在りし日のティルカーナ公爵家〈社交界編〉
ソティーリオが出ずっぱり。
皇帝主催の舞踏会の日。
アークディオス皇宮には、招待を受けた貴族たちが一堂に会していた。皇帝主催ということもあり、普段はあまり顔を出さない珍しい顔ぶれも揃っている。
そのため、婚約者のいない未婚の男女は特にそわそわしながら会場内を見回していた。彼らにとって社交界とは出会いの場でもあるのだ。意中の人の姿を見つけて盛り上がったり、普段はなかなか会うことのできない憧れの人の姿を探したり。花のような令嬢たちも、凛々しい令息たちも、まだ見ぬ伴侶探しには余念がない。
「ティルカーナ公爵は不在か。代わりに公子と公女が来るらしいが」
「そういえば属国シェーラが不穏な動きをしていると聞いたな。その対処で忙しいのだろう」
久しぶりに姿を現す面々の中には、帝国唯一の公爵家も含まれていた。もっとも一家が揃ってやって来ることなどほとんどなく、大抵は誰かが戦場に残って目を光らせている。今回は公爵夫妻が前線に残り、子供たちだけが帝都に戻ってきたようだった。
「ふん。血濡れた一族の分際で、よくもまあ平気でこのような場に姿を現せるものだ。厚顔極まりない」
「しかし皇帝陛下が直々に招待なさったのだろう? ならば我々がとやかく言うことでも……」
当人たちがまだ到着していないのをいいことに、貴族たちの一部が勝手なことを言いたい放題言っていく。
公爵夫妻が来るならともかく、公子と公女だけなら、たとえ聞かれても構わないと思っているのだろう。
「皇族の血を引いているとはいえ、所詮は帝位継承権を永久放棄している連中だ」
「その通りですな。それに加え、彼らの両手は血に染まりきっている。もはや我らのほうがずっと高潔で純粋な貴族――」
調子よく喋っていたその場に、くすくす、という場違いなほど可憐な笑い声が響き渡った。小さな声だったにも関わらず、声高に公爵家の立場を疑問視していた貴族たちが一斉に口を噤む。
いつの間にか、口元を隠してくすくす笑う少女と、彼女をエスコートする眼鏡の青年が佇んでいたのだ。
「聞いたかい、ディア? 皆様とても面白そうな話をしているようだね」
「ええ、兄様。あまりにも興味深くて、わたくし笑いが止まりませんわ」
お揃いの琥珀金の髪と、アメトリンの瞳。世界中の芸術家たちの粋を集めて作り上げたかのような、際立って端麗な顔立ち。
誰かが喉の奥で「ティルカーナ……」と呟いた。あちこちから息を呑む音や、感嘆の溜め息が漏れ聞こえてくる。
しかし周囲からの視線や注目などには目もくれず、二人はにこやかに会話しながら会場内へと足を踏み入れた。彼らからすれば、他人からの評価など意識を向けるだけの価値もないのだ。
「おお、これはこれは、ソティーリオ様とリンソーディア様ではありませんか。お久しゅうございますな」
兄妹のもとに顔見知りの侯爵が近づいてきた。彼を一瞥し、ソティーリオは完璧で胡散臭い笑顔を浮かべる。
「お久しぶりです、ファウベル侯爵。新事業がうまく軌道に乗ったとお聞きしましたよ。さすがですね」
「もうご存知でしたか。ええ、おかげさまで。そうだ、フローレンス、こちらに来なさい」
侯爵の呼びかけに、少し離れたところで友人と会話していたご令嬢が歩み寄ってきた。侯爵がリンソーディアとソティーリオに向き直る。
「すでに何度かお会いしているかと思いますが、改めて紹介させてください。わたしの娘のフローレンスです」
紹介された彼女の姿に、兄妹は揃って閉口した。確かにフローレンスとは何度か顔を合わせたことがある。しかし、記憶の中の彼女と目の前にいる彼女がまったくの別人に見えたため、思わず三度見してしまった。
ふわふわとした綺麗なブラウンの髪は、ドリルのようにがっちり巻かれて縦ロールに。以前は年相応の薄化粧だったはずが、今日はちょっと頑張りすぎたのか実年齢より二十歳ほど年上に見える出来栄えに。
ついでに装いもこれからショーに出るかのような気合いの入り方で、いささか豪華すぎるほどだ。あまりにもゴテゴテで、このあと身軽に踊れるのか心配になるくらいである。
……もしや、このフローレンスは偽者か? 自分たちはファウベル侯爵家に試されているのか? そんな疑念まで胸中に飛来してくる。
