在りし日のティルカーナ公爵家〈ソティーリオ編〉
彼が皇宮最下層にいた頃のお話。
動けばじゃらりと音がする。その音で微睡んでいたソティーリオの意識が浮上した。
気怠げに瞬きをする。変わらぬ鉄格子の風景。手足は鎖に繋がれており、自殺防止の猿轡も噛まされたまま。
ここはアークディオス皇宮の地下最下層。重罪人用の牢獄だ。
囚われてから、どのくらいの時間が経ったのだろう。日数を数えることに意味はないので、ソティーリオは初めから時の経過を無視する生活を送っていた。無視していても精確な体内時計が今は何時だと告げてくるが、長く日に当たっていないこともあり、その精度もそのうち狂っていくだろう。別に、悲観はしていない。
気がかりなことは一つだけ。愛妹リンソーディアが無事に生き延びているかどうかだけだ。
「やあ、ご機嫌はいかがかな」
「…………」
鬱陶しいのが来た。定期的に様子を見に来る青年の声に、ソティーリオはあからさまに嫌そうな顔をする。取り繕う気もなかった。
ウィズクロークの王太子、いや今は皇太子であるクライザー。ティルカーナ公爵家全滅の元凶である男。よりにもよって、こいつの気紛れで命を救われるとは甚だ業腹である。
「うん、怪我も全部治ったみたいだね。やっぱり疵癒草の効果は絶大だなあ。さすが霊草って呼ばれているだけのことはある」
業腹ではあるが、適切な治療を受けさせてはくれたので、今はまだ様子見に徹しているソティーリオだ。リンソーディア以外の家族を全滅に追い込んだ張本人だが、それだけを根拠に動くことはしない。戦で敵将の一族を根絶やしにした経験はソティーリオにだってあるのだから。
鉄格子の向こうから、クライザーがじっとこちら見つめてくる。不気味なまでに真っ直ぐな視線。
「前から思っていたけど、君は本当にリンソーディア様とよく似ているね。よく似ていて、それで──」
突如、クライザーがガンッと強く鉄格子を蹴りつけた。あまりにも強烈なその蹴りに、鉄格子だけではなく壁まで共鳴して振動している気がする。
「――それでも、君は彼女じゃない」
なにを当たり前なことを、などとソティーリオは言わなかった。猿轡に阻まれている以上に、そもそもそんなこと思いもしなかった。
クライザーが目を伏せる。その肩がかすかに震えていることに気づいたが、見て見ぬふりをした。
彼がなにを思っているのか、なぜ苦しんでいるかは、なんとなく察しがついた。とはいえ、理解したところで同意するかは別問題である。ソティーリオはクライザーに同調する気などなかった。なにひとつ。
「ごめん。君は悪くないんだ。君を生かしたのも、丁重に扱うよう命じたのも僕だ。言ったことの責任は取る。でも」
伏せていた視線が再びソティーリオに向けられる。クライザーの瞳の奥には、狂気と正気が揺れ動いていた。それを本人が自覚しているかは知らないが、自覚したところで壊れている彼がまともになるとは思えない。
「どうして君がここにいて、リンソーディア様はここにいないんだろう」
苦しげなクライザーの呟き。その答えをソティーリオは知っていたけれど、教えてやるつもりはなかった。たとえ口が自由でもなにも言わなかっただろう。そんな筋合いはないから。
はあ、とクライザーが溜め息をついた。彼の情緒が不安定なのはいつものことだけれど、果たして彼の部下たちはどこまで彼の危うさに気がついているのか。狂っているなりにうまく裏表を使い分けているようだが、裏ばかりを見せられる側としては堪ったものではない。
「……また来るよ。脱獄しようとは思わないこと。いいね?」
そう言い残して、クライザーは暗い顔のまま立ち去っていった。ソティーリオはその背中をじっと見つめる。
皇太子として忙しくしているはずのクライザー。そんな彼が、わざわざ皇宮の最下層にまで足を運ぶのは、愚痴や弱音を吐ける相手が他にいないからなのだろう。曲がりなりにも理想の皇太子とか呼ばれているくらいだ。部下たちの前では無駄に外面を良くしていると見た。まったく、ご苦労なことである。
『どうして君がここにいて、リンソーディア様はここにいないんだろう』
ソティーリオは笑いたくなった。あまりにもリンソーディアのことを分かっていなさすぎて、いっそ哀れなくらいだ。あんなにも彼女に執着しているくせに、一体クライザーはなにを見ていたのだろう。節穴にもほどがある。
なぜリンソーディアがここにいないのか。答えは簡単。彼女にとってはヴェルフランドこそが絶対的な存在だからだ。いくらクライザーを生かしてやった過去があるとはいえ、それは単なる寄り道に過ぎない。
いつだって、リンソーディアはヴェルフランドを選び続ける。だから彼女はここにはいない。それだけの単純な話だった。
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それからも、クライザーは事あるごとにソティーリオのもとへとやって来た。彼が来ると見張りの兵たちは必ず下がるよう言われるので、人払いをした状態で二人きり、ひたすらクライザーが一方的になにかを話すだけの時間になる。
