第三十五話 伯爵領の悪魔 その18
カズヨシは間一髪のところで体をひねり、カリーナの正拳を鎧にかすめるにとどめた。
そのまま横に転がり、体制を立て直す。その際、鎧のかすめた部分は黒く腐敗し、瞬く間に横っ腹の部分がぽっかりと丸見えになる。
もしも鎧を着こんでいなかったら。そう考えると血の気がさっと引いていく。
しかし、それもつかの間、カリーネは空に水平に手刀を走らせる。すると、手刀の通った部分に黒い残滓が漂う。
カズヨシがそれが何なのかを瞬時に理解した時、それは鋭い針のように形状を変え、カズヨシを襲いにかかった。
当たれば即死。刀であれば受け止めることはたやすいが、刀も同時に折れる。
技の派手さはハインリッヒに軍配が上がるが、派手であれば強いというわけではない。地味ではあるが、実質、近接戦一択のカズヨシにはここまで厄介な敵はいないとしみじみ思うのであった。
左右前後、蜘手に動き回り、腐敗の針を潜り抜けるもカリーナは余裕の表情でカズヨシの目の前に現れる。
「⁉」
気づいたときには鋭い膝蹴りが腐敗した鎧の部分からカズヨシのあばらを砕いていた。そして勢いよく横へ吹き飛ぶ。
声にならない声を唾液とともに掃き出し、悶絶しながらカズヨシは絶句する。
“腐敗“の魔法がかかっているのはカリーネの拳のみであり、膝蹴りではカズヨシの体が腐ることはない。
しかし、それはある意味、カズヨシにとっては最悪を招くことになる。
吹き飛ばされたカズヨシに嗜虐的な笑みを浮かべながら歩み寄るカリーナ。それはつまるところ、楽しんでいるのだ。
手も足も出ないカズヨシをいたぶることに快感を覚えているのだ。
「どうした? これで終わりか?」
そう言ってカリーナは兜の上から頭にゆっくりと体重をかける。
「あああぁぁぁぁぁぁぁッ‼」
頭蓋骨の歪む異様な痛みに叫び声をあげるも、それはより一層、カリーナを喜ばせた。
「さて、そろそろ死ね」
カリーネはそう告げると、黒い“腐敗“のモヤがかかった右手をカズヨシにするりと近づけた。
これで終わり。そう覚悟したその時、はるか前方から何かが風を切る音が絶え間なく近づいてきていた。その音に一瞬カリーネは気をとられ、音の方向を見上げる。
そこから何が起こったのかはカズヨシにはわからなかった。ただ、次の瞬間には頭にのしかかっていたカリーネの足は力を失い、ばたりと鈍い音がするとともにそれはカズヨシの上からなくなっていた。
わけもわからず起き上がり、周囲を見渡す。
「し、師匠!?」
そこにはキツネの面とくたびれた服を着た、中年の男、ユウサイがただならぬ風格を漂わせ、どっしりと地面に足を据えていた。
また、カリーネは正中線を通って真っ二つにされ、死亡時のままの表情を何一つ変えることなく地に付していた。
「カズヨシ、この場から離れろ」
いつもどこかおどけた態度をとるユウサイであったが、この時はまるで違っていた。剣豪としての風格を垂れ流すように鞘に納められた刀に手を添え、面の下の表情は見えずとも伝わるほどに逼迫していた。
「見事だ。三百年以上生きてきたが、貴様ほどの剣士と相まみえるのはこれが初めてだ」
どこからともなく、低く透き通った男の声が周囲に響く。その声に反応するようにカズヨシは空を見上げると、そこには漆黒の癖の強いカールのかかった長髪、筋骨隆々の鍛え上げられた肉体、触れるだけで命を奪われるほどの鋭い牙と爪。それらを兼ね備えた瞳のない長身の男が月を背に浮遊していた。
刹那、その場にいるユウサイ以外のすべての人間が絶句する。
それは生物としての本能のようなもので、頭で考えるよりも先に、体が危険信号を発していた。
圧倒的な恐怖。アレを敵にしてはならない。心の中で言葉にするよりも先に全身がそう悟っていた。
「あれはいったい……」
目を疑うようなその存在を前にカズヨシは思わず口を開いていしまう。
「“あれ“とは失礼な奴だ。だがまあいい。なかなかに我は今、気分がいい。我が名は魔将、ノヴァ・カルメン。ゆくゆくはこの地を統べる王となるものだ」
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