第1話 巫女
少年が一人倒れている。彼の顔にポタポタと水滴がかかる。その冷たさで彼は目を覚ました。
真っ暗だった。何も見えない。毛布のようなものの上で寝ていたらしい。手であちこち探ると、地面に触れた。どうやら土でもアスファルトでもコンクリートでもない。でこぼこしていて、塗れていて少し硬い。自然のもののようだが…。
身体が上手く動かない。起き上がれない。ひどくお腹が空いていることに気づいた。
ポケットの中を探るがスマホは無い。財布も無い。というかポケットが無い。一枚の布からできた服のようだ。ワンピースのようなものだろうか。
スマホも財布も無いとは。どうやら家から遠い場所のようだし、必要そうなのだけれど…。そこまで考えたところで、彼はハタと気づいた。
「名前、何だったっけ…?」
名前が思い出せない。忘れるはずがないのに忘れている。気持ちが悪い。家族や友達の名前は思い出せるのに…。なんとなく、胸に穴が開いたような気持ちになった。
そのとき、少し明るくなった。足音が近づいてくる。ランプか何かを持った誰かが近づいてきているようだ。
光が強くなる。「誰か」は階段を降りてきているらしい。ランプの光がまぶしくなってきて少年は目を細めた。
ランプを持った人物は白と青のローブを着ていた。フードから少しはみ出ている髪は金色だろうか?
「起きたのね」
少女の声がした。日本語ではなかったがなぜか理解できた。
ガチャン、という大きな金属音がしてギィと軋むような音がした。少しずつ目を開けると、ローブの少女が扉を開いて立っていた。少女の両脇には酷く猫背の大男が二人立っている。
その時、ようやくぐるりと鉄格子に囲まれていることに気づいた。
…ここ、牢屋じゃないのか?
少年が鉄格子に気を取られていると、少女が牢屋の中に入ってきた。フードを脱いで顔を見せる。瞳は青。髪はやはり金だった。青い花の髪飾りを付けている。
少年は倒れたままで少女が近づいてくるのを見ていた。どうにも力が入らない。起き上がれない。
少女はいつの間にか手にコップを持って差し出していた。コップには水が入っていた。少年は受け取ってごくごくと一気に飲み干した。
「…ふう、ありがとう」
「そのまま死ぬかと思ったわ。二日も寝てたのよ、あなた」
「ここは…どこですか?」
「…そうね、難しい質問だわ。答えられる範囲で言うと、ここは牢屋ね」
本当に牢屋だった。まあ、そうじゃないかとは思っていたけれど。
「あなた、どうしてあの部屋の中にいたの? なぜ倒れていたの?」
「あの部屋? ここのこと、じゃなくて?」
「? まさかとは思うけれど、覚えていないの?」
「…覚えてない。その部屋のことは…。あ、ついでに言うと自分の名前も…」
「参ったわね…」
少女は髪をかき上げた。ややいらだっているようだ。そのまま踵を返して牢屋を出ようとした。
「あの…」
「…何かしら?」
少年は気づけば彼女を呼び止めていた。暗闇の中に置いて行かれるのが寂しくて思わず声をかけた。しかし、少女の声は用は済んだとばかりに冷たかった。
「あっ、ええっと…、その、水をありがとう。…君の、名前は?」
「……。ローアよ」
ローアはそう答えるとさっさと歩いて牢を出て扉を閉めた。そのまま足早に階段を上っていく。大男たちも続いて階段を上っていく。光も差さなくなった闇の中で微かに少女の声が聞こえてきた。
「彼は放浪者かもしれないわね―――」
***
「彼は放浪者かもしれないわね。…こんな時にエルダ様はどこに行ったのかしら…?」
ローアはジメジメした地下牢から一刻も早く出たいと言わんばかりに早歩きで階段を昇って行った。彼女は後ろの大男たちに質問した。
「いつ帰ってくると思う?」
「わからない」「わからない」
「そうよねえ…。面倒だわ。それまで彼の言っていることが本当かどうかわからないって訳ね…」
ローアは階段を上り切り扉を開けて廊下に出た。地下へとちらりと目をやり扉を閉めた。廊下を横切り、聖堂への扉を少し開ける。
二階の窓から朝日が差して、金の装飾が施されたエリス像を照らしている。ローアは並べられた椅子の向こうにある祭壇を見つめた。
四日後、この聖堂で祝祭が執り行われる。近くの村の人間がほぼ全員参加し、四季の恵みに感謝する祭りだ。要は村の大人たちが酒を飲み歌って踊って大騒ぎする日なのだ。
そろそろ準備をしないといけない頃だ。この教会で初めてやる大きな行事でそれなりのプレッシャーを彼女は感じていた。しかし彼女が今この瞬間に考えていたのは祝祭のことではなかった。
その奥にある「隠し部屋」だ。隠し部屋の存在を知っているのはローアを含めて四人しかいない。巫女のローア、虜囚のブブとボボ、そして神官のエルダだ。村の人間は誰も隠し部屋のことを知らない。…知らないはずだ。もしかしたら村長あたりは知っているかもしれないが、エルダに確認したことは無い。
