2話 魔法の精霊化現象
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かつての数少ない記録によると、「魔法の精霊化現象」が起こったその時、変化は静かに訪れたそうだ。
「――き、きたきたきたきた!」
興奮する僕の視線の先で、先ほどまで空間を押しつぶさんがごとき威容を発していた龍が、空気に溶けるように姿を消した。同時に炎の柱も外から内に向かって消滅していく。
これだけを見ると魔法の効果時間が切れたか魔力が切れたか、とにかく魔法自体がその発動を続けられる状態でなくなり解除されたように見えるだろう。だが、そうではない。僕には分かる。この魔法はまだ生きていて、用意した動力源や僕の体からは湯水のように魔力が消費されている。
「記録と同じだ。構築された魔法が瞬時に立ち消えて、それでも魔力は消費され続ける。じゃあその魔力が一体何に使われているかというと……」
先ほどまで僕の魔法が広がっていた空間全体から、まるで滲みだすように光の粒が現れる。色は赤、一般的には火属性を表す魔力光である。そして何もない空間からというのは、この世界自体に満ちる魔素が魔力化しているということ。
魔素に何らかのきっかけを与えて励起状態になったのが魔力だが、おそらくそのきっかけというのは消費され続ける僕の魔力だ。ただ、消費される魔力と生成される魔力の量が明らかに釣り合っていない。僕の魔力が単なる触媒として使われているだろうことを考えても計算に合わない。つまりこれは、僕以外の何らかの要素――世界の意思が介入していることの疑いない証明だった。
滲みだす魔力はまるで蛍のように空間を飛び交い、僕の面前に集っていく。この一帯の魔素すべてが魔力になっているのではと思うほどの凄まじい量だ。これは明らかに、人間の扱いうる魔力量の限界を超えている。
僕は限界まで目を見開き、この世紀の瞬間を見逃さないよう注視する。赤い魔力の粒子が僕と同じくらいの大きさに集まり、人型を形作っていく。
「――こ、これは何だねロード君! 君はいったいなにを!」
そんな時、僕の背後、学園寮がある方向から声が聞こえた。魔力の動きで察知はできていた。学園の教授陣だ。野次馬の学生の声が聞こえないのは、危険がある可能性を考慮してここまで来ないよう止められているからだろう。
事前に設置していた結界魔法に遮られ、すぐにはここまで辿り着けないだろうことが分かっているから、僕は振り返りもせず教授たちの声に応えた。
「教授方も見ていてください。僕が歴史に残る偉業を為す瞬間です。魔法士としてこの光景を見逃すわけにはいかないでしょう」
「な、なにを……」
「――来ますよ」
僕は目前の人型が次第にはっきりした形を作っていくのを集中して見守る。ぼやけた頭らしき部分には、おそらく髪にあたるのであろう魔力の糸が伸びていく。手足の先端には五本の指がかたどられていく。胴体は女性らしい丸みを帯びたシルエットになり、腰のあたりからスカートのように魔力が広がった。
「ウワアアアア! シルエットだけで分かるこれ絶対美少女のやつ! 僕の時代来てる!」
「こ、これはまさか、精霊……!?」
思わず叫んでしまった僕と、驚愕に慄いた声を上げる教授陣。
眼前の精霊らしきものはその間にも着々と解像度を上げていく。風が吹くようにたなびく長髪は、その属性を表す燃えるような深紅だ。身にまとうものは髪と同じく赤を基調としたワンピースで、控えめな胸に大きなリボンが揺れている。手足にはなにも身に着けておらず、しかし地上からは浮いているので問題にはならないだろう。
そして、注目すべきはその顔だ。まるで神が作った芸術品といっても差支えないような美しさ。怖気が走るほどに洗練された美がそこにあった。まだ幼さの残る顔立ちだが、目は少し切れ長で黄金の瞳孔をきらめいている。丸く柔らかそうな頬は薄桃色に色づいて血色が良く、人間ではないことが信じられない。形の良い鼻筋やつややかな唇は、どこか蠱惑的な印象すらあった。
加えて彼女の頭部、両耳の少し上あたりからは、二本の角が長く伸びていた。根本は黒に近い赤色で、先端に近づくほど彩度が高い赤に変わっている。美しいグラデーションだ。
少女はもう意識もはっきりしているようで、僕たちと同じく自分の体を興味深げに眺めて、そしてゆっくりと僕に視線を向けた。まつ毛の長い目が瞬いている。
気づけば、僕の体から流れ出す魔力は止まっている。一方で、この場の興奮はいまや最高潮を迎えようとしていた。
「な、なんということだ。まさか本当に、ロード君はその魔法を世界に認めさせたというのかね……? こんな、これは、まさに歴史的偉業だ……」
呆然と呟く教授たちの声など、もはや僕の耳には入っていなかった。気づけば僕は宙に浮く精霊の少女に向かって、ゆっくりと足を踏み出している。そして少女の方も、宙に浮いたままふよふよと僕に近づいてくる。
一歩、二歩と近づいていくほど、体にぽかぽかとした熱が伝わってくる。けして熱くはない、しかし体と心を温める心地よい熱だ。これも精霊の特殊な体質かな、なんて頭の隅で思いながら、僕は少女の目の前に立つ。
手を伸ばせば触れられる距離で、僕たちは見つめあう。 僕にはお互いが抱くためらい、そして大きな期待が感じられた。
何度か口をぱくぱくして、しかし結局声を出せずに口を閉じる少女を見て、僕は思わず微笑んだ。可愛らしい様子に少し緊張がほぐれた僕は、意を決して口を開く。
「――初めまして。僕の名前はロード・エレンツ。君をこの世界に呼んだ魔法士だ」
「あっ。わ、わたしはっ」
少女は慌てて言葉を返そうとして、舌を噛んだらしい。痛そうに顔を歪め、次いで恥ずかしそうに目を伏せて顔を真っ赤にした。
精霊も舌って噛むんだ。
僕はなんだか可笑しくなって笑ってしまった。
「大丈夫、ゆっくり話して。そう、まずは名前だ。君の名前を僕に教えてよ」
少女の顔を見つめ、優しく語り掛ける。少女はまだ恥ずかしそうに、上目遣いで僕を見返した。そしてその小さな可愛らしい口を開き、囁くようにその名を告げた。
「――わたしの名前は、《火竜の舌》。この名を呼んでいいのはロードだけ。他の人には教えちゃダメよ……」
ちらちらとこちらを窺う恥ずかしそうな少女の頭に、僕は思わず手が伸びる。冬に当たる暖炉の火のように暖かな頭を、よしよしと撫でる。少女は一瞬びくりと震えたが、変わらず撫で続ける僕を見て、心地よさそうに目を細めた。
「それじゃあ、行こうか」
「うん……!」
僕は少女の頭から手を離すと、代わりにその小さく柔らかな手を取って、一緒に歩き出した。
こうして僕は、現代に生きる魔法士の中で最も大きな功績を上げた一人として、世界各地でその名を語られることとなる。富も栄誉も、魔法士としては望みうる最高のものが得られるだろう。きっと世界中の魔法士が羨むに違いない。
だけど、そんなことよりも。僕にとっては何よりも価値のあるものが、この手に掴めたかもしれない。
そう、それは僕がこの魔法学園にやってきた理由。そして精霊の少女アグニ・リングウィーをこの世界に顕現させた目的。
「かわいい同年代くらいの彼女を作る」という僕の目的が達成されるのも、もうすぐそこなのかも知れない!