かくして彼は『彼』となる〈少年期編〉
ヴェルフランド三部作、第二弾。
リンソーディアが皇室図書館にやって来るようになって以来、ヴェルフランドはわずかに変わった。
相変わらず大量の本に埋もれてはいる。だが、以前よりも格段に表情が豊かになったし、無口でもなくなった。
「そういえば、フランさま。また刺客におそわれたそうですね。こんかいは誰のさしがねだったんですか?」
「誰って、俺を殺したいくらい憎んでる奴なんて一人しかいないだろ。今のところはの話だが」
本を読みながら気怠げに答えるヴェルフランドの姿に、一種の感動を覚えているのは司書長であった。親兄妹にすら年に数回返事をするかどうかという彼が、これほどまともに会話を成立させるとは。
「またぞろあの人ですか。こども相手におとなげないことです。ひまなんですかね」
「暇じゃないから人にやらせるんだろ」
「え、じぶんの手をよごしたくないから人にやらせるのでは?」
ただし会話の内容は、おおよそ普通のものでも、子供がするものでもなかったが。
それでも、まるで感情のない人形のようだったヴェルフランドが、まさか短期間でここまで人間らしくなるとは司書長も思っていなかった。どうも『普通の』人間らしさとはまた違う方向に突き進んでいそうだが、それはいい。生きながらに死んでいるみたいな雰囲気は、綺麗さっぱり拭い去られたのだから。
司書長はそれぞれ別の本を読みつつぼそぼそ会話をする二人のそばへと歩み寄った。
とりあえず、ヴェルフランドを人と関わらせることには成功した。ならばそろそろ次の段階に進んでもいいだろう。
「こちらにおいででしたか、リンソーディア様」
「こんにちは、ひい……司書長。わたしになにかご用ですか?」
なにやら危なかったが、リンソーディアはぎりぎり持ち直した。
「聞きましたよ。初陣が決まったそうで」
司書長の言葉に、ヴェルフランドの眉がぴくりと動いた。本から顔を上げ、じっとリンソーディアの横顔を見つめる。
「もうごぞんじでしたか。そうなんです、やっと許可がおりまして」
「……やっと? お前はまだ七歳だろう」
「はい。なので出陣るのは、わたしが十歳になってからみたいです」
つまり、彼女が十歳を迎えて最初にもらう召集令状に書かれている日付けが、彼女の初陣の日となるわけだ。十歳まで、あと三年。
ヴェルフランドの視線が不安定に彷徨う。自分でもよく分からない感情が胸の中で渦巻いた。しかしそんなヴェルフランドの複雑な胸中などなにも知らないリンソーディアは、輝かんばかりの笑顔で胸を張る。
「フランさまのことはわたしが守りますので、あなたはわたしの後ろにかくれていてくださいね」
「…………」
ヴェルフランドは自分の中で渦巻く謎の感情の正体を知った。なるほど、これが苛立ちというものか……。こうして彼が『心配』という感情を知る日はまた延びた。
そんなわけで、翌日からなぜか鬼気迫る雰囲気で剣の鍛錬に打ち込み始めたヴェルフランドである。その姿を見た司書長はにやりと笑った。よしよし、うまく次の段階に進んでくれたようだ。さすがはティルカーナ家のご令嬢、うまく焚きつけてくれたものである。
しかし、ヴェルフランドの快進撃は留まることを知らなかった。どういう風の吹き回しか、学問と剣術のみならず、以前はやる気のなかったマナーとダンスの教育も大人しく受け始めたのだ。これには皇帝も驚いた。
「司書長、ヴェルフランドは一体どうしちゃったのかな?」
「よほどリンソーディア様に守られたくないと見えますな。恐らくすべての分野において一切の隙をなくすおつもりかと」
もともと知識だけは山のように蓄えていたため、あとは実践あるのみなのだ。さすがに剣術だけはすぐに身につくものではなかったが、マナーとダンスはすぐに習得してあっという間に教師たちの手を離れてしまった。しかし教師たちのお墨付きをもらったあとも自主的に訓練を重ねているあたり、じつはかなり真面目な性格をしているのではと皇帝は思う。
「いえ、それがご本人曰く『正攻法で築き上げた実績と能力は、誰にも文句をつけられないし、覆せないから』だそうで。目的達成のために必要な労力を払っているだけに過ぎないと仰っておられましたな」
「……ねえ、あの子本当に九歳だよね?」
そのあたりは司書長もわりと疑問に思っているが、どう考えても九歳なので末恐ろしいとしか言いようがない。
彼は一体どんな大人になるのだろう。時々司書長はそんなことを考える。
とはいえ、あのヴェルフランドがやる気になったというのはかなり大きい。これで懸念していた皇子教育も捗るだろう。
しかし捗ったら捗ったで、別の問題が生じることになった。
「もっと頑張りなさい、アノーヴァン!」
「…………」
皇子宮の一角から皇妃の甲高い叫びが響く。ここ一ヶ月ほどですっかり日常となってしまった光景だ。
「で、ですが母上……」
「あなたもよ、ラトヴィッジ! あんな卑しい女の息子に負けるなんて有り得ません! もっと努力なさい!」
