凍ん
ギャンブル依存症の好きピを想像しながら描きました
あらかた片付けを済ませたかたかた音の鳴る金型にはもはやひとつのホコリもなかった。
立ち退きを命じられてからは気が楽だった。
それまで感じていた鬱々とした気分が嘘のように霧散した。
いや、それはもしかすると霧散したようでいて、ひとつひとつの負の粒子は、そのサイズパラメーターが小さくなったから、私の心の目をかいくぐるほどに散乱性を失ってしまったのかも知れなかった。
先月まであそこのあの席には誰かが座っていたのだけれど、それが懐かしいと思えるほどに実際の時は流れていないはずなのにどうして寂しさというものは、人にこうもあっさりと漸近してしまうんだろうね。
猫はそんなことを思い浮かべながら男を見上げていた。
鰹節が削られてできた曲線と、かんなくずのそれは似て非なるものであるがしかしそれでも遠からず近からず、曖昧な空間に解き放てばゆらゆらと揺れる物体であるには変わりなく、年老いた男の前髪が風にたよりなくなびくことと最早すべてが渾然一体となって終わりを迎えつつあるのだ。
猫も初めて自分が歩き始めたときに感じた、全知全能の神にでもなったような、この世界を踏みしめているという確かな手応えを、今更ながらに押下したリセットボタンが画面に真っ黒な背景しか映さない寂寥を否応なしに突きつけられているのが今という瞬間であることは紛れもない現実なのだ。
例えば、熱帯夜にコンクリートの塀によじ登り、厚く垂れ込めた雲を横目に月明かりに照らされるならば、世界を踏みつけていた時代の夜明けがつい目の前まで来ており、世界が猫そのものを踏みつけんとばかりに、なんて暑い夜であろうかと、風のない漆黒が微睡みを切り裂いていくのが尻尾の震えが教えてくれる。
そんな猫の後ろ向きなノスタルジーを尻目に、男はせっせと段ボール箱に金型を詰めていく。
金型は高価だが、一度作ってしまえば大量にコピーを成形可能である。
転写に転写を重ねられた柔らかな固体は、その行く末を知らぬままにトラックに次々と運ばれていくのだった。
男は金型に圧空を送り込んだときの膨満を目の当たりにして、その剛直からの変容にわが身の写像をまるでお告げであるかのごとく脳裏に植え付けた。
泥だらけのスニーカーを捨ててしまうのではなく、どこかの遠い国のダンサーに再利用してもらうことができたなら。
誰しも脈絡なしに人生で一度は思い描いたことのあるこの言葉を、なぜか男はふと口ずさんでいた。
もちろん猫にはその意味なんて分からないから、世界が己を押し潰そうとしていることの意味を探すことと天秤にかけて、どちらを考えることも諦めた。
男は車に乗ってエンジンをかける。
エンジンをかけるとオイルが車の全身を巡る。
そうして点検を定期的にやっているからこそ車というものは走るのだと男はハンドルを握りしめて理解を深める。
昔男には心から愛を誓い合った女がいた。
女はお世辞にも美人とは言えなかったが、とても愛嬌があり、平原に咲くシロツメクサのような柔らかな雰囲気を身にまとっていた。
ある日女は洗濯物を畳みながら言う、
私を殺してほしいの。
振り返ると男は涙を流して笑ってみせた。
女の顔はちょうど庇に遮られて影になっている。
私という文字は、わ、た、し、と読む。
しかし男にはそのようには聞こえなかった。
人は時々耳が意図せず聞こえなくなることがある。
耳鳴りは、宇宙船から放たれた高周波が、鼓膜の軌道と共役することによって発生することを、小学生のときに友達に教えてもらったことがある。
だから女は宇宙人だったのだと、男は運転している今になってようやく腑に落ちた。
助手席には猫がシートベルトを腰に巻いてスースーと寝息をたてている。
その音色があまりにも綺麗だったから、男はスマホを取り出して録音した。
のちにその録音データは、猫ミームと称されて全世界に拡散されることになるとは、このとき誰も予想できなかったに違いない。
ギャンブルすることは構わないねんけど、刹那的なものを感じずにはいられないのはなぜだろうか




