第1話『奇妙な封筒と金色の鍵』
20230331 一部修正
今朝のことだ。自宅の郵便受けで奇妙な封筒を見つけた。
封筒が郵便受けに入っていたということは、つまり何者かからの贈り物で、その形状から恐らく手紙であろうことは容易に察せられたが、その奇妙なオーラを無視することはできなかった。
素人目でもわかる上質な紙から成された純白の洋封筒。
金色のインクで引かれた緩やかな線が封筒を縁取るようにデザインされている。
一見、普通の洋封筒ではあった。
だが、実際に目にして、手に取ると、そうではない。
奇妙、不気味、違和感……、別世界感、というか。
たとえばこの封筒を開けば世界が今とは一変してしまって、手紙を読めば天変地異、処分すれば地獄の業火に焼かれるぞ、と言われても納得してしまいそうな、特異な感じがした。
そしてそれは実際に、このあとの悲劇、惨劇、喜劇の元凶であったのだ。
蒼井メイはこの日、この時、この手紙を見つけてしまったことによって、その人生を取り返しようもないほど急変させるのだった。
****
ぽきっ、とシャーペンの芯が折れたところで、メイは顔を上げた。
イヤホンを外して、ぐっと伸びをする。
ありきたりな日本人高校生の自室。へんに女らしさの主張もしていない、見る人によっては“質素だ”と評価するかもしれない部屋だ。しかしそれは部屋の整理整頓が行き届いている証拠でもある。
机上の時計に目をやると、ざっと3時間は勉強していたか……いや、実質の勉強時間はもっと短いか。メイはそもそも集中力が長続きする性質ではない。
時刻は23時を少し過ぎた。
夕食も入浴も済ませて、メイは寝間着代わりの、灰色の上下セットのスウェットに身を包んでいた。
この地域は23時以降の未成年者の外出は補導対象だったが、無性に飲み物が欲しくなって、部屋を出た。
階段の電気を点け、1階へと降りる。
真夏だったが、夜な少し冷え、けれど部屋着で外へ出られないほど冷え込むわけでもなかった。階段も別にひんやりとはしていない。
スニーカーを履き(もちろん靴下も履いた)、なるべく音を立てないように玄関の鍵を開け、ゆっくり外に出た。
家族共用の鍵は、玄関の外の、すぐ側に置かれた3つの花、その真ん中の植木鉢の裏が隠し場所。それを取り、外から鍵をかける。
23時の住宅街は静まり返っていた。少し寂しい感じがある。しかし、メイにとってはむしろどこか特別感のあるその雰囲気。
この時間にひとりで外出するのがまったく怖くないと言えば嘘になるが、ポツポツと見える街灯が、メイの夜更かし、深夜徘徊を後押しした。
それから歩いて5分ほど。最寄りのコンビニ。
店内は夏だからとクーラーがかけてあって、へんに涼しくて、気持ち悪かった。気持ち悪かったのは店内の気温というより、店内でゴキブリに出会ってしまったからかもしれないけれど。
好きなジュースを買って、コンビニを出て、また5分。
家に戻る。
鍵を取り出し……、あれ? 周りには誰もいないのに、ひとりでそう呟いてしまうところだった。鍵が、家の鍵ではなくなっていた。
たしかにスウェットのポケットへと入れておいたはずの家の鍵は、見知らぬ『金色の鍵』へとすり替わっていたのだ。
日本、というか現代ではめったに見ないようなデザインで、おそらくストラップやらをつけるための円状に、鍵穴に差す部分――いわゆる鍵本体の部分――が伸びている。円状にはどう考えても無駄な天使の羽を象った装飾が施されていた。
――いったい、だれの、どこの、何の鍵なのか。
「ワンチャン……」
呟いて、自分が鍵を閉め忘れていることに、ある意味で賭けて、玄関の扉を向け視線を上げ、
「……は?」
今度こそ、そう呟いてしまった。
鍵と同じように、扉も姿を変えていた。
鍵と同じく、素人目でも純金だろうなと感じられる素材で縁を型取られた、真っ白な扉。
もとの玄関より、一回り、二回りも大きく、後ろから照明を当てられたように輝いていた。
どこか神話の世界を感じさせる、別世界的で神々しい世界観を放つ扉。
メイは思わず我を忘れ、扉に見とれていた。
はっと我に返り、冷静になって、冷静に、冷静に……?
