在りし日のティルカーナ公爵家〈日常編〉
お母様が初登場。
なんか、めちゃくちゃぐっすり寝た気がする。
久しぶりに帝都本邸の自分の部屋で眠ったリンソーディアは、寝すぎて逆に重い体をなんとかベッドから引き剥がした。
じつに最高の寝心地であった。最高級のベッド。最高級の寝衣。そして。
「おはよう、ディア。いい朝だね」
いつからいたのか、ずっと傍らで妹の寝顔を見ていたらしき、兄。リンソーディアは小さく首を傾げたあと、寝ぼけた頭で納得する。なんだ、ただの朝チュンか……。
なおリンソーディアは朝チュンの意味を完全に誤解しており、しかも声に出さずに納得してしまったため、「違う」という真実を教えてくれる者もまたいない。
「ほらディア、座ったまま二度寝しないの。今日は久しぶりに家族全員が揃った朝食だからね。早くおいでね」
「うー……はい……」
そういえば、家族全員が揃って本邸で食事をするなんていつぶりだろう。全員揃うこと自体も珍しいが、揃うとしたら大抵は戦場でだ。こうして貴族らしい食卓を皆で囲むなんて、少なくともここ一年は覚えがない。
侍女が運んできてくれた水盤で顔を洗い、装飾の少ないドレスを着せてもらって、足元はいつも通りヒールではなく軍靴で固める。いざという時、ドレスは破いて身軽にできるが、ヒールを脱いで走るわけにはいかない。靴は大事だ。踏み込みひとつで命取りになることもあるのだから。
着替え終わると、今度は侍女が長い髪を綺麗に結い上げてくれた。自力でやるとどうしても適当にくくるしかないので、やってもらえると非常にありがたい。
本当は短く切ってもいいのだが、なぜか兄が全力で止めてくるので小さい頃からなんとなく伸ばし続けて今に至る。伸ばしていても戦場でたまに切り落とされてしまうので、なかなか一定以上の長さにはならないのだが。
ちなみに髪を切ろうか悩んでいるとヴェルフランドに打ち明けてみたところ、「お前は美人だし髪も綺麗だし、長くても短くても似合うだろ」という超適当な答えが返ってきた。なんの参考にもならないうえ、無駄にむず痒い思いをしただけで終わった。
小さくあくびをしながら食堂へ向かうと、すでに全員が席に着いていた。
「ディア、おはよう。よく眠れたか?」
「まだ眠そうね。夜更かしは体に悪いから気をつけなさい」
「ああ、今日もディアは最高に可愛いね。さすがは僕の妹」
「父様、母様、兄様、おはようございます」
席に着きながら、平和だなあとしみじみ思う。心情的な意味ではなく、帝国の治安的な意味で。
こうして家族みんながここにいる。誰も戦場に行っていない。自分と父は昨日帰ってきたばかりで、明日には兄が行くけれど。それでも今この瞬間だけは、リンソーディアの世界は確かに平和だった。
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食後、父と兄は「軽く鍛錬してくる」と肩を回しながら出ていった。本来であればリンソーディアも二人に付き合うのだが、本日は母の指導のもと淑女教育を受けることになっている。
「それじゃあディア、この本を頭に乗せて。……はい、いいわね。そのまま前を向いて、足元を見ずに真っ直ぐ歩きなさい」
リンソーディアは母に言われた通り頭に本を乗せ、それを落とさないよう気をつけながら、床に印された直線に沿って真っ直ぐに歩き始めた。母の言葉だけを聞けば、真っ当な淑女教育を受けているようにも見える。
「もっと優雅に。足音は控えめに、でも不自然じゃないくらいには立てて。戦場ではいいけど、あなた足音がしなさすぎるから気をつけなさい。そう、いい感じね」
普段は意識的に自然な靴音がするよう心がけているが、やはり気を抜くとすぐ無音になってしまうらしい。頭の上に本を五冊積み重ねた状態でリンソーディアは気を引き締めた。
普通に、あくまでも普通に。淑女ではなく曲芸師でも目指しているのかという突っ込みもないまま、母監修の淑女教育はますます加速していく。
「次はそのまま方向転換。本を落とさずに……振り向きざまに壁に向けて鉄扇を投擲」
ズドドドド、と壁にバラされた鉄扇の羽根が生えた。もちろん生えたわけではなく突き刺さったのであるが。
「――そして、下手人に見立てた私に斬りかかりなさい」
