かくして彼は『彼』となる〈青年期編〉
ヴェルフランド三部作、最終話。
こうして彼は、今の彼になった。
皿の上に、謎のヘドロと隕石が乗っていた。
もちろん比喩だ。謎のヘドロも隕石も、どちらもリンソーディアが生み出したれっきとした料理である。
「…………」
食べる側の愛やら勇気やらが試されるそれを、執務室で休憩中のヴェルフランドが黙々と口に運んでいた。ちなみに彼の横にはぶっ倒れたノルベールがおり、愛も勇気も足りなかった者の末路を辿っていた。そんな彼を邪魔だと思ったのか、どこからともなく現れたラシェルが速やかに彼を回収していく。
数分後、ヴェルフランドは綺麗に平らげた皿にフォークを置いた。そして無表情のまま、一言。
「不味い」
「なるほど、いつも通りということですね」
なにひとつ成長しない己の料理の腕に思うところは特にないのか、リンソーディアはちゃっちゃと皿を片付け始める。悔い改めない彼女の様子に、ヘドロと隕石を食べるハメになったヴェルフランドは微妙にイラッとした。文句を言うだけ無駄なので、すぐに諦めたけど。
リンソーディアが空の皿をワゴンに置くと、ノルベールをどこかへ捨ててきたラシェルが戻ってきて、ワゴンを押して執務室から出ていった。メイドとして有能すぎるラシェルだが、もともと彼女は暗殺者である。
ラシェルだけではない。ヴェルフランドの周りには、なぜかいろいろと訳アリな人間ばかりが集まる傾向にあった。
故国から追放された者や、あちこちを渡り歩いていた元傭兵、山賊や海賊を生業にしていた者や、果てはラシェルのようにヴェルフランド暗殺のため忍び込んできた暗殺者まで。
要は世界から爪弾きにされた者たちの掃き溜めがヴェルフランドのところだったのだ。
そんな掃き溜めの中の鶴的な存在であるリンソーディアは、少数精鋭を極め損なって、全員精鋭になってしまったこの謎の集団によく首を傾げていた。なんなんだ、この変態集団は。人に言えない系の経歴を持つ奴が多すぎである。
「殿下、明日は私も兄様も陛下のお供で遠征に行ってきます。あなたなら私たちがいなくても大丈夫でしょうが、くれぐれもお気をつけください。あと食事はきちんと摂ってくださいよ」
「栄養だけは満点なお前の料理を食べたから、少なくとも三日は食べなくても大丈夫そうだがな」
実はそれも狙ってわざわざ手料理を運んできたリンソーディアである。放っておけば「必要ない」とか言って、食べないし寝ないというのがヴェルフランドの悪癖でもある。最近はだいぶ改善されてきたが、やはりしばらく目を離すとなると心配なリンソーディアだ。
「一応、母様は帝都に残りますので。なにかありましたら母様に」
「わかった。気をつけろよ」
いつも通りの何気ないやり取り。
けれどこれが、皇宮で過ごす最後の日常であった。
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「殿下! 緊急事態です!」
扉を蹴破るようにして入室してきたニールに驚きはしたものの、それに対してヴェルフランドが苦言を呈することはない。どう見ても火急の知らせがあるときに、ノックをして許可を貰ってから入室しろなんてアホみたいなことを言うはずがない。
「どうした」
「陛下が! 陛下が遠征先でウィズクロークの大軍に襲撃されたとの知らせが!」
「はあ!?」
決裁していた書類を放り出し、ヴェルフランドは椅子を蹴立てて立ち上がる。
「ディアとリオは! ティルカーナ公爵家はどうした!」
「それが、情報が錯綜していて確かなことは……我々が独自に入手した情報でよろしければ」
「それで構わん。早く言え」
「は。現在ティルカーナ公爵家は千を超えていそうな大軍の足止めを――」
すべての情報を聞き終わったヴェルフランドは、すぐさま執務室を飛び出した。
冷や汗が流れる。ここまで生きた心地がしないのは生まれて初めてだった。
リンソーディアは皇帝を連れて戦場から脱出し、その護衛として公爵家騎士団の古参の騎士がついたらしい。そして戦場と皇宮のちょうど中間あたりの地点で、援軍を引き連れて待っていた母と合流したという。
援軍と言っても、すでに皇帝の護衛のためにそちらに多くの人数が割かれており、それ以外で公爵家が独自に集められる人数などそう多くはない。ゼロではないというだけで、千の大軍の前ではほとんど無意味な数だ。それでも、行くしかない。
