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秘密基地

作者: 内田花

「死んだら、楽になれる」

 また、そんな言葉が口をついて出た。もう何度も同じ言葉を呟いて、ここに座っている。ただぼんやり、街を斜めに照らす朱色に燃える夕陽を眺めて、ずっとここに座っている。住宅街の狭い公園のベンチ……半日もここで空を眺めている。自分がこんな空虚な時間を過ごす時がくるなんて、思いもしなかった。

 沈んだ気持ちで、ふらふらとやって来た場所。ぼんやりした視界の中に、結婚したとき住んでいた五階建ての古びた賃貸マンションが見える。あの三階に、五年間住んでいた。思えば、あの時ほど希望に満ちて、幸せだった日々はなかったように思う。今の僕には、涙が滲んでくるほど懐かしい建物だ。そしてこの公園もよく幼い息子を遊ばせた場所だ。思わず目を細める。この街の全てが優しい色をしているように思えた。

 あの頃へ戻れたら、どんなに幸せだろう……。



「ウチでどんな仕事が出来ますか?」

 面接の担当者に訊かれて、直ぐに答えられなかった。

「どんな仕事でもやります」と、答えるべきだったのだろうか。厳しい顔の担当者は、僕の履歴書を口をへの字に曲げ、何か不備なところを探し出そうとするように、不快な顔で眉をひそめる。

「資格はお持ちじゃないのですね?」

 自動車普通免許としか書かれていない「特技、資格」欄を指でなぞり、銀縁の眼鏡の担当者は呆れた様に僕をチラッと見て、その歳で何をやっていたのかと言わんばかりに息を吐く。

 これでいつも全てが終わる。一月ぶりに、面接までこぎつけた採用試験も、今までと同じ結果になるだろうと悟った。

 履歴書に書かれた中堅の建設会社の営業。身を粉にして働いた。いや、働いたつもりだった。だが、会社は『業務縮小』という名目で人員整理を敢行して、その中に十年勤めた僕の名を入れた。成績もそれなりに上げていたし、役に立っているつもりだったから、今でも納得できない。しかし暗鬱とした思いを払拭出来ないまま時間はどんどんと過ぎて行き、退職してから3ヶ月になった。初めのころは、がむしゃらに就職活動をしたが、結果が出ない焦燥感に次第に気力が失せていった。

 僕は落伍者なのだ。社会から弾き出された男に、どうしろというのだ。どうすることも出来ないじゃないか。


「ねえ、退職金で何とかやっていけるし、今のうちに何か資格でも取ってみたら?」

 家に引き篭もりがちになった僕に、女房は心配顔を向ける。

「ああ」

 生返事をして、面白くもないTVを眺める。期待の持てる言葉が聞けない女房は、食器を洗いながら大きくため息を吐く。

 プライドも世間体も、小学生の子供の行く末も、今の僕の頭から段々と消え去っていく。情けない話だが、守ってほしいのは僕の方だと叫びたくなる。家の中に逃げ込むことは、社会の厳しい現実から目を背けることだ。しかし、打ちのめされた僕の心は立ち向かう気持ちを放棄し始めている。

 生きることが、こんなに辛いことだと思わなかった。このまま仕事に就けなければ、僅かな蓄えを食い潰して、挙句の果てに家族も買ったばかりの家も失くしてしまうのか? 先の見えない不安は僕を押し潰そうとするように、もがけばもがくほど暗雲の中へ引き入れる。

 知人からやっとのことで紹介してもらった職場も、今日の面接では良い結果が得られないだろう。八方塞がり……人生に行き詰まるほど、僕が一体何をしたというのか。

 

 突然子供達の歓声が耳をつんざいた。夕暮れの公園にいつの間にか五,六人、小学生が集っていて騒いでいる。

 僕は、まるで意識を引き戻されたように、その声を追った。まだ低学年だろうか、ランドセルを揺すって、ふざけあっている。鬼ごっこをしているように狭い公園を走り回り、屈託なく笑い声を上げ、本当に楽しそうだ。僕は思わず微笑んで、その子達に見入った。あの頃が一番幸せなのかも知れない。少なくとも、死にたいなんて考える事はないだろうから。

 ぼんやり様子を窺がっていると、ふっとその子供達について回っている一人に目が止まった。他の五人が話を交わしている後を、一歩遅れて、背後を走っている。話の仲間に入るでもなく、ただ黙って着いて行っている。

