2 潜入捜査官の命が危ない時にワーク・ライフ・バランス?
第2話は、主人公を救出に向かう上司にその上役の本部長が「次は彼をロンドンに派遣しろ」と言います。この本部長、救出作戦の危険をまったく分かっていないようすで……。
たまたまその日関わった人々が皆、早く仕事を終わらせたいと思っていたからかもしれない。
トニーのチームは驚くほどスムーズにDNA鑑定が一致したという結果を手にした。
裁判所で、さっさと事務的に令状を出す気配の判事からも、五時より前に逮捕令状をもらうことができた。
五時少し前、チームの五人が数時間の仮眠から戻った。
トニーのオフィスに集まって、容疑者逮捕に向かうため必要な武装を整える。
そこへ、何人かいる上役の一人、ジョージ・クーパー本部長が来て、突然オフィスのドアを開けた。
「トニー、ちょっといいか」
クーパー本部長がノックなしでドアを開けるのはいつものことである。
白髪をきれいに整え、白いドレスシャツに臙脂色のネクタイ、ダークブルーのスーツには皺もない。
そのまま保険会社の役員室に座っていてもおかしくない。
本部長はトニーが知る限りいつもこのような格好をしているが、現場から離れて久しい管理職とはこういうものかと思わせる。
今、会議テーブルの上には様々な小火器類が置かれていた。
五人の男たちがそれぞれ弾薬を詰めたベルトを装着したり、拳銃とサブマシンガンに弾倉を装填したりしているところだった。
「なんでしょうか」
トニーは時間を気にしながらも、礼を逸しないよう、手を止めて本部長の方を向いた。
ジーンズの上にトレーナーを着て、防弾ベスト、その上に弾薬のベルトを着けた格好だ。
本部長が、ちょっと、と手招きするので、しかたなく一緒にドアの外に出る。
外には秘書のフィオナの席があるが、フィオナは既に退社したらしく、机の上がきれいに片付いていた。
本来は五時が終業時間だが、そう言えば今日は何か予定があると、昼過ぎに仮眠から戻って来た時に言われたような気がする。
本部長がドアを閉めた。
「これからマイアミに行くのか」
「はい」
「忙しい所に悪いがこっちも急ぎでね」本部長は、腕時計を見た。
「きょうは娘の婚約者に初めて会うんでね。妻と十分後にダウンタウンで待ち合わせだ」
トニーは口を開けかけたが、すぐ閉じた。そのまま本部長が次に言うことを待った。
「さっきロンドンから電話があってな。こっちから応援がほしいと言ってきたんだ」
トニーはまだ何も言わなかった。自分の担当は北米なので、なぜロンドンが出てくるのかと思った。
「君の部下にイギリス人がいただろう」
「ホークのことですか?」
「ああ、そんな暗号名だったな。少なくとも六ヶ月、場合によっては一年ロンドンに派遣してほしいんだが」
「随分長いミッションですね」
「一年前から各地で大規模な潜入捜査を行っている。一ヶ所欠員が生じて困っとるんだ」
「欠員?」
「出張で行ったサンクトペテルブルグで交通事故に遭ってな。もちろん事故だなんて誰も信じておらんよ」
「殺されたんですか?」
「モグラだってことがばれたんだろう」本部長はまた腕時計を見た。
「彼はアメリカ人だったからな。で、今度はもっと自然にイギリス人で行こうと思う」
「ホークは今潜入中ですが」
「……長くかかるのか」本部長は胸の前で腕を組み、片手で薄い顎鬚を触り始めた。
「いえ、今日、回収する予定です」
今日? と本部長の目が細められた。
「マイアミの組織に潜入していたのがホークなので」
半年ほど前から、ホークは犯罪組織に殺し屋として雇われた男を演じている。
英国陸軍出身のイギリス人。イラクのあと除隊し、そのあと傭兵として各地の戦場を渡り歩いてきたという経歴になっていた。
演技がうますぎて本物の殺し屋になりかかっている。