「無理、でしょ……」
おもむろに、鍵を差してみる。
「あ、合っちゃったぁ……」
鍵は扉と合致し、かちゃっ、と心地よい解錠の感覚。扉はたしかに開かれた。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。
ふんわりと冷気が頬を撫でた。
扉の先は、一本の廊下。その長さに加え、光源不明の白光によって、先は見えない。
恐怖、不安といったネガティブな感情に、小さじ一杯分だけ、好奇心が勝る。
一歩。また一歩。ほぼ無意識に歩き始める。
何歩か進んだところで、背後で何かが砕ける音が聞こえた。現実世界に引き戻されるように、背後を振り向くと、先ほどくぐったばかりの扉が砕ける音だった。砕けた扉は、そのまま地の底へと落ちていく。
扉の砕けたのに呼応するように、誘爆される爆薬のように、メイの歩いた軌跡が、廊下が崩れていく。
「え、えっ」
背筋がぞわりと、冷えるのが分かった。
じきに今自分が立っているここも崩れ、奈落に落ちる。それが直感された。
「ちょ、ちょちょちょちょ、」
走る。メイは、兎にも角にも、走るほかなかった。
だが現代女子高生が出せる走力はたかが知れている。
奈落への誘拐はすぐに彼女に追いつき、メイの足元も不思議な力によって砕かれ、崩され、メイもまた地の底へと落ちていくのだった。
「わあああああああああああああああぁ……っ!!」
暗闇の中を、落ちて、落ちて、落ちていく――。
――ぱっ、と。世界が明るくなる。
なおも、メイは落ち続けていた。
夕日に照らされた空を落下している。オレンジの光に包まれた中で、強烈な風に髪をもみくちゃにされる。
夕日に明かされる世界は、知らない風景だった。少なくともメイの地元ではなさそうだ。
しかし、その風景が一体どこなのか、それを吟味する暇はなく、メイは落下していた。
「ぃぎゃああああああああああああああああああああっ!!」
涙があふれ、まるで重力に逆らうように、空に吸い込まれていく。
もちろん涙は重力に逆らっているわけではなく、メイがただ落下しているにすぎない。この世界には、この知らない風景の中には、たしかに重力が存在しているのだ。
つまり、待っているのは。落下の先に待っているのは、避けようのない死。
それが予感された。避けようのない未来。否、むしろ、メイに未来はないようだ。
あまりに唐突で、走馬灯も浮かばない。
風に押され、体を半回転される。
眼下には何やら大きな建物が見えた。洋風の建築で、家や会社の類ではない。どちらかと言えば、美術館やらコンサート会場のように思える、館だ。
しかし、もはや、メイにとって。
この風景も、落下先の洋風な館も、そのいずれの正体も、もう関係ない。
――ああ、館の屋根が近づく。あそこに直撃して、自分は死ぬんだ。
そう思ったのも、束の間。
眼前、それこそ目と鼻の先まで接近した屋根が(どうやら木製のようだった)、メイを避けるように壊れた。
音を立てて崩れた屋根がそのまま落下し、綺麗にメイの通る道を作った。
その道を、そのままの速度でメイは通過、もとい落下する。
そして今度はその建物の床に急接近。
これまた目と鼻の先まで近づいたところで、不思議な浮力で体が止まった。
「……はァ……はぁ……、はぁ……?」
ボサボサになった髪が顔の周りを囲うように降りてくる。
遅れて、ばたんっ、と体が地面に落ちた。
おでこと膝以外は、特に痛くなかった。
「なん、なん、なに。これ」
「目標確認、保護する」
急展開に追いつかないメイの脳みそをさらにかき回すように、すぐ近くで男の低い声が聞こえた。
