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車内

————この車、もっとスピード出ねえの?


 黒金くろがねが呟く。

 無茶を言うなと思った。そもそもタクシーほど安全運転を強制される車はないのだ。車間だとか、通行人の飛び出しへの配慮だとか、停止線の厳守だとか、守らねばならないことは山ほどある。

 幾ら急ぎの用であるとしても、それは守らねばならない。

 俺と黒金は今、一台のタクシーを追跡中である。

 数時間前、コンビニの喫煙所で煙草を吸っていた俺たちは、ちょっとした昔話をしていた。その昔話というのは、中学生の時分に行方不明になったさっちゃんのことについてだった。

 猪狩幸子いがりさちこ、存在を忘れられた少女である。

 俺と黒金は三十一年前、塾の帰りに彼女がタクシーに乗ったのを目撃した。その時はさっちゃんも俺たちと同じく、帰宅の路を歩んでいたのだろうくらいに思っていたのだが、違った。彼女はその日を境に学校に来なくなったのである。それだけではない。彼女と付き合いのあった友人から担任の先生まで、俺たち以外の誰一人、さっちゃんのことを覚えてはいなかったのだ。

「猪狩幸子? 誰それ?」

 酷いもんである。酷いと言えば、さっき黒金に話を持ちかけられるまでさっちゃんのことなどすっかり意識の外であったタクシー運転手の俺もまた、酷く薄情な人間であると言える。

 ともかく、さっちゃんはタクシーに乗った切り戻らなかった。だから俺たちは幽霊タクシーに連れ去られたのだと結論付け、高校を卒業するまで、彼女の情報を集め続けた。しかし、手がかりは何一つ見つからなかった。加えて俺たちは、さっちゃんのご両親にお会いしたことがないどころか、彼女の家が何処の地区にあるのかすら知らなかったのだ。

 無謀である。一介の高校生が何の情報もなく、行方不明者を捜索するなど出来るはずがない。

 そして高校を卒業した俺たちは大学に進学する。俺は文学を専攻し、黒金は民俗学を専攻した。

 その頃の俺は今の家内と付き合いがあったので、それを機にさっちゃんのことを諦めていたが、黒金は諦めていなかった。古今東西の伝承、怪談話、流言を蒐集し、どんどんその世界にのめり込んでいった。そして何時の間にやら准教授にまで出世してしまったのである。全てはさっちゃんを見つけるためだろう。

 で、今日この日。俺たちは偶然にもさっちゃんを見つけた。本当に偶然だった。

 煙草を吸い終え、さあ仕事に戻ろうと思った矢先、車体がボロボロになったタクシーを見つけた。さらに驚いたことには、そのタクシーのメーターは賃走を表示していたのだ。あまりにもオンボロだったため、あのタクシーに乗るヤツの顔を見てやろうと思い、後部座席を覗いてみたのだ。そしてそこに乗っていたのが、他でもないさっちゃんだったのである。しばし唖然とした。唖然とする中で、俺は確かめるようにさっちゃんの容姿を記憶から引き出していた。黒金も同じように固まっていたと思う。

 現実に帰ってくるのは黒金の方が早かった。

 ————金は払うからあのタクシー追ってくれ!

