自分の浮気で婚約破棄されたのを「お姉さまに取られた!」とのたまいだした妹に困っています。
「そういうわけで、シルヴィアさんには私と婚約して頂かなければなりません」
「ええっと、話を整理させてください」
シルヴィアはあまりに無茶苦茶な展開に頭が痛くなった。目の前で席についているのはシルヴィアの妹、ローラの婚約者のサンクだ。細い眼鏡をかけ、いかにも神経質そうに見える。
「いいでしょう」
サンクが深く椅子に腰掛けた。
「まず、あなたと婚約しているローラが不貞行為を働いたとおっしゃるのですね」
「はい、そこにある写真が物語っています。見ますか?」
「いいえ」
サンクは机の上に乗せられた数百枚に及ぶ写真の束を指さした。シルヴィアは断った。何が悲しくて妹の情事をみなければならないのだ。
「それで、これは婚約契約の解消事由にあたるので婚約を解消したと」
「その通りです。そして、そちら側に責のある理由での婚約解消ですので、そちら側に損害賠償責任がある」
「そこまではわかります」
シルヴィアはこめかみに手をあてた。
「そこでどうして私があなたと婚約しなければならないのですか?」
サンクは軽く手を振った。
「さきほど言った通り、損害を賠償してもらわなければならないからです。婚約を解消した以上、金銭的、精神的損害だけじゃなく、私には婚約者の喪失という損害が生まれているわけです。それを補填していただかなければいけない。その点、シルヴィアさんならば、姉妹である以上、ローラさんと同じブラッチ伯爵家の出で家格も同一ですし、外見の質もほとんど変わらないわけです。これ以上ない損失の補填です」
シルヴィアは人生で初めて妹に同情した。いくら侯爵とはいえ、こんな異常者と婚約していたとは。
しかしそれとこれとは話が別である。
「なるほど。ですが私は自由意志のある人間ですし、何より賠償責任は不貞を働いた妹にあるのであって、私にはありません」
「いいえ、それは違います」
そう言ってサンクは妹の婚約契約書を取り出した。これも数百ページはあるかに見えるほど分厚い。
「こちらをご覧ください。あなたはこの婚約契約の保証人欄に署名している。ローラさんに賠償能力がない以上、あなたに責任がある」
シルヴィアはサンクが開いたページに目を通した。そして署名を指差した。
「筆跡が私のものと違いますね。上にある妹の署名と同じ筆跡です」
「……ですがあなたの家であるブラッチ家の証印が押されている」
「ええ、でもそれは妹でも押せますよね。私であることの証明にはならない。公証人は誰かしら? その方を問いただしたらいかが?」
「…………」
サンクは顔こそ平静を装っていたが、足が激しく揺れていた。
「……シルヴィアさん。逆の立場になって考えてください。もしこの署名がローラさんによる偽造だったとして、私は完全な被害者なわけです。署名者の家族による偽造など私に避けようがないでしょう?」
「完全な被害者なのは私も同じですよ、サンクさん。それに婚約契約の保証人に面識のない人間を選ぶことの方がおかしいのですよ。私なら公証人に立ち会わせて目の前で署名させますね」
「身内の不始末について少しでも申し訳ないという気持ちはないのですか?」
サンクの声に怒りの色が混じっていた。しかしシルヴィアにとっては知ったことではない。
「微塵も思いませんね。これ以上の話し合いは裁判所でお願いします。ま、裁判所は妹の代わりに姉を婚約者として差し出せなんてふざけた要求を取り合うとは思えませんが。それに──」
シルヴィアは立ち上がって膝を手ではらった。
「私にはすでに婚約者がいますので。何がどう転んでもあなたの婚約者になることはありえません。損害なら金銭で賠償しますよ、妹が」
シルヴィアはコート掛けから外套をとり、扉の前で礼をした。
「では、ごきげんよう」
シルヴィアはドアを閉めて外に出た。背後から写真の束を床にたたきつける音が聞こえた。
※※※※※
クロードは婚約者であるシルヴィアへの誕生日プレゼントを探すために街に出ていた。宝石店で散々悩んだ挙句、今回もいつもと同じように手製の髪飾りを贈ることにして包装してもらった。そしてその帰り、クロードはシルヴィアの妹であるローラに出会った。
彼女は一人でベンチに座ってうつむいていた。婚約者の親族というのもあり、一応挨拶だけはしておこうと近づくと、彼女が泣いているのに気付いて驚いた。
ローラは姉のシルヴィアと違って集団の真ん中で笑っているようなタイプだった。そんな彼女が人知れず泣いているのは酷く場違いに思い、クロードは声をかけた。
