第37話 お願い申し上げます。
午前中会社で仕事をして、昨日と同じ時間に病院に訪れる。
一応気を遣って、休憩中であろう時間にした。
昨日いた辺りを探す。あ、いた。
「こんにちは」
「! あ……」
背後から声をかける。案の定驚かれた。
昨日、色々と張り詰めた物が流れて行った。今日の俺は幾分冷静だ。
「昨日は早急にこちら側の主張を押し付けてしまい、申し訳ございませんでした」
大丈夫。この人をビジネスの商談相手だと思えばいい。
「DNA鑑定にご協力頂きましたのに失礼な態度を取りました事、お詫び申しあげます」
「あの……」
だけど話の主導権は渡さない。
「本日は取引では無く、お願い申し上げます」
言葉は丁寧に。これを忘れてはいけない。
「私には今の生活があります。私の過去を知る者はあまりいません」
キヨさんも俺が養子に来るまでのことは知らない。
「これから先も、それは変わりません」
会社を大きく、百年続く企業にする。そして直くんに継いでもらう。
貴ちゃんを大学まで卒業させる。
これが俺の恩返しだ。
「今回は私の我儘でそちら様にご連絡を取る形になりました」
俺の正体を知ろうとこの人の事を調べてコンタクトを取った。
「鑑定にご協力頂き、おかげで私は日本人である事に安堵致しました」
感謝の気持ちを忘れては仕事は上手くいかない。だから俺は誰にでも感謝する。
「失礼な態度を取った中での寛大なお心遣いに、改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございました」
さぁ、本題だ。
「先程も申し上げました。私は今の生活を守りたいんです」
しっかりと見つめて話す。
「そのためには、この事を隠し通したいのです」
俺を産んだ人は存在していて、こうして身近にいた。それを俺は隠したい。
「お願い申し上げます。昨日の書類にサインを頂けませんでしょうか?」
もう、二度と関わる事なく赤の他人として存在してくれるように。
「……書類には名前を書きました」
ようやく、か細く小さな声が聞こえた。聞き取れるか分からないほどの小さな声だ。
「こちらはお返し致します。私は受け取れません。それと……先日のお代と、鑑定料をお支払い致します……」
……。
「家賃もギリギリだと伺いました。うちの使用人と知り合いなら、私の経済状況は分かってらっしゃる事と思います」
見下して言ってる訳では無い。
「お金ではご納得頂けませんか?」
俺は今回のこの出来事をこれから先も隠しとおす。そのための口止め料だ。
「違います……」
震えた声が帰って来た。下を向いており、その表情は見えない。
「我が子から、お金は受け取れません……」
あーあ。言っちゃったよ。この人は。
「……貴方も、隠したいですよね?大学中退の未婚の母なんて」
「ぅ……うぅ……」
泣いてるのか?なんで?
「心配されなくても、私は言いふらしたりはしませんよ。私も隠したいですから」
母親に捨てられたなんて。
「う……ッう……」
はぁー。困ったな。完璧に泣かれてしまった。ここは病院。人も通る。
メンテナンスの制服を来た50代のガリガリの女性。
方や、自分で言うのもなんだけど、結構いい所のオーダースーツを始め、きちんとした身なりの俺。
……この状況。明らかに俺が悪者に見える。
「……すみません。ここは人の往来もあります。このような場を見られたら私の社会的立場が悪くなります。なんとか堪えて貰えませんか?」
「す、すみません……」
だからこの状況で謝罪されたら益々怪しいって!
「ずっと……ずっと……探していたんです」
何を?
「迎えに……行こうと……」
ああ。そういう事か。
「大丈夫ですよ。お心遣い感謝致します。私は今は幸せに暮らしておりますから、どうぞお気になさらないで下さい。私も書類を頂ければ、何も申すことはございません」
子供を捨てたと確定したら心情が悪いんだろう。今さら気にしなくてもいいのに。
「書類を渡して頂けませんか?あいにく仕事が立て込んでおりまして長居は出来ないんです」
やっぱり、昨日桑野さんと電話して良かった。この人を前にしても俺は今回冷静だ。小豆とかぼちゃも食べたし。
「ずっと……探していたんです……」
そう言って、書類を渡してくれた。俺は空かさず受取り、内容に不備が無いか確認する。後で弁護士に渡さないと。
「そんなに取り繕わなくても、ご事情があるのは存じ上げております。貴方を悪く言いふらそうなどと思っておりませんよ」
ここに勤めている医師に知り合いがいる。悪く言われて仕事がなくなるとでも思われているのだろう。
「それでは、お世話になりました。お元気でお過ごし下さい」
俺が日本人だと分かって良かった。俺は自分の正体を知れて良かった。
得たものは大きい。有意義だった。
さぁ、
何事も無かったように会社に戻って、
何事も無かったように仕事をして、
何事も無かったように家に帰って、
何事も無かったように日常を過ごそう。
そうしたら、今回のことは誰にもバレない。
ああ。やっぱり血が繋がっているな。
きっとこの考えは……
俺という存在を抹消したときのあの人と同じ気持ちなんだろう。