第60話 桑野さんに電話をかける。今日の事、これまでの事を話す。
あれから家に帰って、全ての日課を終わらせて後はもう眠るだけだ。もちろん眠る前に桑野さんに電話をかける。
遅くなったけど、声が聞きたい。そして、聞いてもらいたい事が山ほどある。
『はい』
「……寝てました?」
『かかってくると思ってましたから』
「すみません遅くなって。……生家の父にも会って来たんです」
『――あ、そうですか!』
「褒めて下さい」
『……はい?』
「俺は今日、色んな一生の決めごとを覆してきました。ですので、褒めて下さい」
俺の子供っぽさは炸裂している。母親に褒めて貰おうとアピールする子供でしかない。
『……あー、偉い偉い。偉いですねー』
「心がこもっていませんよ」
あんまりうるさい子供に折れて適当に返事をする母親のようだ。今の桑野さんは。
〝100点! 結ちゃんは凄いね!〟
〝ご不快に思われていないようでしたら安心致しました〟
俺とお母さんのやり取りは常にこんな感じだった事を思い出した。
当時はそれが精一杯の返しだった。99点だったら、俺は廃棄処分になるかも知れないと、常に恐れていた。
だから褒められることは嬉しい事ではなく、唯一ホッと出来る瞬間なだけだった。
『……わー! 偉い偉い!! 凄いねー!!』
「ヤケになっていませんか?」
『取り敢えず、打ちひしがれて無いようで安心しました』
「いじめっ子の次男にまたバカにされました」
『は?』
「悔しかったのですが、穏便に済ませました。……告げ口です。味方になって下さい」
『まったく意味が分からないのに味方も何もないような……』
「そこは嘘でも肯定する所です」
『……こう見えても、ずっと心配していたんですよ』
心配した桑野さんの声色が、今日一日ずっと張り詰めていた俺の緊張の糸を緩ませてくれた。
「……過去を……水に流せた様な気がします……」
『そうですか。……よく頑張りましたね! 偉い!』
「……なんか上から目線でバカにされた気がします」
『褒めろって言ったの、そっちですよ!!』
「……」
それから、俺は桑野さんに今日の事、これまでの事を全て伝えた。
桑野さんは静かに聞いてくれて、相槌を打ってくれて……俺はこれまでの事を思い出してまた、沢山泣いてしまった。
それでも、桑野さんはゆっくりと聞いてくれた。
電話の向こうで、桑野さんが穏やかに微笑んでくれているのが分かって、また甘えて泣いてしまった。
『勇敢でしたね。さすがです』
情けない状態の俺を包み込むように、そう言ってくれた。
抗えないほどの圧倒的な安心感と大きな愛に包まれた感覚を産まれて初めて味わった。
「色々と複雑で、驚いていませんか?」
一通り話し終え、俺は桑野さんに尋ねる。
「それでも俺は、桑野さんが好きです。……好きです」
『……照れます』
「慣れて下さい。俺で……俺だけに、慣れて下さい」
俺の独占欲は変らない。
『言いにくい事を、私に言ってくれた事が嬉しいです』
「重いですよ。俺は」
『三井さん、ご褒美です』
俺を落ち着かせるような穏やかな桑野さんの声。
『また、近いうちに会いに行きます』
「――そうですか」
『頑張ったご褒美に頭を撫でてあげます』
「……絶対やめて下さい」
『照れなくてもいいのに』
「照れてないです」
『まぁ。可愛らしいこと!』
「絶対バカにしてます」
桑野さんとの言い合いは楽しい。言いたい事がポンポンと言える。気を遣ったり、考えたりしなくていい、Win-Winな関係だ。
楽しい。桑野さんと一緒だと、俺はいつも自然と笑ってしまう。
心から笑う事が出来る。
もう、俺は自分が何者かを模索する事はないだろう。
桑野さんの前の俺が自然で、ありのままの自分だ。
そして産まれて初めて、とても満ち足りた気持ちで眠りにつけた。
もう、眠れない夜は来ない。
そう、確信した。