第11話 テレ屋な彼女を前に抑えられない
朝5時
俺はいつも通り目を覚まし、カーテンを開ける。
「今日も良い天気だなぁ」
今日も良い一日になるに違いない。俺の直感は間違えない。
昨日の桑野さんを思い出して、ニヤける。俺の気分は最高潮。今日も桑野さんと一緒にいられる。この事実が最高に嬉しい。
「坊っちゃん、おはようございます」
「キヨさん、おはようございます。朝からいつもありがとうございます」
着替えてリビングに降り、キヨさんと挨拶。キヨさんはそれからキッチンへ。そして俺はソファーに座り、新聞に目を通していく。いつもの光景だ。
6時過ぎ
「おはようございます……」
「おはようございます。よく眠れましたか?」
いつもの光景に有難い変化。桑野さんが加わった。俺は自然と笑顔になる。
「……」
「……寝不足ですか?」
「いえ……」
「顔色が……」
「わっ!」
俯き気味な桑野さんの頬に触れ上を向かせる。薄っすら、クマがある。そして、真っ赤な可愛い顔。
……いじって反応を見たい。しかし気持ちを抑えないと……嫌われてしまったら大変だ。
「眠れませんでした? 疲れが残っているようですけど……」
「……お構いなく」
「構います」
「……どこかの腹黒大魔王さんが私をいじったので、怒りで眠れませんでした」
「随分トゲがある言い方ですね」
「自分の事を言われていると気づいた方がいいですよ」
「俺はいじったつもりはありません」
ジトっとした目で見られた。可愛い。電話じゃない近い距離が嬉しい。桑野さんの一挙一動も逃さない。待ちに待った桑野さんが目の前にいるのだから。
「――ちょっ!!」
「サクッとです」
あと少しで俺は貴ちゃんを起こしに行く。サクッとハグをさせて貰おう。
「サクッとって……!」
桑野さんは幾分ハグに慣れたようだ。硬直度合いが違う。
「ハグも慣れです。回数を重ねたらいいだけですから」
「なぁーに言っているんですか!! もう……」
「6時15分まであと3分あります」
「あと3分はサクッとではありませんって〜!」
「慣れの為の練習です」
腰と背中に手を回してハグを堪能する。顔を寄せて桑野さんの首すじの匂いを嗅ぐ。
「落ち着く……」
激情も朝になれば少し冷静さが加わる。あと3分、俺を満たして頂こう……
と、思ったら
「ぐっ」
片手で顎を持たれ、押し返されてしまった。
「――〜っっ」
桑野さんは真っ赤になって下を向いている。
「痛いしびっくりするじゃないですか」
そして桑野さんは意外と力が強い。
「私が貴ちゃんを起こしに行ってきます」
「は?」
「さようなら」
「え、ちょっと!」
背中を向けた桑野さんの腕を取って捕まえる。振り返った桑野さんは案の定赤い顔。それを俺は真剣な目指しで見つめる。
「20歳の大学生の男の子の部屋に入らせる訳にはいきません。ここで待ってて下さい」
✽
――コンコン
「貴ちゃん、朝だよ」
部屋をノックして、声をかける。
――ガチャ
「貴ちゃん、おはよう。朝だよ」
俺は日課をこなす。
桑野さんは照れを隠したかったが為の提案だろうが、俺はこの件は譲れない。貴ちゃんの部屋に入れたら、桑野さんは驚愕するだろう。
「……貴ちゃん! お片付けするってお兄ちゃんと約束したよね!?」
「うーん……」
「どうしたら一晩でこんなになるんだよ…。貴ちゃん! 朝だよ!」
足の踏み場も無いほど埋め尽くされた物を片付けていく。
これは桑野さんに見せられない。
「貴ちゃん、起きないと!!」
貴ちゃんの布団を剥ぐ。両親が亡くなって以降変わらない俺の日課だ。ここで一つ罪悪感。俺は直くんを起こした事がほとんどない。亡くなってすぐの時に何度か……くらい。
自分で起きてたからなぁ。ごめん、直くん。
「うーん……愛ちゃーん、チュウして〜!」
「何言ってるの! 愛ちゃんはお兄ちゃんの!」
何を寝ぼけてとんでもない事を。良かった、桑野さんがこなくて。
……お兄ちゃんの、か……。人生で初めて言ったな。
これまで、弟に譲らなかったものなんて何一つなかったのに。
人生初の譲れないもの。一生、俺だけのもの。
✽✽✽
「それでは、夕方には戻りますから」
「楽しんで来て下さいね」
「ありがとうございます。それでは行ってきますね!」
朝食も終わり、貴ちゃんも大学に行って、キヨさん達も出かけた。家には俺と桑野さんの二人きり。
「三井さん、私達も出かけましょう!」
焦った様な桑野さんに提案される。
「どこか行きたい所がありますか?」
「え!? えーっと……今日は良い天気ですから!」
「……」
…警戒されてるな。婚約者なのに。桑野さんが外に行きたい理由が分かってしまった。
「特に用事がなければ、俺と新婚さんごっこをして下さい」
「し、新婚さんごっことは……?」
「家でイチャイチャしたいです」
「――ほわっ!?」
「Whatですか?」
「違います!!」
信頼されていない。結婚まではプラトニック、俺は守っているつもりなのに。
「……先日会った木崎さんを覚えていますか?」
「はい」
「彼女は新婚さんで、旦那さんに寄り添い、趣味に付き合っているそうです」
「ほー。優しいですね」
「……優しい桑野さんにも俺の趣味に付き合って貰おうと思います」
「……三井さんの趣味って新婚さんごっこでしたか?」
「木崎さんの話を聞いて、俺は桑野さんと共通な趣味や何かをして一緒に楽しみたいと思っています」
「……それが新婚さんごっこだと?」
「そうです」
「力説されても……」
「俺と一緒は嫌ですか?」
「嫌なら一緒にいません」
「……」
「……私の羞恥を煽るような事はしないと約束して頂けますか?」
「もちろんです」
「……分かりました」
「ありがとうございます!」
やった! 契約締結だ。今日は夕方まで、桑野さんを独り占め出来る!
