あの日の出来事
こんな所在なげな千尋様なんて嘘みたい。
ええと、ええと、婚約解消っていうか許嫁を解かれた時、千尋様どう言っていたっけ?
遠くなりかけてた記憶を必死で思い出す。
あの時千尋様は、怒っていた。少なくとも私にはそう見えた。
「もう良い、そのように怯えていては私の伴侶は務まるまい。本日限りで任を解く、好きに生きるが良い」
私の目の前に佇む千尋様は、諦めたような呆れたような顔をしてそう言い放つ。
常軌を逸した妖力を持つ妖狐一族の次代の長、千尋様が怖くて怖くて仕方ない私個人としては願ってもない宣言だったけど、立場的にはもちろんそうとは言えないわけで。
ガクガクと震える脚を叱咤しながらその時私は一歩、前へと踏み出した。
「ですが千尋様、それでは純血を尊ぶ一族の者が悲しみます……」
「生まれたての子鹿のごとくプルプルプルプルと震えているくせに、説得力がなかろう」
ごもっともです。
そもそも由緒正しき妖狐族も年月を経るうちに数が減り、若い世代は私と千尋様だけという由々しき事態なのが問題なんだもの。
しかも純血を尊ぶおかたい考えの老狐が多いもんだから、私達は否応なく生まれた時から許嫁として育てられてきたのだ。
ただ。
千尋様の妖力の凄まじさに、私は会う度に震えが止まらないわけで。当然その深刻極まりない場面ですらも全力で震えていた。
「そのように怖がられては私とて傷つく。あの者くらい鈍感で、傍若無人で猪突猛進な者の方が、私の伴侶には相応しいのかも知れぬ」
「え……あの、まさかそれ……」
「絢香だ」
やっぱり、とそう思った。
儚げで繊細な容姿、優しいけれどでも芯は強い……ゲームではそういう設定だった絢香さん。
現状かなりイメージは違うけど、大財閥の子息だろうが千尋様の様に尋常じゃない妖力を保持していようが一切構わずズバズバと言葉を発する。
ある意味、私の対極にあるような人だから。
「ご自身の考えをハッキリと仰る絢香さんなら……一族の者にも怯まずに、接することができるのでしょうね」
「一族の者など、どうとでも。父上以外に俺ほど強い妖気を持つ者なぞおらぬからな、黙らせるまでよ」
確か、そんなやり取りだった。
なるほど、確かに絢香さんを伴侶にするとは仰ったけど、好きだとは明言していないし冷静に聞くと褒めてはいないかも。
遠い目で過去に思いを馳せていたら、千尋様からジト目で睨まれていた。
「あの絢香という男、女のようなナリをして優秀な男共を侍らせ手玉にとっておるくせに、時々真白にか弱いフリをして泣きついたり抱きついたりしておっただろう。ずっと目障りだったのだ」
な、なんと、そんな事もご存知でしたか……!