食事の時間以外は暇すぎて気が狂れそうになるソティーリオだが、クライザーが来るときだけは面倒だが暇ではなかった。ついでに手足を拘束されていても腹をへこませ続ける運動はできることに最近気がつき、クライザーがいてもいなくても腹筋を鍛え続けている。有事に備えて最低限の体力だけは維持しておきたいところなのだ。
そんな風に過ごしているうちに、時間はどんどんと過ぎていき、体感では一年ほど経過したある日のこと。
「君の妹が来るよ」
「…………」
「僕の妃になってもらうんだ。祝福してくれるよね?」
「…………」
この時、ソティーリオは心の中だけでヴェルフランドを吊し上げて尋問の刑に処していた。
――おい、貴様なにディアから目を離してんだコラ。そんな言葉が脳裏をよぎる。
リンソーディアと会えることがよほど嬉しいのか、今日のクライザーは終始ご機嫌だった。精神的にも安定しているように見える。しかもソティーリオの猿轡まで外してくれた。正直、引くほど機嫌がいい。
「…………」
それでもソティーリオは沈黙を貫く。ようやく事態が動いたことで、考えるべきことが山ほどあった。クライザーの相手をしている場合ではない。
また来るよ、と言い残して去っていくクライザーを見送ることもせず、ソティーリオは思考に没頭した。
リンソーディアはもちろん、ヴェルフランドでさえも自分が生きていることは知らないはずだ。
自分が生きていることは、クライザー経由で妹に伝わるだろう。それがここから脱出するきっかけになるはずだ。
情報を得たリンソーディアがどう動くかは分からないが、もしかしたら妹よりも先にヴェルフランドと再会することになるかもしれない。彼はきっとリンソーディアを救うためにここへ来る。そして秘密裏に皇宮に乗り込む手段として、この最下層と繋がっている隠し通路を使う可能性が高かった。
あとはヴェルフランドが迎えに来るまでの間、リンソーディアが無事でいてくれることを願うばかりだ。少なくともクライザーが彼女に害をなすとは考えにくいが。
なにしろリンソーディアの兄であるというだけで、ソティーリオも拘束されている以外はどこも損なわれていないのだ。ましてそれがリンソーディア本人ならば、なおのこと丁重に扱ってくれるはずだった。
だからといって、油断すべきでもないのだが。
あの男とヴェルフランドは違う。ちょっとした加減で狂気が顔を出さないとも限らなかった。そして一度狂気が前面に出てしまえば、あとは敵味方の区別がつかずに暴走するだけ。あいつが我を失って暴走すれば、リンソーディアでも止められるかどうか。
となると、できるだけ短時間でクライザーを倒してリンソーディアを救出すべきだろう。だが長期間拘束されているソティーリオは満足には動けない。だから妹を助けるのはヴェルフランドあたりに任せるしかなさそうだ。彼ならばソティーリオが頼まなくても勝手に動いていそうだし。
「なんかダサい格好で捕まってるな、リオ」
「……誰にどう思われようと別に構わないんだけど、君にダサいって言われるとなぜか屈辱で死にたくなるね」
そうして再会した幼なじみは、腹立たしいほど変わっていなかった。いや、雰囲気は多少変わった気もするが、どちらにせよ腹が立つ。
とはいえ、これでリンソーディア救出作戦は九割がた成功したようなものだ。ヴェルフランドが来ればもう心配はいらない。こいつならどうにでもするだろう。それは信頼という名の確信だった。
「じゃ、フラン君。僕らは先にサラサエル村に帰るから。ディアちゃんのことはよろしくねー」
「ああ」
気の抜けた話し方をするこのハウエルという名の青年は、ヴェルフランドとリンソーディアの知り合いらしい。彼の肩を借りながら、ソティーリオは隠し通路を抜けて皇宮から脱出した。
着痩せする性質なのか、見た目に似合わずしっかりとした身体つきの彼は、歩くので精一杯なソティーリオを難なく支えてくれる。
「君とディアちゃんはよく似てるってフラン君から聞いてはいたけど、本当にそっくりなんだねー。僕にも兄さんがいるけど、君たちほど似てはいないかなー」
そう言われて、ソティーリオは改めてこの青年の名を思い出した。確かハウエル・サラサエル。そしてこれから向かう村の名前もサラサエル。心当たりはひとつしかない。
「君の兄というと、隻眼の天才研究者として有名なエド・サラサエル博士かな?」
「そうそう。迷いの森研究の第一人者。ディアちゃんのお兄さんなら訊くまでもなさそうだけど、迷いの森に耐性はある? サラサエル村は迷いの森にがっつり食い込んでるんだよねー」
ソティーリオは「問題ないよ」と頷いた。あの森には鍛錬の一環で何度も足を踏み入れている。
「ところでさー、ディアちゃんとフラン君って、ぶっちゃけどんな関係なのー?」
なんの悪気もないその一言に、「そう思った要因はナニ!?」とソティーリオが目を剥いたのは、語るまでもない余談である。