第2話『異世界的カーチェイス』
20230331 一部修正
街灯に照らされる道路に、身長10メートル近い真っ黒な巨体が、同じ色の影を落としていた。
ブクブクと太った真っ黒な巨体を、無数の黒い人間の腕が支えて、頭部には歯並びの悪い歪な口がついて、その上には目玉が8個も開かれていた。
黒い巨体がずんぐりと道路を覆い、それに続いて武装兵たちがぞろぞろと現れる。
彼らの銃口は、こちらを向いている。
メイがその光景に慄いていると、ぐんっと全身に圧力がかかった。
メイの乗っている車……シルバーのスポーツカーが発進したのだ。運転手はメイを劇場のホールからここまで連れ出した、黒い戦闘服とフルフェイスのマスクを装った男だ。
車は急加速してその場を後にした。
急発進したシルバーのスポーツカーに、仲間が乗り込んだジープと、先ほどまでこの車を積んでいたトラックが続いた。
3台は劇場ホールの周りをぐるりと回るように左折したのち、ジープは直進、トラックはさらに左折、メイの乗っている車は右折、といったぐあいに三方向に分かれた。
車はさらに加速し、都市を少し外れて、建物も明かりが灯っていたり、そうでなかったりとまばらな街中を走り抜けた。
先の戦場は、どうやらあまり人のいない地域だったようだ。
さっきまで銃声やら爆発音でやかましかったのが嘘だったかのように静かになった。
しかし、その平穏は続かない。
――ズン。
そんな地響きがした。その初めの一回を境に、地響きが何度か続いた。静寂は破壊され、視界が揺れる。
「あ、“あれ”、こっちに来ますけど……!」
車の助手席から後ろの様子を見たメイは叫ぶ。
黒く巨大は影が、無数に生えた腕を不器用にばたつかせて道路を這っていた。
数えきれないほどのグロテスクな腕に圧され、重たい巨体もものすごい速さで地を這っていた。……否、もはや駆けていたというほうが正しい。
「分かってます。この車に追いつけるほど速くはないだろうが、他の増援も来るだろうな――」
男も余裕がない様子で、敬語が抜けてきている。別に初めからいらないのだけれど。
「――バレてる。こっちこい」
男はポケットからスマホらしき端末を出して誰かにそう伝える。
そして、背後では、黒い怪物の後ろから何台か車が迫っていた。おそらく、あれが男の言った増援のことだろう。
ざっと数えて6台ほどだろうか、よくアフリカやらの野生の動物を撮影するときに使われがちな、あのタイプのジープ。
それらからの銃撃。
逃走車、追跡車、お互いが高速で前進し、かつ逃走車側は弾を避けるために左右に揺れて蛇行運転をしている。ので、必然的に何十発も容赦なく放たれる弾丸はなかなか当たらない。
とはいっても、万が一タイヤにでも当たったら、メイたちは絶体絶命だろう。
やはり、タイヤを狙ったと思われる弾が、アスファルトで火花を散らしていた。
運転手の男は後輪を若干滑らせつつ、最低限の減速で右折した。
また、右折、次は左折、また右折。
動きについてこられない車両から先にまくために、とにかく何度もカーブする。
やがて1台が脱落。こちらが右折したところに追いつけず、そのまま直進したのがいた。
1車両の助手席にひとり、そして一人分の火力が減った。
シルバーの車体は相手の軍勢よりボディが小さいのを活かすため、ほとんど路地裏といえるような狭い路へ入り込んでいく。
バキッ、と音を立てて、メイの目の前にあったサイドミラーが落ちていった。
「そろそろ仲間も追いつける頃でしょう」
狭い路を脱し、左折。
しかし、この、狭い路を行く作戦は裏目にでたかもしれない。
路地に阻まれ離脱した敵車両は1台。そのほかは別のルートで先回りしていた。
車の進行方向から2台、背後にも2台、迫る。
いまさら速度を下げてもしかたがない、ということだろうか、メイの乗った車は進行方向に迷わず、むしろ加速する。
「運転、変わってください」
恐怖で顔を伏せていたメイに、ふいに声がかかる。
「え、何!? ちょ、ちょ、」
見ると、男はハンドルを離して窓を開け、身を乗り出していた。
