第32話 俺の正体
桑野さんとの電話を切り、冷静さを取り戻した俺は、もう一度書類を見る。
俺を産んだ人は生きていた。
日本人。香川県の出身で、大学入学で京都に来た。
20歳で俺を産んで、大学は休学。それを実の父母に言わず22歳で卒業したと見せかけて退学し実家に帰った。
俺がこの世に存在していないように見せかけて。
確定的だった。俺は産まれてはいけなかった。誰からも望まれずにこの世に産まれ、その存在を持て余したのだろう。
その後、就職しなかった娘を不審に思った父が、娘が大学を中退した事を知る、と。
俺の存在はバレてないそうだ。まぁ、中退だけで衝撃が大き過ぎるよな。
その後、父親は倒れ入院。母親と共に家と土地を売り払い、消息を立つ。か。
正しい末路だな。
現在は……
俺は書類を見て驚く。
現在、〝東京在住〟……。
……運命は残酷だな。出来れば遠くにいて欲しかった。
流石、お兄さんが雇った腕の立つ探偵だ。ご丁寧に現住所と名前まで書かれている。
さて、どうするか。
そもそも、俺を産んだ人を知ろうと思ったのは桑野さんとの関係のためだ。
俺は彼女に対して誠実でありたい。
ここは腹を括ろう。先延ばしてモヤモヤと過ごすのは嫌いだ。サッとスパッと、早急に一瞬で終わらせよう。
俺は自分を産んだ人と連絡を取る。そして俺の正体を知って……
半年後、桑野さんに伝えて……
振ってもらおう。
✽✽✽
弁護士を通して、俺を産んだ人と連絡を取った。
お兄さんと会ったあの料亭を指定し、出向いてもらう事にした。
……来るかは分からないけど。
「三井様、ご無沙汰しております。いつもご贔屓にありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」
女将と話しながら部屋に通される。
「お連れ様がお見えになりました」
女将が襖を隔てて中に声をかけた。
約束の時間ジャスト。……もう来ていたのか。俺を産んだ人は。
襖が開き閉められた。
俺は正座して頭を下げているその人を見下ろす。
本来であれば、頭を上げてもらい、上座に促す。だけど、しない。そんな事を話すことすら時間が勿体無い。
――ガサッ
「ッ……!」
俺の立てた物音に恐ろしいほど身体を震わせた小柄な小さな人。
「DNA検査のキットです。ご協力願えますか?」
物音の正体は俺が机の上に置いたDNAを調べる道具だ。
この人は得体も知れないのだから。
「あっ……あの……これを……」
ようやくか細い声で話したその人は自分のカバンから何やら取り出す。それは――
母子手帳?
目の前が真っ赤に染まり、俺の頭が真っ黒に染まり上がる。
「……なんのマネや」
自分でも驚く程、地を這う様な低い声が出る。
「あ、こ、これが……」
「見たくもないわ!!」
信じられないほど、大きな声が出る。
「す! すみません!」
その人が驚き、元々下げていた頭を更に低くする。
その姿に無性に苛立ちが湧き上がる。
「……あんたさんはそうやって、床に這いつくばってるのがよう似合はる」
なんでこんな言葉が出たのか……
「恥を知ったらどうや。この疫病神が」
……思い出した。これは俺がこれまで散々言われた……
京都の屋敷で正妻が俺に使っていた言葉だ。
「おぞましい」
ずっと、言われる度に傷ついてきた。
俺はこんな人にならない。俺はお兄さんのような穏やかな人になると… …
「……あんたさんのような人間がおるから」
それなのに俺は今、一番なりたくなかった人間になってる。
「こんな人間が出来るんやろ……」
生家の屋敷の人達の顔が、フラッシュバックする。
〝申し訳ございませんでした。お許し下さい。〟
どんなに謝っても許しては貰えなかった。廊下を歩いているだけで、庭に蹴落とされた。視界に入るだけで、池に突き落とされた。存在するだけで、蔵に閉じ込められた。
恐い
こわい
コワイ……
ずっと蓋をして来た感情。乗り越えたと思っていた感情が、一気に顔を出す。
俺の父と母は助けに来ない。俺を捨てたのだから。それを理解したのはいくつの時だったか。
皆にあるものが俺には無い。……無かった。
常に死を考えて行動した。空腹は極限だった。身体はどこもかしこも痛かった。物音がする度、恐くて恐くてたまらなかった。
「……勘違いせんといておくれやす」
だけど、自ら死ぬ事はもっと恐くて、ただただ耐えた。
「私が欲しいんは、検査に必要なものだけや」
そのうち、悲しみも苦しみも分からなくなった……。
「今さら母親気取りか、みっともない」
痛みも恐怖も…日常だった。
「も、申し訳ございませんでした……」
か細い声を震わせて謝る。
「被害者面するの、やめてもらえますやろか?検査に応じんのやったら、もう用は無い。あんたは用無しや」
つくづく、生家の屋敷の面々と同じ言葉が出て、ヘドが出る。
俺は自分が大っ嫌いだ。
襖を開けて、出ていく。俺は一度も座る事なく。
俺はもう一度、俺に対して土下座をしたままのその人を冷めた目で見下ろす。
襖が開いた事に気づいたのか、その人は慌ててDNA検査のキットに手を伸ばす。
「応じてくれはるんやったら、後でポストに投函しておいておくれやす。もう二度と会う事ない」
パッと弾かれたようにその人が初めて顔を上げて俺を見た。
あ。
〝こんなにやせ細って、旦那や子供はいないのか〟
……最悪。