萎縮してしまっている長兄の代わりに口を開いた次兄だが、今度は母の矛先が自分に向いたことでなにも言えずに口を閉ざす。こうなってしまえば嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
皇妃がこうなってしまったおもな原因は、異母弟ヴェルフランドにある。六歳から受け始めるはずの皇子教育を、なぜか九歳からまともに受け始めたらしいのだ。遅いけれど、それはいい。必要な教育をきちんと受けているのなら、兄としても特に言うことなどない。
しかし、その進歩の度合いはあまりにも異常だった。三年近い空白期間になにがあったのかまでは知らないが、そんな空白などなかったかのように、弟は次々と基本課程を修了させていったのだ。
マナーとダンスに関しては元からやり方を知っていたかのようだったし、幼い頃から本を読み漁っていたことで学問にも苦戦している様子はない。剣術は基本さえ習得してしまえば、あとはうなぎ上りに上達していった。最近では剣と並行して弓術や槍術にも手を出しているようだ。皇妃が叫ぶ。
「ああ、忌々しい! あんな子早く死ねばいいのに!」
つまり、ヴェルフランドはあまりにも優秀すぎたのだ。すべてにおいて長兄や次兄よりも優れていることを証明してしまう彼に、皇妃が焦り、苛立ち、自らの息子に当たるのは、彼女を性格を考えれば十分に有り得ることだった。
「兄さん、大丈夫か?」
「大丈夫。不甲斐ない兄ですまないね、ラト」
嵐が去ったあと、二人はホッと息を吐き出してお互いを労る。本来は帝位を争う関係のはずだが、彼らの場合はお互いしか助け合える存在がいないのだ。
静けさを取り戻した部屋の中、アノーヴァンは重い気持ちを引きずったまま窓の外に目を向けた。そして遠目にヴェルフランドの姿を見つけてしまって慌てて目を逸らす。そんな自分の反応に嫌気が差すも、そうするしかなかった。ヴェルフランドを傷つけないためには、これしか。
「……ラト、最近ヴェルフランドと会ったかい?」
そう尋ねれば、ラトヴィッジは気まずそうにがりがりと頭を掻いた。
「いや、会ってねえ。……会いたくねえしな」
「そっか。そうだよね」
やはり考えることは同じらしい。アノーヴァンは先ほど逸らしてしまった視線をもう一度外へと向けた。そこにはもうヴェルフランドの姿はない。そのことにアノーヴァンは確かに安堵した。
すべてにおいて自分たちを上回る異母弟。どれだけ頑張ってもあっさりと追い抜かれる。それでいて自慢げでも野心的でもなく。ただ淡々と、まるで当たり前のことのようにこなしていく。
脳裏に幼かった頃の記憶が浮かんだ。皇妃の妨害はあったものの、あの頃はヴェルフランドと一緒にいても苦痛だとは思わなかったのに。
「あの子を嫌いになりたくないんだ」
「ああ、オレもそう思う」
弟は悪くない。それは分かっている。
それでもイライラしてしまう。理不尽で、腹立たしくて、憎く思ってしまいそうになる。恐らく顔を合わせてしまえば、その瞬間にいろんな感情が爆発してしまうだろう。良くない方向に。
だから会わなかった。会いたくなかった。そうすれば冷たく当たってしまうことも、ひどい言葉を投げつけてしまうこともない。
「僕たちも、もう少しだけ頑張ってみよう。ヴェルフランドには追いつけないだろうけど、せめて最善は尽くさないと」
「わかってる。あいつの兄として、そのくらいの根性は見せねえとな」
だが、彼らのなけなしの兄心は、ヴェルフランドに届くことはなかった。
当然といえば当然だ。なにも言わずにただひたすら避けられ続ければ、嫌われていると結論してもおかしくはない。そのうえヴェルフランドはそう思われることに慣れており、今さら兄たちに嫌われたところで痛くも痒くもなかった。むしろ実害がないだけマシだとすら思っている。
そして彼らのすれ違いは、帝国が滅亡する最後の日まで、解かれることはなかった。
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そうして月日は流れていき、ついにリンソーディアの初陣の日。
「……あのー、殿下」
「なんだ」
リンソーディアは胡乱な目をヴェルフランドに向ける。彼女の知る限り、この幼なじみには出陣経験がない。
だというのに、なぜこうも当然のような顔をしてティルカーナ公爵家騎士団に混ざっているのか。
「まさかあなたも初陣ですか」
「そういうことになるな」
「……私の初陣に合わせたんですか?」
「完全なる偶然だ」
そんなわけない。リンソーディアはますます半眼になった。
ティルカーナ公爵家騎士団に混ざっているということは、彼らから認められたということだ。そしてティルカーナ家では前線に出るための基準として、大山脈踏破を経験しておく必要がある。
もっと詳しく話を聞きたいところではあるが、そうも言ってはいられない。ここはいつもの皇室図書館ではなく、戦場なのだ。しかも後戻りできない種類の。