辺りは真っ暗で、依然状況の把握は不可能。
男の声がしたほう、メイのすぐ右から、ビッ、と機械音が聞こえた。
「大丈夫ですか? 少しの間、静かにしていてください。あなたを安全なところまでお連れします」
優しく肩に触れらたのち、また男の声がした。何を言っているのか、まったく意味が分からない。
――安全なところへ? ということは、ここは今、安全ではないのか。
暗闇に目が慣れると、男の他に、3,4人の人がいるようだと分かった。
全員が暗い色の服を着ているようで詳細が分からないが、いずれにしても大柄な人間が何人か、メイを囲むようにしてかがんでいる。
「は、はい……。あの、ここは……、」
「すみませんが、細かい説明は後で。今はあなたの安全が最優先です。どこか、痛いところは……、」
とりあえず返事をしなくては、そして状況を把握しなくてはと口を開いたメイの言葉を、男は遮り、そしてまた男の言葉も遮られた。――が、男の言葉を遮ったのは、他の人間の声ではなかった。
辺りに緊張が走る。
素人のメイも察するほどに、空気がぴんっと張られた。
額から一滴、タラリと汗が垂れるのを感じるのと時を同じくして、変な物音が聞こえた。前方何メートルか、文字に起こせば、ゾロゾロと何かが地を這うような物音だ。
蠢く気配が強くなればなるほど、一層緊張感が増した。
メイは呼吸をするのも、なんだか怖くて、やっと唾をのんだ。鼻もつまったように呼吸ができなかった。
メイの後ろで、小さく、カチャリと音が鳴った。
直後、視界が一気に明るくなった。反射的に、メイは目をつむる。
そしてそれは恐らく、メイを囲う男らも同様なようだった。
また直後、メイは悲鳴をあげることになる。
辺り、あちこち、四方八方で、銃声がなった。銃声は続いた。映画で聞いたその音とは違い、重みのある、やけに耳をつんざくような音。それがしばらく、色んなところから鳴った。
何十、何百発もの弾丸が飛び交い、同じ数だけ薬莢の落下する音が変に気持ちよく響いていた。
しかし、不思議なことに飛び交う弾丸のうち、ひとつとしてメイには直撃しなかった。
「そのまま姿勢を低く、しばらく」
メイの甲高い悲鳴も搔き消されてしまうほどやかましい銃撃戦のなかで、耳元で囁かれた男のその言葉だけが、ピックアップしてはっきりと聞こえた。
ぎゅっと強く瞑ったままだった目を開くと、倒れこんだメイの身体は、鋼鉄の盾によって守られていた。盾と言っても、形としては人工的な障害物といったほうがしっくりくるような無機質な見た目をしていた。そしてそれは人が支えているものではなく、自立可能な形のものだ。
身長も肩幅もばかにでかい男たちが4人、メイの左右に展開し、盾に身を守られていた。
倒れこんだメイの側にもひとり、他の4人よりは少し小柄な男がかがんでいた。
5人。その全員が黒い戦闘服に身を包み、顔の全てを隠すマスクをつけ、手には黒光りする銃器を持っていた。
メイら合計6人はホールの舞台に立たされていたようだ。
ホールというのは、演劇やら歌劇やら合唱やら合奏やらそんなのを観客に向けて発表するための会場を指す、あのコンサート・ホール。
上空から見たように、この建物は大きく、観客席は見渡す限りに敷き詰められ、二階席、脇にはVIP席と思われる閉鎖的な席も用意されていた。
そしてそのあちこちに、軍服らしきものを纏った男ら(メイを保護した男らとは雰囲気が違って、ベレー帽が目立ち、所々赤色のポイントが見られた)がいた。数にして、50人は超えるか。そのいずれもが銃器を手に、こちらの命を狩りとらんとしていた。
