7 それはもっともあいつに言ってはいけないことだ
第7話は、カウンセラーの致命的な一言がホークをリハビリから遠ざけてしまいます。トレーニングをさぼって勝手に外泊したり、やりたい放題のもよう。あちこちに頭を下げるのはいつもトニーで……。
まだ少しランチの時間には早かったので、カフェテリアはすいていた。
丸く張り出したテラスに沿ってガラス窓からテニスコートが見える。
「朝ごはんも食べてないって顔してるわよ」
「実はそうなんだ。さっき現場から戻って直行したから」
トニーはコーヒーとスモークサーモンのベーグルを買った。
空腹を通り越した胃にブラックコーヒーが沁みた。
「で、あいつは毎日何しているんだ? そもそも健康なのか?」
「元気みたいよ。そういえば、今朝は朝帰りだったわね。夜外出するといつもそう」
トニーはベーグルを急いで飲みこんだ。
「確か、門限があったよな」
「ゲートで呼び止められて、自分は研修生じゃなくて休暇中だから、門限はない、と言ってたそうよ」
そう言えば、あのとき帰りのヘリで「休暇のはずだ」とずっと主張し続けていた。
「……で、外出先は?」
「自分の家。ここにずっと一人でいると、若くてピチピチした女性研修生と間違いがおこるといけないから、ですって」
無意識のうちにトニーの指がこめかみに行っていた。
さっきより頭痛がひどくなっている。
「現役の捜査官は後輩たちに人気なのよ。生の話を聞かせてもらえるし、それに彼はルックスがいいから……」
これでもおれは真面目に心配してやったつもりだ――トニーは思った。
二週間前は、メイリードの元へ帰れない、と本人が言った。
その精神的ダメージを克服できるようにと、考えてやったはずだ。
まさか、あれが、あいつの得意の演技だったわけじゃあるまい?
もしそうだとしたら、認めたくはないが、自分は完璧に騙された。
「家に帰っているなら、なんでまだここに寝泊まりしているんだ?」
「さあ……とにかく若い研修生たちにモテモテだから」
……あの野郎。
「今日、連れて帰るぞ」
「あら、でもまだリハビリ済んでいないわよ」
リハビリなんか、いい、と言いそうになるのをトニーは押さえこんだ。
「家に帰って家族と顔を合わせているなら、もう大丈夫さ」
「じゃあ、せめて心理テストを受けさせましょう」
一瞬、トニーは天を仰ぎたくなった。
あいつに限ってそれは無駄だ。
しかし、ロレインの認識力に限界があると侮辱するようなことは言いたくない。
我々プロの目でさえ欺くほど、ホークは演技がうまいのだ。
ロレインは知らないだろうが、あいつは見た目の通りの奴じゃない。
ふだんは極めて礼儀正しいし、おまけに優しげで整った顔立ちをしているから、大抵の人間が騙される。
捜査で必要な演技は完璧で、学習能力が高く、器用で要領がいい。
しかも恐ろしく要領がいいから、どんなテストでも、出題者の意図を察して先回りして答える。
ファイルに書かれている通り、入庁したばかりの頃のカウンセリング・テストでは、理想的なバランスの取れた人格のグラフができた。
だからファイルには「捜査員として最適」というお墨付きが記録されている。
ロレインは、それと同じ結果が今テストで出せるなら、合格だと言いたいのだ。
しかし、一般に使われる心理テストなど、ホークにかかればどんな結果でも思い通りに出せる。
だから無駄だとトニーは知っているのだが、それを今ロレインに言うのは適切ではないだろう。
「それはいいよ。おれが本人に会って、確かめる」
「あのね、トニー。体力や敏捷性に問題はないわ。毎日よく走っているし、サーキット・トレーニングもさぼっていない。格闘技や水泳は、やりたいときにはやってる。そうそう、彼がボクシングやカラテをやりに来ると、必ず女性研修員たちが見物に来るの。自分たちのトレーニングそっちのけでね」
……まったく。何て奴だ。
「ホークが倒されると悲鳴が上がるのよ。もう何度注意したことか……。ストレッチのコースなんか、彼が来ると教室が満員になるのよ。きのうもね……」
トニーは片手を上げてロレインを遮った。
「よくわかった。要するに何も心配はいらないわけだ」
ロレインは唇を丸めて首を横に振った。
「ノーノー、そうじゃないの。そういうことは熱心にやっているんだけど、銃やナイフの類には見向きもしないのよ」
ロレインはペンの先でトントンとホークのファイルを叩いた。
「ここに戻ってから一度も射撃練習してないの」
ふむ。ロレインの大きな黒い目をトニーはじっと見た。