「苛められっ子か?」

 じっとその子を見つめた。五人はまるで存在を無視するように、その子に顔も向けないし話しかけもしない。白いタンクトップと半ズボン姿も、まだ春先の夕刻には寒々しい格好だ。それに怪我をしているのか、片足を引き摺るように走っている。僕はその奇妙な子を、眉根を寄せて黙って見ていた。痩せた細い手足が透き通るほど白くて、ボサッと伸びた髪が顔を隠している。可愛い格好をしている子達と何か様子が違う。

「じゃあ、バイバイ!」

 日が沈み、薄暗くなった公園から、子供達は次々と手を振って家へ帰ってゆく。ふっと時間が気になって、腕時計に目を落としている間に、子供の姿はなくなった。あの奇妙な子も帰っていったのか、急に公園は静まり返った。

「そろそろ、帰るか……」

 次第に消え行く夕陽の名残の茜色の雲を見上げながら、重苦しい気分で呟いた。途端に、女房の沈んだ顔が、僕を責めるように浮かんでくる。しかし、僕には家しか帰る所はない。

 ベンチに投げ出した鞄を手に持ち、立ち上がろうとした時、

「カズちゃん」

 と、懐かしい名前で呼ばれた。

「えっ?」

 声のした方に顔を向けると、あの奇妙な子供が、僕の座ったベンチの端っこに腰掛けている。

 いつの間に――――と、びっくりしてじっと見つめていると、

「忘れたんか? オレのこと」

 と、関西弁で小さく呟き、表情の乏しい顔で僕を見る。突然に慣れなれしく話しかけられて、呆気にとられた。

「忘れたって……。えっと、君は僕を知ってるの?」

 全く見覚えのない子供の顔に、ふざけているのかとムッとして答えた。

「当たり前や。友達やったやんか! オレ、ヤスシや」

「ヤスシ……?」

「そうや! 山原小学校の田中ヤスシ。学校の裏山で、いっつも遊んでたやろ?」

 その子は、僕に体を寄せるように顔を覗きこんだ。山原小学校は、僕が三年生まで通った学校だ。自分でも忘れていた学校の名前を突然聞かされて、小学生に友達だと言われても……。その子の言ってることが理解できず、ただ混乱した。小学校のことなど特別な事でもない限り、三十五年分の記憶から、簡単に探し出す事など出来ない。僕が訝しげにその子を見ていると、

「山に秘密基地を作っていたやんか。ダイちゃんとチットンと一緒に」

 と、大きな声で言った。秘密基地? 

「あっ! 思い出した! ヤッちゃんか? ヤッちゃんなのか?」

 確かにヤッちゃんだ。ごくっと唾を飲んだ。秘密基地というキーワードは、直ぐに僕を小学生の頃に導いてくれた。僕の目に映っているのは、本当にあの頃一緒に遊んでいた同級生のヤッちゃんだ。

「やっと思い出したか」

 その子は、やっとにんまりと顔を歪めて笑った。

「で、でも……、な、なんで……。なんでここにいるんや。君と友達だったのは、小学校のとき……。待ってくれ! これは夢か!」

 僕は、その子の顔を凝視したまま、両手で頭を抱えた。次第に、ヤッちゃんの記憶は鮮明になってくる。その姿は確かに仲良しだった田中ヤスシだ。

「いじめられてたオレのために、ダイちゃんとチットンとカズちゃんで、秘密基地を作ってくれたもんな。ほんまにオレ嬉しかった」

 ヤッちゃんはそう言うと、力のない小さな目を細めた。その泣き出しそうな寂しい笑顔も、あのときのままだ。僕は呆然として、ことの次第が飲み込めないまま、彼を見つめた。

 

 僕が生まれ育った田舎の小学校に、三年生の春、ヤッちゃんは転校してきた。

 何でも、お父さんと離婚したお母さんと二人、祖母の家に引っ越してきたという事だった。彼は痩せていてひ弱で、おまけに生まれつき足が悪くて、片方を引き摺るように歩いた。無口でおとなしく、腕白な田舎の子供についてはいけず、早速学校のいじめっ子達の獲物になった。毎日小突かれて罵られて、いつも教室の隅で息を潜めるように小さくなっていた。転校生が苛められているのを見るのはいい気がしなかったが、いじめっ子のボスの山田太一というヤツが乱暴者で、誰も歯が立たなかった。クラスの皆も遠巻きに見ているだけだった。