「ちょちょちょちょ! 何考えてんですか……!?」
慌ててハンドルを握る。
とはいえメイは17歳。無論、運転などしたことがない。
シルバーのスポーツカーは大きく減速し、フラフラと頭を揺らす。
「おい……! 意味ないだろ、それじゃあ!」
窓からのぞき込んで、男が怒鳴る。
「えぇ、そんなこと言われてもぉ……!」
メイはほとんど半泣きで、せめてまっすぐ車が進むようにと努めた。
男が座席の上へ乗ったので、メイは左足をアクセルへと伸ばして踏み込んだ。
車が、また元気を取り戻していく。
男は。
その胸についたホルダーから、ハンドガンを取り出した。ハンドガン、拳銃、そう呼んでしまうには大きすぎる。それは俗にハンドキャノンとも呼ばれる、50口径の弾丸を放つ銃だ。
50口径。人を殺すには、十分すぎる、余分な大きさ。人の業と戦争科学の結晶。
相手の息の根を確実に止めるための兵器、否、凶器。というか、狂器。
――人ひとりの手の中から発せられてはいけないような、重く、低い銃声が響く。
1、2、3、4発と続く。
男の腕はたしかなようで、放たれた大きな弾丸はジープのフロントガラスを砕きながら、2人仕留めた。
ひび割れ、その向こうの景色はほとんど確認できないようになったガラスに、ぴしゃり、と人の血が飛び散る。
もう、前方の強敵は残すところ1台(運転手と助手席の2人)。その1台のすぐ横を掠めて、メイの運転する車は走り抜けた。
事態を察した背後の車両2台(人数にして4人)が急加速、急接近する。
そのタイミングで、男がさっと運転席に戻った。
半ば奪い取るような勢いでメイからハンドルを受け取る。
相変わらず危険な状況なのにもかかわらず、メイはほっとしてしまって、胸をなでおろして息を整えた。
心臓がうるさい。
男はちらりと背後を見やり、追手の様子を確認した。
2台の車両は法定スピードを大きく越して、男とメイの乗る車を追っていた。恐らく、もう1台も振り返って追跡を続行するだろう。
「しつこいな」
男が低くつぶやく。
呟いて、なにやらモニターを操作し始めた。カーナビを映す、あのモニターだ。正確には、操作したのはその画面のすぐ下に並んだ小さなボタンだ。その一番右を押した。
すると、画面が手前へ少しずれ、そのまま上へスライドした。
モニターがなくなったスペースに、4つずつ2列に、つまり8つのボタンが現れる。
男は左手だけで運転しながら、右手でそのうちのひとつを押した。
車の後部から、金属音――たとえば小さな釘だとかネジを茶碗にいれて乱暴に振った、みたいな音がした。
背後を振り返れば、小さな光の反射がざっと100個は見えた。
小さな光は高速で走るメイらのスーパーカーに置き去りにされるように、同じく高速で後を追跡している車両の下へともぐりこんだ。
直後、ばんっ、とサッカーボールの破裂するような音がする。
そして2台そろって仲良く道路脇へとフェードアウトしていく追跡者たち。
おそらくまきびし的な何かを撒いたのだろう。
ともあれこれで追跡者はほとんど脱落、車両数にしてあと1台を残すのみとなった。
メイたちの乗る車は減速する。
「最後の奴は、どうせついてこれないでしょう。すでに俺たちを見逃してしまったはずです」
戦いの騒音を後において、男が低い声で言った。
すっかり静かになった街道を1台のスーパーカーが走り抜ける。
複雑に右折、左折を繰り返したこの車は、どこか明確な目標地点があるようで、特定の方角へ時間をかけて進んでいた。
「ふぅ……、見事にまいたみたいですね」
メイは安堵して、運転を続ける男に言った。
「みたいですね」
同じく安心した男はマスクを外して、座席後ろの狭いスペースに投げる。
先のホールで使った武器……半自動小銃もそのスペースへ雑に投げられていた。
フルフェイスのマスクで覆われていた顔が露出すると、中から現れたのは、美形の男。
すっと筋の通った高い鼻。彫が深く、眉の影がかかった目は狼のように鋭い。目にかからない程度に切られた黒髪は、前髪を6対4で分けていて、形の良いおでこをのぞかせていた。
