第三話 偽りの平穏と幸せな日々は
仁美が『小説を書きたい!』にユーザー登録しているのを知ったのは、二年前だった。
別に覗き見したわけじゃなく、彼女の方から打ち明けられたのだ。
「最近ね、インターネットで小説を書くサイトがあるのよ。面白そうだから、私もやってみようと思って」と聞かされた時は、単純に驚いた。
まさか僕と趣味がかぶるとは思っていなかったから。
もしあの時素直に「ああ、偶然だね。僕もやっているんだ」と答えられたら、今頃違ったのかもしれない。
だけど、何となく言いそびれた。
ちょっと内向的な趣味だなと思っていたから、恥ずかしかったのかもしれない。
最初は単純に投稿出来るというだけで、嬉しかったようだ。
「すごいすごい、投稿したらアクセス数が増えるのよ!」と無邪気に喜ぶ仁美は微笑ましく、僕も「そっかー、そんなに楽しいのか」とにこにこ笑いながら対応出来た。
だけど、その幸せな時期は長くは続かなかった。
何作品か投稿している内に、仁美は徐々に『書きたい!』にのめり込んでいった。
"一ノ瀬みれい"というペンネームは、彼女の一部となっているようだった。
「あのね、一日に三回、ランキング更新される時間帯があるのよ。そのランキング更新の瞬間が、一番ドキドキするの。一回も載ったことないけど、それでもね」
パチンコにはまるよりはましだと、黙って頷くしかない。
「私が書くものって恋愛ものなんだけど、悪役令嬢、婚約破棄、乙女ゲームの三つの要素があるとスゴく読まれるのよ。むしろこれがないと、お話にならないくらい。だから私も積極的に取り入れようと思って」
それは本当に君が書きたい話なのか、と喉元まで出かけた。
だけどカードローンされるよりはましだと、黙って頷くしかない。
「やっぱりポイントが高くないと、良い作品という証明にならないのよね。書籍化している作品なんて、大抵が数万ポイントだし。私も少しでも高ポイント目指そう」
小説を点数換算することにどの程度意味があるのだろう。
だけど浮気されるよりはましだと思って、黙って頷くしかない。
静かに、だが確実に、仁美は『小説を書きたい!』の深みにはまっていった。
家事を放り出したり、僕を放置することはない。
だけど、暇さえあれば執筆したりプロットを練っている。
その努力にもかかわらず、仁美の作品は人気作品と言われるレベルには程遠かった。
「ねえ、小説を書くことって楽しい?」
ある日、僕は思いきって聞いてみた。執筆用のノートパソコンから顔を上げて、仁美はこちらを見る。
「楽しいよ? 自分だけの力で、好きなように世界を構築出来るもの。それに読む人が反応してくれたら、共有の喜びがあるよね」
「そうか、なるほど。でもそれなら、必ずしも高いポイントでなくてもいいんじゃないかなと思うんだけどな」
「うん、けどね。やっぱりどうせ書くなら、高く評価して欲しいじゃない? これが承認欲求だと分かっていても、自分の作品には高い点数をつけてもらいたい。他の人に勝ちたいと思っちゃうんだ」
そう答えながら、仁美は目を伏せる。
次にその唇からこぼれた言葉に、僕は背筋が凍る思いだった。
「――だからね、高いポイントつけてもらってる作者さんや、書籍化してる作者さんが凄く羨ましくって妬ましいの。皆に愛されていて、いいなって」
普段よりその声は低かった。
同じ趣味を共有している夫婦はたくさんいる。
それはきっと素晴らしいことだと思う。
だけど、僕と仁美の場合は無理だろう。
"司まお"と"一ノ瀬みれい"の間には、誰が見ても明らかな差があった。
書籍化という目に見える形での差は、今の仁美が、いや、一ノ瀬みれいが直視するには大きすぎる。
書籍化という夢、目標、あるいは妄想を語る時、仁美の目は純粋であると同時に危うかった。
この視線が僕に向いたらと思うと、平静ではいられなかった。
隠そう。隠し通そう。そう、それが一番だ。
城木聖司と城木仁美は幸せな夫婦であって、それ以上でも以下でもない。
書籍化作家の司まおが僕だと知られてはならない。
ましてや仁美のあの一言を聞いた後では。
「ねえ、聖司さん。私って文章書く才能ないのかな」
ある日、仁美がそう呟いた。
僕はその悲しそうな響きに、ふと嫌な予感がした。
「なんで? 好きで続けてるってだけで、才能あると思うよ」
「うん。でもね、いくら書いても私の作品、ブクマ100にも達しないんだ。累計一位の作品なんて30万ポイント以上あるのにね。気にしちゃいけないと思ってはいるんだけど」
「あのさ、君は別にプロの小説家じゃないんだ。書くことで食べているわけじゃない、趣味なんだろ。そんなに思い詰めることないよ」
本心からの言葉だった、と思う。
だけど、その一方でチクリ、と心に刺さるものがあった。
「私、底辺なんだよね。この『書きたい!』の世界では。テンプレ意識しても、元の文章がレベル低すぎてお話にならないなんて」
「そんな言い方、良くないよ。僕は一生懸命書いている君が好きだよ」
僕の慰めは、きっと陳腐で安っぽいものでしかなかったんだろう。
仁美は何も言わず、僕に抱きつくしかしなかったのだから。
僕には彼女の顔は分からなかった。
あの時彼女の顔を見ることが出来たなら......いや、今考えても仕方ない。
† † †
僕は自分が司まおである証拠は、徹底的に撲滅してきた。
打ち合わせは、仕事帰りの平日にしかしない。
土日に留守にしなければ大丈夫という読みがあった。
自分の本のサンプルは、編集の植草さんから手渡しで貰っている。
自宅に郵送されれば、間違って開封される恐れがあるから。
執筆や植草さんとのメールのやり取りは、通勤時にスマホで済ませている。
これならば仁美に見られる恐れはない。
だから、何故こんなことになったのかと、僕は狼狽えるしかなかった。
不注意にも程があるだろ、城木聖司。
目に入るのは、持ち上げられた僕のジャケット。
そのポケットから覗く白い手紙。
「聖司さん、これ、どういうこと? ねえ、これってファンレターよね?」
視線を動かす。
手紙を指差す白く細い指が、指から続く華奢な手が、アイボリーのカットソーに包まれた腕が見えた。
"ああ、確かあのカットソーは仁美のお気に入りだったな"
脈絡もなく思い出した。
その思考は、耳に飛び込んできた声に破壊される。
「司まお先生って書いてあるよね。これ、あの『転生ニートの快適過ぎる魔王ライフ ~力も金も女も全てウハウハです~』の司まお先生宛てへのファンレターよね。なんで、聖司さんがこんなもの持っているの」
仁美の声は鋭く、どす黒かった。
その目は鈍く、どんよりと濁っていた。
ダメだと悟った。
ごまかすことは出来ないと覚悟した。
「......それは僕が司まおだからだよ」
そう答えるしかないじゃないか。