「ファウベル侯爵家の長女、フローレンスですわ。お久しゅうございます、公子様。わたくしのことは覚えておられるでしょうか」
「もちろんですよ。こうして直接お会いするのは三年ぶりでしょうか」
仮面の微笑みを浮かべつつソティーリオは思った。……やはり彼女は本物のフローレンスだったらしい。危うく偽者扱いするところであった。あと、さりげなくリンソーディアを無視したこともいただけない。
「確かリンソーディア様はうちの娘と同い年でしたかな? 近頃は娘に大量の縁談が来ておりまして、きっとリンソーディア様も引く手あまたで大変でしょう。お父上やソティーリオ様もご苦労なさっているかと……」
「やぁだ、お父様ったら。ヴェルフランド殿下の婚約者候補であるわたくしと、野蛮な戦姫を同列にしないでくださらない?」
明らかに嘲笑を含んだフローレンスの声音に侯爵が凍りついた。
「フ、フローレンス! リンソーディア様に向かってなんてことを……!」
「あらやだ、ごめんなさい。つい本音が」
慌てて侯爵が娘を諌めるも、彼女はまったく悪びれていない顔で白々しい謝罪を口にする。しかし顔面蒼白な侯爵とは違い、リンソーディアの表情は一ミリたりとも崩れはしなかった。
「構いませんわ。本当のことですもの。それに正直なところはフローレンス様の魅力のひとつでもあるのですから、そう目くじらを立てる必要もないかと」
「そうだね、ディア。それにヴェルフランド殿下の婚約者候補として最有力なのは君だしね」
さりげないソティーリオの挑発に、フローレンスが分かりやすく顔を歪めた。表情に出やすいのは可愛げのある証拠なので、リンソーディアはただただ微笑む。仮面ではなく、わりと本気で微笑ましい。
「……まあ、そうだったかしら? でも確かにリンソーディア様は公爵家のご令嬢ですものね。実情はどうあれ、お名前が上がってもおかしくはないわ」
両者の間に火花が散った。だが火花を散らしているのはフローレンスだけであり、ソティーリオはそれを笑顔で弾き返し、リンソーディアは歯牙にもかけずに微笑んでいる。
侯爵はだらだらと冷や汗をかき、これ以上失態を重ねる前にと娘を引き連れて足早に立ち去った。その様子を見てソティーリオはくつくつと笑う。
「君が殿下の婚約者候補だなんて業腹だけど、こういう時は役に立つ肩書きだよね。一発撃退できる殿下の名前の威力には感謝だなあ」
「兄様ったら、悪い顔をしていますよ」
「おっと、僕としたことが」
あははうふふと花が飛び交う。しかし先ほどから穏やかな笑みしか浮かべていない彼らの様子に、周りの貴族たちは背筋が冷えるのを感じていた。
公子と公女だけでもこれなのだ。もし公爵夫妻も来ていたとしたら、誰が彼らに勝てると言うのだろう。この場はティルカーナ家の独壇場になっていたはずだ。
会場内に様々な思惑が渦巻くなか、玉座に腰掛けていた皇帝が皇妃の手を取って立ち上がった。舞踏会の始まりである。
アークディオスにおける舞踏会の作法は緩いものだ。まず皇帝が、そしてその他の皇族たちが踊り、そのあとは誰が誰と踊ってもいいことになっている。
ただしパートナーがいる人物にダンスを申し込む場合は、先にそのパートナーに声をかけるのがマナーとされていた。そしてパートナーが本人に訊き、本人が頷いたなら申し込みが受諾されたことになる。
とはいえ、これはあくまで形式的なことであり、よほどでない限り断られることなどほとんどない。そのため誰もが気兼ねなくダンスを楽しめるのだが――。
「ティルカーナ公子、妹君と踊りたいのですが」
「ああ、申し訳ありません。妹はいま席を外しておりまして」
男が近づいてくるたびに、ソティーリオはサッとリンソーディアを背後に隠して見え透いた断り文句を口にする。
「公子、妹君をダンスにお誘いしたいのですが」
「申し訳ありません、妹は少し疲れているようで」
「ソティーリオ殿、妹君と踊」
「せっかくなのですが、これから陛下のところにご挨拶に行かねばならないので」
もはや最後まで言わせず門前払いである。兄ソティーリオによる鉄壁の守りは社交界でも有名であるため、『本人に訊く』という段階まで辿り着かなくても別に誰も怒らない。一部の令息たちの間では、誰があの鉄壁の守りを崩せるかで盛り上がっているようだが、今のところは全員安定の撃沈である。