 ところがヤッちゃんを殴った太一を見て、正義感の塊だったダイちゃんが、いじめっ子達の前に立ちはだかった。ダイちゃんと友達だった僕とチットンも、ヤッちゃんを守るように立ち上がった。クラスのいじめっ子達には、少なからずひどい目に遭わされていたから、一気に許せない気持ちが爆発した。僕たちはのさばっていたいじめっ子達との戦いを始めてしまったのだ。

 腕力も人数も叶わない僕たちは、いじめっ子グループと喧嘩になるたび、痣を作って痛い目を見た。だけど、四人は負けてはいなかったし、負けたくなかった。そこで、考えたのが裏山に秘密基地を作って闘う事だった。

 学校が終わると、決って四人で裏山に集り、秘密基地つくりに精を出した。

 秘密基地は、太い幹の枝を広げた大きな楠の木に作られた。

 父親が建築業だったこともあり、僕が中心になって材料をあつめ形を考えた。丁度大人の身長くらいのところで幹が二つに分かれていて、その間に板をはり、一畳分位の床を作った。まるでピーターパンの家のように、枝に隠されたその基地は、要塞と呼べるほど上手に出来た。

「カズちゃんって、すごいなあ! 釘も打てるんや」

 皆に感心されて、僕は俄然張り切った。

「おっきくなったら、家を創る人になるんや」

「へえ! じゃあ、オレの秘密基地をいろんなとこに建ててくれるか?」

 と、ヤッちゃんが顔を近づけて言った。

「ええで。すっごいやつつくってやるわ」

 ヤッちゃんは、あの時本当に嬉しそうに笑った。

 秘密基地の上り下りにはロープを使った。力のないヤッちゃんのために、捕まりやすいワッカにして、引っ張り上げてやる。

 今にして思うと危険な遊びだが、幼いながらも知恵をしぼり、僕たちは懸命に基地を作った。武器の泥団子爆弾や、ビービー弾で武装して、いじめっ子達の襲撃に備えた。

 都会ではそうはいかなかっただろうが、田舎では元気に外で遊ぶ事が子供のモットーのように、日が暮れるまで自由な時間が許されていた。準備をしながら僕たちは、そこでお菓子を食べたり、漫画を見せ合ったりして、四人で本当に楽しく過ごした。

 そして、ついにいじめっ子達と決戦の日が来た。

 僕たちは木の上から、群がる奴らに爆弾を落とし、ビービー弾を浴びせた。木に昇って来れないいじめっ子達は、手も足も出ず逃げ惑った。何発も泥団子爆弾を浴びてボスの太一も泣き出し、ついには全員降参したのだ。木の上で、悲鳴を上げながら退散する奴らに向かって、僕達は雄叫びを上げた。僕もチットンもダイちゃんも、そしてヤッちゃんも、頬をまっかにして何度も勝利を叫んだ。

 僕たちは、その勝利の日から誰からも苛められなくなった。いじめっ子のボスの太一は、潔く負けを認めてヤッちゃんに謝り、僕達は、奴らに絶対に誰もいじめないと約束をさせた。四人はたちまちクラスのヒーローになったのだ。

 それから、その魅力いっぱいの基地は、クラスの男の子の憧れの場所になり、いろんな子が遊びに来るようになった。勿論、ボスの太一も基地に招待してやった。いつもオドオドしていたヤッちゃんも、いつしか沢山の友達に囲まれていた。

