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短編

僕と母とガトー・ショコラ

作者: 黒檀

 


 今まさに――つまり、二月十三日の夕方、僕はブラウニーを作ろうとしていた。と言っても、計量済みの材料をただ作業台に並べた段階だけど。そんな、「さあ、はじめるぞ」と鉢巻を締めたところで母さんが帰ってきてしまった。この人がいるとなると、作業効率が下がって仕方ない。


「ただいまあ。ああ、疲れた」


 玄関でヒールを脱ぎ落とした音がする。うん万円もするような履物でも、疲れているときはああして乱暴な扱いをする。

 大いに買い物をしてきたらしく、紙袋とビニール袋を擦れさせながら台所に顔を出した。案の定、有名どころのチョコレート・ブランドの紙袋がいくつもあった。毎年バレンタインデーが近づくと、彼女はこうして大量のチョコレートを買い込む。その多くは自分自身のためだが、残りは父や僕や弟、そして職場への贈り物だ。買う段階で、誰にどのチョコレートを贈って、自分自身は何を食べるかを決めているらしい。いい加減な人間だけど、こういうくだらないところでは妙にきっちりしていた。

 僕が陣取った作業スペースの向かいに、彼女はそれらをどさりと置いた。


「おかえり」

「……あんた、何してるの」


 母さんはぼんやりとした顔で、卵と砂糖をかき混ぜている僕を眺めている。


「何って、お菓子作ってるんだけど。明日はバレンタインデーだよ」

「それは知ってるわよ。だから、なんで英一が作ってるの。普通、女の子が男の子のために作るんじゃないの」

「男が作っちゃ悪いわけ」

「悪くはないけど……おかしいんじゃないの?」


 べつにおかしくもなんともない。僕は料理や製菓は化学だと思っているので、そこに女々しさを見出したりしない。そもそも、料理を女性性と結びつけて考えるのは、前時代的でナンセンスだ。

 さておき、「本来チョコレートを受け取る側の人間が、むしろ作っている」というさかしまな状況への説明は要るだろう。僕のクラスでは、女子の“友チョコ”文化に男子もまざるという本末転倒な事態がおこっている。もちろん手作りじゃなくても構わないが、男女関係なく、お互いにお菓子を交換し合うというお気軽なイベントだ。そのお気軽さに混じって思いの丈を伝えるのも結構、という具合だ。というか、そこが女子の本懐だろう。そして男子は、そんな女子の下心に気付かないふりをしてあげて、この計画に加担する。ただし、己の思春期に折り合いをつけられている奴に限る。恥ずかしがってちゃ、成り立たないお話だ。

 と、ばか正直に解説したところで、母さんは納得しないだろう。僕だっていちいち分かってもらおうとは思わない。どうせ大人ってやつは、僕くらいの歳の人間はみんな、異性のこととなるともじもじ赤くなるものだと思い込んでいるのだ。そうあるべきだと決め込んでいるのだ。

 電子レンジから、溶かしたバターとチョコレートを取り出す。ついでに、オーブンの予熱を始める。そうして動き回る僕を、いぶかしむような黒の瞳が追いかけてくる。やりづらくてかなわない。

 なにか聞きたそうにしているので、「なんだよ」とつついてやるとようやく口にした。


「英一は、好きな子いるの」

「いるよ」


 チョコレートもバターも、程よく形を失っていた。分離もせず、大きく溶け残りもせず。


「何よそれ、初耳」

「今初めて言った」


 チョコレートと卵と砂糖は、ボウルの中で一つになる。これに粉類をふり入れればいいだけの簡単なレシピを採用した。スーパーのチョコレート売り場においてあるようなレシピ。


「どうしてまっさきに報告してくれないのよ」


 この人ときたら、外出用のツーピースのままで台所に居座っている。というか、真向かいの空いた椅子に座り込んでいる。外套がこの場に無いだけましだったが、その格好で調理場にいないで欲しい。


「……その袋、魚じゃないの。冷蔵庫に仕舞ったら」


 ビニール袋の存在を忘れていたようだ。あわてて冷蔵庫に放り込んでいる。


「話をそらさないでよ。クラスの子? どんな子?」


 なんでそんなことまで話さなきゃいけないんだ。

 こういう話を親に隠すほど初心(うぶ)じゃないけど、相談するほど親密にはなりたくはない。どういう心積もりか知らないけど、こんな調子で子どもと親しさを保とうとする母親に、一種の気味の悪さを感じてしまう。僕に限っては、友人じみた親なんてごめんこうむりたい。物分りが悪い、おカタい、厳しい、おおいに結構。そういう居心地の悪いところで摩擦してこそ親子なのだ、と思う。ほんとうに厳しい親をもつことの苦しさを知らないだけかもしれないけど。

 そんな斜に構えた僕に対して、弟の(さかえ)は、母親の促しがなくても勝手に何もかもを喋る。その様はあまりに無邪気なので、弟の方が大人で、僕こそがガキなんじゃないかと疑ってしまいそうになる。


「教えないよ。どうせ来年には別の子を好きになってる」

「冷めてるのね。若いのに、」


 彼女はつまらなそうに卵の殻を生ゴミ入れに放った。

 四角の型に、まぜたものを流しいれる。軽く空気を抜いて、最後に胡桃を並べた。ブラウニーにしては柔らかな生地に焼きあがるはずなので、切り分けるときに邪魔にならないような場所に配する。タイミングよく、オーブンの予熱が完了した。あとは機械に任せればいい。楽勝だ。