その一方で、ソティーリオにちらちらと視線を送り、ダンスを申し込んで欲しそうなご令嬢の姿も多数見受けられた。しかし彼はそれらの視線を完全に無視してひたすら害虫駆除にいそしむ。
とりあえず皇帝に挨拶に行くと言ってしまった手前、兄妹は玉座のところで他の貴族たちと談笑している皇帝のもとへと近づいた。皇子たちは会場のあちこちに散っており、皇帝のそばにいるのは皇妃だけだ。ついでに第三皇子の姿は初めからない。
「陛下、皇妃様。ソティーリオ・シド・ティルカーナ、及びリンソーディア・ロゼ・ティルカーナがご挨拶申し上げます。アークディオス帝国がますます栄え、陛下の御代が永遠に続かんことを」
「おお、二人ともよく来てくれた。元気だったかね?」
にこにこと応じてくれる皇帝と、無表情の皇妃。皇妃が公爵家を疎ましく思っていることは知っているため、彼女の反応を気にする必要などない。形式通りの挨拶を済ませてすぐに退散すればいいだけだ。
「我々はこの通りつつがなく暮らせております。両親も共に壮健ですのでご安心ください。特に父は陛下とお会いできず残念がっておりましたよ」
「わたしも残念だな。ドゥーガルとはもう一年近く会っていない」
皇帝がどこか寂しそうな顔をする。ティルカーナ兄妹と第三皇子が幼なじみであるように、皇帝と公爵も幼なじみの間柄だ。表向きの立場はどうあれ、二人の間には確かな友情が存在している。
「それでは、わたしと妹はこれで失礼し……」
「ちょっと待ってくれないか。シェーラとのことで公爵家の意見を聞きたいんだが」
皇帝の言葉に、隣にいた皇妃が不快そうに目を吊り上げた。
「陛下、このような場で血なまぐさい話はおやめください」
「……そうだね。では場所を変えよう。ソティーリオ、悪いが少し付き合ってくれないかな?」
「しかし陛下……」
ソティーリオが言い淀む。皇帝の誘いを断るわけにはいかないが、席を外すとなるとリンソーディアが一人になってしまう。彼女を残していくことなど考えられない。さて、どうしようか。
悩めるシスコンに救いの手を差し伸べたのは、なんだかんだ言って頼りになる幼なじみであった。
「なら、俺がディアを預かっておく。それならいいだろ」
忽然と現れた第三皇子の姿に、会場内がざわついた。このような場には滅多に姿を現さない彼の登場に、皇帝が意外そうに目を瞠り、皇妃が汚物でも見るかのような表情を浮かべる。
ヴェルフランドはリンソーディアのそばへと歩み寄り、皇帝と皇妃には目もくれずにソティーリオへと視線を向けた。
「俺がディアと適当に踊ってるから、お前はさっさと用事を済ませて帰ってこい」
「……殿下にそう言われては仕方ありませんね。ディアもそれでいいかい?」
「はい、兄様。殿下と一緒にいますので、わたくしのことは心配なさらないでください」
リンソーディアの返事に、ソティーリオは渋々頷いた。ヴェルフランドならば妹を他の男に明け渡したりしないし、なにがあっても絶対に守ってくれるだろう。腹立たしいが、妹を預けるには申し分のない相手だ。
「じゃあ、すぐに戻ってくるから。殿下のそばから離れないようにね」
リンソーディアにそう言い含め、ソティーリオは未練たらたらで皇帝と共に広間をあとにした。戻った時にリンソーディアになにかあれば、即座に皇宮を半壊させて犯人を地獄送りにする所存である。
そんなことを目論んでいたソティーリオだが、残念ながらすぐには戻れないのだった。原因は他の貴族たちである。
「おや? 陛下、ティルカーナ公子を引き連れてどちらに?」
ちょうど外の空気を吸いに出てきたらしいガルシア伯爵とユベール子爵に声をかけられてしまったのだ。ソティーリオは内心で舌打ちをする。面倒な狸に見つかった。
「いやなに、シェーラのことで公爵家の意見を聞きたくてね」
「ほう、シェーラですか。そういえば本日公爵は不在でしたな。もしやあまり思わしくない状況なのですか?」
「帝国に仇なそうとする反乱軍が秘密裏に動いているという噂も聞きますな。不躾を承知で申し上げますと、公子、ティルカーナ家は後手に回りすぎではありませんか?」
本当に不躾なその言葉に、ソティーリオは心の中だけで彼らをボコボコにしたのち吊し上げの刑に処した。実際にするわけではないので、このくらいは許されるはずだ。