 あの秘密基地は、山の中に生まれた夢の世界の中にあった。僕たちは大人には秘密にして、冬が来て雪が積もるまで、本当に楽しくそこで遊んだ。


「まだ、あるかなあ。秘密基地……」

 一連の出来事を思い出し、僕は思わず呟いていた。何だかつい昨日の事のように、あの場所がはっきりと蘇り、頭の中を占領する。

「オレ、死んでしもたから、わからん」

「あっ……」

 僕は口元を押さえて、ヤッちゃんを見た。

 そうだ……。彼は、あの年の冬、大雪の降った日に突然死んでしまったんだ。風邪をこじらせ、肺炎になって……本当に呆気なく……。そんなことも僕は忘れていた。

 ヤッちゃんは黙って俯いた。細い肩が、迫ってきた夜の闇に溶け込みそうなほど、か細く見えた。僕は言葉を失くし、幼い彼を黙って見つめる。

「もっと、カズちゃんやチットンや、ダイちゃんと遊びたかった。一緒にいたかった」

「ヤッちゃん……」

 小さい手で半ズボンの裾をぎゅっと握り締め、下を向いて悲しそうに何度も瞬きした。

 ここにいる彼は、僕を懐かしんで出てきた幽霊か、はたまた僕の幻想か、夢か、どちらにしても現実ではない。しかし彼を恐れるような、そんな恐怖は少しも感じなかった。

「カズちゃん。オレが死んでから、どうしたと思う?」

「え? どうしたって? 分らないよ、そんなこと」

 ヤッちゃんは僕に顔を向けると、にっと歯を出して笑った。

「時々カズちゃんや、ダイちゃんやチットンに逢いにきていたんやで」

「ええ! そんなことできるんか?」

「うん。カズちゃんにはわからんかったやろうけど、東京に引っ越していった後も、一緒にあそんだんやで。カズちゃんはいっぱい友達がおって楽しそうやった」

 逢いにきていたと言われて、僕は動揺した。もしかして、僕の今まで生きてきた軌跡を知っているというのか? じゃあ、今の僕の姿を、彼はどんなふうに思っているのだろう。

「ほんまは僕は見えへんねん。そやけど……カズちゃんが、オレみたいに死にたいと思ってるのを聞いて……。もしかしたら、一緒に天国へ来てくれるんやないかって、思って……。なんか分らんけど、死にたいと思っている人には、オレらの姿が見えるらしいねん」

 そう言ったヤッちゃんの顔は、急に背筋が凍りつくほど、冷たい形相に変わっていた。さっきまでの子供らしい表情はなく、仮面のように無表情で、口だけが動いている。

「オレと一緒にいこう。そしたら、悲しいこともないし、いっしょに遊べるやん」

「ま、待って! そんなに簡単に言うなよ! 僕には子供もいるし、死んだら家族が路頭に迷う!」

 と、僕は立ち上がって、彼に言った。

「死にとうないんか? 死にたい言うから、来てやったのに」

「ああ! 死にたくなんかない!」

 両手の拳に力が入った。何に対してかは分らないが、どうしようもなく憤りを感じた。ヤッちゃんは声を荒げた僕を、悲しそうな目になって見上げている。

 そして、ベンチに背を持たせると、ふいっと空を見て呟いた。

「オレの葬式の時、カズちゃん、やくそくしてくれたなあ……」

「え? 約束?」

 僕が、そう訊き返すと、彼は無表情だった顔を途端にほころばせた。

 その時、突然、体中に激しい痛みを感じた。体がバラバラになりそうな激痛! 息が出来ない! 立っていられず、僕はその場にうずくまった。

「ううううっ! うわあぁぁ……」

 苦しさに差し出した手の向こうで、ヤッちゃんは静かに微笑んだ。



「貴方!! しっかりして!」

 女房の声が、頭の中でこだまするように響いた。

「ああ、良かった……。気がついたのね……。良かった……」

 狭い視界の中に、京子の泣き顔が見える。いつになく取り乱して、乱れた髪に、涙が頬を伝っている。どうしたというのか、こんな女房を見るのは久しぶりだ。

「パパ!」

 京子の脇から、三年生になったばかりの友哉ともやが身を乗り出して体に手を伸ばしてきた。

「ともちゃん、もう大丈夫よ。パパは助かったから」

 涙声で、京子が息子の肩を抱きかかえ言った。

「京子……。ここは?」

「病院よ。もう大丈夫。本当に奇蹟だわ! 一週間も意識が戻らなかったのよ。本当に心配した」

 病院……。頭がぼんやりして、事態が飲み込めなかった。だが、動こうとすると全身に痛みが走る。

「僕は、どうして……、病院に……」

「まだ動くのは無理よ。貴方ったら、昔住んでいたマンションの屋上から飛び降りたの。そんなに思い詰めていたなんて……。ごめんなさい……。私、気付かなくて……」

 京子は憚ることなく、また泣き出した。僕は、ベッドに伏せて肩を震わせる京子の頭を、包帯だらけの手で撫でた。

 飛び降りた? ああ、そうだ……。何もかも嫌になって、あの懐かしい街で死にたいと思ったんだ。飛び降りた記憶は無くなっているが、そう思ったことは思い出した。しかし、僕は生きている……。体中の痛みが生きている証のように感じて、それさえ喜びに感じた。