✽
「で、何をしたら良いですか?」
「取り敢えずソファーにでも座って下さい」
玄関からリビングに移動。桑野さんは俺を警戒しながらソファーに腰掛ける。俺もその隣に座る。
「――わっ!!」
「新婚さんごっこです」
横に座った俺に対し、警戒心からか少し背中を向けた桑野さんを後ろから抱きしめる。
「今日は一日こうして過ごします……」
桑野さんの首すじに顔を埋めて目を閉じる。俺が抱きしめているのに、包まれたような安心感がある。桑野さんと一緒にいると、俺はいつも穏やかになれる。
「……」
「好きだよ」
「ッ〜……」
「……聞こえた?」
「……ぃ」
小さな小さな〝はい〟……聞こえていたようだ。
「ふふ、可愛い……」
「……」
「ねぇ、何をされたら嬉しい?」
「……ぉ……ぃ……」
小さな小さな〝お構いなく〟。構いたいのに。
後ろの位置から見える桑野さんの耳が赤くて可愛い。
緊張して縮まっている体が愛しい。このままだと抱き潰してしまいそうだ。
「サラサラ」
「……」
桑野さんのお腹に回していた腕を一つ外し、桑野さんの髪を撫で、手に取る。つるつるとした綺麗な髪。俺とは違う、長くて柔らかい髪。
「いい匂い……」
「……」
男の俺とは違う、桑野さんの柔らかい体と柔らかい髪。桑野さんの醸し出すもの全てが柔らかい。
「ねぇ、何か話そうよ」
「……」
さっきから俺ばっかり。一人よがり感が否めない。一緒に楽しみたいのに。
「タメ口……嫌?」
「……ぃ……ぇ……」
「今は俺に付き合ってもらってるけど……、午後は何がしたい?」
「……」
「……聞こえてる?」
「……ぃ」
中々桑野さんは慣れてくれない。これだと俺がただ幸せなだけで終わってしまう。
「……嫌だった? もうやめようか?」
当初、じゃんけんで勝った場合のみハグ3秒から飛躍して、何度も何秒させて貰った。これ以上は……
「……嫌じゃない。好……き……だから……」
離そうとした手の上に桑野さんの手が重なる。
そして俯いて丸め込んだ体から聞こえてきた、小さな小さな……告白。
――駄目だ、抱き潰してしまう。
「――ヒャッ!!」
「……っは……、俺も愛してるよ」
髪の間に見えた首の後ろの骨にキスをした。そして何とか、息を吐いて自分を抑える。
「もう少しこのままでいい?」
「……」
コクンと、丸まっている首をさらに下に向けて頷く。
「ねぇ、俺のどこが好き?」
「!」
「言葉で聞きたい……」
「……〜ぅ……」
「俺は、優しい所、綺麗な所、堅実な所、健康を考えてる所、律儀な所、まだまだあるよ。キリがないほど」
体育座りで膝とおでこがくっついていた桑野さんはどんどん縮まって行く。だけど、桑野さんの片手は俺の手に重ねられたまま。
「俺も聞きたい……」
「……かっ……こ……ぃ……と……、」
〝かっこいい所〟だって。嬉しい。どこが? と聞き返すのは羞恥心を煽るに該当するかな? 精いっぱいの答えに穏やかな気持ちになる。
「……愛子って、呼んでいい?」
「………」
「貴将が〝愛ちゃん〟って言ってて羨ましいよ。俺ももっと近い距離にいきたい」
「……」
「ねぇ、……」
「……もう無理ーー!! 耐えられないー!! 甘いー! 恥ずかしいー!!」
「!!」
びっくりした……。桑野さんが震え出したと思ったら大声を叫んでソファーから転がり落ちる勢いで距離を取られた。
「……傷つきます」
「それは失礼しました」
「今度は前から行きましょう、ハグ」
「休憩を取りましょう」
結局いつもの雰囲気に戻ってしまった。
「休憩とは?」
「新婚さんごっことは、遊びになります。遊びには適所休憩を挟んで、メリハリのある生活を心がけましょう」
「休憩は何分ですか?」
「……10分。」
「分かりました、1分ですね」
「違っ!」
「どうぞ、休憩して下さい。どんどん時間が無くなりますよ」
「〜!」
休憩と言われれば仕方無い。あくまで桑野さんが嫌なことは出来ない。俺はソファーに腰掛けたままスマホを触り、自社株のチェックをする。
「桑野さん、1分経ちましたよ」
「……」
ソファーの前のリビングテーブルを挟んで縮まっていた桑野さんが恨めしそうにこちらを見る。
「ここ、来て」
「……」
俺はソファーの隣をポンポンと叩く。桑野さんはそろーり、そろーりと抜き足差し足で忍び寄る。
綺麗な見た目を裏切るこの可愛いくてお茶目な仕草を知る男は俺だけだ。一生。