在りし日のティルカーナ公爵家〈戦場編〉
前半は平穏な一幕。
後半はティルカーナ公爵家の終わり。
戦場にいるといっても、四六時中ずっと戦っているわけではない。時と場合によっては、平穏なひと時を過ごせることも当然ある。
そして、まさに今がその時であった。
「なのに、なんでこんな日に限って獲物の一匹も見当たらないんですかねえぇえ!」
矢筒を背負い、弓を握りしめ、腰には剣を佩き、懐には鉄扇と短剣を忍ばせたリンソーディアが荒野で吠えていた。その脇ではほぼ同じ装備のソティーリオが剣呑な目で周囲に目を走らせている。
予定していた討伐が終了し、翌日帰還となったこの日、兄妹は揃って狩りに出かけていた。
目的はただ一つ、両親の結婚記念日の祝いである。
本来ティルカーナ家では、記念日を祝うという習慣がほとんどなかった。誕生日はもちろん、誰かに好意を伝える日や、誰かを労り感謝する日なんかも、基本的にはなにもしない。
理由は単純で、好意も感謝も労りも、特定の日ではなくいつでも伝えられる時に伝えるべきだと考えているからだ。記念日や特定の日にあやからないと、照れ臭くて思いを伝えられないという人もいるだろうが、公爵家ではそんな言い訳は通用しない。
伝えたい時にはいつでも感謝し好意を伝える。贈り物だって渡したい時に渡せばいい。毎日毎日、大好きなのだと伝えればいい。
だって、特定の日まで自分や相手が生きている保証なんて、どこにもないのだから。
「ですが今日は両親がなにげに一番大切に思っている結婚記念日! 完全にたまたまですが、せっかくなんでささやかに祝いましょう! と思っていたのに!」
よりによって、なぜか荒野で獲物を探すハメになっている兄妹である。本日の野営地が荒野なので仕方がないのだが。
ささやかとはいえ、お祝いなので肉が食べたい。携帯食の固い干し肉にも飽きたことだし、なんでもいいから肉だ。肉を狩る。そして両親に振る舞うのだ。
そう思っていたのに、兎どころか鼠すらいないこの現状。鳥でも飛んでいれば撃ち落としてやるのに、それすらいない。これは一体どういうことだ。殺気ダダ漏れなのが悪いのか。
「よし、ディア。こうなったら仕方ない。魚で我慢しよう。遠くに川っぽいものが見える」
「魚ですかー……。そうですね、干し魚よりはずっといいですしね」
兄妹は妥協した。とにかくメインとなる食材の確保が最優先だ。収穫ゼロよりよほどいい。
そんなわけで、二人は遠くに見える川を目指して猛然と走り出す。とにかく時間が惜しいのだ。
川まで辿り着くと、今度はせっせと釣り餌になりそうなものを探して、簡易的な竿を作って釣りを始めた。とりあえずリンソーディアが釣り竿を見張り、その間ソティーリオが他の獲物がいないかとキョロキョロする。
「……んぎゃー! 兄様助けてください! 引き込まれるー!」
しばらくしてリンソーディアが悲鳴をあげた。慌ててソティーリオが川まで戻ると妹が竿ごと川に引きずり込まれそうになっていて仰天する。
「ディア!? 早く掴まって! うわ、でかい!」
「折れる折れる釣り竿が折れるうううう!」
ぎゃーぎゃー騒ぎながらも、二人がかりでなんとか魚を釣り上げた。肩で息をしながら陸に上げたそれは、なんとも不気味な巨大魚だった。不満げにびちびちと尾びれを地面に叩きつけ、ギョロリとした目がこちらを睨んでくる。目が、目が怖い。
「…………」
「…………」
なにこれ……。見たことのない巨大魚に二人は沈黙する。なんで荒野をちょろちょろ流れているこのしょぼい川に、こんなヌシみたいのが生息しているのか。
兄妹は悩んだ。果たしてこの魚はお祝いにふさわしいのだろうか。というか、食べられるのだろうか。
そもそもこの大きさでは捌くのも大変そうだ。普通の魚が人数分釣れればそれで事足りるのだが、この川でそれだけの数を釣れるかはまた別問題である。
「……ま、まあ、これはこれで。食べる部分も多そうですし」
「半分は焼いて、半分は煮てみようか。調味料は塩しかないけど。あ、臭み消しの薬草って持ってきてたよね?」
「はい、まだ残っていたはずです。あー、煮るなら芋とかも入れてみましょうか?」
二人はさらに妥協した。謎の巨大魚を使ったかなり先進的な料理ができあがりそうだ。
しかしまだ問題があった。兄妹はじっと巨大魚を見つめる。
「ところでこれ、どうやって運ぶ?」
「…………」
このまま運ぶのはどう考えても無理だった。パッと見た感じでも体長二メートルは超えているのだ。しかも重い。よくこんなものを釣りあげたなと自分たちに感心するくらいだ。
リンソーディアは黙って短剣を取りだした。ソティーリオもそれに倣う。