いかに捜査上の作戦とは言え、これ以上殺しを続けさせるわけにいかない。
「そうか、それはちょうどよかった!」クーパー本部長はポンと拳を掌に当てた。
「無事に回収したまえ。それで決まりだな」
「ちょっと待って下さい。ロンドンで何をするんですか」
「いやなに、シティ(ロンドンの金融街)の証券会社で株の営業部員をやってもらうだけだ。ある顧客をぴったりマークしてもらいたいんだよ」
「は?」一瞬、聞き違いかと思い、トニーは怪訝な顔をした。
「どうかしたかね」
「あの……それはどういう……」
「だから、証券会社の営業員になってもらうんだよ。実に楽だろう。殺し屋の後では長期休暇のようなものだ」
トニーの返事は一拍遅くなった。
「あの、彼が今まで何をしてきたか、御存じですか? 会社員なんてやったことがないし、まして株の営業なんて……」
「勿論知ってるさ。ちゃんと経歴を見て抜擢しているんだ」クーパー本部長は眼鏡の奥で憮然とし、わざとらしく腕時計を見た。
「彼は今までどの作戦でも失敗したことがない。学習能力が高く、演技がピカイチとある。上部の決定事項になにか異議でもあるのか」
ちゃんと経歴を見ただと? 今本部長が言った事くらいなら、トニー自身のファイルにも書かれているし、同じ程度の優秀な捜査官は他に何人もいる。
要するに、評価基準で一番上のグレードがついていれば、そう書かれる。結局、イギリス人だということしか見ていないんじゃないのか。
トニーは上司の声音に反応しないように、押さえた声で言った。
「事務員ならともかく、証券会社の営業とは……ちょっと専門的すぎませんか」
「当然トレーニングするさ。もともとその目的で造ったセットがある。一ヶ月で完全に化けてもらうんだ」
全くの素人が化けるのに、一ヶ月で足りるのだろうか。それにニューヨークならともかく、ロンドンとは……。
「もともと株の営業をやっていた者を登用した方がいいのではありませんか」
「それが前任の男だよ。いかんせん、戦闘経験にとぼしく、暗殺された。だから今度は逆で行く」本部長の目が再び細められた。
「君はなんで反対するんだ」
それは……。トニーは本心とは違う答えをした。
「みすみす、失敗するような任務に部下を行かせるのは、上司としてはためらいます」
本部長は話をラップアップする口調になって来た。
「ホークは戦闘能力と経験は十分あるじゃないか」
「そうですね」
ホークのファイルにある通り、過去七年間、失敗もなく、短期長期合わせて潜入捜査の経験は十分にある。
しかし、今回の作戦は、場所が問題だ……。
トニーは一言付け加えようかと思ったが、本部長の素振りがもう行きたそうだったので、やめた。
「マイアミから戻ってきたら、ホークに打診してくれないか。向こうが急いでいるので、彼が駄目ならすぐ他を当たらなきゃいかん」
戻ってきたらって……これから組織のアジトに急襲・突入するというのに簡単に言ってくれる。
トニーを含め部下全員無事に戻れるかどうか、百パーセント確実ではないというのに。
しかしトニーは上役の望んでいる答えをした。
「イエス・サー」心の中で承諾したのは、ホークに打診する点だけだった。
じゃあ月曜に、と言って行きかけ、本部長はもう一度振り向いた。
「トニー、この間、ナタリーが、ワーク・ライフ・バランスについて昼食会で講演したのを聞いたぞ。我々もこれからはそういうことを考えるようにしないとな。君に聞かせるんだったよ」
トニーが再びオフィスに戻ると、部下は全員準備完了だった。
「ボス、どうかしました?」部下の声にすぐ反応できなかった。
本部長と話していると、頭が勝手に再起動しそうになる。それともおれがおかしいのか……
「いや、何でもない。早いとこ済ませよう」