第118話 手の中で、砕け散る
流れのないプールの真ん中に立っているようなものだったのだ、とシェイルは落ちながら思った。
エリスは「ここでは時間は流れない」と言っていた。
それはつまりプールに立っているようなものだった。
そして円卓が砕ける寸前、時間が動き出すのを感じた。
止まっていた水が動きはじめたのだ。
今は時間も、空気も動いている。
重力に従って自由に落下している。
風が強い。
かなり高い場所から落ちているようだ。
普通の人間ならまず助からない高さ。
この程度の問題ではこの中のメンツは死なないだろう。
ただ一人、ローアを除いては。
シェイルは首を動かし、ローアを探しながら周囲の状況を確認した。
すぐそばに巨大な物体がいくつかあった。
後でわかったがそれは月とオリエラの破片だった。
巨大な月の球体と、砕け散ったオリエラ。
破片のなかに円卓の調度品の数々がまじっていた。
たぶん、円卓はあの中にあったのだろうとシェイルは思った。
……元老院や顔見知りの聖騎士たちは大丈夫だろうか?
シェイルは一瞬の逡巡をふりきってローアの探索に戻った。
破片に交じってエリスや魔王たち、キュアリスがいる。
誰もかれもまるで顔色を変えていない。
腕組みしながら涼しい顔で落ちていく。
ただ、ドミナトスだけは首を落としてしまったらしく、首を取り戻そうと空中でじたばたしていた。
見つけた。
少し上の方にいる。近い。
シェイルは風魔法を駆使して破片や魔王たちの合間を縫ってローアのところへ向かった。
ローアはと言うと、魔王と同じくらい堂々と腕組みして待っていた。
ただし、涼しい表情ではなく、ふくれ面だった。
「遅かったわね」
ローアは「早く抱きかかえなさい」とばかりに両手を伸ばしながら言った。
シェイルはその手を取りながら返事をした。
「ごめんごめん、見つけるのが遅くなっちゃって……」
「まあ、間に合ったから、いいわ。許す」
「そりゃどうも」
シェイルはローアの手を引いてお姫様だっこをした。
ローアは少し気まずそうに両手を赤ちゃんのように胸の前でかまえた。
抱えられて落ちながら一緒に落ちるガレキをながめている。
「オリエラ、落ちるのね」
「ああ」
「聖都の風景が変わるのは残念だわ」
「そうか? 風景とか気にしないタイプかと思ってた」
「ここは特別よ」
「ふうん。そんなに残念なら作ればいいじゃないか」
「ええ?」
ローアは「なにをバカな」という調子で少し笑った。
しかし、シェイルは真面目だった。
「ローアなら作れるだろ?」
「作れないわよ。エリス様じゃないと作れないわ、あんなの」
「じゃあ、作れるじゃん」
「なんでよ!? 私の話聞いてた?」
「だから、エリスに作れるならローアにも作れるだろってことだよ」
「……なに言ってんの?」
「ローアならきっといつか作れるようになるよ」
「一体全体何年後の話よ、まったく……」
ローアは呆れた様子でため息をついた。
そうして再び遠くの景色を眺めている。
シェイルは遠くを見る彼女の横顔を見て、「やっぱり作る気なんじゃないか」と思った。
問題は時間だろう。
自分や彼女自身が死ぬまでの間にできるだろうか……。
そう、時間だった。
落下するということは地面に近づいているということで、それは決して長くはない。
特に最後の数秒はめまぐるしい。
気を抜いているとあっという間に地面に激突する。
「? ちょっと、シェイル! 地面!」
「ん、大丈夫大丈夫」
ローアは金切り声を上げていたが、シェイルは涼しい顔できっちり着地した。
抱えているローアのことはもちろん取り落としたりしなかったし、彼女に自重以上の衝撃を感じさせるようなこともなかった。
旅の最中、道に迷ったらジャンプして確認していたから、
この程度の高さからの着地はもう慣れっこだった。
「な? 大丈夫だったろ?」
「だっ、だっ、だいっ……。だいっじょうぶったって、アンタ……!」
しかしローアは慣れっこではなかった。