「いろいろ言いたいことはありますが、とりあえず今は生き抜くことが最優先なので後回しにします」
リンソーディアの言葉は決して大袈裟なものではなかった。二人はどちらともなく周囲に視線を走らせる。
見渡す限りの敵、敵、敵……。しかも雰囲気からして狙いはヴェルフランドらしい。聞いていた話では、この先にある非合法組織の軍隊を壊滅させよとのことだったが、そこに辿り着く前にこれである。さて、どうするか。
「殿下もお嬢様も、そう心配することはありませんよ」
馬に乗った騎士団の一人が声をかけてきた。壮年の男性で、公爵家に仕えている者たちの中でも古参に分類される人物だ。
「見たところ、数は多いですが雑魚です。我らの敵ではありません」
古参の騎士はにやりと笑う。初陣である二人を安心させようという気遣いではなく、本当に大丈夫だという事実を述べただけのような気楽な口ぶりだった。しかしすぐに渋い表情を浮かべて「でも」と続ける。
「もしも我らの大半がここで倒れるようなことになれば、それは帝国にとって大打撃です。それが分からぬ皇妃様ではないはずなのですが……どうも最近は嫉妬と憎しみで目が曇っていらっしゃるようだ」
皇妃という言葉にヴェルフランドが反応する。仮にも皇妃である彼女への不信を口にしたところで、それを糾弾する者などここにはいない。問題は、そこではないのだ。リンソーディアが不快そうに目を眇める。
「……では、やはりこれは殿下を狙った皇妃様の差し金ですか」
「普通であれば、いくら金を積まれたところで皇族殺しは特に躊躇うものなんですがね。なにせ発覚した時の代償が大きすぎる。しかしそれすら躊躇わないほどの大金を積まれたか、あるいは命令した相手が従わざるを得ないくらいの高位の存在だったか。どちらにせよ、皇妃様ならば可能なことです」
そこまでしてヴェルフランドを殺したいか。リンソーディアは不愉快になる。もともと皇妃にはいい印象を持っていないが、今回の件で最悪のさらに下まで評価が落ちた。たとえ皇族でも彼女のためには命を懸けたくなどない。どうせ懸けるのであれば。
リンソーディアはぎゅっと手綱を握り締めて、瞑目する。……大丈夫。怖くはない。絶対に守る。守ってみせる。
「殿下、あなたに忠誠を。あんな人に、あなたの命を奪わせたりはしません。絶対に」
驚いて大きく目を見開いたヴェルフランドを見て、リンソーディアは笑った。彼のこんな顔は初めて見た。
古参の騎士が晴れやかに笑う。周りにいた騎士たちも同じように笑った。
この日、ティルカーナ公爵家騎士団は、圧倒的に不利な数的劣勢などものともせずに、皇妃が雇った即席の部隊を根絶やしにした。ついでに本来の目的であった非合法組織の軍隊も予定通りに壊滅させ、リンソーディアとヴェルフランドは凄惨な目に遭いながらも、なんとか無事に初陣から帰還したのであった。
なお、皇妃が雇ったと思われる暗殺部隊だが、彼女が雇ったという証拠などどこにもない。生け捕った暗殺者は雇い主が皇妃であると白状したが、それだけでは証拠として不十分だった。そのため彼女は特に責任を問われることもなく、しいて言うならヴェルフランドを始末できずに内心悔しい思いをしただけで終わった。
しかしそれに関してヴェルフランドがどうこう思うことはない。本当に、心底どうでもいいのだ。皇妃のことも、自分のことでさえも。彼の関心事はいつだって別のところにあるのだから。
「……人って、ああも簡単に死ぬのか」
皇宮に帰還したあと、ヴェルフランドは自室ではなく皇室図書館でぼんやりと考え事をしていた。思い出すのは今日のこと。初めて人を斬った。初めて人を殺した。それについては大した感想もないけれど。でも。
「いつか、ディアも、死ぬ……?」
昔は自分のことを「フラン様」と呼んでいた彼女は、いつしか自分を「殿下」と呼ぶようになっていて、今日ついに忠誠を捧げられてしまった。これで正式に自分たちは主従の関係である。
普段は幼なじみとして過ごすだろうが、必要とあらば彼女はいつでもヴェルフランドの駒として動き、必要であればいつでもヴェルフランドを守って死ぬのだろう。きっと一切の躊躇いもなく。そうするのが最善だと確信して。
「……そんなことさせない。許さない」
彼女と出会って、まだ四年。付き合いは浅く、お互いのことをまだよくは知らないけれど。
これから知ればいい。これから一緒に過ごせばいい。まだまだ、自分たちには時間があるはずだ。そのためにも。
これから先、ずっと一緒に苦楽を経験することになる二人の、これが本当の始まり。
この日を境に、ヴェルフランドはさらに人間らしく、けれど他人にはますます冷酷になっていった。
そして間もなく、彼は兄たちを差し置いて、次期皇帝に最も近い皇子として名を馳せるようになる。本人にその気はなくとも、その優秀さは誰が見ても明らかで、群を抜いていて。
ヴェルフランドと兄たちとの溝はさらに深まり、関係は冷え込んでいく一方であった。