 異論はなかった。何なら乗車賃は折半してもいいとさえ思い、俺は車を出したのである。

 全力で追った。安全運転を心がけながらも全力で追った。


 そして、見失った。

 場所は何処かも判らぬ山奥である。

「チキショー! 律儀な運転しやがって」

「うるせえな、仕方ねえだろ。安全運転は職業病なんだよ」

「そっか。確かにな。幾ら俺らに譲れない都合ってモンがあっても、事故っちゃ意味ないもんな。そう考えれば、やっぱ安全運転が一番だよ。何だかんだでさ」

 どっちなのだ。そこまであっさりと理解を示されると張り合いがないじゃないか。

 車内で途方に暮れる中年たち。追っていたのは中学生の頃の思い出。

 哀愁漂いまくりだな。

「それにしても、ボロッちい割にやたらと早いタクシーだったな。制限速度オーバーしてんじゃねえの? 幾ら幽霊タクシーでも道路交通法くらいは守れよ」

 こいつは学者のくせに全くそれらしいことを言わない性質がある。いちゃもんの付け方が中学生レベルだ。

「お前、ちゃんと学生に指導できてるんだろうな?」

「え? そりゃあ勿論! 結構人気なんだぜ、俺のゼミ」

「そうか。そりゃ結構。というかあのタクシーな、制限速度守ってたぞ。片や俺は出来る限り、飛ばしてた。まあ、安全運転の範囲内でだけど」

 そう。俺は安全運転の範囲内とは言え、速度はぎりぎりまで出していた。それなのに追いつけなかった。

「じゃあなんで見失っちゃったの? もしかして、俺たち化かされた?」

「狐にか? 論文のネタが出来たな」

「いやあ流石にこの体験談は論文じゃ使えないよ」

 そりゃそうだ。


 俺たちが車内で、ああでもないこうでもないと言い合っていると、バックミラーに一台の車が映っているのが見えた。

「あ……」

「どうしたののみや

「おい、後ろ見てみろ」

 何だよと黒金は体を捻った。

「マジかよ!」

 驚くのも無理はない。今俺たちの乗っているタクシーの後方にピッタリとくっついているのは、先ほどの、さっちゃんを乗せたオンボロタクシーだったのだから。

「俺らが追われてるじゃねえか!」

「追って来てくれるならそれはそれでいいんじゃねえの?」

 適当な相槌を打つ。

 暫く追われながら走っていると、オンボロタクシーのハザードランプが点滅しているのに気が付く。

「どけってか?」

「いやいや、そこの路肩に停めろってことだろ。間違いない」

 黒金は不気味なタクシーに追われているという状況がお気に召さないようだ。まあ、もう辺りは真っ暗だし、山道というのは暗いというだけで恐怖をそそるものだ。

 仕方ない。一度追い越させてから、もう一度こちらから追跡するとしよう。

 それにしても、先ほどのマナーのよさは何処へやら。いきなり訳の判らない指示をだしてくるとは。やはり奇妙なタクシーである。何時もならこんな無茶苦茶は無視するのだが、流石に俺も不気味を感じないほどに鈍感ではない。

 タクシーを路肩に停める。すると、あちらも俺たちのすぐ後ろにあるスペースに停車した。

「何だ?」

 訝しんだその時である。


 ————死ねばよかったのに


 凍り付いた。俺も黒金も体が動かなくなってしまった。

 こんな話を聞いたことがある。


 若者たちが深夜、車で山道をドライブしていたときのことである。山道は曲がりくねっており、街灯も少ないため、細心の注意を払って運転をする必要があった。

 何度目かのカーブに差し掛かったところ、不意に車のヘッドライトの真ん前に、血塗れの女の姿が現れる。運転していた若者は驚いて急ブレーキをかけた。停車させ、よく見てみると、そこにあったはずの女の姿はなくなっていた。

 そしてさらによく目を凝らして辺りを見てみれば、そこは断崖絶壁でそのまま進めば、崖に落ちてしまっていたことが判った。

 きっとあの幽霊が助けてくれたに違いない。彼らはそう思い女性の成仏を祈った。

 そのとき耳元で声がした。

「死ねばよかったのに」



 黒金も今、この都市伝説を思い出していることだろう。何せそういう畑にいる人間なのだから。

「えへへっ。なんつって」

 気の抜けた声。聞き覚えがある。懐かしい。

 涙が出そうなほど懐かしい声。知っている。俺はこの声の主をはっきりと覚えている。さっきまで忘れてたけど。

 助手席に視線を移す。

「さっちゃん……?」

「やっぱりたっくんだったか。後ろに乗ってるのは鉄ちゃんだね?」

 懐かしい呼び名である。ののみや拓朗太たくろうた縮めてたっくん。黒金鉄朗くろがねてつろう縮めて鉄ちゃん。

 まさかまたこの呼び名で呼ばれる日が来ようとは。感無量だ。さっきまで忘れてたけど。

「二人とも歳くったねー。たっくんはそろそろ髪の毛が危ない」

 余計なお世話である。

 いや、そうじゃない。そう、俺たちは歳をくった。中年真っ盛りである。さっちゃんの指摘通り、俺はそろそろ毛髪が黄昏れてきているし、黒金は肩書きを知らなければただの不健康に痩せたダラしないおっさんだ。しかし、さっちゃんと言えば、全く外見が変わっていない。太いお下げをそのままに、地味な見た目に反した快活な表情。何一つ、あの時から変わっていない。