そして二人は、黙々と解体作業を始めたのだった。とにかくバラせば手分けして持ち帰れるはずだ。
大まかな部位ごとに切り分けて、よく分からない部分は捨てて、という作業にいそしんでいると、なにやらぞくりと気配を感じた。殺気のような、殺気じゃないような。兄妹は訝しげに顔を上げ、見えた光景に思わず固まる。
いつの間にやら、二人は狼の群れに取り囲まれていたのだ。巨大魚の匂いにつられてやって来たのだろうか。
「ええー……もう少し空気を読んで登場して欲しいんですけど……」
「本当だよ。どうせなら探している時に出てきてくれればいいのに」
ぶつぶつ文句を言いつつも、まあいいかと立ち上がる。念願の肉が向こうから出向いてきてくれたのだ。荒野狼は市場に出回ってこそいないが、前に食べたことがあるので食用であることは実証済みである。
巨大魚の解体を一旦中止し、二人はすらりと剣を引き抜いた。どうやら両親に出す食事の品数が増えそうだ。
「さて、では狩りましょう……」
か、というリンソーディアの声が途中で途切れる。
どこからともなく、凄まじい勢いで矢が飛んできた。それも複数。飛来してきた矢は狼の急所を的確に射抜き、狼たちは次々と仕留められていく。
「若様! お嬢様! 我々も手伝いますよ!」
「宴会するならやっぱり肉ですよねー!」
「どうせ明日帰るわけですし、残ってる酒も全部使って盛大に祝いましょう!」
「荒野狼と謎の巨大魚の酒蒸しなんてどうですかね!?」
うらああああ、という騎士団の雄叫びが周囲一帯にこだまする。第三者が見れば、この荒くれ者どもが由緒正しき公爵家騎士団だとは思わないだろう。というか、バレたら公爵家の権威が一気に失墜するので、永遠に気づかれてはいけない。
こうして予期せぬ助っ人たちの働きにより、荒野狼の群れは一分足らずで全滅したのであった。
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「……というのが確か二年前の結婚記念日の思い出だな」
「聞いてない! 誰もそんなこと聞いてないから! まだ無傷なんだし走馬灯を見始めるのはやめてくれ、ドゥーガル!」
皇帝が悲鳴のような声をあげたため、ドゥーガルは舌打ちをしながら走馬灯の途中で意識を引き戻した。
ちなみにあの後は、公爵家騎士団の半分が食材運搬係に、もう半分が調理係となり、無駄に豪華な夕飯となった。もちろんドゥーガルも妻も、子供たちと騎士団の奮闘に感謝した。
思い返すほどにあれはいい結婚記念日だった。巨大魚の味は忘れたけど。
「父様」
返り血でえらいことになっているソティーリオが馬で近づいてきた。そばにはリンソーディアもおり、難しい顔でじっと前線を見つめている。
「端的に言って、状況は最悪です。敵の数は目算で八百前後、もしかしたら千を超えている可能性もあります」
「千……」
息子の報告に絶句する。こちらの手勢は百五十ほど。どう足掻いても生還はありえない。
ドゥーガルはちらりと幼なじみに目を向けた。仮にも皇帝であるこのポンコツ野郎を、この状況下でどうやって守ればいい?
「いや待て、幼なじみ……?」
そうか。その手があったか。ドゥーガルの脳裏に、ひとつの可能性が浮かび上がった。
娘を見る。もしも、唯一生き残れるとしたら――。
「ディア、陛下を連れて死ぬ気で皇宮まで戻りなさい」
「……はい?」
「ドゥーガル、何言ってるんだい!?」
リンソーディアが瞠目し、皇帝が信じられないとばかりに声を荒らげた。
「君たちを置いて逃げろと言うのか!? そんなことできるわけがないだろう!」
「うるせえな、お前がここに残ったところで足手まといに決まってんだろ。それにこんなところで仮にも皇帝をむざむざ殺されてたまるかってんだ。ポンコツはポンコツらしく、大人しく尻尾を巻いて皇宮に逃げ帰んな」
いつもは丁寧な言葉遣いで話すドゥーガルが、つい少年時代のような荒れた口調になる。それを聞いた皇帝は「ひ、ひどい」とか言いつつも、まったくの正論だったため反論はしなかった。
そう、自分が足手まといだということは知っている。もうずっと前から。
「ドゥーガル様! もう持ちません!」
前線にいた騎士のひとりが血相を変えて報告に戻ってくる。かなり粘っていたが、戦線は徐々に押されてこちらへと近づいてきていた。
もう時間がない。ドゥーガルはもう一度娘に向き直った。
「ディア、行きなさい。陛下を連れて皇宮へ。君にしか頼めない」
「い、嫌です。私もここに残ります」
「ダメだ。陛下ひとりでは皇宮まで辿り着けない。たとえポンコツでも陛下は陛下だ。我々が守らねばならない」
あまりにもポンコツと言われすぎて、なんだか自分の名前がポンコツだったような気がしてくる皇帝である。