前回の潜入中に、銃とナイフはよく使ったと思われる。
しかもかなり殺傷力の高い使用方法で。
「一度射撃場に来て拳銃の分解と組み立てはしたけど、そのまま帰ってしまったの」
「それは、後遺症のせいで、撃てないという意味か」
「さあ、私たちには判断できないわ。普通は武器使用の精度から、リハビリ効果を判断するのよね」
トニーは眉間に皺を寄せ、片肘付いて額を手で支えた。
まったく、世話を焼かせる奴だ。
十四年前、北アイルランドの街で遭遇した時、ホークは十六歳だったが、既に正確な射撃の腕を身につけていた。
今ではどんなハイテクの火器でも扱えるし、長距離、中距離、近距離の射撃全てに於いて信頼できる。
狙ったら滅多に的をはずさないので弾も最小限しか使わない。
愛用の拳銃なら、目を閉じていても組み立てられる。
まさか少し休んでいる間にあの腕が落ちるとは思わないが、それを確認できなければ、職場復帰可能とは言われない。
「私たちに仕事させてくれないってこと、わかったでしょ?」
……困ったもんだ。トニーは軽い溜息を洩らして、外のテニスコートを見た。
二組の男女が混合ダブルスのゲームを始めていた。
日差しの中で、コートに落ちる四人の影がつくるコントラストがまぶしい。
テニスなどもう何年もやっていない。
職場復帰可能な状態でなくても、今日は奴を連れて帰らなければならない。
自分の目で確かめるしかなさそうだ。
「せめてテストできればいいんだけど」
トニーが首を横に振った。だから、それは無駄だって……。
「彼、カウンセラーのことが嫌いだと言って、かなり失礼な事を言ったのよ」
ああ……。こめかみに手をやったまま、トニーは目を閉じた。
「何を言ったのかな」
「幼い頃、何が一番好きだったか、自分の原点に戻ってみたらいいってアドバイスをしたら、ものすごい目で見られたって。で、『余計な御世話だ』と言ったきり、二度と来なくなったらしいわ」
ああ……それはもっともあいつに言ってはいけないことだ。
「あとで謝りに行っておく」更に頭痛が大きくなったようだ。
「辛うじて症状については聞き出せたのね。何か見たくない光景が頭の中をちらついて、目の前が真っ暗になって、息苦しくなるんですって。気がつくと汗びっしょりになって座り込んでいたことがあったみたい」
トニーは顔を上げた。
「重症じゃないか」
「そうよ。だから心配なのよ」
あいつは、人一倍気は強いが、神経は繊細だ。
感情面では、愛情深い家庭を突然失ったせいなのか、本人が思っているほど安定はしていない。
どちらかというと、危なっかしい。本人は認めないが、それが弱点だ。
だから、若い頃も今も変わらず、時々激情に負けるのだ。
自分を抑えられなくなる。
結果として理性的な行動ができなくなって、問題を起こす。
二週間前の行動もそれだ。
自分なら――トニーは考える――女を撃った警官を非難したかもしれないが、あの場で味方を蹴り倒したりはしない。
ホークは少年時代、時々学校で喧嘩騒ぎを起こした。
実の叔父とは修復不可能な口論をして、そのために家出する羽目になり、贅沢な私立の寄宿学校を飛び出した。
もとはと言えば、後先考えずに激情にまかせて行動する性格が災いしたのだ。
あの、礼儀正しく誰からも好かれる好青年と、激情に駆られて暴力的になるときと、どちらもホークなのだ。
妻のナタリーがホークに興味を持つのはこの極端な二面性のせいだ。
今はそれに重症の精神的ストレスがかかっていると思われる。
いったい、どこまでエスカレートしているのか。
確かに心配ではある。
だがしかし、彼をここに置いておいてもプロ達に仕事をさせない以上、いても無駄だ。
それなら連れて帰るしかないだろう。
「とりあえず、本人に会ってくるよ」
トニーがホークの宿舎に行こうとすると、ロレインが言った。
「今、『音楽室』に閉じこもっているわよ。本当は射撃練習の時間なんだけど」
「音楽室?」
「ほら、忘れたの? 大きなピアノを借りたじゃないの」
そうだった。
あいつをなだめすかして研修所に送り込むために、急遽ピアノをレンタルするはめになったのだ。
幼少時から習い始め大学まで専攻したピアノが「精神的なリハビリには一番効く」とホークが言って、譲らなかったからだ。
レンタル料の予算を取るために本部長まで許可を取りに行ってやったのだ。
「一日も早く優秀な捜査官であるホークを稼働可能な状態に戻すために」
ロンドンの件があるので、珍しく本部長もすぐに許可してくれた。