「さっちゃん……」

「どうした、たっくん」

 どうしたもこうしたもない。何から聞けというのだ。さっちゃんに再会するためにオンボロタクシーを追ってきたというのに、いざ彼女を前にすると何も言えない。

 何も言えないと言えば、黒金の声が先ほどから一言も聞こえてこない。息遣いさえ聞こえてこない。

 バックミラーをちらりと見ると、黒金は真っ白になっていた。白金になっていた。

「プラチナ……」

「は?」

「い、いや! 何でもない。えーと、あー、そういえば、俺結婚したよ」

 もう何が何やら。

「え!? そうなの!? おめでとう! いやあ、たっくん何だかんだでハンサムだったもんねー。若い頃は結構モテたでしょ?」

「いや、モテたことはないな。家内が最初の人だし」

「うわあ、素敵。最初の人が奥さんだなんて、なかなかないよー」

 何だこりゃ。食いつき良過ぎだろう。何でこんな話で盛り上がってんだよ。

 喉も暖まってきたことだし、そろそろ黒金を起こそう。


「オイ! 黒金!」

 運転席から手を伸ばし、黒金の体を引っ叩く。

「はっ! 一グラム五千五百円前後! これじゃあ裁判費用にもならないんじゃないか!?」

 何の夢を見ていたんだ。

「鉄ちゃん、何かしたの?」

「いや、三途の川でプラチナを一グラム渡されたんだけど、これじゃあ地獄の裁判も受けられるか――うわっ! さっちゃん!」

 大混乱だ。

「落ち着け」

「さっちゃん! 今まで何処行ってたんだよ! 凄い探したんだよ、俺ら!」

「黒金、落ち着け」

「い、いや! でもっ! しかしっ! そうか! そうだな、落ち着かないとなっ」

「深呼吸だ」

 黒金は肺炎を患ったときの俺のような息遣いで深呼吸する。

 次いでに俺も深呼吸しておこう。

 現状を認識しなければ。今、ここにはさっちゃんこと、猪狩幸子がいる。彼女は失踪した。幽霊タクシーに攫われて。

 その後、さっちゃんの存在はなかったことにされた。皆の記憶から消されてしまったのだ。そして俺たちは今日、彼女を乗せたボロのタクシーを発見し、ここまで来た。そして会えた。

