4-14 PEARL 君の心が晴れる時
インターネットが普及し始めてから約三十年。スマートフォンを手にするようになり気軽に情報を手に入れられる世の中になった。しかしそれは溢れすぎていて目に、耳にするまで知る事なく生涯を終えるのも事実である。
佐山遥翔は高校時代から交際中の金持萌々愛と同じ大学に通っている青年。ある時、講義内のグループ研究にて清澄珠代と出会う。無口で生気のない彼女は腫物に触るような扱いをされていた。
一方の清澄は人から疎まれていると知りながらアルバイト先に向かうのだった。
「死に場所を探している」
そう彼女は顔を見せる事なく言った。
『常識』『折り合い』『共依存』
一人のZ世代がこれらのワードを心に刻み込む物語。
(参考としてデジタル広辞苑の一部を引用)
萌々愛と付き合い始めてから『常識』という言葉の意味を深く考えるようになった。
『常識』
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。
わかってはいるんだ。俺自身友人と雑談している時に『常識の範囲内』などと口にする事がある。しかし、いざ『常識とはなんぞや』と改めて思考を巡らせてみても明確な回答を導けずにいた。
ブブブブ……
無機質なバイブレーションが自室の机を叩き音として着信を知らせた。パソコンでのレポート作成を中断し、スマホに目を移した。
着信:ももあ 모모아
LINEでは自分の名前を編集する機能がついている。萌々愛は数ヶ月前から韓国アイドルに興味があるらしく、グルメやコスメ等の情報収集に余念がないとの事だ。その行動力の数パーセントでも学業で生かしてもらえないだろうか。
また『会いたい』だの『寂しい』だの中身のない会話をこの平たい板から発せられる事を覚悟して受話口に耳を当てた。
「もしもし」
「あー! やっと出てくれたぁ! アタシが電話したら四回以内で出てって言ってるじゃん! これ常識だよ?」
はい、本日十回目。あまりに常識と言われ過ぎてこの頃ではカウントしてゲーム感覚にでもしないと気分が紛れないのだ。
「ゴメン。講義のレポート書いてた。悪いけどトークに要件書いてくれないかな。ちょうどまとめに入っているからさ」
「全く遥翔は真面目だよねぇ。大学なんて遊びに行くところでしょお?」
いや勉強するところだろ。一体何の為に親が高い学費を払ってくれると思っているんだ。
「で、何?」
「そんなに怒らないでよぉ。アタシ長い文書くの嫌いだから電話の方が早いと思って」
「はいはい」
「さっきサークルに顔出したらちょうど立原ちゃんと会ってねぇ、明日からグループで課題やるんだって」
立原というのは経済学部の講師だ。六十代で背が低く眼鏡をかけのほほんとしているので一部の女子からは『立原ちゃん』と呼ばれマスコット的位置らしい。
ピコン♪ ピコン♪
要件を聞いて安堵したところに通知音が何度か鳴った。確認をする間もなく萌々愛の会話は続く。
「今さっき課題メンバーのLINEグループ作っておいたから確認しておいてほしいんだけど。はるととアタシ一緒なの」
「はいよ。……ところでなんでそのメンバーを萌々愛が知ってるの?」
「それはぁ……ね?」
「『ね?』じゃないよ。まぁ、察したからいいけど」
萌々愛は人の懐に入るのが上手い。本人曰く相手が何を求めているのかが手に取るようにわかるそうだ。金に困っているようだったらバイト先を紹介するし必要に応じて貸す事もすると噂で聞いた。人間関係で悩んでいるようなら仲介役となって手助けをする。もちろんボランティアではなくメリットを考えた上で立ち回るらしい。頭がいいのか悪いのかわからないものだ。今回もZ世代の流行りを立原講師にいくつか教えたのだろう。
「ご飯できたよー!」
階下から母親が呼びかけている。掛け時計を見ると午後七時を示していた。もうそんな時間なのか。俺は萌々愛に通話を終える事を促した。
「ゴメン。ご飯みたいだから切るよ」
「えー! 早いよぉ」
「明日大学でね。じゃ」
まだ何かを言っていた気がするが、聞いていないふりをして画面上の赤い受話器マークを押した。これでまた聞き返したら最後、一時間はあっという間に過ぎてしまう。母親がしびれを切らして夕食を片付けてしまい、徒歩十五分程のスーパーまで食材を調達しなければ空腹を満たせないのだ。
ふとスマホの画面に目を落とすと案の定萌々愛からトークメッセージに『途中で切るなんて非常識!』と書かれていた。はい、十一回目。口癖、と言ってもいいのだろうか。社会に出る前に直させた方がいいとは思うがなんと切り出せば良いか。悩ましいところだ。
上書き保存のあとパソコンをシャットダウンし、階段を下りる間スマホを操作していると、件のグループメンバーがLINE上に各々のあいさつをしていた。
『課題だる~』
『はるとがいるからラクショーじゃね?』
人にばかり頼るなよな。なるべく棘がないようメッセージを送るとわらわらとトークが返ってきた。『〇〇さんが参加しました』という表示が流れていく中である名前が目についた。
清澄珠代