「そうか……。あそこから、飛び降りたんか……。バカだな……僕は。京子……心配かけて、すまない……」

「貴方、お願い。もうこんなことは止めて。生きていてくれれば、それでいいから。私も頑張るから」

 京子の言葉に胸が詰まった。目尻を温かいものが流れ落ちる。

「わかってる。もうこんなことは二度としない……約束する」

 涙でぐちゃぐちゃの女房の顔を見て、幼い一人息子の手を握り締めながら、僕は涙を搾り出すように固く目を閉じた。死のうと決心した自分が、今は心から生きていて良かったと思っている。死んでしまったら、この愛おしい二人に会えなかったんだから……。

 

 僕は安堵した気持ちで、真っ白な天井を見つめた。そして、心の中で呟いた。

――――ヤッちゃん……。一緒に逝ってやれなくてごめん。でも、約束は守るよ。必ず……。

 

 

 

 五階の屋上から飛び降りたにもかかわらず、僕は奇跡的に何の後遺症もなく、その二ヵ月後、無事に退院をした。

 今にして思えば、ヤッちゃんと会ったのは既に飛び降りた後で、生死の分かれ目を彷徨っていた時なのかも知れない。 

 彼は、死ぬ筈の僕を迎えに来ていた死神だったのか。いや、本当に会っていたのではなくて、僕の目覚めない脳が見せた幻想だったのか、今でもはっきりとしない。


 僕は退院後、女房と息子を連れて、ヤッちゃん達と過ごした田舎へやって来た。もう二十五年は経っているが、どうしてもあの秘密基地がどうなったのか、知りたかった。

 山原小学校は、驚いたことに廃校になっていた。隣町の小学校と統合されたらしい。言い知れぬ寂しさを抱きながら、随分と深い森になった裏山へ登って行った。廃校になってから、この山も手入れが全くされていないようだ。鬱蒼とした森になってしまった裏山に、長い年月を感じた。

「わあ、大きな楠の木ねえ」

 その場所に立った京子が、驚いて見上げている。あの楠は、二十五年の間に大木になっていた。日の光さえ遮る程に幾重にも枝葉を広げ、自分の領域を守っているかのようだ。

「ああ、子供の頃はこれ程大きくなかった。これじゃあ、秘密基地はできないなあ」

「え? 秘密基地って?」

「いや、子供の時は、この山が遊び場だったんだ」

「へえ、すごい。でも、素敵ね。自然の中で遊んで育ったのね。貴方って」

 都会育ちの女房には、田舎の何もかもが素敵に見えるらしく、この地に着いてから、「素敵ね」ばかり言っている。

「パパ! 見て!」

 あちこち落ち着かない様子で探検していた友哉が、見上げていた楠の木の、二つに分かれた幹の又から顔を覗かせた。

「きゃあ、友哉! 何してるの! あぶないっ! 降りなさい!」

 途端に京子は草むらを分け入って、楠の木に取り付き叫んだ。

「大丈夫だよ」

 友哉は京子の頭の上から、興奮した顔で言った。太い幹は、小さな体の息子をガッチリ抱くように手の届くところに枝を伸ばしてくれている。

「友哉、そこまでどうやって登ったんだ?」

「うん、こっちに、ほら、ロープが掛かっているから、それを掴んで登れるよ」

「え?」

 僕は草を踏みしめながら、木の後ろへ回った。

「あ……」

 あの時のヤッちゃんのために使っていたわっか付きのロープが、枝に結ばれてたらりと下がっている。切れないように、とワイヤー入りのビニール製のロープをこっそり家から持ち出してきていたが、色あせささくれているが、しっかりと強度は保ったままだ。