そのまま公爵夫人は前線へ、リンソーディアの護衛を務めてくれていた古参の騎士も共に前線へと駆け戻って行った。そのためリンソーディアは一人で、昼夜兼行で、皇帝を皇宮に帰還させるべくひた走っている。
死に戦。そんな言葉がヴェルフランドの脳裏をよぎった。
恐らくリンソーディア以外のティルカーナ公爵家は全滅するだろう。公爵家に忠誠を誓っている騎士団もろとも。
そうなったら。……この帝国はもう終わりだった。
『わたしが彼女と結婚したのはね、ヴェルフランド。彼女のピアノの音色に心底惚れ込んだのと、彼女の明晰な頭脳に圧倒されたからなんだ』
記憶の奥底から父の声が響いてくる。ヴェルフランドは眉根を寄せた。幼い頃に一度だけ聞いたその話を、なんでこんな時に思い出してしまうのか。
『わたしは凡人だ。際立った才能なんて特にない。でも彼女との間に子供ができれば、もしかしたらその子は化けるかもしれない。ただでさえこの国は公爵家に頼りきっていて有能な人材が少ないんだ。父の代からずっとね』
『なら、そういう人をどこかからつれてくればいいのに』
『うん。でも、さすがに皇族だけは外部から連れてこられないからね。優秀な人材が欲しければ、優秀な子を産むしかない。……焦っていたんだ。あの時は本当に』
帝国中のどの令嬢とも比較にならないくらい、際立って明晰な頭脳を持っていた稀有な女性。百回はゆうに超えるほどの皇帝からの求婚に、けれど母はなかなか頷かなかったと言う。
それでも、二百回目の求婚はせずにすんだ。いくら愛を囁いても、いくらピアノの腕を褒めても歯牙にもかけなかった母は、優秀な子供が欲しいという身も蓋もない皇帝の言葉を聞いて、ようやく興味を引かれたらしい。
『つまり、わたしの粘り勝ちだ』
『……それ、こどもに聞かせること?』
四歳のヴェルフランドが指摘したことで、ようやく皇帝は口を噤んだわけだが。
考えてみれば、幼子である息子にしか彼女の話はできなかったのだろう。今になってそのことに気がついた。
円卓会議場に足を踏み入れると、そこにはすでに長兄や次兄や皇妃、宰相や大臣たちが集まってきていた。改めてその顔ぶれを見たヴェルフランドは、父が抱えていた焦りを少しだけ理解する。確かに、使える人材が少なすぎた。
「とにかく陛下が戻ってこられるのを待って、それから指示を仰ぎましょう」
「しかしそれでは遅すぎるのでは……」
「いや、ティルカーナ公爵家が前線にいる。押し返す可能性もあろう。あまり悲観しないほうがいい」
「まったく、公爵家はなにをやっていたのか。ウィズクロークごときに遅れをとるとは。帝国の盾と聞いて呆れる」
ヴェルフランドは一瞬で彼らに無能の烙印を押した。
踵を返す。もはやここには用もないし、未練もない。
「あっ、どこに行くんだいヴェルフランド!」
しかし会議場から出る前に長兄に見つかって呼び止められる。足を止める義理はなかったが、ヴェルフランドは一応足を止めて振り返った。
「……なんだ、急いでいるんだが」
「君も聞いているだろう。緊急事態なんだ。すぐに対処しないと」
対処。兄の言葉にヴェルフランドは顔を歪めた。もしかしたら正しい言い回しなのかもしれないが、今のヴェルフランドにとっては場違いな響きでしかなかった。
「まさか、まだ間に合うとでも思っているのか? まだ対処が可能だと? ……どれだけ自分たちを過信しているんだ」
「え?」
「アノーヴァン! それの言うことに耳を貸す必要はなくてよ!」
皇妃がなにか言っているが、彼女以外の耳目はヴェルフランドに向けられている。普段は彼のことを恐れていても、たとえ反感を抱いているとしても、それでもなぜか仰がずにはいられないほどの絶対的な何かを持っているヴェルフランド。
なんだかんだ言って、現在もっとも皇帝の座に近い青年なのだ。良くも悪くも彼の言葉は重い。
「ディア以外のティルカーナ公爵家は、一人も生きては戻らないだろう。全滅だ。この帝国を守る盾は失われた」
「は……?」
呆気に取られたかのような沈黙が落ちる。しかしすぐに皇妃が馬鹿にするかのように鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい! そんなの有り得るわけないじゃない! 現にそんな報告どこからも――」
「二百の手勢で千の大軍をどう押し返せと?」
「そんなの知らないわよ! でも帝国の守護者を名乗っているなら、そのくらいできて当然でしょう!? 全滅してでもわたくしたちを守るのが彼らの仕事でしょう!? それもできないなんて、とんだ出来損ないだわ!」
