少年エトワール
人生で初めての、失恋をした。
大好きだった。楽しくてたまらなかった。何気ない毎日が宝箱を開けるようにわくわくするものになって、本当に毎日毎日、明日が来るのが待ち遠しかった。
だけどそんな日々は一瞬で全てが崩れ去って、その感覚を言葉で表すならば、それはまるでこの世界から手のひらを返された、というものに近いと思う。
あんなに笑っていた日々だったのに、突然、この世界にお前はもういらない。そう言われた気がして。
今すぐ心ごと吐き出してしまいたい。こんな痛みを味わうなら、どうして好きになってしまったんだろう。どうして、一度は叶ってしまったんだろう。
苦しくてたまらなくて、到底いつも通りに過ごすことはできそうになかった。とはいえ家にいて家族に何か問われたらと思うと億劫だったし、変な気遣いなんかもされたくなくて、私はひとり、近所の河原へ向かった。行く道々も涙が止まらなかったけれど、全部そのままにして夜道を進む。風のない、淡々とした夜。
河原はひんやりしていて、誰もいなかった。少しほっとしたものの、いつの間にか黙っては泣けない程に込み上げていたから、私はただただしゃくり上げながら泣き続けた。どうして、どうして。……どうして?
どうしようもない事実に何度も打ちのめされる。
持ってきたタオルハンカチがぐしゃぐしゃになった頃、ふと、涙がやんだ。時間も自分も何もかもが止まったような感覚。そのまま横になってみると、随分と晴れた夜空に気がついた。河原、夜、晴れ。事実だけが入ってくる。たくさんの星が煌めいていたけれど、綺麗、なんていう感情は微塵も湧かなかった。
「泣いてるの?」
どこからか男の子の声がした。目だけで確認すると、小柄な少年が少し遠くから私のことを見つめているようだった。
「…………」
泣いていることを隠す気力なんかない。それに見ず知らずのこの子に、何を思われたってどうだっていい。というか、返事を考える余力もほとんど残っていなかった。
「……そっかぁ」
男の子はそう言いながら近づいてきて、そっと私の隣に腰を下ろした。
誰なのこの子。今は……誰とも、誰にも、何も話したくないのに。拒絶の意思表示のつもりで、私は横になったまま膝を抱えた。
「いろんなきもちが見える」
男の子が口を開いた。どこかへ行って欲しい。
「……」
「苦しいのとか、悲しいのとか……でも、楽しいきもちは入ってない感じがする」
当たり前だ。だって私は、私の現状は、今。
「……」
また、涙が溢れてきた。本当に、放っておいて欲しい。今は無理だ。何が?……全部が。
「つらい?」
見ればわかるだろう、と示すように、私はいっそう背を丸くした。話したくない。上手く整理ができない。話せない。
「ねぇ、見て。あのお星様ね、みんなの涙なんだよ。いろんな、きもちの結晶なの」
何の比喩か知らないけれど、下手な慰めならいらなかった。とにかくもう全部がしんどくて、思い出すもの湧き上がるもの全てが辛さも一緒に引きずってくる。一秒だってもうこの心を抱えてなんかいたくなくて、できることなら取り出したくてたまらないくらいなのに、馬鹿げた話なんか聞きたくなかった。こんな世界なら、このまま止まってしまえばいい。あなたも、私も。
「僕が、君の涙も拾ってあげるね。僕、その係なんだ」
いい加減にしてよ、と起き上がりかけると、男の子は私の隣に寝転んで微笑んだ。
「みんなの涙をね、拾う係なの」
「……」
不思議と嘘のない笑顔に思えた。でも何を言っているのかはよくわからない。ぽかんとしていると、男の子は私の目を見つめたまま続けた。
「いくらかたまったら、お空に持っていって、天の川に流すんだよ」
「……」
無言のままの私の頬を、その子はそっと両手で包んだ。少し、冷たい。火照った顔の熱も、流れたままの涙も、全部小さな手に吸い込まれていくように感じた。ぼうっとしていた頭が落ち着いてくる。心地がいい。
「ほら、見て」
両手をお椀みたいにして、男の子は空に向かって差し出した。その手の中には大きな水の粒が浮いていて、ゆらゆらと星たちが透けて見える。
「君の、涙だよ」
「え?」
目の前で起こっている不思議なことに頭がついていかなくて、ただただ呆然とするしかなかった。一体どこまでが現実なんだろう。自分の頬をつねりたい気分とはこういうことなんだろうか。
「よく見ててね」
そう言って男の子がそっと息を吹きかけると、球体だった水は形を変えて、透明な結晶になった。暗くてもわずかな光を反射して、所々が光っている。
「とっても、きれいでしょ」
男の子は満足そうに結晶を見つめていた。仮にこの子の言っていることが本当だったとしても、私の涙はそんなに綺麗なものではないと思う。心の中がぐちゃぐちゃで、いろんな感情が混ざりあって溢れそうだった。自分でも手に負えないくらいに膨れ上がって絡まっているし、綺麗な気持ちも思い出も、今はどこにも見当たらない。だからきっと取り出せたとしても、結晶どころか汚い色をしたヘドロみたいなものになると思う。
「そんなに綺麗なの、違う」
あなたは誰、とか、何が起こっているの、とか、いろいろあったはずなのに、何とか絞り出せた一言はそれだった。
「ううん、これだよ。君の涙」
まだ結晶から目を離さないまま、男の子はそう答えた。愛おしそうとも言えるくらい、あたたかい表情。
「君の大切な、きもち……生きてきた、過ごしてきた、そして今を生きている、その結晶……」
そう言って抱きしめるように抱えると、結晶はすぅ、とその胸に溶けていった。
「……ね。だからとっても、きれいなんだよ。お星様になれるくらい」
もう一度私の目を見て、男の子は微笑んだ。やっぱり何も飲み込めなくて、ぱちくりと瞬きをすると――――あたりは最初と同じ、夜の河原の風景だった。誰もいない、なんの変哲もない晴れた夜。
「ちゃんと届けてくるね。だからいつか、またお空を見てみて。君の、生きた証を。君が乗り越えた結晶が、ちゃんといるから」
頭の中に、優しい声がした。
その後、どうやって家に帰ったのかは全く覚えていない。気がついたら私は自分の部屋のベッドの上にいて、いつも通りの朝がやって来ていた。
「そろそろ起きなさーい。遅刻するよー」
自分でも引くほど目が腫れていて、全然まぶたが上がらない。だからきっと、昨日の夜のことも、そもそも失恋したことも、どれも夢じゃない。夢だったらいいと、今だってそう思うけれど。
「おーい。起きたのー?」
返事をしない私に、母が部屋の扉をノックした。
「お母さん」
「あれ、どしたのその顔」
「今日……学校、休みたい。失恋、したの」
言葉にすると、また涙が溢れた。母は一瞬驚いた顔をして、そのあとそっと私を抱きしめた。
「……っ、」
母の胸で、ただ、泣いた。