第四話
夕食の時に洋子の母が口を開いた。
「そろそろ学校行ったら」
政人は初めて彼女が洋子に話しかけたのを聞いたような気がした。いただきますとかごちそうさまとか唱えることはあったが、食卓で洋子に話しかけたところを今まで見たことはなかった。洋子の肩が強ばって上がった。
「このままずっと学校に行かないってわけにはいかないでしょ。そろそろ勇気を出して行ってみてもいいんじゃない」
洋子は何も聞こえていない風に食事を続けている。肩以外は慎重にいつも通りを演じていた。食べ終わるとそっと歩き出した。
洗面所に行くと洋子は大きな声で、
「死ね」と言った。
「声大き過ぎ」
政人は思わず小声で咎めた。溜め込んだものを吐き出したのはわかるが、リビングまで聞こえそうな声であった。しかし一度出してしまったものはどうにもできない。洋子は服を脱ぐと乱暴に洗濯機の前に叩き付けた。Tシャツは洋子の怒りをくまずに、ぱす、という軽い音を立てた。
翌朝政人はリビングの方からいつもと違って騒々しい声がするのを聞いていた。そして目が覚めた洋子と一緒に部屋を出て、洋子の母が自殺したことを洋子の父から知らされた。母さんが死んだ、と父から言われた洋子は、
「そう」とだけ言った。洋子の眉が寄っていた。横たえられている母を見て首つり自殺であったことを知った。
二日後の葬儀には洋子の母方の祖父母と叔父が訪れた。三人の顔には怒りのようなものが見て取れた。葬儀のしめやかな空気に同調するための表情とは少し違っているのを政人は感じた。政人は自分の姿が見えないことをいいことに色々な所に視線をやっていた。洋子の母が亡くなった日から幽霊を探しているのだった。しかしどこにもいない。既に天国に行ったのかもしれない。
遺体を焼いている間控室で待つことになったが、洋子は珍しく食事に手を付けずすぐに控室から出た。
「おじいちゃんとおばあちゃんと会ったの、今日が初めて」と洋子は小さな声で政人に言った。
「そうなんだ」
「お父さんの方のおじいちゃんおばあちゃんにも会ったことない。あ、あと叔父さんと会うのも初めてだった。政人はどうだった?」
「おじいちゃんおばあちゃんの家にはよく行ったよ。お小遣いもらえるのが嬉しくて、嬉しいあまり行きたいって親にわがまま言ったくらいだ」
「へえ」
「叔父さん叔母さんと会ったことはないな。いるのかいないのかもわからない。とりあえず俺の葬式には来てなかった」
「そうなんだ」
政人の葬式には洋子も来ていなかった。その時はまだ政人の死を知らなかったのである。もし来ていたら洋子は泣いただろうか、と政人は思った。死んだから泣くというのは単純過ぎる感じもあったが、好きな人が自分の葬式で泣いてくれたら嬉しいし、キスを求められればほっとする。そういうものだと政人は思った。
洋子はもう政人と話す気がないのか、口を真一文字に結んでいる。今日はずっとそうして黙っていた。きっと自分のことを責めているのだろうと政人は思った。死ねと言った次の日に死なれたのだ。そのことで頭がいっぱいになって、人と話そうという気にはならないだろう。政人は自分の祖父母のことを考えた。そして今日になるまで祖父母の顔を知らなかったことが、洋子にとってどのような苦しみなのか考えようとした。
洋子は泣かなかった。家に帰ってきて自室の椅子に座り天井を眺めていた。政人は心配してベッドの上で洋子から目を離さないようにしている。やがて洋子が、
「これも奇跡なのかな」と言った。呆然としているような表情であったが目は光っていた。
「こんなの奇跡とは言わない。偶然だ」
「なんて言うかさ、信じられないんだよね」
洋子の表情が険しくなる。沈思の痕跡のように眉間にしわが寄った。
「死ねって言われて死ぬ人じゃないと思ってた。それどころか、どんなことがあっても自殺しないと思ってたのに。だからやっぱりこれは奇跡なんじゃないのかな」
「奇跡ってそういうものじゃないだろ」
眉間のしわをそのままに洋子は政人の言葉と向き合っていた。三十秒ほど経って、醜い部分を晒す決心ができた。
「あのね、正直に告白するとね、ちょっとほっとしてるんだ。お母さん死んで」と洋子は言った。隠したい一面を話すにはまだ勇気が足りなかったのか、少し声がかすれた。「親だけど嫌いな人でもあったから、そういう人がいなくなるのはほっとする」
政人は洋子の顔を見つめていた。洋子には政人が自分よりも悲しそうな顔をしているように見えた。政人の眉間にもしわが寄っていた。
「どうせ生きてても私の気持ちなんて知ろうとしてくれないし」
「そうなの?」
「本人としては気にしてるつもりだったんだろうね。腐っても親だから。でも頭ごなしに否定してたら、知る気がないのと一緒だよ」
洋子はよく喋った。誕生日プレゼントに新しく出たばかりのゲーム機を買ってもらおうとしたら高いから駄目だと言われたことなどを政人に話した。政人に母の話をしたのは今日が初めてであった。おそらく次の機会はないのだろうと政人は思った。話し切ることで決別するつもりなのが伝わってきた。洋子は時系列を無視して思い出すままに話していた。修学旅行で買ってきた土産の菓子をゴミ箱に捨てられ、それから数週間しつこく土産について文句を言ってきた話をする。その後に小学生の時に玄関のドアを開けてもらえなくて家に入れなかったことを話す。酷い親だった、と洋子は何度も言った。政人は、そうだったんだ、という相槌を打ち過ぎて、それ以外の言葉が自分の中にないことを恨んだ。
「こんなはずじゃなかった」と洋子は呟いた。呟いてから、どういうはずだったのだろう、と不思議に思った。母が全く同じことを何度か言っていたような気もする。しかしどういう場面で言っていたのかは思い出せない。母の言葉がうつったのだと思うと気持ちが悪くなった。