彼女の顔色は真っ青だった。
それが見る見るうちに赤くなっていく。
まるで今にも破裂する爆弾のようだ。
シェイルは身の危険を感じ、すぐさまローアを下ろした。
そしてローアが地面に視線を向けている隙に素早くあたりを見渡し、なにか話をそらせるものを探した。
あった。
魔王たちが続々と着地している。
実に堂々とした貫禄のある着地だ。
フォクス・ミクスとトリビューラは着地直前に速度を殺してふわりと着地した。
サフラは落下中に身体から根のようなものを伸ばして一本の木になって地面に降り立った。
レドモアとキュアリスは勢いを殺すことなく、ヒーローのように瓦礫を粉砕しながら着地した。
ドミナトスは地面に激突して黒いスライムのように一度つぶれ、すぐに再生した。
エリスは落下中に消えたかと思えば地面に立っていた。
シェイルは彼らの方を指さし、興奮した様子をよそおった。
「ロ、ローア、見なよ! あいつらの着地すごいぜ!」
「……」
「えーと……」
「……」
「あー……。ごめん」
「心臓に悪いのよ、アンタはあああああ!!」
「あたたたた!」
シェイルはぺこりと頭をさげたが、ローアには通用しなかった。
シェイルのほっぺたをぐいっとつかんでこれでもかと引っ張っている。
「自分は大丈夫だからってええええ!」
「ぎゃああああ!」
「……ローア、そろそろやめてあげたら?
シェイルが悪いってのはわかってるけど、今は―――」
「いいえ、エリス様! ホントにびっくりしたんですから!
今日という今日は、もうホントに―――」
「いや、今日じゃないでしょ! 今日じゃ!」
「え?」
エリスはローアのすぐそばに移動すると、「あっち見て」とローアの顔をつかんでぐいっと90度ほど曲げた。
ぐきりと嫌な音がして相当な負荷がローアの頸椎にかかったが、エリスの魔法で即座に治った。
エリスとローアの視線の先に、泥がわいていた。
黒い泥の水たまり。
それがふつふつと煮えている。
ローアは自分が世界の命運をかけた戦いに来ているということを思い出し、つかんでいたシェイルの頬を不服そうに放した。シェイルは地面にくずれ落ちた。
「なんだよまったくもう……」とシェイルがぶつくさ言っているのを無視してエリスが前に出た。
「来たぞ、トゥルモレス。決着をつけよう」
『決着ならとうの昔についている』
泥の中から手が伸び、その手の主は吸い出されるようにして地上へと現れた。
白髪に白マントの男。
夜の王トゥルモレスが顔にニヤニヤ笑いをはりつけて立っていた。
『いい加減敗北を認めたらどうだ。リセマラはつまらないだろう?』
「そういうゲームやったことないからわからないな。時間が無くて。
お前を倒したら暇になるだろうから、やってもいいかもね」
『お前が俺を倒すだと? できるものか』
「できるさ。一人じゃないもの」
『馬鹿め……。最後の最後で頼れるのは自分だけだ……。
それを思い知らせてやろう』
「それって実体験? 世界の敵は大変だね」
『いや、楽だぞ。私は他人の意志に縛られない。
誰の意志も私にとっては等しく無価値だ』
トゥルモレスは懐に手を入れると中から何かを取り出し、エリス達に見えるように手を差し出した。
その手の上に乗っていたのは懐中時計だった。
カチカチと音を立てながら時を刻んでいる。
全員、その行為の意味がわからず、何かの攻撃かと身構えた。
エリスだけは「まさか」とばかりに表情をかすかに曇らせた。
そのわずかな表情の変化を見てトゥルモレスは顔がひきつるほど笑みを広げた。
『勘づいたか! さすがはあいつの弟子だな!』
そう叫ぶと、トゥルモレスは時計をにぎりつぶした。
途端、ぎしりと重く、鋭く、取り返しのつかないものが壊れた音がした。
それははるか遠い空の上で鳴ったようにも、自分の心臓の中で鳴ったようにも、そこら中で一斉に鳴ったようにも聞こえた。
それは世界に亀裂が入った音だった。
孤独で、静かで、冷たい安らぎを含んだ死の音だった。