ローラはクロードに気づくと、わっと抱き着いてきた。クロードは動揺しながらもなんとか彼女をなだめ、話を聞いた。
「婚約者のサンク様が、姉のシルヴィアと結婚するようなのです……」
クロードは思わぬ名前の登場に驚き、プレゼントの袋を落とした。
「ばかな……」
「本当です。突然サンク様に婚約を破棄することを告げられて……それで真実の愛を見つけただとか言って姉の写真を見せてきたのです」
「そんな……ありえない……シルヴィアとだなんて……」
クロードはあまりの衝撃に固まってしまった。クロードはシルヴィアを完全に信じていた。彼女が妹の婚約者を奪うなんて想像もできなかった。しかし、彼女は完ぺきな女性だ。クロードの知らないところで何をしていようと絶対に悟らせないだろう。
「でも、昨日見てしまったんです。姉がサンク様の屋敷に入っていくのを……ねぇ、クロード様、私、どうすればいいのか分からなくなってしまって」
ローラは腕で顔を隠すように覆った。
「……その、どこか別の場所で、相談に乗ってくれませ──」
ローラが気づいたときクロードは走りさってしまっていた。
「………………チッ」
ローラは舌打ちをした。足元には綺麗に包装された髪飾りが残されていた。ローラはそれを蹴飛ばしかけ、思いとどまって拾い上げた。
※※※※※
「ただいまー」
「ああ、帰っ……た……のね
シルヴィアは妹の頭にあるものをみて言葉を失った。クロードの手製の髪飾りだ。それも、まだシルヴィアが持っていない色のものだった。
「なに? どうかしたの? お・ね・え・さ・ま?」
シルヴィアはニヤニヤ笑う妹を張り倒してやりたい衝動を何とかこらえた。
「別に」
自室に戻ったシルヴィアは付けていた髪飾りを投げ捨て、ベッドの上に顔をうずめた。こんなことになるならばあの時写真を見ておけばよかった。まさか妹の不倫相手が自分の婚約者だなんてシルヴィアは思いもしなかった。
自分は聡いつもりだった。もし婚約者に別の女の影があれば間違いなく気づくと思い込んでいた。しかし実際はこのざまだ。
「……………………いや」
シルヴィアはベッドから顔を上げた。どう考えても女の影はなかった。それにクロードがうまく隠していたとして、相手である妹の不審な行動に自分が気づかないだろうか。あんな風に露骨に自慢してくるような妹を。
「……でも今日が初めての可能性もあるのよね……」
シルヴィアは絶望的な気分になった。クロードを純粋に信じられない自分が情けなかった。
※※※※※
シルヴィアとその婚約者であるクロードを殺す。
サンクは珍しく単純明快な解決策を実行することにした。自分のものにならないのなら必要ない。
サンクはいつも詰めが甘いと言われ続けて育った。だから自分は人の三倍準備する。漏れの無いようにあらゆる条件を契約書に盛り込む。しかしどれだけ準備しても大事な部分を見落としてしまうのがサンクだった。
だからこそシルヴィアという女性に出会ったとき、結婚するにはこの人しかいないと思った。
彼女と出会ったのは交易でブラッチ家の所領に立ち寄った時だった。サンクが職員に大量の交易契約書を差し出したとき、手間取る使用人に代わって彼女が書類を確認したのだ。そして膨大な契約書から一瞬で数行の矛盾する箇所を発見し、問いかけてきたのだ。
作成したサンクですら気づいていないミスだった。そして交易の帰り際、彼女は契約書の要点を抑えた新しい書式を差し出してきたのだった。
サンクは感動した。彼女を妻として迎えれば、きっとあらゆることで自分を補佐してくれるだろうし、詰めの甘さに怯えることもなくなる。
だからこそサンクはブラッチ家との見合いの話が出たとき、すぐさま飛びついた。そこでシルヴィアではなく妹のローラのものであることに気づいた時にはまたしても詰めの甘さが出たと思ったが、シルヴィアと同じ血をひいているなら妹でも同じことだろうと思った。
だがそれは完全な間違いだった。
ローラという女性の異常性には心底驚かされた。彼女は嘘をつくということに微塵も罪悪感を持っていない。
彼女は間違いなく自分の字で署名されている書類を『本当にこんな書類書きましたっけ? えっ、書いてませんよね。絶対。誰かが真似して書いたんじゃないですか?』と平気で嘘をつくのだ。それも別に責任逃れをするほど悲惨なミスでもない、少額の筆記具の購入書類で。
無論、彼女の不貞行為を発見するのも容易かった。彼女はベッドルームで全裸の間男を横にして初対面のように『えっ、誰ですか? この人。怖い、警察を呼んでください』と言うのだ。まだ無理やり襲われたと言われた方が可愛げがあった。
