臨時裁判
王城の大広間は、金糸で装飾された天井から無数のシャンデリアが輝き、貴族たちの衣擦れの音が波のように広がっていた。
――けれど私は。
胸の内でずっと、冷たい雨が降り続けているようだった。
夫は、今朝も邸には帰らなかった。
本来ならば、国王生誕祭は夫婦で参加するのが暗黙の了解。
侯爵家の当主である夫が、妻である私を置いて姿を消すなどあり得ない。
だから、恥を忍び――義弟のアルバートに頼んだ。
「義姉上。どうか顔を上げてください。今日は僕が、あなたを守ります」
差し出された手は温かかった。
助けられる思いでその手を取って入場した――そのはずだったのに。
その先に、夫がいた。
しかも、腕に絡みつくようにして微笑む若い子爵令嬢を伴って。
心臓が、音を立てて沈んだ。
一年以上続いている不倫――知っていた。
それでも、王家主催の場だけは、夫は“侯爵家当主”としての責務を果たすと信じていた。
そんな私の想いは、まるで嘲笑うように裏切られた。
「……義姉上、無理をなさらないで」
義弟がそっと腰に手を添え、支えてくれる。
その優しさが、今だけは痛かった。
ラッパが鳴り響き、国王が入場する。
場が整然と静まり、挨拶が始まる。
けれど夫のほうを見れば――
夫と子爵令嬢は、こちらに向けて歪んだ笑みを浮かべていた。
胸が重く締めつけられ、息さえ苦しい。
やがて挨拶が終わり、貴族たちは一斉にグラスを掲げた。
国王への挨拶のため、列へ進む。
挨拶は夫婦で国王へ進み出るのが常識。
なのに――夫は子爵令嬢を伴い、そのまま国王の御前へ向かった。
貴族たちのざわめきと、嫌悪の視線。
義弟が小さく息を呑む。
「兄上……なんという……!」
私は気を落としながらも後に続いた。
そして、夫は平然と告げた。
「陛下。妻は浮気をしております。その悲しみを、こちらの子爵令嬢が癒してくれたのです。
つきましては、妻との離縁を望みます」
大広間が一瞬で凍りついた。
国王は眉をひそめ、言葉を失った。
――そして私の中で、何かがぷつりと音を立てて切れた。
「義姉上、俺が――」
「待って」
義弟の腕を押しとどめ、私は国王へ深く頭を下げる。
「陛下、発言のお許しをいただけますか」
「……構わぬ。言いなさい」
私は顔を上げ、まっすぐに国王を見た。
「この場にお集まりの皆様を立会人とし、
臨時裁判の開廷を要請いたします。」
王城の広間に簡易法廷が整えられ、主張が並べられた。
■夫の主張
・妻(私)が浮気している
・だから離婚したい
■私の主張
・夫は子爵令嬢と一年以上不倫
・離縁は夫有責のため慰謝料を求める
国王が静かに問う。
「双方、証拠を提出せよ」
王国では貴族の常識として魔道具を常に持ち歩いている。
私は魔道具を取り出し、指を滑らせる。
水晶板に魔力が通った瞬間――
夫が子爵家に通う映像。
私の留守に子爵令嬢を連れ込み抱き合う姿。
使用人が記録した行動履歴。
大広間がざわめいた。
一方、夫側は――
「そ、それは捏造だ!!」
魔道具を持っているはずなのに、証拠は一切出せずに叫ぶだけ。
子爵令嬢は周囲の冷たい視線に頬を紅潮させ俯いていた。
さらに私は証人として、国内流通を担う伯爵夫人に証言を依頼した。
実は子爵令嬢の件を1番最初に教えてくれたのは、親友である伯爵夫人である。
私は旧友の勇気付けるような頷きに、感謝の気持ちを込めて頷き返した。
「こちらにも映像がありますわ。
宝石店で侯爵様が子爵令嬢へ贈る品を選んでいたものです」
夫の顔が真っ青に染まる。
そして国王が鋭く問う。
「侯爵。そなたは、妻が浮気しているという証拠を持つのか?」
「……その、義弟と……密会を……している……!」
すると――
「陛下、その件は私からも異議を申し上げます」
前侯爵夫妻が進み出た。
義弟も続く。
「兄上は長らく家を空け、夫人とはまともに会話もしていません。
領地経営も、兄上はほとんど放棄しておりました。
義姉上と話す機会が多かったのは、補佐として当然のことです」
三人が次々に魔道具を提出し、夫の不在や職務放棄を示す記録を提示した。
夫は完全に言葉を失った。
国王は重く、けれど迷いなく告げた。
「判決を下す。
侯爵は妻に慰謝料金貨一千枚を支払い離縁とする。
またその後、子爵家に婿入りし、侯爵家への接触を禁ず。
さらに、王都への立ち入りを当面制限する」
大広間にどよめきが起きる。
そこで前侯爵夫妻が宣言した。
「本日をもって爵位をアルバートへ継承いたします。
我らは責任を取り領地へ隠居いたしましょう」
覆らない判決に夫は崩れ落ち、子爵令嬢は泣き叫び、子爵夫妻は蒼白になった。
娘を使い侯爵家からお金を引っ張ろうとしてたのは調べがついている。
自業自得だ。
私は国王へ深く頭を下げた。
「本日の非礼、深くお詫びいたします」
そして静かに我が家――いえ、もう“元”我が家の侯爵邸へ戻った。
戻って早々に私は荷造りを進めていた。
婚約者はいないが、侯爵になった義弟にはすぐに縁談が舞い込むだろう。
義弟の奥方の居場所を邪魔してはいけない。
胸が痛むのは気のせいだと、紛らわすためにも手を動かす。
そう思っていた時――
コン、コン。
扉が叩かれた。
開けると、義弟アルバートが立っていた。
深い緑の瞳が、静かに揺れている。
「……義姉上。話がしたい」
「アルバート様……?」
彼は一歩、距離を詰めた。
「兄の奥方であるあなたを、ずっと敬愛していました。
けれど――想いは敬愛ではなく、愛情だったのだと気づきました」
心臓が跳ねた。
「複雑な思いを抱かせてしまうでしょう。
ですが……どうか、私の妻となり、隣にいていただけませんか。
あなたを、ずっと、大切にします」
甘い言葉ではなかった。
一つ一つ噛み締めるような、不器用で真っ直ぐな告白。
「……いきなりで、心の整理が……」
「答えを急ぎません。
今日だけは……あなたが泣きたいなら泣いていい。
怒りたいなら怒っていい。
そのすべてを、僕に預けてほしい」
じん、と胸が熱くなる。
あぁ、私――
もう心は決まっていたのかもしれない。
この人となら、共に生きていきたい。
私はそっと微笑み返した。
「アルバート様……どうか、これからも私の傍にいてください」
彼はほっと息を漏らし、私の手を取った。
その手は、どこまでも優しく温かかった。
――そして私は、元夫ではなく義弟の妻として、ようやく本当の幸せを手に入れた。




