レルル、目覚める
「ん、んん……あ、あっつ、い?」
無意識で口にした自分自身の声で、レルルは目を覚ました。喉が渇いていているせいか、声がかすんでいるのが自分でもわかる。
頭がぼうっとしていて確信はないが、自分の部屋の寝床だという感覚がある。使い慣れたしじら織り肌掛の手触りと沁み込ませていた香の匂いが感じられた。
そして同時に暑さの原因。
前と後ろから挟まれて感じる、自分以外の人の温もりも。
「あ、起きた」
「おはよ、レルル。気分はどう、平気?」
「え……テンさん、あ、誰?」
状況把握が感覚に追いつくにつれて、反対に頭の中が真っ白になっていく。
自分の顔のすぐそばからする、吐息までかかるほどの近い声。
反対に後頭部に感じるのはたいへん豊かな女性の胸の感触。
肌掛の中で絡み合った、計六本の脚。
無意識に相手の背中に回していた自分の手と、自分の下腹部へと回され撫でられていた相手の手。
「あ、あ、あの、どうして、その」
「覚えていない? 崖から落ちたときに君、気を失っちゃったんだよ。もうかれこれ一時間くらいになるかな」
「ご、ごごごめんなさいっわたし――」
「こら、心音にまだ異常があるわ。悪いことは言わないから大人しくしておきなさい」
慌てて体を起こそうとしたレルルだったが、後ろから抱きすくめていた女性の腕が、体を寝床に引き戻す。他に異常がないかと、汗ばんだ身体のあちこちをのびやかな指が擽っていくので、レルルはしばしの間もだえることになった。
「ひゃうっ……あ、あのもう、私……いえ、あ、貴女は?」
「紹介するねレルル。彼女はエーナイン。ア=ルエゴたちが担いでいた”アク様”で、ボクの家族の一人」
「え、アク様? え、家族? ええっ!?」
テンシーはと云えば、理解が追い付かずわたわたするばかりのレルルから離れ、いつもの寝起きのような緩慢な動作で身を起こし、寝床に胡坐をかいて座りなおす。
「どう、エーナイン。これで色々わかったでしょ」
「ええ、しかし大した力ね。形ばっかりのア=ルエゴとは大違い。少し野暮ったいけれど、見てくれも悪くない。これで言霊の力でも身に着けようものなら、素養だけならナンバーズに匹敵するかもしれない」
ようやくレルルを手放したエーナインは小さく舌打ちをし、「当たりはこっちだったみたいね」とこぼした。
少々おびえた様子のレルルに、テンシーは簡潔に状況を説明した。
レルルが持つ、触れ合う相手の心を読む力と、無意識化で自分の記憶を逆に相手に読ませる力。これらを用いてテンシーとエーナインがレルルの過去を垣間見、彼女の姉がかつて最も勇気あるものとして、”厄災”を鎮めるための生贄となったことを知ったこと。
レルルが気を失っている間に、テンシーとエーナインもまた、今回の生贄として選出されたこと。
テンシーが話せば話すほど、レルルの表情は沈んでいく。傍で見守るジジが彼女の背中に手をかざし、心の声で語り掛ける。
「レルル。まず、君に謝らないといけないことがいっぱいあるんだ。それに、君に頼みたいことも。君にしか、できないことなんだ」
「ジジが、テンさんたちが間違った掟を正してくれるって。でも、本当に……? 私なんかの力で、この悲しいルールを直すことができるなんて……でも、もしそうならどうして……私にそんな力があるなら、お姉ちゃんは……」
「無理だったわ。すくなくとも今までのあんたの能力じゃ、たとえやり方を知っていたとしても出来ることは何一つなかったはずよ」
気の強そうなエーナインの声に慣れていないせいか、レルルの肩がびくっと跳ねる。
「そんな、じゃあ、じゃあ私はなにをすれば……?」
「ボクたちが、君の目覚めを後押しする。言霊の力を”正しく”使ってね。そして君とジジイの記憶と想いを、みんなに共有してもらうんだ」
「そんな……そんなことをしても、すぐにみんなが協力してくれるとは思えないです。だって!