その言葉とほぼ同時に、母が構えた剣と、リンソーディアの短剣が激突した。頭の上に重ねていた本がバサバサと落下する。その音で、母娘は同時にふっと息を吐き出した。
「動きは合格。全体的にはまあまあね。淑女たるもの、いつだって優雅で洗練された動きを心がけなさい。社交界の連中に揚げ足を取られるわけにはいかなくてよ」
「はい、母様。公爵家の人間として良い働きができるよう、これからも鍛錬を続けます」
実際、ティルカーナ家は戦闘一家であるがゆえに陰口を叩かれることが多い。しかし裏を返せば、それ以外の分野では一切の口出しができないほど完璧な一家でもあった。
公爵家としての仕事は抜かりなくこなし、貴族としての立ち居振る舞いも完璧。民からの信頼も厚く、公爵家の粗を探せば探すほど逆にその良い評判が浮き彫りになる。
『正攻法で築き上げた実績と能力は、誰にも文句をつけられないし、覆せない』
これは当時九歳だった第三皇子による至言であり、彼はその言葉通りにこれまで行動してきた。どれだけ疎まれ怖がられていても、彼の有能さは誰の目にも明らかなのだ。そしてこの至言はティルカーナ家にも当てはまるとリンソーディアは思う。
ズルや不正によってどれほど多くを積み重ねても、それらは嵐が来れば一瞬で崩壊してしまう砂の城だ。しかし確かな努力で地道に築き上げたものは、土台も造りもしっかりしているため、嵐のような批判や糾弾に遭っても耐えられる。最終的には文句を言っている側が押し黙るしかないのだ。
「ところで母様、いつもどうやってドレスの中に剣を仕込んでいるんですか? 私もできれば短剣じゃなくて長めの得物を仕込みたいんですけど……」
「ああ、これ? ちょっとしたコツがあるのよ。でもあなたが好むドレスの型なら、短剣を隠すほうが向いているんじゃなくて?」
言うまでもないことだが、公爵家の淑女教育は、一般の淑女にはまったく必要のない能力を身につけさせるものであった。まあ、リンソーディアには必要なことなのでいいのだが。
「じゃあ次は、敵とダンスをするときの心構えよ」
……やはり、必要のない教育な気もする。しかし当のリンソーディアが「はい、母様!」と意欲満々なので、恐らくこれでいいのだろう。
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午後になり、リンソーディアとソティーリオは公爵家騎士団を引き連れて登城していた。帝国軍による合同演習に参加するためだ。
不定期に開催されるこの合同演習は、おもに近衛騎士隊の実力向上のために行われる。不定期なのは、公爵家が帝都に滞在しているときにしか行われないからだった。彼らがいないと合同演習の意味がないのである。
そんなわけで、全員で軽く走り込みをしてから模擬戦が始まった。まずは近衛隊代表の十名と、公爵家代表の十名による手合わせだ。
リンソーディアは木陰で休みながら、ぼんやりと演習場に巻き起こる竜巻を眺める。竜巻の中心から近衛騎士たちの悲鳴が聞こえたが、死にはしないだろうから大丈夫であろう。
「……おい、なんで演習場に竜巻が起きているんだ」
「おや、これは殿下。珍しいですね。今回の合同演習に参加されていたんですか?」
リンソーディアの隣にヴェルフランドがやって来る。彼はなんとも言えない表情で超局地的な竜巻を見つめていた。
「俺はいま来たからな。だが兄上たちは最初の走り込みから参加していたはずぞ。まあ、アノーヴァン兄上は見学かもしれないがな。少なくともあの竜巻に巻き込まれて無事でいられる人じゃない」
「え、まさか模擬戦で竜巻が起こるのって普通のことじゃないんですか?」
公爵家騎士団だけの演習では度々竜巻が起こるため、これが普通なのだとばかり思っていたリンソーディアだ。
「お前は模擬戦には参加しないのか?」
「しますよー。団体戦じゃなくて個人戦ですけど。対戦相手はアノーヴァン殿下です」
「ああ、それ直前に変更になってたぞ。うっかり第一皇子を殺されたら困るとかで」
「いやいやいや、破落戸じゃあるまいし、私だって手加減くらいできますよ」
リンソーディアは心外そうに眉を寄せる。手加減できずにうっかり殺してしまうのは雑魚の特徴だ。そんなのと同じだと思われたくはない。
