2 白猫
なんだあれ……。
演劇部かなにかの仮装だろうか。
などと思ったが、直感が違うと警告している。それを証明するように、猫は少女にとびかかり、鋭い爪を少女に突き立てようとする。少女は身をこわばらせ倒れる。
それきり、窓から姿は見えなくなった。
あれは仮装ではない。
ああいう生物なのだ。おそらく。
一瞬呆然としてしまったが、周囲には女の子と猫の化け物しかいないのを見てとって、俺は駆けだした。
「加納は先帰ってて」
さすがに友達は巻き込めない。あれが何なのかわからないが、とにかく助けに行かなければ。間に合うかどうかはわからないが。
間に合うかどうか以前に、俺が行くことでどうにかなるだろうか。
いや、でも。
「お? 何? どうしたんだよ」
「ちょっと忘れ物した」
「?」
俺以外の誰も気づいていない。
特別教室棟は棟内の教室を使う部活も少なく、放課後はほとんど人気がなくなる。放っておけば、誰も気づかずに終わってしまう。
だから俺が行って、俺がどうにかせねば。
駆け出し、土足のまま学校へ入り、階段を上る。
どうにか対処する。
根拠はない。
けれど、俺ならばどうにかできる。そんな気がするのだ。
なぜか自信だけはある。
「って、それだめなパターンじゃないか?」
息を切らしながら現場へ到着すると、俺は重なり合う二つの影に向けて突進した。
猫の化け物が少女を押し倒し逃げられないように押さえつけたうえで、今まさにその喉元を掻っ切ろうとしていたところだったからだ。
間に合った――が、間に合わない!
俺は持っていたカバンを猫の化け物に向けて思いっきり投げつける。
しかし俺は運動神経はあまりよくないし、何かを投げる系のスポーツに長じているわけではない。投げつけたカバンは猫には当たらず、すぐ横にぼすんと間抜けな音を立てて落ちた。
当たりはしなかったが、注意は引けた。猫の化け物はこちらに気付き、一瞬動きを止める。それだけで十分だ。
俺は猫の化け物へ詰め寄って、猫の腹部へ思いっきり蹴りを入れる。
まるで砂袋でも蹴ったかのような重い感触。猫の化け物は反射的に飛び退くが、俺の蹴りなどほとんど効いていない。むしろ俺の足が痛くなった。
「平気?」
威嚇して今にも飛びかかってきそうな猫から目を離さず、倒れている少女に問う。
俺は平気ではない。なぜなら、かなりテンパっている。心に余裕がない。こういうときは絶対に口が悪くなる。しゃべると文句ばかり出るから、俺は極力口数を少なくするように努める。
「だ、大丈夫です……」
少女を背にしているから、少女自身は今確認できないが、そのへんに散乱しているものでだいたいの状況はわかる。
床には破れた服の布切れが落ちていて、血らしい赤い液体も滴っている。
やっぱりあかんやつだったんだ。俺はさっと血の気が引けた。
カバンを拾って防御の用意をするが、猫の化け物はとびかからない。
空気が緊迫する中、猫の化け物はこちらを睥睨したまま、すっとその場から消えてなくなった。
「……え?」
どういうことだ? いきなり消えるなんてことあるのだろうか。
むしろ消えてなくなってくれればよほど助かるわけだが――
「あの猫、透明になる能力を、持って……」
かすれるような小さい声で、少女は助言する。
何かが駆ける足音だけが聞こえる。
「――――!」
狙いは俺と少女どちらかか、それとも両方か。俺はどうするか迷って動けない。
そのときだった。
近くの床からナイフが生えたのだ。いつの間に学校は床から凶器飛び出すビックリ忍者ハウスになっていたんだと思ったがたぶん違う。
透明化した猫がそのナイフに突き刺さったらしい。「ギャッ!」猫の鳴き声のようなものが聞こえた。
同時に、少女が俺の手を引いて走りだす。
少女は、この学園の高等部の制服を着ていた。サイズが合っていないのかやけにブカブカではあったのだが。
同じ高等部って本当か? 小柄で幼い顔をしているから年下だと思ったが、同い年だろうか。全くそうは見えない。
黒い髪を肩の上あたりで切っていて、そこからうかがえる表情は苦しげだ。
でもどうしても年下のように見えるので、彼女のことは便宜的に少女という呼び方にしておく。
「あなた……あなたも『参照者』、なんですか?」
そして少女は思わせぶりなセリフを漏らす。
「は?」
意味をわかりかねて、俺はちょっと語気を強めてしまった。かなり威圧している感が満載だ。落ち着け、俺。
少女のほうを見ると、服は破れ、白い肌がところどころ露わになっていた。側面は大きく破れていて、細い腕と小さな脇に加え、下着もちらりと覗いている。白いスポーツブラみたいなので色気を考えたら物足りないが、見えているという事実が――っていや違う。
俺は赤くなる顔をぶんぶん降る。腕だ。腕にひっかき傷がある。猫の化け物にやられたのだ。
「あ、えと、なんでもないです」
少女はごまかすように言ってから、
「すいません、巻き込んでしまって」
「ふん、まったくだな」
俺は顔が紅潮したままで偉そうなことを言ってから、「あ、いや」焦って取り繕う。
「それより怪我。保健室にでも行った方がいい」
「これは、大丈夫です」
おそらく猫の化け物は、あの悲鳴の後動いていない。追ってこないことを見てとって、俺たちはその場に立ち止った。
「大丈夫って、血が出てるじゃないか」
「すぐに止まります」
「んなわけ――」
言いかけて、絶句した。少女のむき出しになった腕は、確かに血が止まり、傷もすでにふさがっていたのだ。
「どういうことだ」
さっきのナイフといい、傷がすぐに治る現象といい、あの猫の化け物といい……俺の知らないことが立て続けに起こっている。
「……そういう存在なんです。私たちは」
少女は弱気に目を伏せて笑った。
「だから、大丈夫です」
と、なんのことはないように言う。
「説明がほしい。さっきから理解できないことが起こりすぎている。その傷の治りも、なぜか床から生えたナイフも、きみの言っていたトレーサーとやらが関係しているのか?」
苛立ちながら言う。
まずい。自分を抑えきれない。もうこの少女を罵倒したくて仕方がない。
「その前にこの現状をどうにかしないと、いけません」
少女は眉根を寄せて言う。
「現状って、あの猫は追ってこないだろ」
「一体は、足止めできたと思います」
追ってこないからな。
「足をずっと狙って攻撃してましたし、さっきのナイフもたぶん足に当たったので」
「あのナイフは君の仕業か。でもこれで安心ってことじゃないのか?」
「……いえ、その、そうとも言い切れなくて」
「まさか」
何か、廊下を猛スピードで駆けてくる軽快な音が聞こえる。まるで猫が走っているみたいな、そんな獣の足音だ。それがだんだん大きくなっていく。
見えない何かは、俺たちに確実に近づいてきている。
「二匹目が来ると思います」
「もう来てるって! 聞こえないのかよ、とんだ節穴だな! あとで耳掃除でもしてやろうか? 爪の長いほうの親指で!」
そしてつい怒鳴ってしまった。
ごめん名も知らぬ少女。