「手際がいいのね。私も昔、バレンタインデーは毎年、お父さんにガトー・ショコラなんかを作ってあげたわ」

「へえ。初耳」

 厭味だ。

「ほんとよ。あの人、あれでも甘いものが好きなんだから」

「じゃあ、なんで今は作ってあげないんだよ」

「そんなの、ビックリするほど美味しくて貴重なチョコレートが、簡単に手に入るようになったからじゃない。今は百貨店に行けば、フランスのでもベルギーのでも、日本全国の有名店のものでも、なんでも買える。昔は違ったのよ」

 

恍惚とした表情で言う。それこそ、「私が食べたいからに決まってるじゃない」と白状しているに同じ。僕は苦笑する。


「そういうことじゃなくてさ、」


 じゃあどういうことなのか、と聞かれたとしたら、うまく言えなかった。だから、言葉は尻窄まりになる。

 何と言えばいいのか。この人は、物質主義と言っては大げさだけど、少なくとも、家庭的な母親ではない。料理だってサボることがままあるし、何より、百貨店で流行りの買い物をするのが大好きな人だ。苦労して働いた父さんの汗水とかは、きっとあんまり考えていない。ばかみたいに高い鞄を買って、父さんと喧嘩することもあった。もちろん、母さんには母さんの辛さがあって、それは高級革製品でしか潤せない可能性もあるけど。

 だからこそ、ガトー・ショコラなんていう素朴な菓子を作り続けていたという慎ましやかな過去は、なんだか鼻の奥をつんとさせる。どれだけまずいのだろうか。


 ガトー・ショコラに思いをはせて、短い沈黙が降りたとき。視界のすみに、ぴょこりと小さな人影が飛び込んできた。


「あ。おかーさん、帰ってたの」


 すでに帰って部屋にこもっていた弟の栄が、台所に現れて高い声で言う。犬のように鼻をくんくんと動かし(オーブンに入っているブラウニーは、芳しいチョコレートの薫りを漂わせていた)、なおかつ作業台のありようを見て、まん丸の瞳を輝かせる。


「チョコレートケーキを作ってるの? やったあ、おかーさんのケーキ!」


 違う、と訂正しようとしたのだが、栄はぴょんと跳ねて姿を消してしまった。呆れるほど大量のチョコレートの紙袋は目に入らなかったのか。栄の清らかさには驚かされる。今までのことを鑑みても、この母親がケーキを作るだなんて結論がどうして出てくるんだろうか。

 否定し損ねた口惜しさから、皮肉の一ツでも呟こうかと思ったけど、やめた。母さんは、憂いのある表情で栄の去ったあたりを見ていた。今は正しく母親の顔をしている。栄に向かうときは、そんな感じだ。


「そうか……。作ってあげれば、あんなに喜ぶのか」


 まるで、独り言のような口調だった。それはあまりにも愕然としていて、そして遠かった。


「そういえば、お菓子はあまり作ってあげたことがなかった」

「……栄は大げさなんだよ。ほら、大学芋とかずんだもちとか、作ってくれただろ」

「あれ、冷凍だから」


 これまた、明らかにしなくてもいい事を言ってしまう。フォローのために開いた口を、閉じてしまった。

 でも、それは僕にだけ打ち明ける類のことだ。なぜなら、栄は正しく子どもであって、他方、僕はすれっからしだから。それを改めて意識した。

 だから、ちょっとだけ、母さんに対する考えを変える余地がある。

 僕に向かうときの母さんは、無遠慮な干渉で覆われている。それがものすごく不快だし、恐ろしいことでもある。でも、ほんとうのところ、事情は逆なのかもしれない。つまり、彼女が僕を知りたいんじゃなくて、彼女が僕に知ってもらいたいのだということ。もっとも近しい人間(かぞく)の理解を求める、人間としての顔があるだけかもしれない。

 ただ必要なのは、かつて甲斐甲斐しくガトー・ショコラを作っていたのだと告白するこの人(かあさん)を、知るということ。


「ねえ、英一。そのブラウニー、私と一緒に作ったことにしてくれない」


 僕のうろたえはいざ知らず、この人はまったく別のことを考えていたようだ。妙なことを言い出した。


「は? 何言ってんだよ」


 有名メーカの(しかもちょっと格安の)紙袋を差し出して、底抜けに明るく笑う。


「久しぶりに、お父さんに手作りを食べさせたくなっちゃった。学校のみんなには、コッチの出来合いのチョコレートを配ればいいじゃない。これなら、間違いなく美味しいわよ」


 なんだよそれ。「食べさせたくなっちゃった」、って。僕が作ったものなんだけど。全然意味がないだろう。それに、弟のことを考えていたかと思ったのに、父さんの話になっているし。呆れた。ほんとうに、いい加減で適当で、面倒くさがりで即物的で、突拍子がない。

 でも、笑えてしかたがなかった。


「……ちゃんと自分で作れよな」


 レシピは教えるからさ。

 でも、ほんとうはガトー・ショコラが食べてみたいんだ。

 ――とは、言えそうにない。だって僕はまだ十五歳で、もう十五歳でもあった。



◆◇◆ 

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