうなった」
キャソさんは何も言わず、ただ「グルル」と鳴いて肩をすくめる。
その仕草が、妙に人間くさい。
萬子さんが吹き出した。
「……なんだ、それ。余計に面白いじゃん」
俺もつられて笑った。
緊張が少しだけ溶けていく。
エルさんが立ち上がり、周囲を見渡した。
「さて、ここで長居はできません。安全な場所を探しましょう」
夕陽が森を赤く染める中、俺たちは再び歩き出した。
戦いの余韻を背負いながら――そして、キャソさんの「ジュウオウムジンザン」が、なぜか耳に残ったまま。
* * *
森を抜けてから数日、俺たちは時の門を目指して旅を続けていた。
山道を越え、谷を渡り、風が頬を撫でる。
空は澄み渡り、遠くに街の屋根が見えたとき、萬子さんがほっと息をついた。
「やっと補給できるね。食料も符板も心許なかったし」
「そうですね。安全な場所で休息を取れるのはありがたい」
エルさんが頷き、街の門へと足を向ける。
街は石造りの壁に囲まれ、夕陽に染まった屋根が並んでいた。
門前には二人の門番が立ち、槍を構えたまま鋭い視線を向けてくる。
「身分の証明を」
その声に、エルさんが静かに本を開いた。
指先で刻印をなぞり、低く唱える。
「土よ、紋章を描け」
淡い光が走り、土の粒が宙に舞う。
やがて帝国の紋章が空中に浮かび上がり、門番の目が見開かれた。
「宮廷刻印士……エルネスト様でございますか?」
「そうです」
門番は慌てて姿勢を正し、声を低める。
「帝都より信書が届いております。我々の詰め所までご同行をお願いします」
詰め所に案内され、エルさんは厚手の封筒を受け取った。
封蝋には帝国の紋章。
エルさんがそれを割り、目を走らせる。
沈黙が数秒続き、やがて本を閉じるように信書を置いた。
「……魔術師長からの依頼です」
その声に、俺と萬子さんは思わず顔を見合わせた。
(魔術師長……アルネリオさんから? 一体、何の依頼だ)
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