瞬間、ヴェルフランドの姿がかき消えた。かと思えば、皇妃の首から血飛沫が上がり、目を丸くしたままの彼女の首が床に落ちた。
「……やっぱりお前は、もっと早く殺しておくべきだった」
いつの間にか皇妃の目の前に移動していたヴェルフランドが、無感情にそう言った。一拍おいて、会議場に悲鳴が上がる。
「母上っ! ヴェルフランド、君はなんてことを……!」
「生きていても邪魔なだけだ。それにどうせ遅かれ早かれ、敵が踏み込んできた時に殺されるだろう」
ヴェルフランドは落ちた皇妃の首を見つめた。……死んでもなお彼女の言葉が頭から離れなくて、ますます不愉快になった。
「これまでずっと命を懸けて戦い続けてきて、いま文字通り討ち死にするまで戦っている公爵家に、よくそんな暴言を吐けるものだ。貴様こそとんだ出来損ないだな」
幼い頃から戦場でも生き抜けるよう教育を受け、人生の多くの時間を戦いに費やし、やっと生きて帝都に帰って来たかと思えば、今度は公爵家として社交界で隙なく振る舞い。
身を粉にして働いても、血と死臭には無縁の貴族たちからは『殺戮の公爵』『戦狂いの公爵夫人』『悪魔の貴公子』『血の公女』と陰口を叩かれる。
そんな連中のために、全滅するまで戦えと、そうするのが当たり前なのだと、皇妃はそう言ったも同然なのだ。
「帝国は滅びる。抵抗したところでたかが知れている。ならばどんな終わりを迎えたいのか、それを考えたほうが多少は有意義だぞ」
それだけを告げて、ヴェルフランドは今度こそ会議場から出て行った。兄たちが呼び止めたが、今回は足を止めることも振り返ることもしなかった。
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ヴェルフランドの言葉は正しかった。間もなく皇宮に帰還した皇帝の指示で籠城が始まり、それが最後の四日間となった。
最初の二日ほどは大臣たちが悪あがきをして兵を派遣したりしていたが、大半の兵は戻ってこず、戻ってきた者はすでに寝返った後だった。それら寝返った兵たちはティルカーナ家の戦姫がせっせと炙り出して滅してくれたが、おかげで城内は随分と静かになってしまった。残っている兵もいるが、それは皇宮の外に出るのが危険すぎるため残らざるを得ないだけだ。決して忠誠心からではない。
本当にもうダメなのだと悟った大臣たちは皇宮から逃げ出したが、どうせ彼らもウィズクロークの手にかかっていることだろう。使用人たちに関してはもっと早くに逃げ出しているため、無事に逃げおおせている者も多いはずだ。
「あー、暇だねえラト」
「一周回って呑気だな、兄さん」
籠城四日目。アノーヴァンとラトヴィッジは皇子宮で一緒に過ごしていた。
「籠城が崩れたら、オレ自分の部屋に戻るわ。一応最後まで戦ってみる。兄さんがいたら邪魔でうまく戦えなさそうだし」
「はいはい、好きにすればいいよ」
落城間際とは思えないほど、穏やかな時間だった。
人も食べ物も、もうほとんど残っていない。それなのに気分は妙に落ち着いていた。
「ねえ、エヴィータは父上のところ?」
「たぶんな。それが一番いいだろ」
末の妹であるエヴィータ。彼女こそ早めに皇宮から逃がしてやりたかったが、本人がそれを望まなかったため今も皇宮内のどこかにいる。
そう思っていたら、窓の外に父と妹の姿を見つけた。二人は庭園に佇み、地面の少し盛り上がったところを見つめている。ラトヴィッジもそれに気づいたらしく、「あー……」とか言いながら目を伏せていた。
あそこは確か、ヴェルフランドによって殺された皇妃が眠っている場所だ。血塗れた剣を携えた異母弟が円卓会議場から出ていったあと、ラトヴィッジと二人でその遺体を運び出したのだ。こんな状況ではきちんと埋葬してあげることも難しく、棺に入れることすらできぬまま、あそこに埋めるしかなかった。風景だけはいいところをと思ってあそこにしたが、これで良かったのかは分からないままだ。
「あーあ、地下の抜け道を使えれば良かったんだけどなあ」
「まあな。でも無理だろ。協力してくれる連中なんて誰もいねえんだから」
皇宮の地下最下層に存在する、皇族だけが知る秘密の抜け道。今回のような火急時を想定した、ウィズクロークすら知らない抜け穴だ。
ただしそれは、助けようとしてくれる誰かがいた場合にのみ使える通路だった。なにしろ外側からしか開けられないのだ。外から開けてくれる協力者がいなければ脱出は不可能。逃げられるかは皇族たちの人望にかかっているという、まさに審判の通路である。