ちなみにこのガルシア伯爵とユベール子爵の娘たちは、先のファウベル侯爵令嬢と懇意の関係にある。類は友を呼ぶ。その父親たちもまた然り。
身の丈に合わぬ野心や思惑は、よほどの策士でない限り、自分の足を引っ張るだけだというのに。
「さすがは帝国への忠誠心が強いお二人です。そのように心配なさるのも無理はありません」
ソティーリオは完璧な笑顔を浮かべて狸たちを迎え撃つことにした。物理的にボコボコにできないなら、精神的にボコボコにすればいいだけである。
「ですが、心配は無用です。……陛下、間もなくシェーラの不穏分子の洗い出しが終了します。出した膿はキュアの平原にて討伐する予定です」
「そうか。ドゥーガルが動くのか?」
「はい。父が総大将を務めます。ただシェーラはもともと軍事国家です。地の利も彼らにあることを考えると、完全に制圧するには少し時間がかかるかもしれません」
淡々と事実を述べるソティーリオに、伯爵が「時間がかかるだと?」と難癖をつけてきた。
「もっと早く討伐できんのか。帝国に牙を剥く輩だぞ。即日蹂躙せねばなるまい」
「その通りだ。常々思っていたが、どうも公爵家は動きが遅すぎるな。もっと速やかに敵を滅ぼせないものかね」
だったら自分たちが前線に出ればいいだろ、とソティーリオは思った。しかしそれを口に出すほど愚かでも、ましてや余裕がないわけでもなかった。
ソティーリオは笑みを深める。どこまでも完璧で、どこまでも相手を哀れむ笑みだった。
「これは失礼しました。どうやらお二人は帝国第一主義のあまり、属国の気性についてはよくご存知ないようですね」
「なに?」
「陛下ならよくご存知のはずですが、攻め方には大きく分けて二通りあります」
ひとつは、圧倒的な武力を持って一気に制圧する方法。
そしてもうひとつは、じわじわと時間をかけて追い詰める方法。
「敵の戦力が明らかに格下の場合は圧倒的な武力行使で済みますが、今回のように強敵が相手の場合はそうもいきません。たとえ勝ててもこちらの損害がかなり大きくなってしまう」
そのため公爵家は斥候やら密偵やらを派遣してシェーラについて調べていたのだ。時間はかかるが、確実に仕留めるためには必要なことだ。
その結果、シェーラの反乱軍は、強いが罠に嵌りやすいことが判明していた。頭脳戦は苦手で、焦らして苛立たせれば、考えるより先に体が動いてしまうのだ。
全員がそうだというわけではないが、全体としてはそういう傾向が強いようだった。
「だからこそ我々は時間をかけているのですよ。最低限の戦力で、最高の結果を出すために。そうですよね、陛下?」
「さすがだな。君がいれば次代の公爵家も安泰だろう。帝国としても頼もしい限りだよ」
まだなにか言いたげな子爵と伯爵を適当にあしらって追い払い、皇帝にはさらにいくつか報告し、ようやくソティーリオは会場へと舞い戻る。そしてそこに広がる煌びやかな世界を見て目を眇めた。
平和と安寧を当然のように享受する貴族たち。
生きているのが当たり前で、明日も明後日も必ずやってくると信じて疑わない、刹那的な生き方。
吐き気がした。こんな連中を守るために命懸けで戦っているのが、本当に馬鹿みたいに思えてくる。
早く帰りたいと思った。帝都にある公爵家の本邸ではなく、戦いの前線へと戻りたい。
別に戦いたいわけでも死にたいわけでもないけれど。戦場に戻れば家族に会えるし、平和ボケして的外れな文句を言う貴族たちの顔も見なくて済む。文字通り、戦場にいるほうがよっぽどマシだった。
そんなことを考えて少し感傷的になっていたら、会場中の視線を釘づけにして見事なダンスを披露するヴェルフランドとリンソーディアの姿が目に入った。
「…………」
思わず壁に特大の穴を開けそうになったが理性で踏み留まる。
無駄にお似合い。無駄に息ぴったり。確かにこれなら他の男が付け入る隙もないだろう。さすがヴェルフランド。完全に有罪である。
「あ、兄様。陛下とのお話は終わったのですか?」
だが戻ってきたリンソーディアの笑顔が最高に可愛かったので、ソティーリオは幼なじみへの有罪判決を取り消すことにした。妹には待たせてごめんと笑顔を向け、幼なじみには妹を害虫から守ってくれたことへのお礼を言う。
夜は長い。舞踏会はまだ終わりそうになかった。