今、エルダはどこかに行っている。よく行き先も告げずにフラッといなくなるのだ。何の用があっての外出なのかは聞いていない。聞いても適当にはぐらかされる。ローアは「男の人と会っているのかしら?」と密かに疑っていた。他に何も思いつかなかったのだ。
エルダは一週間前からいなくなっていた。そんなエルダがいないときに隠し部屋に男が倒れていたのだ。
隠し部屋で微かに物音がしたので、恐る恐る隠し部屋を開けてみると、部屋の真ん中で男が倒れていたのだ。それも全裸で。ローアは意味不明な状況に内心パニックになりながらも、ブブとボボに彼を地下牢に放り込んでもらうことで対処した。
彼女はエルダの後を継ぐ巫女だ。心を読んだり、嘘を見抜く類の魔法は会得していない。男が隠し部屋に侵入した盗人なのか、たまたま隠し部屋の中に出現した放浪者なのか判断できなかった。
放浪者は、ごく稀にこの世界に現れる。異なる世界から現れ、異なる知識を持ち、常人と異なる力を持ち、世界に変革をもたらす。…らしい。伝説でしか聞いたことが無い。そして、彼らに共通する特徴がある。名前を失っていることだ。どういう理屈かはわからないが、彼らは故郷の世界の記憶を持っていても、自分自身の名前だけは忘れてしまうらしい。
男は放浪者の特徴に合致する。いきなり現れて倒れ、名前を失っている。実際のところ、ローアは彼はおそらく放浪者だろうと思っていた。放浪者でなければ隠し部屋に侵入した盗人ということになるが、その場合全裸でぶっ倒れていた理由がわからない。何かの魔法を使った代償だとしてもおかしい。倒れてしまうならもっと他の方法を考えるだろうから。それだけの魔法を習得するだけの知性と自制心があるなら、そんな行き当たりばったりの手段はとらないだろう。
彼をどうしたものか。このまま牢の中に閉じ込めていたら、後で放浪者とわかったら無礼を働いたことになる。それはきっと、まずい。巫女としての資質を問われることになるかもしれない…。でも、万が一にも盗人だったならそれこそ牢から出すわけにはいかない。最悪だ。隠し部屋にある物を盗まれてしまう。そもそも盗人だとしたら隠し部屋に侵入していた彼を地下牢の中に閉じ込めておけるのだろうか…?
ローアが祭壇の間の中央でぐるぐると歩きながら考えていると、ふと入口に立っている二人の虜囚の首輪に目が行った。
「そうか、隷属魔法…!」
ブブとボボは奴隷である。エルダは虜囚だった彼らを買い取り、隷属魔法をかけて用心棒にしたのだ。魔法をかけた首輪がある限り、エルダの命令に服従し、傷つけることはできない。ついでに言うとローアの命令も聞くようにエルダに指示されている。まあ、護衛と言っても基本的には教会の入り口に立つ門番のようなものである。
隷属魔法はローアがまだ完全に習得していない魔法である。しかし、エルダに隠れて練習していたし、鳥や小動物には成功している。できるのではないだろうか。
ローアは焦っていた。
放浪者を牢屋に閉じ込めていることは無礼なのではないか…?
かといって出して隠し部屋に保管されている物を盗まれてもいいのか…?
隷属魔法をかけてしまえば正体が盗人だったとしても問題は解決する…。
ローアはぐるぐると歩き回るのをやめるとブブとボボに入口で待つように言って、速足でエルダの部屋に行き、開錠魔法を使い中に入った。大量の本が目に入る。床に積み上がり、本棚にぎっしりと詰っている。ローアはそのうちの一冊を本棚から抜き出すと部屋から出て、魔法で鍵を閉めた。
本を開き、隷属魔法のページを開く。内容を確認しながら階段を下りて地下牢への扉に手を掛け―――。踵を返して厨房に向かった。食材をいくつか取り、調理を始める。まずは食べ物で警戒心を少しでも解こう。パンとスープでいいだろう。放浪者と言っても同じものを食べるはずだ。好き嫌いはあるかもしれないが、餓死寸前なのだから何を出しても喜んで食べるだろう。
ローアは調理しながら、この後のことに考えを巡らせた。食事を持っていく。料理自体は魔法には関係ない。入ったら、話をして魔法をかける。魔法が成功したら、すかさず首輪をする。首輪をしたら…。
…首輪が無い。
スープをかき混ぜる手が止まった。眉をひそめて少し考える。首輪は隷属魔法を継続させるために必要なものだ。隷属魔法をかける場合はほぼ必須と言える。もしも魔法が解けた場合、仕返しをされる危険性が高いからだ。魔法を継続させるためのものなので、ある程度丈夫で、身に着けやすいものであればいい。そう言えば腕輪を一つ持っていたような気がする。
スープを完成させるとローアは部屋に飛ぶように走って行き、荷物の中から腕輪を探し出すと再び大急ぎで戻ってきた。パンとスープを器に入れ、地下牢へ運んでいく。
「ブブ!ボボ! 地下牢に行くわ。ついて来て」
「おお」「ああ」
二人が低い声で返事をし、のしのしと歩いてくる。万が一、もみあいになっても二人がいれば大丈夫だろう。ローアは放浪者が寝息を立てていることを確認して、扉を開けた。