第33話 キヨさんとの会話
「坊っちゃん」
「……」
「坊っちゃん?」
「――ッ!!?」
キヨさんの手が俺に伸びてきて、俺は急に現実に戻る。
「あ、驚かせましたね。申し訳ありません」
「い、いえ、こちらこそ……」
キヨさんの手が俺に伸びてきた時、俺は恐怖を感じた。
もう、乗り越えたはずだったのに。
俺は人に触られるのが苦手だ。その手が何を示すのか。それが分からないと恐怖になる。
もう……何十年も前のことなのに。
キヨさんは俺を突き落としたり、危害を加えたりしない。
分かっているのに。今、伸びてきた手に恐怖を覚えた。
……俺は何も乗り越えていなかった。
「夕飯、出来ましたよ」
「ありがとうございます」
今日、貴ちゃんは友達の家に遊びに行っている。晩御飯もご馳走になるそうだ。
俺はダイニングに付き、座る。
「……坊っちゃん?」
「あ、すみません。いただきます」
つい、昔の習性で食べ物をジッと見つめて、匂いを嗅いでしまった。
「……何かありましたか?今日、帰ってからずっと上の空ですよ?」
「何もありませんよ」
「……そうですか」
キヨさんは深く追求しない。俺は平静を取り戻すように話題を振る。
「貴将は外出する事が多くなりましたね」
「貴将坊っちゃんも直之坊っちゃんが家におられないから、寂しいのでしょう。」
キヨさんは何事も無かったように話題に乗ってくれた。
「静かですね」
貴ちゃんがいないと、我が家は途端に静かになる。
直くんがいなくなって、貴ちゃんがいなくなって、キヨさんがいなくなって……。
俺が一人になる準備が整う。
「坊っちゃん、使用人を増やしましょう」
「そうですね。キヨさんの負担も減るでしょうし」
昔はキヨさん一人を雇うのが精一杯だった。お給料が滞納した事もあった。
今は払えるけど、これまでキヨさんは一人で頑張ってくれていた。
「以前の数ほどはいらないと思うんですよ。一番手のかかる方がおりませんから」
「……それは母の事を指してますか?」
「うふふ」
キヨさんはしれっと言う。
「主にお掃除をして下さる方がいれば、以前のようにゲストルームも整える事が出来ますし、そうなれば沢山の方にお泊りに来て頂く事が出来ます」
「そうですね」
これまでは百子さんや貴ちゃんの友達が来て、食事を振る舞うだけだった。
「庭師や料理人もいれば、このお屋敷も以前のように活気づきましょう」
「……そうですね」
キヨさんはずっと俺に気を遣っていたのか。俺が静かだと言ったから。
「良い人がいないか、探してみます」
かつての使用人は叔父さんに頼んで、別の仕事を紹介して貰った。だから、新しい人を探さないといけない。
「私のお知り合いを雇って貰うことは出来ませんか?」
「……そのような人脈があるのですか?」
キヨさんの知り合いと言って俺が知っているのはご近所の使用人の方くらいだ。
よく「使用人談義」という会を作って、羊羹を食べながら延々と話すという会が開かれている。
誰か引き抜くのはやめて欲しい。ご近所づきあいもあるのだから。
「はい。この前入院したときの同室の方とその娘さんです!」
「――ブッ…、ゴホゴホ」
味噌汁が気管に入りむせてしまった。今日の昼間を思い出す。
「……私がどなたか良い方を探して来ますから」
あの母娘は駄目だ。もしかしたら俺を産んだ人なのかも知れないんだから。
「検査結果を聞きに病院へ行った時、ちょうど退院で、職を探しているとの事でした」
「ご病気がお有りの方に働いて頂く訳には行きません」
「あの時は、階段から落ちて腰を強打したかららしいですよ?」
「……」
それで入院か。こっちは色々考えて、言葉を選んで話したのに。俺は本当に抜けている。
「聞けば、旦那様は肝臓を悪くされて入退院を繰り返されており、娘さんは就職難でパートをかけもち」
……調査結果通りじゃないか。
「家賃もギリギリだそうで、とにかく急いで働きたいそうなんです」
「それはこちら側になんの関係もありません」
「……お人好しの坊っちゃんはふたつ返事で了承されると思いましたが」
「私はそこまでお人好しではありません」
お節介と言われるけれども。
「これまで、犬や猫はおろか、人間まで拾って来ていた坊っちゃんが?」
「……変な所をつきますね」
俺はそういった類の物を見るとついお節介を働く。……昔の自分に重なるからだ。
動物は飼い主を探してあげるし、人間は仕事の斡旋をする。
うちの会社のガードマンは俺が声をかけた元浮浪者だったりする。
「坊っちゃん、人助けが趣味ではありませんか」
「そんな趣味はありません」
「使用人部屋に住んで貰えれば、家賃の心配はありません」
「我が家の使用人さんは慈善事業で雇う訳ではありません」
「ですから、お掃除をして頂くんです。お屋敷とゲストルーム」
「その都度業者に入って貰っているでしょう」
「それは大掃除です。私が申しているのは日々の掃除です」
キヨさんは引かない。
「坊っちゃんも夏の草むしりから開放されますよ?」
「……私の草むしりは趣味ということにして下さい」
「坊っちゃんの趣味は不動産投資ですよね?」
「……趣味の一つです……」
駄目だ。キヨさんはあのお母さんの話し相手が仕事だっただけある。
……圧がすごい。