年齢は20代前半だろうか。
軍人か、そうでなくとも戦闘員だろうと予想できるので当然かもしれないが、無駄な肉が一切なく、鍛え抜かれた肉体は引き締まっている。身長は180センチメートルを越しているだろう。
日本に来たらファンクラブができるに間違いない。ハリウッドのイケメン俳優にいそうな顔だ。身長の高くて、目つきの悪い、若き日のトム・ク〇ーズという雰囲気だ。彼ほど優しそうではない。
「失礼かもですけど、お名前は?」
メイは恐る恐るといった様子で問う。文脈のせいで誤解されるかもしれないが、彼女にはナンパ的な意思は皆無だ。
「オスカー。オスカー・リーベルタス。……空気入れ替えましょうか」
名乗って、オスカーは運転席側と助手席側の両方の窓を開放した。
冷たい夜風が車内に飛び込んで、ものの1秒で空気は入れ替わったようだった。
「あなたは?」
「わ、わたしは、蒼井メイです。メイと呼んでください」
突風に目を薄めながら答える。
オスカーは助手席側の窓だけを閉めた。
「吸ってもいいですか。平気ですか?」
オスカーは手に紙煙草のようなものを持っていた。
「え、は、はい」
メイの世界での“はい”はこの場合、了承および許可を意味したはずだが、オスカーは一度出した紙煙草の箱を、そのままポケットへ戻した。
「…………」
「…………」
オスカーは黙って正面を向いて運転を続けている。
――なにこれ、なんでこんな気まずいの。
「あの、吸っても大丈夫ですよ」
「いえ、やっぱり仕事全部終わるまでは我慢しようと思って」
気まずさを打開しようとしたメイの言葉に、オスカーはそう返した。
このオスカーという男、言葉だけ掬ったらまるで爽やかな男のようだが、実際は表情がほとんど変わらない。不気味ささえあるのだ。
時々敬語が抜けるのも、メイは別に気に留めなかったが、実は怖い人なんじゃないかという疑惑を手伝っていた。
メイは、こちらについてきたのは正解だったのか今更ながら考えていた。
実はオスカーたちは誘拐を専門にする犯罪組織か何かではないのか、とすら思えてきていた。対して、こちらを追跡している連中の外見は、ここの警察的な組織とも考えられた。
「――ッ!?」
唐突に、男が右方を睨む。例の狼のような目がぐっと絞られ、まさに“狩りをする眼”のようだった。
男は大きくハンドルを左に回す。
「ぅ、ぎゃっ!」
遠心力に圧され、メイはバランスを崩してドアの窓に側頭部をガツンとぶつける。
慌てて顔を上げて、ああ、と状況を理解する。
――先の、黒い巨体。
車が一難を逃れて、速度を落としていたところ、あの黒い巨体が現れたのだ。
右側に続いていた住宅街、その上を上って、建造物を破壊しながら巨体が現れたのだ。
メイは咄嗟に周りのものにつかまって、衝撃の再来に備えた。
右に逸れて巨体の一撃目を免れ、車は急加速する。
男は運転しながら体をひねり、先の拳銃をまた使用。背後の黒い巨体に2発発射した。大口径の重い反動を、その鍛え抜かれた筋肉を抑え込む。
一般的な拳銃ならば分からない。もしかしたら9ミリ弾ではまた違ったかもしれない。
だが、放たれたのは50口径弾。その威力はアサルトライフル程度まで発揮すると言われている。
巨体は確かに怯み、車はその隙に距離を稼ぐ。
作戦は先のものと似たようなぐあいだった。とにかく右折左折とカーブを繰り返し、あの重々しい巨体を振りほどく。
――が、今度はそううまくいかない。
例のグロテスクな黒い腕をばたつかせ、巨体はがむしゃらに走る。
離した距離はすぐに詰められる。
正体不明の黒い巨体。未知の恐怖。理不尽な暴力。
絶体絶命。
その四文字がふと、メイの頭に浮かんだ。
動悸が激しい。
追跡車両を撒いた時の束の間の平穏は打ち砕かれ、とたんに死が身近に感じられた。
時速100キロメートルを超えた車両のすぐうしろを、同じ速さで巨体が走っている。
無数の腕をばたつかせながら、一本、目立って長い腕が新たに生えてきていた。
腕が、その長い一本の腕が、車を捕まえようと伸びていた――――。