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第一話

 死んだ人のことは忘れなくてはならない、と前田洋子は思った。小学生の時に父方の祖母が死去したが、葬式の翌々日にはもう祖母の死は意識の中になかった。それなのに恋人の内藤政人のことは頭から離れない。理由は明白だった。内藤政人の霊が部屋に住みついているからだ。政人は交通事故で死んだその日のうちに洋子の部屋に来た。以来洋子の傍にずっといる。幽霊は洋子にしか見えないらしい。そして洋子はなぜか政人の幽霊に触れることもできるのだった。

「お茶行ってくる」

 洋子は政人の霊に告げてから自室を出る。キッチンに行って、二リットルのペットボトルの緑茶をコップに注ぐ。

「ただいま」

「おかえり」

 政人はベッドの上に座っている。そこが政人の位置であった。洋子は勉強机の椅子に座る。緑茶を口に含む。政人の方を見ると、政人は洋子の方を見ていて、目が合った。

「飲む?」

 飲めない、と返ってくるのはわかっていたが洋子は念のために聞いた。死人は喉が渇かないらしい。もっとも渇いたところでコップの中の緑茶を飲むことはできないようであった。案の定政人は、

「いや、飲めないから」と言った。

「飲みたそうだったよ」

「長いこと何も口に入れてないからな。飲んだり食べたりしたくなるんだよ」

 政人はそう言って横になる。飲んだり食べたりできる洋子が羨ましいと政人は思った。洋子はコップに口を付け緑茶を飲み、コップを机に置く。誰もがする当たり前の動作であった。しかし政人はそのコップに触れることができない。自分は死人で、洋子とは住むべき所が異なるのだということを政人は知っていた。

 政人は天国らしきものを見たことがあった。死んですぐのことだった。上空へ続く虹のようにぼんやりとした階段があり、その向こうに大きな建築物が見えたのであった。今はもう見えない。すっかり渇いてしまったからだと政人は思った。死んだばかりの頃はまだ生命力があったというか、生き返ることも可能であると思えるような瑞々しさが体の内にあった。それが失われてしまったために天国に行くことができないでいる。

 洋子は本を読み始めた。読書が趣味なのである。一度読み始めると一時間や二時間夢中になっていることも珍しくなく、その間政人は暇であった。こういう時に、天国へ行けたら、と思うのであった。しかしその欲求が一時的なものであることもわかっているから、政人は横になって、洋子が読書を終えるまで大人しく待つ。読んでいる間洋子はほとんど動かない。めくったページを押さえるために指が僅かに動く。読んでいるうちに前傾姿勢になって時折思い出したように背筋を伸ばす。まるでオートマタになったかのように似た動作を繰り返す。


 小説を一冊読み終えるのに数時間かかる。その数時間のうちに小説の中では何日も経過する。そのため小説を初めから終わりまで一気に読んで、それから現実の時間に意識を向けると非常に濃密な時間を過ごしたような気になる。時には一日も経過していないことが不思議に感じられる。その感覚を洋子は気に入っていて、濃密な時間によって酩酊するために本を読んでいるのであった。

 洋子は小説の中で一年過ごし、幽霊のいる部屋に戻ってきた。時計を見ると、読み始めてから三時間ほどしか経っていない。日付が変わるどころか、まだ日も落ちていなかった。昼飯時であった。

「ご飯食べよう」

 そう言って洋子が部屋から出る。政人は彼女の後に付いていく。洋子の両親は共働きなので昼間は洋子しか家にいない。洋子は中学三年生であったが一年半ほど登校していなかった。

 洋子は冷凍食品のチャーハンを電子レンジで解凍して食べた。昼食はそのチャーハンとペットボトルの緑茶だけだった。政人は、洋子が食べている姿をなるべく見ないようにしていた。政人は料理が得意だった。死んでからは料理を振る舞うことができなくなったのだが、そのことが彼には辛かった。それにじっと見ていると嫌みに思われるかもしれないので目を逸らすしかないのだった。

 洋子は食べ物に釣られるタイプだったので簡単に喜ばすことができた。大学生であった政人が中学生の少女と付き合うようになったのは餌付けの成果と言える。

 洋子は学校に行かなくなったが、引きこもることはなかった。気が向けば昼夜問わず町をうろついた。そういう時はいつも決まって水色のパーカーを羽織っていた。最初はファミレスでおごって、何度か会ったところで部屋に招いた。それから洋子は政人の部屋に居着くようになって、家にも帰りたがらなかったので同棲に近い状態になっていた。洋子はパーカーの下には英語の文章がプリントされたTシャツを着ていた。数種類あったが、よく着ていた物の文章は辞書を引いても載っていないようなでたらめな単語で構成されていた。

 洋子は家の中にいる時にはドット柄のパジャマを着ていた。チャーハンを食べ終えるとすぐに自室に戻る。リビングは彼女にとって食事をするためだけにある場所であった。自室に戻ると別の本を読み始めた。政人はまたベッドの上で横になっている。一人で勝手にうろつくこともできるのだが、政人は洋子の傍から離れずにいる。

 もしかしたら小さい子供の幽霊は母親の後ろをずっと付いていくのかもしれない。それこそまさに背後霊だ。そんなことを考えながら政人は待機する。自分以外の幽霊に遭遇したことはなかった。幽霊にも幽霊は見えないのかもしれない。それとも幽霊は大抵きちんと天国に行けるのかもしれない。やはり天国に行けなかったのはまずかったのではないか。自分だけがこの世にいると思うと不安になった。道を外れるということは明かりのない場所に行くということなのだと政人は思った。生きているうちには考えもしなかったことだ。


 本を読んでばかりいるせいか、自分自身の存在を忘れてしまう瞬間が洋子にはあった。まるで人間ではない、一台のカメラのような物になって、小説の世界や現実の世界を遠くから眺めているような気分になるのである。そういった時自分の人生がとても他人事に感じられる。小説の世界が全ての中心で、自分の人生はその周囲に漂うおまけであるという気がするのである。そしてそのようなことを思う自分に不安を抱く。ベッドの方を見れば政人がいる。政人はいつもそこで待っていてくれていた。洋子は政人の傍に行き、抱き締めてもらう。幽霊だが体温はあった。自分の体より温かい胸に耳を押し当てる。とても静かな肉体だった。

 洋子は仰向けに倒れた。そうして政人の目に襲えと訴えた。願望を口には出さず、体の力を抜いて、あくまで政人が勝手に覆い被さってきたという体で洋子は恋人を貪る。体を愛されると自分を愛することができた。幽霊との性行為には避妊の必要がないようである。政人は唾液さえ出せなかった。舌を交わらせていると、洋子は自分の唾が吸収されていくのを感じた。そのくらい政人は渇いているようだった。

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