シェイルはトゥルモレスの手のひらから小さな部品がこぼれ落ちるのを見ていた。
しばらく誰も何も言わなかった。
トゥルモレスはもはや笑っていない。どこか決意を決めたような表情にさえ見えた。
永遠に続くような暗い沈黙を破ったのはエリスだった。
「やり直しの魔法を、破壊された」
やり直しの魔法。
今までエリスがトゥルモレスと戦うために使ってきた魔法だ。
およそ千回、エリスを支えてきた。
それが今回は初手で封じられてしまった……。
でも、とシェイルは思った。
その魔法を壊されて困るのは実際のところ、エリスだけだ。
エリスは「今回」負けたとしても「次回」に希望をつなげたのかもしれないが、俺たちに「次回」は無い。
やり直せるのはエリスだけ。
最初から俺達にはあってないようなものだ。
今回があるだけ。
たしかに、世界が救えるかどうかという点についてはメリットはある。
しかしあいにく、そんなことを気にするような優等生は俺達の中には一人もいない。
たぶん、エリスですら二の次なんじゃないだろうか。
もちろん世界を守るためでもあるのだろう。
でも一番はきっと、箱庭の王のためだ。
俺もいろんな奴と戦ってきたけど、それはローアのためみたいなものだった。
だからその方が俺にはずっと理解できるし、エリスの性格的にもしっくりくる。
話がそれてしまった。
トゥルモレスは魔法を壊した。それで困るのはエリスだけだ。
エリスも今回で決めると言っていたし、実害はない。
気分の問題だけだ。
他の面々にも影響はない。
強いて言えば、エリスが動揺しているせいで信頼がゆらぐ心配があるが……、大丈夫だろう。たぶん。
トゥルモレスは勝つために必要な条件をそろえるために必要な手を打った。
ついでにこちらの動揺をさそえれば、といったところか。
そこまで考えたあたりでちらりとエリスに視線をやると、
無言で、無表情で、じっと睨むようにしてトゥルモレスを見つめていた。
くっくっく、とトゥルモレスがのどを鳴らす。
見れば、口元はにやにやと歪めていたが、目元はエリスと同じ目をしていた。
あ。
そうか。
そうか、これがエリスの弟の肉体だったのか。
『覚悟はできていたか?
今回は同じ条件で戦ってもらうぞ』
「ああ、問題ないよ。むしろこれで覚悟が決まった。
礼を言いたいくらいだよ」
『ふむ……、そうか、なら言ったらどうだ。待ってやろうか?』
「さっさと死ね、老いぼれ」
エリスは険しい顔でパキンと指を鳴らした。
がたがたと地面のレンガが波打つ。
浮いた隙間からシューシューと音を立てて白い霧が吹きだす。
みしみしと地面が凍りついてゆく。
「ここは僕の城だ。何の準備もしていないとでも?」
『準備? おお、まさか! この程度のものが準備だとでも?』
トゥルモレスは歯を見せて笑うと、右足をバンと地面に叩きつけた。
霜柱に押し出されて浮き上がりかけていたレンガの氷が砕けて元の位置にもどる。
『つまらない冗談だ! あの男に世界の壊し方は教わらなかったと見える!』
「彼がそんなこと教えるわけないだろ!」
『ふはははは! 半端者め! お前のような奴に私を殺せるものか!
私が手本を見せてやろう』
トゥルモレスが右腕をはらってマントを翻す。
その手の動きに合わせてレンガがドミノ倒しのようにざーっと波打った。
まるで沸騰するようにレンガが踊る。
外れて壊れたレンガの隙間から黒い泥の水滴がふわりと漏れて浮き上がる。
トゥルモレスの背後に六つの影がならんだ。
泥の影。夜の人形。黒い分身。
それはまさに分身だった。
トゥルモレスの、ではない。
こちら側の……、魔王と勇者たちの分身だった。
すなわち、
フォクス・ミクス、トリビューラ、サフラ、レドモア、ドミナトス、
それにキュアリスを含めた六人の分身だった。
それらは色の無い生き写しの肉体と生気のない瞳を持っていた。
「これで七対九だ」トゥルモレスはにやっと笑った。「ちょっとこっちが少ないが……。まあ、ちょうどいいハンデってところだな」