第三話
洋子は五時頃に目を覚ます。
「おはよう」と彼女が言って、政人はそのことに気付く。
「今何時?」
「さあ」
「五時だって。もうちょっと寝る」
「おやすみ」
洋子は倒れるように枕に頭を落とす。政人も夢の続きに戻る。洋子が起きるのは両親が家を出てからだ。寝ることで嫌いな親を回避できるのだった。
洋子が二度寝から起きたのは両親が家から出て数時間経った十時過ぎであった。リビングのテーブルには朝食が置いてある。トーストと目玉焼きとヨーグルトと紅茶。皿にはラップがかけてある。ラップを取る前に洋子は紅茶を飲む。
「目覚ましかけた方がいいのかなあ」
カップのヨーグルトの蓋を剥がしながら言う。そして蓋の裏に付着しているヨーグルトをスプーンですくう。
「早起きした方がいいと思うんだよね」
「そりゃまたどうして」
「だって来年高校生だよ。このままだと毎日遅刻じゃん」
「ああ、そうか」
「高校には行こうと思って。というか、今更中学に行くより、高校に行くのをきっかけにした方が気楽だからね。それ見逃したらもう学校行かないんじゃないかなって気がする」
スプーンは小さいので、洋子は忙しなくスプーンを動かしていた。そのために、親と一緒の時よりいくらかゆっくり食べているはずなのだが、急いでいるように見えた。
「高校はどこ行くんだ?勉強教えるぞ」
洋子は、ううん、と唸って考えていることをアピールすると、ヨーグルトを食べることに専念した。洋子はヨーグルトを食べ終えてから口を開く。
「どこがいいんだろうね。どこでもいいんだけど」
トーストと目玉焼きの皿のラップを外し、トーストを口に運ぼうとしたところで、
「そうだ。政人がいればカンニングし放題じゃん」と洋子は言う。
「駄目だろそれは」
「駄目だよね。でもテスト嫌だなあ。そもそも勉強したいわけじゃないし。やっぱ学校行かない方がいいのかも」
政人は学校行こうよと強く言うことができなかった。説得して学校に行かせた方がいいのはわかるが、それよりも洋子に邪魔者扱いされたくないという気持ちの方がずっと大きかった。それに洋子が学校に行けば新しい男に出会う。
「学校行った方がいいっていうのはわかるんだけどさ、でも私の中でどうして学校に行くのかっていう目的みたいなものが全然ないんだよね。学校って面倒なだけ」
「うん。よくわかる。その気持ち」
胸を張って学校に行かないことを選べる理由が見当たらないのである。それ以上二人は何も言うべきことが見つからなかった。
土曜日、外に出ることになった。古本屋で安い本を買うついでに近くにあるデパートをぶらつく。洋子はいつものTシャツといつものパーカーを着ていた。
洋子は衣類を見る。しかし買うつもりはないようであった。手に取り広げて見ては畳んで戻すということを機械的に行っていた。休日だからか人が多く、カップルらしき若い男女も散見された。死んでいると欲しい物がないので政人は周囲にいる人間を見ていた。腕を組んで歩いているカップルがいる。中年の夫婦と思われる二人がいる。子供はもう親離れしたのかもしれない。
「カップル多いな」
政人がそう言うと、洋子はきょろりきょろりと周囲を見て小さく頷いた。話すと周りからは独り言を言っているように見えてしまうので洋子は声を出さない。
三人で歩いている少女たちとすれ違う。洋子と歳は大して離れていなそうであった。三人揃ってパーカーを着ていた。それぞれ色が異なっていたが、グループの繋がりを思わせた。学校に行けば洋子もパーカーグループの一員になったり、周りと同じ服を買うようになったりするのかもしれない。それがきっと健全な生き方というものなのだと政人は思った。少なくとも死人と一緒にいることは周りから見て好ましいものではないはずだ。
「俺たちの奇跡はいつまで続くのかな」
洋子は前を向いたまま目を見開いた。別れを意識させるために言ったのだが、政人は奇跡がいつまでも続くだろうと思っていた。どうやら洋子は自分を捨てる気がないようだから、この奇跡は洋子が死ぬまで続くはずであった。