 よし、何となく自分が戻ってきたような気がする。


「二人とも落ち着いた?」

「はい」

 同時に返事をする。

「ははっ。驚かせちゃったね。ごめんね」

「ホントに驚いたよ。色んな意味で」

 今日は現実にいる気がしない。あの世にでも迷い込んだようなことしか起きていないのだから。

「そうだよねー。私、いきなり消えちゃったんだもんねー」

「さっちゃんは一体何処に行っていたの? さっきも言ったけど、俺ら凄く心配で、ずっと探してたんだよ」

「うん。ごめんね」

 さっちゃんは寂し気に笑いながら謝罪する。

「何処に行ってたって聞かれるととっても答え難いんだけど——そうだなあ、やっぱりあの世ってとこに行ってたのかなあ……」

 歯切れが悪い。どうもさっちゃん自身、自分に起こった現象を把握し切れていないようだ。

「あの世、ねえ。じゃあさっちゃんはもう——その……この世のものじゃないってことなの?」

 黒金にしては頑張って質問を絞り出している。意外と気使いのこいつが、ここまで踏み込んでいけるのは、今が待ちに待った瞬間だからだろう。


「この世のものじゃない——のかもしれない。二人とも、黄泉竃食ひって知ってる?」

 ヨモツヘグイ。聞き慣れない言葉だ。しかし、こういうのは黒金の得意分野だと思う。ヨモツってのは多分黄泉のことだろうし。

「黄泉の国の釜で煮た食べものを食べること、だね。あの世のものを食べちゃうともうこっちには戻って来れないってやつ」

「そう! 鉄ちゃんよく知ってるね!」

「こいつ、民俗学の准教授」

「凄い出世だ!」

「そうだろう? 凄い出世したんだよ、俺。って言っても何時の間にやらって感じなんだけどね」

「そっか。何か、色々想像ついちゃった。ホントにごめんね……」

 今度は笑うことなく俯いてしまうさっちゃん。


「いいんだ。何だかんだで楽しいしね。で? 黄泉竃食ひがどうしたの?」

「うん、私ねあのタクシーに乗った時、運転手さんにスイートポテト貰ったの。それ食べちゃってね。戻れなくなっちゃったんだ。別に本当に黄泉竃食ひってのがあった訳じゃなくてね、運転手さんに渡されたものを受け取ってしまったら、それが契約みたいな感じになるんだよ。そういうルールがあるの。で、私はスイートポテトを受け取ってしまったから、戻れなくなった。それだけは確か。あ、でも運転手さんは悪くないんだよ。じゃあ何が悪かったかと言えば、運が悪かったんだ。運悪く、私にあのタクシーが見えていて、運悪く運転手さんが私を認識出来てしまって、私たちはすれ違ったまま乗客と乗務員だった。ただそれだけ。気付いた時にはもう遅かったの」

 要領は得ないが、なるほど幽霊タクシーの運転手は決してさっちゃんを攫ったという訳ではなさそうだ。

 しかし、だからこそ悔しいとも思う。全て運が悪かっただけというのなら、あの時さっちゃんに声をかけなかった俺たちも渦中にいたことになる。あの幽霊タクシーは俺たちにも見えていたのだから。もし、俺たちがさっちゃんに挨拶の一つでもしていれば或いは運転手がさっちゃんを生者であると認識できたかもしれないのだ。

 怒りのやり場がない。これでは自分を責めるにしても少々理不尽が伴い、モヤモヤとしたものが残る。敵がいないというのはどうも持て余すな。


「きっと色んな人に迷惑をかけたよね。お母さんとお父さんも心配したんだろうなあ」

 俺と黒金は息を飲んだ切り、何も言えなくなってしまう。これでは何か隠していることは明白である。俺たちは肝心なところで息が合わない。

 俺たちの気まずい沈黙を察したのか、さっちゃんは吹き出したように笑った。

「二人は息ぴったりだね。いいよ、言って。ようやく会えたんだもの。全部清算していきたいよ」

 言うしかないか。俺は黒金に目線を送り、了解を得る。

 そして、俺たち以外の全ての人がさっちゃんのことを忘れてしまったことを白状した。


「そっかあ……それは確かに話し辛いねえ。でも大丈夫だよ。二人は覚えててくれたもんね」

 ん、そういえば、何故俺たちは覚えていられたのだろうか。仲が良かったからとか、そんなことが理由ではないだろう。勿論さっちゃんは俺たち以外にも、仲のいい女友達がいた。その仲のよかった女友達でさえ、さっちゃんを忘れていたのだ。だから、仲がいいという線は条件から消える。