男らの発砲する弾丸は容赦なくメイらに降り注いだが、それは例の盾によって阻まれた。
「逃げます、ついてきて」
弾丸と盾の激突する音が連続する中で、先の男がまた囁く。
続いてぐっと肩を引っ張られ、降り注ぐ弾丸の雨を上手く避けつつ、舞台の脇まで移動させられた。
メイはただひたすらに姿勢を低く保つことを意識した。
素早く移動したメイと男の後を、他の4人がごつごつと続いた。
「起爆しろ」
男の声に続いて、後ろの隊員のひとりが何やら小さなスイッチを出して、押した。
爆音。小さな、爆音。
そしてぱっと視界が明るくなった。
前方で、建物に2メートルほどの穴が空いていた。
6人は素早くその穴を通って会場からの脱出を果たした。
しかしながら、当然、背後からは先の軍服を装った軍勢が、メイらに迫っている。
建物から脱出し、すぐのことなのになぜか久々に感じる外の空気を吸い込む。
夕日は落ち、暗くなっていた。だが道路はポツポツと配置された街灯で明るすぎるくらいに照らされていた。
幅の広い道路含め、住宅街ではないにしても、街の風景はとても日本とは思えない。しかし同時に、いわゆるファンタジー的な雰囲気も感じられない、あくまで海外の街といった印象だ。
その幅広い道路の奥から、装甲車だろうか、黒くペイントされた大きな車両が迫っているのが見えた。
2台。片方は一般的なジープのようで、もう一方はもっと大きなトラック。両方がメイらの前で停まった。
怖くて、ほぼ無意識に、先ほどから声をかけてくれていた例の男の袖をつかんだ。
「俺の車は?」
止まった車両、大きなトラックの方が手前に停まったわけだが、その運転手に先の男が問う。
彼はそもそも低い声だったが、さっきまでが比較的爽やかな印象の声質だったのに対して、運転手に話しかけるときは一段と低く、冷たい印象を受けた。
とはいえ、その一言で2台の車が仲間(今のところ、保護してくれている側という意味での仲間)だと分かって、安心した。
「あるよ、相変わらず人使い荒いねェ」
トラックの運転手は扉を開けて隊員のひとりを助手席に招きながら言った。
先の男よりまた一段と低い声で、渋く、枯れていた。
背後を警戒していた他の3人の隊員はもう1台のジープのほうへ乗り込んでいるようだ。
ついていこうとしたメイの袖をぐっと引いて、
「こっちです、俺の車で逃げましょう。相手を分散したい」
と男が言う。そのままグイグイ腕を引かれてトラックの後部へ回る。
荷台には、シルバーのスポーツカーが積まれていた。詳しくないが、スーパーカーかもしれない。とにかくツードアの、流線形を描いた車体が綺麗な車だ。
男は鍵を開け、乗り込むと慣れたもんだといった感じで荷台から車を下ろした。
男はその、シルバーの車体で道路へ降り立つと、改めてブォンとエンジンをふかした。青白いヘッドライトが道路を照らす。
「早く乗れ……乗って。急ぎましょう」
窓を開けて男が言う。左ハンドルだ。
「――ッ!?」
メイが車に乗り込んだ直後、背後で爆破音に似た、建造物が無理矢理に破壊される音が轟いた。空気が揺れる。
見れば、先ほどメイたちが脱出に使うために開けた2メートルほどの穴が、5倍ほどの大きさに拡張され、そこから大きな黒い物体が姿を現していた。
“それ”はゆったりとその巨大な肉体をあらわにする。
“それ”はほとんど道路を覆ってしまうほどに大きく、ブクブクと太った真っ黒な巨体を、無数に生えた人の腕のような形の黒い何かが支えていた。
関節やら体の部位の区切りが分かりづらいほど太っていたが、恐らく頭部だと思われる部分には歯並びの悪い歪な口がついて、その上には目玉が8個も開かれていた。