ほどなくして演習場を席巻していた竜巻が収まった。ようやく視界がはっきりし、近衛騎士たちが目を回して倒れているのが見える。以前は五対五でやって瞬殺だったため今回は十人で対戦したのだが、やはり結果は公爵家の圧勝であった。
倒れている十名の運び出しが終われば、次の十名が出てくる。どうやらアノーヴァンも参加予定だったらしいが、先ほどの竜巻もあり、代わりに別の騎士が出ることになったようだ。賢明な判断である。
そしてその十名も、やはり公爵家に敗北する結果となった。もし次があるなら竜巻対策でもするといいだろう。
ここで小休止を挟み、荒れた演習場を整え、今度は個人戦が始まる。予定では五組で、近衛隊側から最初に出てきたのはラトヴィッジ、公爵家からはソティーリオが出てきた。思わぬ組み合わせにリンソーディアが驚いた顔をする。
「あれ? 兄様はあなたと対戦じゃありませんでしたっけ?」
「俺とリオじゃ短時間で決着がつかないからな。交代した」
「交代って誰と……って、え? ま、まさか」
リンソーディアの頬が引きつる。アノーヴァンとの対戦が変更になった自分と、ソティーリオとの対戦が変更になったヴェルフランド。嫌な予感しかしない。
「俺とお前が手合わせするなんて久しぶりだな。子供の頃以来か?」
どうやらリンソーディア対ヴェルフランドという、滅多にない組み合わせが実現しそうだった。
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帰りの馬車の中で、リンソーディアは大いに膨れていた。膨れた顔も可愛いなあと思いつつ、ソティーリオは苦笑しながらも妹を慰めるべく声をかける。
「ディア、あの殿下相手によく善戦したね。あれは化け物級に強いんだから、か弱い君が敵わなくても当然だよ。でも君を荷物のように抱えるのはいただけないから、今度一緒に闇討ちしようね」
「ふ、ふふ……次こそ殿下に一泡吹かせてみせますとも」
「うん、その意気だ」
リンソーディアとヴェルフランドの対決は熾烈を極めた。ヴェルフランド相手に手加減する理由など当然なく、リンソーディアは全力で幼なじみを狩りに行った。ゆえに団体戦でもないのに竜巻まで巻き起こった。個人戦では珍しいことである。
しかし、どうやら気合いが入りすぎていて無駄に体力を消耗してしまったらしい。体の重心が一瞬ぐらりと揺れた。その隙を見逃さなかったヴェルフランドに足元を狙われ、竜巻が収まった時にはなぜか肩に担がれていたのだった。
「ちょっと荷物のように担ぐのはやめ……ぎゃー! 脱げる! ずり落ちる!」
「うるさいな、決着ついたんだから下がるぞ」
「せめて横抱き! 横抱きにしてください! 敗者には優しくあるべきです!」
「横抱き? こうか?」
ひょいと小脇に抱えられ、リンソーディアは憤然とした。まさか本気で自分のことを荷物だと思っているのではなかろうな。
「ここはお姫様抱っこをする場面だと思うのですが」
「いざという時に備えて片手は空けておいたほうがいいだろ」
「……ソウデスネー」
リンソーディアの目が死んだ。こいつに丁重に扱われることを期待した自分が馬鹿だった。
しかしこの時のやり取りが功を奏したのか、この日以降ヴェルフランドはきちんと両手で抱き上げてくれるようになった。いざという時だけ片手で持ち上げればいいと判断したらしい。
そんな不届き者な幼なじみをどう闇討ちするかで兄妹が盛り上がっているうちに、馬車は本邸へと辿り着いた。気づけば辺りはすっかり暗くなっている。
このあとは家族みんなで晩餐を楽しんで、各自眠って、そして朝がくれば、また兄は戦場へと出ていくことになる。
いつものことだ。常に誰かが戦場にいる。帝都に戻ってきても全員が揃うことなんて滅多になくて。
「兄様、今日は楽しかったですね」
「そうだね」
次に家族全員が揃うのはいつだろう。リンソーディアはぼんやりと考える。たぶん、その時は帝都ではなく戦場にいるはずだが。
「そういえば、母様が皇妃様とのお茶会でお淑やかに大喧嘩したらしいよ。おかげで僕たち全員しばらく登城禁止だって」
「なんと」
お淑やかに大喧嘩とは……という疑問は特に浮かばないまま、兄妹は揃って遠い目をしたのだった。