そういえばヴェルフランドはどこにいるのだろう。アノーヴァンはぼんやりと考えた。彼もまだこの皇宮に留まっているはずだが。
結局、ヴェルフランドとは最後の最後まで分かり合うことができなかった。皇妃のせいではない。自分自身も彼とまともに向き合おうとはしなかったのだから。
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そのヴェルフランドは、厩舎にいた。自分の愛馬たちを隠すためだ。二頭の手綱を引いて飼料置き場へと連れて行く。餌と水は与えたから、あとは奥の目立たない場所にある物置で大人しくしていてくれることを願うばかりだ。
さて、そろそろリンソーディアを拾いに行こう。そう思って彼女がいそうな場所をいくつか思い浮かべ、思わぬ人物の顔もついでに思い出してしまった。というか、なんで今まで思い出さなかったのか。
さすがに逃げているとは思う。むしろ逃げていて欲しい。だが、あの老人は変なところで頑なだ。ヴェルフランドはしばし迷ったあと、皇室図書館へと足を向けることにした。
「おや、これはヴェルフランド殿下。まさかこのような時に読書にいらしたので?」
思わず呻き声が出た。なぜこの老人はこんなにもいつも通りなのか。
「なんで逃げなかった」
「最近ボケてきたとはいえ、死に場所くらいはまだ自分で選べますぞ。ここで最期を迎えたいだけですので、心配は無用です」
「……曾孫のディアが心配か?」
司書長は笑った。そして「いいえ」と首を横に振る。
「あの子にはあなたがいる。だから心配なぞしておりませんぞ。だからこんな老人相手に油を売っていないで、迎えに行ってやってください」
ヴェルフランドはじっと司書長を見つめた。それから小さく頷いて、今一度ぐるりと皇室図書館の中を見回した。
振り返ってみれば、多くの時間をここで過ごした。ヴェルフランドの知識の源。リンソーディアと出会った場所。そしていつでもここに来れば司書長が出迎えてくれたこと。
「ワイアット・ルネ・ティルカーナ。貴殿とこの場所に最大限の敬意を」
最後にそう告げて、ヴェルフランドは皇室図書館をあとにした。今度こそ本当にリンソーディアを迎えに行かなくては。
……余談だが、このあとリンソーディアとヴェルフランドは屍の山を築き上げて皇宮から脱出することになるが、彼らの次に多くを討ち取ったのは実は司書長であった。最終的には戦死することになるが、少なくとも曾孫と第三皇子にかかる追っ手の数を減らすことには大いに貢献した。まさにティルカーナ家らしい最期だったといえる。
皇室図書館を出たヴェルフランドは、リンソーディアがいそうな場所をあちこち回り、三か所目でようやく彼女を見つけた。
第三皇子の執務室で、あろうことかピアノに突っ伏して寝ていたのである。下敷きになった鍵盤が哀れで、ヴェルフランドはリンソーディアをひょいと抱き上げ鍵盤を救出した。その動きでリンソーディアも目を覚ます。
「あー……殿下お久しぶりですねえ」
「寝たいなら寝ててもいいが」
「いえ、むしろ起きていないと永遠に眠りそうなんで起きます……」
酷い顔色のリンソーディアがもぞもぞとヴェルフランドの腕からおりる。そして何を思ったのか彼の腕を引っ張り、強引にピアノの前に座らせた。
「なにか弾いてください、殿下。どうせしばらくは聴けないんでしょうし」
「はあ?」
「あ、鎮魂歌以外でお願いしますよ。さすがにシャレにならないんで」
「…………」
こんなことをしている場合ではない。それは分かっているが、これで彼女の心が少しでも和らぐならば。
ヴェルフランドが弾き始めた曲に、リンソーディアは「おや」と目を丸くした。これは意外な選曲だ。
「結婚式の定番曲じゃないですか。なんでこの曲を?」
「父がした百九十九回目の求婚に対する母の返事がこれだったらしい。つい最近思い出した」
「へえ、さすがは天才ピアノ奏者。粋ですねえ」
一番だけ弾くつもりが、結局最後まで弾くことになってしまった。しかしそれでリンソーディアの気もだいぶ落ち着いたらしい。
彼女を連れて皇子宮のプライベートスペースに戻れば、未だ頑固に居座っていた使用人たちが小さなパンと白湯を用意して待っていてくれた。騎士たちもなに食わぬ顔でいつも通り部屋の隅に控えている。
こうして最後のお茶会が始まった。
籠城が崩れるまで、あと少しだ。