今までずっと、ずっとこうしてきたんだから。 それにもし、テンさんたちに何かあったら……」
レルルは神経質そうにかぶりを振った。か細い声はテンシーたちへというよりも、むしろ自分自身に向けられているかのようだった。
「お姉ちゃんは、優しい人だったんです。優しくて、明るくて、面倒くさがりだけど変なところは好奇心旺盛で……女なのにジジたちと一緒に狩に出かけて迷子になったり、でもおかげで新しい収穫を見つけたり……ちょっと困った人でしたけど、みんな大好きだった。お姉ちゃんも、みんなのことを大切に想ってくれていたんです。だから、自分が生贄になっちゃうって決まった日だって、嫌な顔ひとつしないで……」
生贄の風習があるとはいえ、普段からいたずらに家族の命を犠牲にするような営みではない。決して豊かとはいえない生活の中でぎりぎりまで頑張って、それでもなおどうしようもなかったときに立てられるもの。
それが、人柱。
一族の柱として祀られるということは、メトトの中に組み込まれ連綿と語り伝えられることとなることと同義である。
死してなお感謝され、人々の心の中で生き続ける栄誉。
だが、共同体にとって価値あるもの全てが、個人にとっても同じだということはない。
「みんな云っていました。『お前のお姉さんはすごい人だった』『みんなあの子のおかげだ』『私たちの誇りだ』って。私の手をぎゅっと握って、みんなが私を慰めてくれた。嘘のない言葉でした。でも……」
――なぁ、どうして、お前じゃなかった。
今となっては、誰の心の声だったのか。聞いたレルルにすらわからない。
もしかしたら、ぽっかりと開いて魔が差したレルルの心が、ありもしない誰かの言葉を勝手に心にこだまさせただけだったのかもしれない。
だが、真実がどうあれ。
レルルがそこから“自分の死”というものを前向きにとらえ始めたのは確かだった。
勿論、死が怖くなくなることなどなかった。だから頭では何度「死んでしまいたい」と願ったとしても、何度も何度も踏みこたえた。くしくも亡くなった姉と交わした、しようもない“自殺の吉日”の約束が、レルルを引き留め続けた。
「そんな私も、もうお姉ちゃんと同い年なんです。でも、どんなに経っても私、ちっともお姉ちゃんに追いつけない。ジジ以外の人の心を読むのも怖くて、だから人を好きになることも、できなかった。だからもう、お姉ちゃんのところに行こう。行って楽になろう。そう思って二日かけて崖に上ったあの日、私はテンさんと出会ったんです」
思えばあのとき、“厄災”に捕まった自分を助けてくれた恩人だ、などと云って嘘八百を捲し立ててテンシーをみんなに紹介したのも、自分ですら気づかなかった本心だったのかもしれない。
“厄災”によって人生の全てを狂わされた自分が断とうとした命を、不思議なめぐりあわせで救ってくれたテンシーは、その意味では確かに大恩人である。
それに、姿かたちが見えなくても、レルルにはテンシーにどこか、亡き姉の面影を見出していたのかもしれない。
「本当に、本当にごめんなさい。せっかく私たちを助けてくれようとしてくれているのに……私グズで、目も見えなくて……私にはできない……ごめんなさい、ごめんなさい」
目から光は失われていても、涙が枯れることはない。
さんざん流してきた、レルル自身が一番嫌いな味のする涙が、頬を伝って流れていく。
手の甲にぽつ、ぽつと当たった涙。
けれど、待てど暮らせど。
三滴目は、落ちてこなかった。
――そうだよ、レルル。
レルルの震える小さな手から、テンシーの手が重ねられていたから。
「テン、さん?」
「君の言う通りだよ、レルル。君の力は他の人が持っていないものだけど、君一人で何かができるわけじゃない」
――でもさ。それって当たり前のことじゃない?
「あたり、まえ?」
「誰か一人で何もかも解決しようって。それがもとでみんな苦しんでいるんじゃない。生贄の風習も、今レルルが苦しいのもそうだよ。それは一人ではとても変えられるものじゃない」
――だから。もう一人で苦しむのは止めて、さ。
<ボクたちを、信じてみない?>
「……ぁ」
見える。
目が見えなくても、心の中で見える。
揺れる炎のように。波紋が広がる水鏡のように。
この人が今、どういう顔でこの言葉をかけてくれたのか。
新たに二つの手が重ねられる。
目が見えないのに。やっても意味はないと云うのに。
涙に濡れた顔は自然と上がり、重ねてくれた人の声を聴く。
――この方々を、信じてみましょう。レルル様。
「ジジ……でも、ジジでさえ敵わなかった相手を、どうやって」
「だーかーらっ。そこは私たちが一肌脱いでやるって云っているでしょ」
エーナインの吐き出す気炎と心の声が全く同一に響いてきて、レルルの肩が思わず跳ねた。
「ひぃっ、ご、ごめんなさ」
「あーもうっ、何でもかんでも謝らない! そういうところよ、あんたの能力が開花しない主な原因は。
……このジイさんの記憶も見せてもらって理解したわ。“厄災”だのなんだの云われているみたいだけど、ア=ルエゴたちが云っているような鬼霊でも悪霊でもないみたいじゃない。どんな相手だろうとオバケでさえなければ、このエーナイン様の敵じゃない。だから、ほら」
<しゃんとして、胸を張りなさい>
途端に心が、ホカホカしてくる。
涙で湿り、この地の密林のように鬱蒼と茂り続けていた心のありように、一筋の火が灯るように。
「ジジ、みなさん……わたし……私!」
燻りつづけ、消えかけていた決意。
どう言葉に変えてよいかわからないほどに久しく感じる、心の熱。
「大丈夫、ちゃんと伝わってる。でも、無理やりにでもよいから、言葉にして出してごらん」
テンシーの声に導かれるように、レルルの心の火はある形をとる。
今しがたテンシーが投げてくれた問が、答えなのだと。
「テンさん……いいえ、テンシー様。私、あなたを信じます。どうかお導きください。わたしは何をすればよいのでしょう?」
何をしても変えることなどできない。そんな自己弁護の自問ではない。
死ぬことに魅かれていた、あの時の歪んだ前向きさではない。
生きている自分に何ができるのか。
無知を認めた自分の最善手を手探りで探す。その一歩を踏み出すための問い。
「……あるがままに。レルルが大事だと思うことを、一緒にやろう。それが、もう誰も悲しまない、新しい法になるはずだから」
テンシーが、自分にそう云ってくれた姉の言葉をそのままレルルに伝えたのも、彼女に自分自身を重ねたからかもしれなかった。