 ならば何故。

「俺らも幽霊タクシーを見たからじゃないか?」

 ああ確かに。そうか、俺も黒金もあれを見たのだった。なるほど、得心が行った。

「そっかー。確かにそれ以外には思いつかないよねー」

 さっちゃんは口元に指を当てて天井を仰ぎ、暫くしてからはあと溜息を吐いた。

「何か事実確認ばかりで疲れちゃったね。話題を変えよう。よしっ。で? 鉄ちゃんは結婚してるの?」

「ぶほっ! 何でいきなりそんなこと——」

「だってもういい歳でしょ? 結婚してても不思議ではないじゃない」

「こいつは独身だよ」

「だって、結婚なんて考えたことすらなかったんだもの」

 まあそれはそうだろう。こいつはずっと一つのことだけを考えて生きてきたのだから。

「そっかあ。でもそろそろ結婚して、ご両親を安心させてあげてもいいんじゃない?」

「そうだなあ。まあその内ねー」

 適当に返事をする黒金である。

「たっくんはもうちょっと痩せた方がいいよ」

 いきなり矛先が変わった。

「いいじゃねえか。多少肉があった方が冬も暖かい」

「たっくん、お子さんもいるんだよね? あんまりお腹がぷるぷるしてると嫌がられちゃうよ」

 確かに、最近娘から冷ややかな視線が送られてくるような気がしないでもない。痩せようかなあ。

「さっちゃん」

 己の肉について頭を悩ませていると、黒金がさっちゃんに声をかける。

「ん? なあに?」

「さっちゃんはこの後どうするの?」

 聞くのか、それを。

「私はさよならだよ。ようやく二人に会えて、私の失踪後のことも大方判ったしね」

 どうしようもなく悔しい。

「私はもうこっちには戻れない。今ここにいるのだって運転手さんの計らいあってこそなんだ。もうこれ以上迷惑はかけられないよ」

 どうしようもなく口惜しい。

「俺は嫌だ……」

 そうだろうさ。そりゃあお前はそう言うよな。それを言っても誰もお前を責めないよ。


「俺は別れたくないよ。三十一年間、ずっとさっちゃんを探すために勉強してきたんだ。俺はまだ、諦めたくないよ」

「諦めるしかないよ……私がこっちに戻ってこれたとしても、もう私の居場所はここにはない」

 間違っていない。彼女を覚えているのは俺と黒金の二人だけ。とするならば戸籍がどうなっているかも怪しい。保険などの手続きは一体どうなっているのだろう。


「二人はもう大人だから。煙草の臭いだってする。たっくんは父親になったし、鉄ちゃんは先生だもの。それに比べて私は子供のまんま。途方に暮れちゃうよ」

「俺はまだ子供だよ! 十四歳のまま体だけ大きくなっただけだよ」

 黒金は涙声である。後部座席は見ないのがマナーだ。大の大人が泣きながら少女に話しかけている姿は端から見れば滑稽に映るのかも知れない。しかし、こいつはさっちゃん失踪から人生の全てが決まってしまった男である。それを考えれば、この激情を滑稽だなんて馬鹿には出来ない。


「はは、相変わらず泣き虫だなあ。でも、それでもやっぱり鉄ちゃんは大人なんだよ。黒金先生の授業を受けに沢山の学生が、大学の門戸を叩きにきたでしょ? そして鉄ちゃんはそれに応えてきたんだから、やっぱり大人なんだよ」

 反論は出来ないだろう。黒金は先刻、自分のゼミはなかなかに人気なんだと言っていた。


「でもさあ……寂しいだろ」

 ザ・本音。これ以上ないくらいに本音だ。俺だってそうだ。ようやく会えた矢先に、もうこちらには戻れないと言われても、そりゃあこちらとしては寂しいの一言に尽きる。

「そうだね、寂しい。けど私は行くよ。決意は固いのである」

「そうだな」

 ようやく喋れた。

「黒金、諦めるとか諦めないとかじゃねえよこれは。会えたんだからそれでいいだろ?」

「それでいいのかなあ……」

「いいのさ。さっちゃんが行くというのなら、俺たちには止めらんねえ。っていうか、きっと誰がどう決意しようと、さっちゃんはあっちに行かなきゃならねえんだ。だからせめてさっちゃんが決意している時に行かせてやろう」

 さっちゃんは困ったように笑っている。

「ごめんね、たっくん」

「いいんだよ。こいつは昔からこうだろうが」

「うるせえ……うう、判ったよ。さっちゃん、先に行ってておくれよ。俺らもその内行くから」

「うん。出来るだけ遅く来てね。じゃっ、二人とも、アデュー!」

 ワザとらしくフランス語を使ってネタに走るさっちゃんの目は明らかに潤んでいた。それを俺たちに見せないために、脱兎の如く車内を飛び出し、後部の幽霊タクシーへと乗り込んでいく。

 そしてタクシーはあちら側へとボロボロの車体を引き摺っていった。


 俺たちは暫く沈黙していた。

 後部座席では黒金が鼻を啜っているのが聞こえる。

「煙草吸うか?」

「もう暗いからいい」

「じゃあ車内で」

「車内は禁煙だろう」

「別に一回くらい、消臭剤で誤魔化せるよ」


 そうかと黒金は納得したように言い、煙草を取り出した。

「これで俺らも大人だな」

「お前は結婚相手でも探したら?」

「まあその内な」

 二人分の紫煙が広がる。

 車内は燻され、俺は後日、上司から大目玉を喰らう羽目になる。

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