教室の一番後ろの席で黙々とノートに板書しているので目立たないのが目立つ人物。会話は入学してから一度もしていない。彼女以外顔見知りでノリについていけるのかと少々不安が募ったが問題が起きなければ構わない。
リビングダイニングの扉を開くとすきやきの甘辛い香りが食欲をそそった。
そうだ、今日は両親の結婚記念日だった。
あれから一週間。慣れとは不思議なもので個人のキャラクターを理解してしまえば簡単だ。それぞれ担当を与えてしまえば動いてくれる。勝手に俺をグループの責任者にされてしまったが些細な事だ。むしろ自分のさじ加減で進行していけるので都合がいい。
順調に事が進んでいると思った矢先だった。清澄が発言をしないのだ。発言どころか誰とも目を合わせず、マスクをしているのもあって感情がまるで読めない。会議には毎回参加するものの彼女との会話は困難を極め、萌々愛やその友人はお手上げといった様子だった。しかし俺はめげず相手のタイミングをみて、呼吸を合わせるように話しかけるとコクンと頷いた。その頷き一つにも二日を要したが、心の中でガッツポーズを取るくらいの大きな前進だ。幸いグループでの意見や議題は全て清澄がパソコンで打ち込んでおり、その日の夜にはデータ化してLINEに張り付けてくれた。言葉を選んで作られた文書は読んでいて心地よかった。
一時はどうなるかと悩んだ課題もどうにか教授に提出し事なきを得た。大量の書類を整理していると、自分用に配られたプリントの裏に文字が書かれていた。
『私の個人LINEを登録してください。清澄』
清澄? なぜ? でも確かに今回のグループで個人的にやり取りしていないのは彼女だけだ。トーク画面でも雑談せず簡潔に要件を述べるだけで気にする必要がなかったと言うべきか。ひょっとしたらこの数週間でメンバーと交流を深めたいのかもしれない。きっと俺だけじゃないはずだ。
その夜。メモを見つけて数分も経たないうちにメッセージを送ったあと返事を待ちつつ自室のベッドに潜り込んだ。
SNSで翌日友人との会話のネタを探したり、萌々愛とのLINEをしたり気づけば日付が変わろうとしている。
『お待たせしました。仕事が立て込んでいました』
ベッドサイドランプを消灯しスマホを枕元に置くところだった。この通知で眠気が吹き飛んだのは言うまでもない。すかさずLINE画面を開くと再びライトを点けた。
『大丈夫だよ。もう少し起きているつもりだったから』
『そうですか。明日の朝学校の佐山君の靴箱にUSBを置いておきます。それをどうするかはそちらの判断に任せます。では、おやすみなさい』
『え?』
それから待てど暮らせど既読は付かなった。社交辞令にそうですかはないだろう。別に謝ってほしいわけでもないが。俺の靴箱にUSB? こっちの判断? 一体なんなんだ。同い年のはずなのに敬語をやめず、常にマスク着用する寡黙な変わり者……か……
ピピピッ ピピピッ ピピピッ
どこからともなく音が聞こえる。その正体を探ると自身が手に持っているスマートフォンのアラームだった。
清澄とのLINEを考えているうちに眠ってしまったらしい。ライトが点灯したままなので寝落ちという表現がしっくりくる。睡眠時間がいつもより短いという事もあって、講義の内容が頭に入るか不安だが、まぁ、なんとかなるだろう。
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『あー、もっしー? さすがに立原ちゃんがいるところで電話できないからさぁ。うん、大学のジジイ。アタシが具合悪いフリすればお咎めないからラクチンでぇ。え? 今トイレ』
私物のヘッドホンから流れるこの声は間違いなく萌々愛のものだ。多少横暴な面があっても人を貶めなかったのに。そういえば先週の講義で途中退出してた事を思い出した。……通話の相手は誰だ?
『次いつ同伴してくれるぅ? 彼氏? あー、遥翔? あいつジジイ以上にお人よしだからへーきへーき。ルックスサイコーなんでキープしてるんだけどぉ。頭いいのにわざわざアタシに合わせて私立受験するしぃ、ご飯とかほしいものおごってくれるしぃ。【ジョーシキ】って言葉マジ便利すぎぃ。またボトル入れてあげるからサービスしてよね♡』
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顔の叩かれた箇所が寒空に触れると沁みる。
音声を聞く事に集中していた為か、背後にいる萌々愛に気付かなかった。部室には俺達二人以外誰もいない。今までのうっ憤と怒りをぶちまけるように問いただすと、答えを聞く前に目の前にあった冊子を俺に投げつけ走り去ってしまった。これも常套句の『常識』というやつなのか?
それから講義を受ける気にもならず近所を彷徨い、タイミングを見計らって帰路についた。
夕食のあと数時間ぶりにスマホを操作すると、俺が大学を無断欠席した事を心配する同級生の声に交じってあるメッセージを見つけた。
清澄珠代:USBを返してほしいので明日の午後八時にこの場所に来てください。私の仕事先です。
すっかり忘れていた。あいつの声を録音した目的や俺に聞かせた理由……聞きたい事は山程ある。送られた住所をコピーして地図アプリで検索すると意外な場所が表示された。
特殊清掃の会社……?