リンソーディアは必死で首を横に振った。父の言うことはわかるが、納得できるわけがない。
「嫌です……! 私もここで最後まで戦います!」
家族も騎士団も失って、それでも一人で生きていけと言うのか。
そんなのは絶対にごめんだった。そんなのはあまりにも寂しすぎる。
しかしドゥーガルは娘の言い分を聞き入れなかった。有無を言わせず真正面から娘を見据える。その視線の強さに、リンソーディアは怯んだ。
「父様……」
「ディア、もう一度しか言わない。生きなさい。君が本当に守りたい人はまだ生きている。それなのにこんなところで一緒に死ぬ気なのか? リンソーディア、わたしの娘。君の死に場所はここではないはずだ」
本当に守りたい人。その言葉に、リンソーディアはぎゅっと唇を噛み締めた。
……そうだ。初陣の日に忠誠を誓った人がいる。あの日から、リンソーディアの命は自分のものではなくその人のものだ。
だから、死ぬならその人を守って死ぬべきだった。瞑目する。確かにここは、自分の死に場所ではない。
「……わかり、ました。陛下のことはお任せください。必ず皇宮までお送りします」
「ありがとう、ディア。というわけで、陛下はさっさと帰ってください。心底邪魔です」
しっしっと手を振るドゥーガルに、皇帝が顔を歪めた。
「……戦う以外の手はないのか。本当に?」
「逃げたところで死ぬ日が数日延びるだけだ。なら、ここでお前たちが逃げるための時間を稼いだほうがよっぽど有意義だな」
戦線が近づいてくる音がする。本当に、もうこれ以上は、持たない。
「陛下、行きましょう」
「しかし……」
「殴って気絶させて荷物のように運ばれるのと、自分で馬を走らせるのとではどちらがいいですか?」
荒んだ目をしたリンソーディアに脅され、皇帝は後ろ髪を引かれるような思いで、それでも言われた通りに皇宮を目指して走り出した。護衛として古参の騎士のひとりが無言で二人について行く。よく見れば、彼はかつてリンソーディアの初陣にも参加していた騎士だった。
残ったドゥーガルとソティーリオは、ホッと息を吐き出した。二人はあっという間に遠くなるリンソーディアの背中を見つめる。
「さすがですね、父様」
「君だって同じことを考えていたんじゃないか?」
「そうですね。ここで無意味に全滅するより、ディアだけでも生きていてくれたほうが何千倍も救いがありますから」
この中で最も生き残れる可能性が高い人物。それがリンソーディアだった。本人の生命力や戦闘力もさることながら、彼女を守る強力な盾の存在が大きい。
「ヴェルフランド殿下なら、絶対にディアを守ってくださるだろう」
「ええ。殿下ならそう簡単にディアを死なせませんよ。ディア自身が生きる気力をなくしても、殿下なら絶対に見捨てませんしね」
あのポンコツ皇帝の息子とは思えないほど、有能で冷酷で人に無関心な第三皇子。それでいて、愛する時はどこまでも深く相手を愛するヴェルフランド。
無事に皇宮まで辿り着くことさえできれば、あとは彼がリンソーディアを助け、守り、支えてくれるだろう。自分たちの分まで、きっと。
だから自分たちがすべきことは、リンソーディアが皇宮まで辿り着き、ヴェルフランドと合流するまでの時間を稼ぐことだった。
「なんか俄然やる気が湧いてきましたよ。ディアの未来は僕が繋ぐ」
「その意気だ。……せいぜい足掻いてやろう。そうだな、せめてマルグレートが来るまでは生きていたい」
ドゥーガルが笑う。妻マルグレートがここへ来ることを、微塵も疑っていない顔だった。
この後、ティルカーナ公爵家は大軍を相手に大いなる奮戦を見せる。それこそ指揮していたあのクライザーの予定を大きく狂わせるほどに。
じりじりと後退してはいたが、公爵家は確実に敵軍の数を減らしていった。それと同時に騎士団も着実に数を減らしていったが、しばらくしてマルグレートが五十ほどの援軍を引き連れて到着。軍師として名高い彼女は軍扇を打ち捨てて剣を取り、夫と共に最後の最後まで娘を守るべく戦い抜いた。
やがて、公爵家すべてが息絶えた頃、クライザーの軍は気づけば半数以下まで数を減らしていた。思わぬ抵抗に行軍の予定も大幅に遅れ、リンソーディアは皇宮まで無事に逃げ延び、クライザーの予定は狂わされっぱなしだ。
ついでに気まぐれでソティーリオの命を拾い上げてしまい、クライザーは自分の行動に首を傾げる。首を傾げながらも、狂った予定を元に戻す算段を立て始めた。考えながら、独りごちる。
「それにしても、ティルカーナ公爵家ほどの人材をこんなにあっさり使い捨てるとは……やっぱり帝国は愚かだね」
その帝国が滅びるまで、あと少しだ。