「二十五年も経っているのに……」

 僕は目頭が熱くなった。ここに、僕達四人のいた証が残っている。下がったロープをグッと掴んで、上を見上げる。木漏れ日の中に、あの時の僕達の笑い声が聞こえた気がした。

「パパ、すごいでしょ!」

 木の又に立ち、キラキラと目を輝かして友哉が胸を張って叫んだ。

「ああ、すごいよ」

 と答えた私の目に、息子を支えるように立つ子供の姿が映った。

「ヤッちゃん……」

 息子の背後で、ヤッちゃんは嬉しそうに笑っている。

「ここをまもっていたのか。僕らの秘密基地を」

 頬に涙の温かさが伝った。彼の姿があまりにせつなくて悲しかった。

「ありがとう。思い出させてくれて……」

 僕がそう呟くと、ヤッちゃんの姿は差し込んできた木漏れ日の中に消えていった。

 

 記憶は次第に薄れて、消し去られるものなのだろう。それがいかに美しく大切なことであっても、今を生きるために懸命な頃は、思い出に慰められたいなんて思いもしない。僕も、きっと立ち止まらなければ、あの秘密基地のことも、亡くなったヤッちゃんのことも思い出すことはなかっただろう。

 そして、もう一つ、彼との大切な約束を思い出した。

「京子。僕の頼みを聞いてくれるかい?」

「え? 何? 言ってみて」

「小さい時、僕は建築士になりたいと思っていた。それで、大学もそっちに進んだんだが、結局一般企業に就職して、資格を取っていない。もう一度勉強し直して、夢を実現させたいと思うんだ。そのために、退職金を使ってもいいだろうか」

 京子は目を大きく見開いて僕の話を聞いていたが、直ぐに答えを返してきた。

「勿論よ! 嬉しいわ。貴方が前向きになってくれるのを待っていたの。やってみて。私も働くつもりだから、二人でがんばっていきましょうよ」

「有難う!」

 目に涙を溜めている妻の肩を抱いて、あの頃の僕達と同じ様に木の上ではしゃぐ息子を見つめた。僕にとって、それは涙が溢れそうになるほど幸せな時間だった。



 ***



「先生、この螺旋階段、手すりの高さはこれでいいですか?」

「ん? ああ、これなら落下は防げるだろう。子供は思わぬことをしでかすからなあ」

「そうですね。でも、なんかワクワクしますね。この公園の遊具って、どれも秘密基地みたいじゃないですか。木に隠されたところに丸木のジャングルジムやウンテイ……。木を縫って滑るローラーすべり台なんて、きっと子供は夢中になりますよ」

「ありがとう。楽しいものが出来ればいいのだが」

 僕は、設計助手の太田君に微笑みかけた。

 市の緑化政策によって、街の中に緑を生かした大規模な公園が造られることになった。その全ての依頼が僕のところへ来て、今は設計に忙殺されている。

 あれから十年。

 僕は一級建築士の資格を取り、その後独立して建築士事務所を開いた。その上で造園と意匠空間の設計のスキルを学び、公園設計士と呼ばれる肩書きを身につけた。そして、いろんな都市の中に緑の公園をいくつも設計してきた。

「先生、ヤッちゃんは気に入ってますか? 今度の公園は」

 太田君が振り向いて、からかうように言った。彼に秘密基地の話を聞かせてから、いつもそのころの事を思い出して設計する僕に、必ずヤッちゃんのことを訊ねてくる。

「ああ、気に入ってるようだよ。完成したら一番にやってくるだろう」

 そう言ってふっと目を向けた設計室の窓に、子供達がわいわいと走ってゆくのが見えた。また、その後ろを足を引き摺った子が着いて行っている気がした。



「ヤッちゃんのために、きっといっぱい秘密基地を造ってあげるよ。ヤッちゃんが寂しくないように、いろんなところにいっぱい造る。約束するよ」


――――約束だよ、カズちゃん!


              (おわり)

お読み頂きありがとうございます。

次回に生かすべく、忌憚ないご感想ご意見お待ちしています。


宜しくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 冒頭の主人公の独白から引っ張られました。公園で出会った幼なじみ。秘密基地という題材の使い方がうまいですね! 久々になろうで良作に出会えた気持ちですよ。 これ、充分に商業レベルだ…
[一言]  はじめまして、某企画ではお世話になります。藤咲一です。  御挨拶を兼ねて、簡単な感想を書かせていただいております。  『秘密基地』拝読させていただきました。  死からの再生。それに友情を…
[一言] 内田花さん、こんばんわ。 ボク好みの作品だったので、釣り堀の魚みたいにパクっと食い付いてしまいました(^_^) 公園の風景って、想像しているだけで、ふっとなにがしかの物語が浮かんでくる奇妙な…
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