だがそのおかげで再びシルヴィアに会うことが出来た。侯爵である自分が結婚して欲しいと告げればすぐにでも結婚出来ると思っていたが、彼女の反応はひどいものだった。
彼女は機械のような人間だった。血も涙もない。機械だからこそあらゆるミスに気付けるのであり、法律や規則をそのまま適用するだけの人間だった。婚約者に不貞を働かれた可哀想な男に対する対応としては常軌を逸していた。
ただ一言、妹が申し訳ありませんとか、大変でしたねとか、そういう言葉を喋れないのか。それこそが人と人との交渉というものではないのか。
だからこそ、サンクも彼女らを一切の情もなく機械として始末することにした。
「旦那様、お呼びでしょうか」
影のように部屋に現れた男に、サンクは鷹揚にうなずいた。
「ああ、二人ほど殺してもらいたい人間がいる。シルヴィア・ブラッチとその婚約者だ」
「特徴は?」
そういわれてサンクは戸惑った。妹であるローラの写真は数あれど、シルヴィアの写真はない。それにその婚約者については誰かも知らない。
そこでサンクはシルヴィアの特徴を思い出した。彼女は奇妙な形の髪飾りを付けていた。市販では見かけない形だ。サンクはその髪飾りの絵を描いて、男に渡した。
「その髪飾りをした女だ。ブラッチ家の出入りを見張っていたら見つかる。そいつが会いに行った男がそいつの婚約者だろう。婚約者に関しては最悪間違っててもかまわない」
「承知しました。では」
「……待て」
サンクは男を呼び止めた。また詰めが甘いと言われるところだった。
「いいか、俺とは一切関係性のないやつにやらせろ。俺の顔も知らないやつだ。もしそいつが捕まってもバレないようにな。それにブラッチ家にも関わりのないやつだ。裏切られたらかなわん」
「……承知しました」
男が出ていくのを見届けてから、サンクは机の上に置いていた婚約契約書類を手元に引き寄せた。シルヴィアとの婚約が失敗した以上、ローラに損害賠償請求の交渉をしなければならない。
「まあ、この交渉が終わるころには始末されているだろう」
サンクは書類を鞄に入れ、屋敷を出た。
※※※※※
「……………………」
「……………………」
せっかくレストランに来たというのにシルヴィアとクロードは無言で食事を続けていた。お互い問いただしたいという気持ちはあったが、それをしてしまえば全てがおしまいになってしまう気がした。
「…………妹にあの髪飾り、あげたんだ」
シルヴィアは責めるような語調にならないように気を使って言った。実際に何があったのかは分からない。クロードは一瞬怪訝そうな顔をしたが、何かに思い当たったのか答えた。
「いや、どこかで落としたんだ。それを妹君が拾ったんだと思う」
あまりにも怪しい言い訳だった。しかし決定的な証拠がない以上、深く追及することは出来なかった。
「妹に会ったの?」
「ああ、街でたまたま会ってね。婚約者を君に取られたって泣いてたよ。だから──」
クロードは苦しそうに言葉を継いだ。
「もし他に好きな人がいるのなら婚約を解消して欲しい」
クロードは真剣な目でそう言った。シルヴィアは全てを理解した。
「……身内の恥で黙っていましたが、妹は虚言癖です。真に受けないように」
その言葉を聞いてクロードは拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
「ああ、おかしいと思ったんだ。君がそんなことをするはずないって」
「彼女は今自分の不貞行為の始末に相手側の屋敷に行かせました。私には手に負えません」
クロードは安堵の表情を浮かべた。そして急に思い立ったかのように居住まいを正した。
「シルヴィア、僕たちの婚約もそろそろ次の段階に進めようと思うんだ。だから一緒に結婚指輪を見に行かないか。この前一人で見に行ったんだけど、やっぱりこういうものは二人で行くものだと思って」
シルヴィアは僅かに頬を染めた。
「はい」
二人が腕を組んで街を歩いていた時、シルヴィアは猛スピードで走り去っていく馬車に轢かれそうになった。しかしクロードがすぐさまシルヴィアを抱き寄せて難を逃れた。
「危ないな。うん?」
クロードは馬車から落ちたものを拾い上げた。それは彼が作った髪飾りだった。クロードは眉根を寄せた。
「……どうしてこんなものが?」
「あの馬車はどこの家のものでしょう。方角からして妹の婚約者の屋敷から来たようですが」
馬車の中から響き渡った悲鳴はシルヴィア達には届かなかった。